2、Hide and Seek(その三)
昼下がりの太陽が照りつける大通り。車道をはさんで反対側には、白い堤防がどこまでも伸びて、海と陸とを隔てている。海岸通りに出てから、二人はずっとこの道を歩いていた。
「おーい、まだかー。腹減ったぞー」
「も、もうすぐだよ」
「腹減って死にそうだよー、なんか食わせろー」
何度目かの同じやり取りに、空腹のためかファルスが不機嫌そうな顔になる。相手の気を紛らわせようと、アルトはおずおずと話しかけた。
「そういえば、おじさんはなんであそこに?」
「何でって、メシ食いにだよ。誰も来ないし、静かだからな」
「いつから? 今まで、おじさんのこと見たことなかったんだけど」
「今年の二月くらいから時々な。半年くらいは行ってるが……」
そこで言葉を切ると、ファルスは何かに気が付いたようにぽんと手を打った。
「なるほど。あそこはお前の秘密基地ってわけだ」
「そ、そんな大げさなもんじゃないけど」
「つまり、俺の方が侵入者だったってわけか……悪かったな」
「い、いや、僕もポートの人に無断で入ってるし」
そんなことを話している間に、二人の行く手に白い木造の建物が見えてきた。潮風にのってトマトやくせのある香草の薫りが漂ってくる。店の前に立つと、大きな丸い背中は入り口の前に立ち、メニューの書かれた黒板をじっくりと眺め始めた。
「ボンゴレロッソランチ、ねぇ」
「お店の名物なんだって。結構美味しかったよ」
「そっか。よし、入るぞ」
「うん……って、僕も!?」
「だってお前の弁当、さっき俺が貰っちゃっただろ? 昼飯どうするんだよ」
ここまで来る途中に、アルトの弁当は空腹を訴えるファルスの腹に収まっていた。とはいっても、もともと自分が相手のハンバーガーをダメにしたのが原因だ。
「僕は平気だよ」
ぐるるる。
とても平気には思えない盛大な腹の虫がアルトの体から響く。大笑いしたファルスは、そのまま頬を火照らせた仔竜の肩を抱くようにして店に入った。
「いらっしゃい! あら、こんにちは!」
「こ、こんにちは」
青いエプロンのヒューのウェイトレスが、結った栗色の髪を揺らしてこちらにやってきた。
「今日はどうしたの? お父さんとお母さんは?」
「えっと、その」
「俺はこいつのおじさんです。な?」
「そ、そうです」
アルトとファルスの体色を見て納得したらしい彼女は、たくさんのお客で賑わう店の奥の方へと二人を案内してくれた。海を臨む窓際のテーブル、ファルスは向かいに腰掛けてメニューを受け取った。
「今日のおすすめは?」
「マグロのいいのが入ったんで、ステーキにしてお出ししてます。後はパエリヤが」
「そうかぁ……」
会話を聞き流しながら、アルトは合成皮革で装丁されたメニューを開いてみた。
アンティ・パストと書かれた最初の項目には、『生ハムのなんとか』とか『モッツアレラチーズとトマトのなんとか』といった、あまり知らないようなものに混じって、パスタやソーセージなどのよく知っているものが色々と並んでいる。
「……じゃあ、アンティだけど小牛のカルパッチョ以外、全部もってきて」
「かしこまりました」
(小牛のカルパッチョ……)
十五種類程ならんだ項目の一番下にあるメニューに目が行き、それから硬直する。
「うえっ!?」
「なんだよ、急に大声だして」
「そ、その……なんでもないよ」
不思議そうに問い掛ける藍色のドラゴンに、あわてて両手を振る。
「メインはさっきのマグロステーキ二人分に、パエリヤに……パイ包み焼きはできる?」
「今日はスズキですけど、よろしいですか?」
「うん。それと、ボンゴレ・ロッソに……」
首筋に冷汗が伝っていくのを感じながら、仔竜は手にしていたメニューを閉じた。この分ならどんなものか調べなくても、ほとんどの実物を目にできるはずだ。
「以上で、ご注文はよろしいですか?」
「はい、ありがとう」
焦った様子もなく、伝票三枚にも及ぶ注文を読み上げている姿を、アルトは茫然と受けとめていた。反対に厨房の中の白いドラゴンの顔はかなりげんなりした顔をしている。
「な、なんか……」
「すごい大食いだ、とか思ってんだろ?」
こちらのあわてぶりを楽しむように、ファルスは笑いながらこちらを眺めていた。
「お前の分もあるから、多めに注文してるんだよ」
「はあ……」
やがて、手押しのワゴンに満載の前菜が運ばれてきた。
「好きなように食っていいからな」
取り皿に、赤黒い生ハムとサラダを山盛りにして手渡すと、彼は目の前の料理達の処理を開始した。アルトの見ている前で瞬く間にソーセージが、チーズの盛り合わせが、魚介類のマリネが、その口の中へと消えていく。
おそらくこちらのために残しておいてくれているのだろう、それぞれの料理を少しずつ皿に残して次の料理へ。その姿は昔サーカスで見た、何でも食べる手品師のことを思い出させた。ただし、今目の前で脅威のマジックを繰り広げているドラゴンは、食べたものを一切戻す気はないらしい。
「……ん? なんだ、まだほとんど残ってるじゃないか」
「あ、うん」
「育ち盛りなんだから、もう少し食った方がいいぞ」
苦い笑いを浮かべて料理を口に運ぶアルトを尻目に、ファルスはさっきのウエイトレスを呼んだ。
「メインの方、もう持ってきちゃっていいから」
「はい」
「それと、ケーキって何が残ってる?」
デザートを注文している彼の大きなお腹を眺めていた仔竜は、何となくその背中へと意識を移した。そこにはやはり、一対の翼が付いている。ここにくる途中にも確認したが、怪我や病気で問題が生じている様子もない。だが、こんな状態でもドラゴンは飛べるんだろうか、そんな疑問に自然と質問が口をついて出た。
「……おじさんは、今でも飛べる?」
「なんだよ、いきなり」
突然の問いかけに目を白黒させるファルス。だが、言葉はそれでも止まらない。
「子供の頃はどうだった? 普通に飛べてた?」
「……ずいぶん、失礼な質問だな」
少し険しくなった相手の表情に、アルトはあわてて頭を下げた。
「ごめんなさい。でも、僕……」
「飛べないのか?」
「……うん」
何度か頷くと、藍色のドラゴンはいつのまにか給仕されていたパエリヤを皿に取り分けた。
「いくつなんだ、お前」
「……十二才」
「なるほど。気になってくる年頃だな」
彼の声色には馬鹿にしたところはなく、むしろやさしい響きがあった。
「そんでもって、飛ぶことなんておかまいなしのポテトなおっさんに目の前でバクバクやられたら、そりゃ怒るわな」
「べ、べつに、怒ってるってわけじゃ……」
胸の内を見透かされて、思わず口篭もる。
「結論から言えば、昔は飛べたよ。初フライトは八歳の時」
「すごい……」
「でも、今じゃこんな感じだ」
ファルスが一打ちすると、腹から小気味のいい音が響いた。
「さすがにここまで太ったら、一メートルも飛べないよ」
「飛べなくても、いいの?」
「もう充分、飛んだからな」
藍色のドラゴンはそこで言葉を切り、窓の外へと顔を向けた。
「そっか……」
「今は飛ぶことより、うまいものを腹一杯食う方が大事だしな」
振り返った顔に浮かぶ笑み。
恵まれていたからこそ、空に対する興味を失ってしまったのだ。隠し切れない憤りとやるせなさに、アルトはテーブルクロスの端を見えないようにきつくねじった。
「まぁ、そんなに気にするなよ。先天的な異常でもない限り、ドラゴンに生まれた奴は遅かれ早かれ飛べるようになるんだ」
「……でも、クラスのみんなは、僕はほんとはヒューなんじゃないかって言ってるよ」
「なんだ、お前もそんなこと言われてんのか。仔供の世界はどこも似たり寄ったりだな」
「お前……も?」
伏せていた顔を上げると、ファルスはニヤニヤと笑いながらこちらを見つめた。
「昔、俺のクラスにもいたんだよ。いつまでたっても飛べない奴。あいつもヒューに生まれたらよかったのにってからかわれてたぜ」
「そうなんだ……」
「ちなみに、そいつと知り合ったのが十五のときで、高等部初日の授業でも落っこちてたぞ」
「じ……十五歳っ!?」
つまり、その竜は学校で飛行の授業が始まってから約五年間、好奇の視線に晒されて飛行の授業で落ち続けたことになる。死刑宣告を聞くようにぎゅっと身を固くすると、アルトはつばを飲み込んでゆっくりと問いかけた。
「……その、ドラゴンは、どうなったの?」
「ちゃんと飛べるようになったよ、そのあと」
パエリヤを食べるついでに投げ出された一言。目の前の料理の感想でも述べるような相手の態度に、仔竜の口がぽっかりと開いた。
「そ、それ、ホント!? ウソとかじゃなくて?」
「なんで初対面のお前にウソを言う必要があるんだよ。これはれっきとした事実」
「その友達って……今は?」
思わず、相手の大きな腹に目が行く。こちらの不安な表情にファルスは爆笑した。
「安心しろ! 今じゃ長距離竜便の仕事について、毎日飛び回ってるよ。最近は、滝や断崖絶壁の上から飛ぶ競技にも参加してるってさ」
「友達なんだ、その人と」
「腐れ縁みたいなもんさ。あいつがひいひい泣きながら落っこちるの、何度も見たよ」
まるで体中から重い荷物が取り除かれたような感覚。見ず知らずの飛べなかった元仔竜のことを思い、アルトは深々と安堵した。
「ちょっとは気が楽になったか?」
「う、うん」
「んじゃ食え。うまいぜ」
「うん!」
新たに運ばれてくるパイ包み焼きの入ったキャセロールを横目で見ながら、仔竜は皿いっぱいのパエリヤに集中した。