1、じゃがいもの夏(その四)
「最低だよ、もう」
学校へ向かうべく坂道を登りながら、アルトがぼやく。傍らを歩くテッドが苦笑しながら頷いた。
「でも、しょうがないよ。ご飯だって言われてるのに行かないのが悪いんじゃない?」
「そんなこといったってさぁ。もうちょっと待っててくれてもいいのに」
アルトにとっては、ライルのビデオを見る時間は誰にも干渉されたくない時間だ。それが、ポートからみっともなく墜落して、母親から小言を貰った後ならなおさらだ。
「最低だよもう」
「それなら今日、うちに来て見る? 先週のイヅモサーキットでやったレースもあるし」
ずれかけた肩掛けのカバンを直しながら、仔竜は少年に軽く頭を下げた。
「ありがと、テッド」
「そういえば、もう買った? 『ブレイズ・ファン』」
「あ……」
校庭を歩きながら、隣を盗み見るように尋ねてみる。
「今日、持ってきてる?」
「うん。先生が来るまで、読んでていいよ」
笑顔で承諾してくれるテッドに、アルトの顔も自然とほころんでくる。
(帰りに、何かおごってあげよっと)
そんなことを考えながら玄関ホールを抜け、教室までの廊下を歩いていこうとした。
「ねえ、掲示板の所、みんな集まってるよ」
服の袖口を引っ張り、テッドの指が群衆を示した。
ドラゴンやヒューが入り混じった集まりは、張り出された大きめの紙を見つめ、口々に感想を述べている。
「なんだろうね?」
「さあ?」
連れ立って近付いていくと、ちょうど全てを見おわったらしい二人のドラゴンが、集団から抜け出てきた。
と、彼らはそっとアルトから顔を反らし、足早に駆け去っていく。
「……くすっ……」
かすかな笑い声が、耳の中に妙な感じで張りついた。
「ねえ、アルト……」
「なに?」
「見て、あれ」
テッドの視線の先、掲示板に貼られた紙を見つめ、仔竜はその意味を理解しようとした。
「……夏期休暇中、水泳教室のお知らせ……八月一日より九月三十日までの期間、月曜日から金曜日の週五日間、全校生徒を対象とした水泳教室を行ないます……?」
「違うよ。その隣」
「……夏期休暇中……」
呟きはそこで止まり、喉の奥で濁った音になる。
夏期休暇中、飛行技能訓練のお知らせ
期間:八月一日~九月三十日
対象:全校生徒(希望者に限り)
時間:午前十時~正午
・夏期休暇中、校内の施設を利用しての飛行技能の訓練を実施します。
実施期間中は、技能の習熟度合いに応じてクラス分けをしますので、
参加者は申し込み用紙を担任から受け取って、自己の記録や状態を
正確に記して提出してください。
アルトの耳に、さっきの笑いがよみがえっていた。
「アルト?」
「い、行こう。授業に遅れちゃう」
それだけ言うと、アルトは急いでその場を離れようとした。周りの全てが自分を見つめているような気がして、早く抜け出したくてしょうがない。
「おい! お前も出んのか? 飛行訓練」
だが、背中から浴びせられたダンの声に、青い仔竜の足は痺れたように動かなくなった。
「下級生に混じって、一からオベンキョかよ、ポテト」
「……か、関係ないだろ」
振り返ると、赤い仔竜は顔をそびやかせて、こちらを見ていた。
「ま、やってもムダだから来ないほうがいいぜ。それに俺の練習の邪魔だ」
「そうだな。ダンはラグーンレースの調整もかねてるし、目障りなお前がいかけりゃそれだけやりやすいさ」
そばに立っていた緑色の仔竜の言葉にダンは薄い笑いを浮かべ、鷹揚に歩み去っていく。
「じゃーな、ポテトのアルト!」
その場に立ち尽くしたアルトの手を、白い手が掴む。
「行こう」
少年に手を引かれながら、青い仔竜は本物の好奇の視線から必死に意識をそらすことだけを考えていた。
「……アルト」
人気の無い階段の踊り場。テッドはそこでようやくアルトの手を放した。
「出なよ、飛行訓練」
「……え?」
「悔しくないの? あんなこと言われて」
いつになく真剣な顔で、少年はこちらに詰め寄った。
「出て、ちゃんと飛べるようになって、あいつらを見返してやるんだよ!」
「で、でも……」
「でも、じゃないよ! 校医の先生だって、練習すれば飛べるようになるって言ってたんでしょ?」
眉間にしわを寄せて、アルトは黙りこくった。
たしかに飛べるようにはなりたい。だが、今の自分が申し込み用紙を提出したら、下級生に混じって練習しなくてはならないのだ。
「……そんなの……」
「そんなの……って、なに?」
「う……」
脳裏にある光景が鮮明に浮かび上がった。小さな下級生に混じって飛翔口に並ぶ自分。不思議なものでも見るような、小さな視線にさらされて腹から落ちていく自分。降ってくる笑い声とダンのあざけりを浮かべた顔。
(そんなの、恥ずかしいよ)
うつむいたアルトの物思いを破ったのは、テッドの深いため息だった。
「ごめん。なんか急に言いすぎた」
「……」
「でも、申し込みはしておいてもいいんじゃない? 嫌なら……行かなくてもいいんだし」
改めて、アルトは目の前の相手に向き直った。
「ね?」
テッドは唯一、自分のことを馬鹿にせずに付き合ってくれる友達だ。そして、いつもアルトのことを考えてくれていた。そんな相手の真剣な提案を、否定することはできなかった。
「……わかったよ」
アルトはゆっくりと頷いた。
「先生の所にいって、申し込み用紙もらってくる」