前編
わたしは霧が好きだ。
慣れ親しんだ視界をぼんやりと白く染められ、湿った匂いが鼻腔を満たすと胸の高鳴りを覚えた。
濃いときは数メートル先の人でさえ影が動いてるだけに見え、存分に自分が孤独であるということをかみしめられた。
夢うつつが曖昧な世界に迷い込んだようにも感じられた。責任や苦痛といった現実的な問題を一瞬先送りにできたように錯覚した。その錯覚を一分でも先延ばしにするために、霧が出た日は一時間、誰もいない海岸の岩場でのんびりするのが日課だった。
ちょうどいい岩場にスカートにもかかわらず、胡坐をかいて海岸線の方向を見つめる。
潮の匂いを噛みしめながら、ぼんやりと波の音と遠くの汽笛の音を聞いた。
それに飽きると、チョコミント味の電子煙草をゆっくりと吸いつつ、ヘッドホンでお気に入りの曲を聞いた。
一時間もするとゆっくりと海岸が晴れてゆき、ありきたりな海が現れる。たいてい目の前に現れるのはどんよりとした曇り空だ。
この辺りは結構な頻度で霧がでる。
それがこの街の数少ない好きなところだ。
◇ ◇ ◇
「ちょ、ちょっと余部さん、いいかな」
いつものように自分が何のためにやっているか理解していない学業を終え、一人で帰路に就こうとしていたら、担任の教師に呼び止められた。
若い、というよりは幼さや頼りなさを感じる、授業中なので生徒がいつまでたっても静かにならないのにおろおろしているのを見ると、こちらがはらはらしてしまう、そんな先生だった。といってもわたしもその騒がしいことを積極的に鎮めたりしない程度の不良生徒であったが。
背もあまり高くなく童顔なのもあって、わたしと並んで歩けば、同級生と間違えられそうな人だ。
「あの、間違っていたらごめんなさいなんだけど、本当に間違ってたらごめんなさいなんだけど……」
そこで先生は一旦言葉を区切り、振り返り誰かこの話を聞いていないかと不安気な顔をした。
ほかの生徒は学友と楽しそうに話しているが、偶にこちらに向ける視線は、「不良生徒と担任の教師が何を話している」という事柄への好奇心を隠せていなかった。
「場所を変えましょうか?」
助け船のつもりはなかったが、このままでは話が進みそうになかったのでわたしは言った。
それにもしかしたらわたしの家庭の話かもしれないし、それならわたしもあまり他人には聞かれたくなかった。
先生は申し訳なさそうにうなずき、わたし達は人気の少ない廊下へ移動した。
「えっと、これは誰から聞いた、というのは言えないんだけど、余部さんが西のあたりの遊泳禁止の場所で泳いでいたって話しを聞いたもので……」
脈拍が少し速くなった。わたしのお気に入りの海岸は立ち入り禁止の場所ではないし、厳密な意味で泳いだことはないので、咎められるような事はしていない。落ちたことはあったがかなり前の話なので、今更目撃者が現れるわけはない。なので本当に人違いか、勘違いなのだと思う。
ただ話の流れによっては二度と海岸へいけなくなってしまう。代わりの場所は積極的に探せば見つかるかもしれないが、それをするのはどこか億劫だ。
私が何も答えないので不安そうに見ている先生の顔を見ていると、むくむくと苛立が芽生えた。
わざと不機嫌な声を出して言ってみる。
「密告されたというわけですか」
すると予想以上に慌て始めた。「いや……密告だなんてそんな……そんなことを言っては」
本当に予想以上に慌てたので、それを見ているとすぐに苛立ちがしぼむ。
ほかの先生に同じ事を言ったら普通にわたしが逆に叱られるだけだったので、この気の弱い先生だからこそ口に出た言葉だった。それに気がついて、自己嫌悪に陥る。
「いや、すいません。確かに密告とか言っちゃあだめですよね」
「そ、そうよ」
「悪事を先生に教えたんです。何も悪いことをしたわけじゃないですよ。例え勘違いでもね」
「……」
本音を言ったつもりだったが、皮肉にきこえたのだろうか、担任は頭が痛そうな顔をした。
これだから敬語は苦手だ。かといって普通に話すのが得意というわけではないのだけれども。
「……本当に勘違いということでいいのね?」
「ええ、遊覧禁止の場所は、まあ行ったことがないというわけではないですが、泳いだことはありませんね」
「そう……ならいいのだけども……ただ余部さん最近ずっと思いつめた顔をしているから……」
そこでわたしは彼女が、遊泳禁止の場所で泳ぐようなやんちゃな娘として咎めようとしたのではなく、入水自殺未遂を図ったのではないかと、心配になって声をかけたことを理解した。
なるほど……
「……わたし、そんなに死にそうな顔をしていますか?」
口を歪め、自嘲気味に答えた。
「そ、そういうわけじゃあないのよ。ただね、ご家庭の事情とかもあるようだしね、頼りない先生かもだけど、ちょっと話すだけでも楽になるかもしれないと思ってね……解決を期待しないで話してみるというのもいいのかもしれないのよ」
「解決を期待しないでって、先生が言っていいものなのですか?」
「あ、やっぱダメかな……ごめんなさい」
「いえ」わたしは目を細めて、六歳年上の女性を見つめた。「大丈夫ですよ。自殺未遂なんてしたことないですよ。本当に。痛いのも苦しいのも怖いのも嫌いです。夜、偶に死にたくないって怖くなって眠れなくなるくらいに死ぬのが怖いぐらいですし」
「本当に……本当にそれならいいのだけれども」
用がそれだけなら帰りますね。
わたしはそれだけ言って、何か言いたそうな先生を背に踵を返した。ある程度進んで、ふと振り返ると先生はまだこちらを見ていた。
「わたし先生のこと結構誤解してたのかもしれません」
彼女はぽかんとした表情浮かべる。それに満足したわたしはその場を後にした。
私は彼女のことを見くびっていたようだ。気は小さいが生徒のことをよく見ている。なんたって自殺未遂をしたことがない、と言うのは嘘なのだから。
◇ ◇ ◇
海岸の岩場への道は、立ち入り禁止こそされていないものの少し険しい。釣り場から大きく迂回し、狭い道を通らなければならない。少なくとも制服で来るような場所ではないが、そこはもう慣れた。
しかしわたしが来ることができるのだから、本当に誰も来ない場所ではない。まれに探検好きの子供や、穴場を求める釣り師などが迷い込んでくる。そんな彼らと顔を合わせた時は、私は気まずくなってそこへは一週間は近づかなかった。一週間たって同じ場所へ行っても、同じ人と顔を合すことはなかったので、わたしの思っている以上にこの場所はつまらない場所なのだろう。
なのでいつものように岩場へ向かうと、水の音が聞こえてきたが、今までのように誰かしらが迷い込んできただけだと思った。
本来なら顔を合せないためにこのまま帰るところだが、音から察するに泳いでいるのだろう。
ならば、高確率で私に濡れ衣を着せた犯人――というのは言い過ぎだが、一つ文句でも言わなければ収まらなかった。ただ大きく背中に刺青を入れた人とかだったら、そのまま帰る。
いつもの場所につくと、少し沖の方で人が泳いでいるのが見えた。
中学生の時に水泳部だったわたしからしてみれば、あまりうまくない泳ぎ方だ。
立ち泳気なのかもしれないが、大きく水しぶきを立てていた。あれじゃ無駄に力が入りすぎて、すぐに疲れてしまう。まるで溺れてるような泳ぎかただ。大部分の人があれは泳いでいるのではなく、溺れていると称すだろう。
というか、うん。うん?
溺れてる?
「――本当に溺れてる!」
わたしは急いで鞄を漁り、ペットボトルの中のお茶を少しだけ残して捨てた。浮き輪代わりに使うためにだ。
風はあまり強くはない。
しかし、わたし自身のコントロールはあまりよくはない。
大きく振りかぶって、よく狙って……よく狙って……
「よし!」
我ながらいい場所――彼のかなり近くに落ちた。
一生に一回出せるかわからないほどの投球だ。
――いや投ペットボトルか。
わたしは自分のことをあまり性格のいい人間だとは思っていないが、こういう人命救助の場面で普段以上のポテンシャルを発揮できたことに、少しばかり誇らしさが浮かんだ。
「そのペットボトルを使ってー!」
大きく叫んで様子を見る。しかし、彼はペットボトルに近づこうとしなかった。
もう一度叫んでみるが結果は同じ。
角度的には見えているはずなのだけれども……。
これはもう助けを呼びに行くしかないのだろうか?
先ほど言ったっ通り、この場所は人がいる場所からかなり離れている上に、道はごつごつしていて急ぎにくい。
恐らく人を見つけて連れてくるまでに最悪往復20分はかかる。
間に合うのか?
片や私は元水泳部なのもあって、着衣水泳も救命についても習っていないことはない。
ならば、このままわたしが直接助けに行くべきなのでは?
その考えで、時間一秒無駄にする。
時間を無駄にしたという事実に気が付いた時、わたしはその事実を恥じ、上着とスカートを脱ぎ捨て、海の中へ飛び込んでいた。
思えばこの選択は軽率だったのかもしれない。
そもそも溺れている人を助けるというのは非常に困難で、一緒に死んだという事例も少なくないなんて中学生で習う事実だ。多少部活や授業で救命について学んでいたからと言って飛び込んだのは短絡的だ。
それでもわたしが飛び込んだのは、わたしの性格が悪いからにほかならないだろう。
このまま誰かを呼んできて、仮に溺れている彼あるいは彼女が助かったとして……いや助からなくてもここは危険な場所として、立ち入り禁止区域と化すだろう。
一方でわたしが助けた場合は、相手側は遊泳禁止区域で泳いでいたという痛いところがあり、逆にこのことは黙っておいてほしいと頼まれるかもしれない。
もっとも泳いでいたのではなく、ただ単に落ちたのかもしれないし、死にかけたのだから普通に病院に連れていってほしいと言われるかもしれ――
いや、
いやいや。
やめよう。
これじゃあ無限に可能性を考えているだけだ。
短絡的な思考回路に論理的正解などありやしない。いくら並べても頭の無駄である。
だから結論だけ言おう。
結論から言うと、わたしの性格の悪さと、運の良さにより彼は助かった。
しかしそれはどうやら失敗だったようだ。
ワイシャツを脱がずに残したのは緊急事態であれども、実用性と羞恥心を比べた結果後者が勝ったからである。しかし、海に入った瞬間にずっしりとした水を含んだ服の重さを感じた時、すぐにその選択を後悔した。
クロールで彼の方向に向かおうとしたが、水の抵抗のせいで進んでいるという実感が得られなかった。波のせいで、上手く息継ぎができない。
なのですぐさま平泳ぎに切り替えた。顔を出し続けようとすると余計に体力を消費したため、的確に顔を海につける。
かつてプールで泳いでいた時のようにはいかなかった。しかしながらゆっくりでも着実に前に進んでいった。
「助け……」
溺れているのは思ったより若い、というか小学生か、中学生ぐらいの男の子だった。
男の子はわたしが助けに来たとわかると、こちらに向かって抱き着こうとして来る。
なので逆にこちらから抱き着き、相手を沈めた。
「な、なにを……!」
再び引き上げると、今度はわたしから逃げるように暴れ始めた。
おかしい……
部活動で、救助相手が抱き着いてきた場合は、一旦相手を沈めて暴れないようにするのが定石と習ったが、上手くいかなかったようだ。しかしこれ以外方法を知らないので再び沈めるしかなかった。
「ごぼっ……」
今回はどうやら成功したようだ。男の子はぐったりとしている。
近くに浮いていた空のペットボトルを手に取る。帰りの方が大変そうだが、目途は立った気がした。
5分後、なんとか岸につくことが出来た。
実に運が良かったと言える。あそこで波の向きが変わらなかったら、危なかったと言えるだろう。
急いで子供を平たい場所に寝かしつけ、気道を確保する。
人工呼吸が必要かどうか覗き込んだが、彼は手を挙げて必要がないということを示した。
「病院に行く?それともお母さん呼ぶ?どこ小?それとも中学生?」
少年は立ち上がろうとしたが、大きくせき込み、うずくまった。背中を撫でてやって、「ゆっくりでいいよ」となだめてやる。
すると少年の口からうめき声のような言葉が漏れ出た。
「……何で助けたんだよ」
おっとお?
おっとお、おっとお?
「おっとお?」
あまりにおっとおだったので(?)口からも出た。
正直うろ覚えの知識で沈めたことに対して怒ってくると思っていた。
「助けてなんて頼んでないだろ……」
「いやいやいやいや」
めっちゃ助けてって言ってたよ。
言いかけた時すぐに沈めたけど、お姉さんはしっかりと聞いてたよ?
怒りに任せて何か言おうとしたら、少年は目の前で声を殺して泣き出してしまった。
………何だか、公共の場所を聖地とか言って自分の場所として守ろうとしてたのが恥ずかしくなってきた。
「えっと、」わたしは途方に暮れてあたりを見回す「じゃあ大人の人呼んでくるけどいいよね?」
「それはやめて」
「やめてって言われても」
望んだような結果が出たがあまりうれしくはない。
このまま彼をあやし続けろというのか。
子供の相手は苦手だった。大人や同級生の相手をするのが得意と言うわけではないのだけれども。
ため息をつき先ほど脱いだ服を着なおし、わたしはちょうどいい岩場に座り、電子タバコを吸い始めた。
チョコミント味の蒸気が口の中を満たした。
まあ、どちらにしても服が乾くまで待たなければいけない。それまでのんびりとしよう。
泣いている少年を眺める。髪はスポーツ刈りで切りそろえているが、可愛らしい顔立ちで、角度によっては女の子にも見えた。
一応確認してみるか。
「君男の子だよね?」
「なんだよ!けんか売ってんのか!男だよ」
「そう何て名前?」
「梅迫……強介……」
緊急時じとはいえ、下着見られちゃったかあ……
まあ、彼もそんな余裕もなかっただろうしいいか。
たぶんだけど名字でザコっていじめられたんだろうか。
ふと何か紙のようなものを、お尻で踏んずけていたことに気が付いた。
手に取ってみると、『遺書』という文字が見えた。
「あっちょ、見るなよ!」
少年が私の手から紙をひったくる。そのまま紙を破り、自分の口の中に放り込んだ。
強く目を瞑り咀嚼をし始めたが、なかなか呑み込めないようだ。
目を見開き、意を決したような顔をしたが、嚥下できなかったようでしばらく口を押えた後、そのまま胃液ごと嘔吐しだした。
「何やってんの……」
わたしはあきれ顔で近寄ったが、彼に手を振り払われた。
「うるさい……」
梅迫少年はうずくまり、ダンゴムシのように、その場で丸まってしまった。
はたから見ると、滑稽に他ならなかった。これでは恥の上塗りである。
だが少年よ。君の今の気持ちはよくわかる。
自殺の失敗とは恥である。
人は思ったより簡単に死なない。自分から地獄の門を開くということはかなりの力を必要とする。
一生に一度の決意をしたつもりでも、三途の川の拝むことすらままならなかった。打ちのめされ、力尽き支離滅裂に近くのひとに助けを求める。「助けて!」なんだなんだ?本気じゃあなかったのか!命を馬鹿にするな!
正論を持って救いの手を差し伸べられる。だが耳が痛くなるだけの正論だ。耳が痛くなるだけだが皮肉抜きに正しい言葉だ。だから言い返せない。言い返せないから黙ってうなずく。頷きながら心の底で毒ずく。
「うるさい」
それしか言えない。心の中でもその程度しか言えない。「人の勝手だろ」というと「多くの人にも迷惑をかけただろ」と自分が返す。
だから「うるさい」とだけ返した。ひそかに中指を立てて。そのまま自殺未遂を繰り返す。
知っている!
こちらの方が間違っていることなんて大昔から知っている!
自殺とは敗北である。失敗とは敗北である。
そして自殺の失敗とは敗北に敗北することである。
敗者に向けられる感情は同情だが、敗北にすら敗北した者は冷笑されるしかない。
かつてのわたしがそうだった。
だからと言って自殺志願者の気持ちがよくわかるなどと言うべきではない。十人十色。自殺に失敗する人にだっていろいろいる。
それでも彼の姿には何かを感じざるを得なかった。
何かって何だろう?
シンパシー?デジャヴ?第六感?前世の記憶?生き別れの姉弟?
否。どれも違う。
それに気が付いた時、わたしははその場で膝から崩れ去った。
大きく唸るような眩暈が、ゆっくりと過ぎ去っていった。ジャンボジェットが頭上を飛び去っていくのにも似た耳鳴りが襲う。
海水で湿った皮膚の上だろうと、冷や汗がつたうのがよくわかった。
こんなことが……
こんなことがあっていいのだろうか。
誰でも1冊の本は書ける。有名な言葉だが、一応説明すると、この一冊というのは人の一生のことを表している。
そしてわたしは今、目の前の少年の人生という名の小説の一行だけを読んだ気になった。
もしそれが比喩でないとして、その一行を読んだわたしはこう叫ぶ。
「盗作だ!」
たった一行、たったそれだけの文章を読んだだけで分かった。自分の人生とまったく同じ文字列を見つけたわけではない。それでもわかった。わかってしまった。
もちろん盗作なはずはない。わたしは少年とは今日初めて出会った。そんな彼に私の人生を盗む機会があるわけがない。
しかしそれでも、そうと叫ばずにはいられなかったのだ。
それほどまでに彼とわたしは似ている。そしてそれを認識できるのはわたしと彼だけだった。
他人がわたしたちを読んでも「どこがじゃい!」としか思わないだろう。
少年が自殺した理由もわたしとは別のはずだ。両親の性格も別のはずだ。
だがわたしが似ていると思ったのだから仕方がない。しいて言うのなら行間がすべて一致していた。
比喩の話ばかりで頭が痛くなってきた。まあいい。
して、自分の盗作ともいうべき人とあった場合どうするべきか。
人生に著作権はない、ならばとるべき方法は一つだ。
殺すしかない。
人生とは個というものにおいてもっと重いものだ。そんな重要なものが被ってしまった。ならばこちらが死ぬか、殺すしかない。
買い物に出かける時服装が相手と丸被りしたらそのまま車道に突っ込み轢死したくなるようなもの、と言えば大多数の人に共感を得られるだろう。
なのでいつまでも震えている場合ではない。
やらなければ、刻一刻とチャンスが遠のいていく。
わたしは少年に覆いかぶささり、持ち上げた。思ったよりも軽い。叫ぶ声が鼓膜に刺さる。
大きく暴れたが、何とか海に突き落とした。そしてそのまま上がってこれないように―――