1、じゃがいもの夏(その三)
校門前から続くなだらかな斜面は、オレンジ色の夕日に染められていた。
昼間の暑さが残る坂道、アルトとテッドの脇を子供たちが駆け抜けていく。
「……あのさ、元気、出しなよ」
道の左側は崖になっていて、そのはるか下にセドナの町並みが広がっていた。高層ビルの立ち並ぶオフィス街や大小さまざまな住宅街の上で、色とりどりの旗がはためき、風見鶏が揺れている。空を行く竜便が風向きを確かめられるように付けられた風向指示器だ。
「今すぐ飛べなくったって、後で飛べるようになればいいんだから」
街の西に広がる海は夕日を浴びて金色に輝いている。その光景をバックに竜便がいくつも飛び交っていた。
「先生だって、飛べるようになるっていってたんでしょ?」
強い風が吹き抜け二人の髪を乱していく。凪の時間は終わり、夏の暑さが吹き降ろす山風と一緒に去っていった。
「それにしても、何でダンの奴、いつも君に突っかかってくるのかな」
「テッド……もう、いいよ」
崖の向こうの景色に顔を向けたままそう言うと、テッドは黙り込んだ。
街のあちこちに、大小さまざまな塔が建っている。アルトが飛行練習をしたやぐらよりも大きいそれは、ランディングポートと呼ばれる飛行施設だ。星の引力など知らないような軽やかさで飛翔者たちが塔へと帰り、またそこから新たな飛翔者が飛び出してくる。
目をそらしたいと思いながら、それでも仔竜は見つめ続けた。
やがて坂道は終わりを告げ、広い大通りに出た。二つ目の交差点を抜けたところで、テッドが脇道へ入っていく。
「じゃあ、また明日ね」
「……うん」
去っていく姿を見送り、アルトはまた歩きだした。立ち並ぶビルから、沢山の人やドラゴンが吐き出されてくる。仕事が終わり、それぞれの思う場所へ急ぐ彼らの間を縫うように進む。
『今日なんかさ、他の奴の飛行を見てから飛ぶように言われて、下級生用のポートで待たされてたんだぜ』
『なんつーか、悲惨の極致だな』
知らないうちに歩幅が狭くなり、早足になっていく。
『夏休み明けにはお前らと一緒にサッカーの授業やってるかもな』
『うわー、すげー気まずいよそれ。俺、笑わないでいられる自信ないわー』
喉の奥に引きつったような痛みが生まれて、呼吸を荒くさせる。
『じゃあな、ポテトのアルト』
弾かれたように、アルトは走りだした。
身をかわしそこなった誰かが罵声を浴びせてきたようだったが、何も耳に入らない。
「どうして」
うめくような呟きが喉の奥から漏れる。
「どうして、飛べないんだ」
どこをどう通ったのか、アルトは家の玄関を通り抜けて、自分の部屋への階段を駆け上がっていた。ドアを閉め、荒い吐息をつくと、体を引きずるようにしてベッドの中に倒れこんだ。
タオルケットに顔を埋め、きつく目を閉じる。
(どうしてなんだろう)
それは、アルトがいつも問い掛けていることだ。
どうして自分は飛べないのか。
他の仔竜たちと同じように教えられ、自分も同じようにしているのに。
『踏み切り線の所にきたら体を前に倒し、翼を横に広げる。体を蹴りで前方に押し出したら、空中で翼を空のほうに向ける』
だが、アルトは落ち続けていた。
蹴り出した体は宙を滑るどころか地上へと導かれてしまう。何度繰り返しても、先生の言葉に耳をそばだて、他の仔竜たちの姿を真似してみても、すべての努力は無駄に終わっていた。
『きっと生まれてくる種別を間違えてきたんだぜ』
ひどい嘲笑の言葉。だが、その言葉がゆるぎない事実のように何度も木霊した。
「アルト」
少し心配気味な響きを含んで、階下から母親の声が届いた。
「どうかしたの?」
「な、なんでもない! テッドから借りてた本、探してたんだ」
「それならいいけど……ところで、今日はどうだったの? ちゃんと飛べた?」
口の中から、唾が一滴のこらず干上がっていく。目を閉じて深呼吸をすると、うわずりそうになる言葉を必死に押し止める。
「も、もう少しだったんだけど、さ」
「そうなの……」
「先生はね!」
今にも部屋にやってきそうな母親の気配を、アルトは大声で制した。
「今年の夏休み中には、飛べるだろうって!」
「ほんとに?」
「ほんとだよ!」
「それならいいけど……そういえばお隣のエリヤ君、郡大会の長距離翔選手に選ばれたそうじゃない」
「……そうなんだ」
重苦しい気分が競りあがってくる。こちらの気持ちも知らないまま、声は言葉を継いだ。
「そうなんだ、じゃないわよ。ねぇアルト、もし飛べなくて困ってるんだったら、エリヤ君に相談してみ」
「いいって! ちゃんと大丈夫だから、余計なこと言わないでよ!」
いらだったアルトの声を、少し大げさなため息が引き取った。
「……分かったわ。ご飯ができたら呼ぶから、すぐ降りてくるのよ」
「はぁい」
足音が階段から遠ざかっていき、アルトは安堵して起き上がった。飛べないのを心配するぐらいなら、今すぐできるように教えてくれればいいのに。第一、エリヤはダンほどでないものの、自分のことを馬鹿にしている一人だ。
そんな奴に教えてもらうなんて。いや、自分と同い年の仔竜に教わるなんて。そんなことをすればまたバカにされてしまうに決まっている。
イライラした気分を吹き払うように、アルトは窓を開けた。暑さと淀んだ空気が充満する部屋が外気に洗われると、ようやく気分が落ち着いてくる。
アルトは、ゆっくりと部屋の中を見回した。
棚や窓のない壁を埋めるように貼られたポスター。そのどれもが、ライルを写したものだ。
あるポスターでは二本の柱の間をすり抜け、別のポスターでは金属でできた箱状の構造物の上を飛び越していく様子が映っている。
やがて、アルトは部屋の勉強机に座り、パソコンのスイッチを入れた。薄い透明版のディスプレイが明るくなり、一枚の壁紙を表示する。
白と黒の旗を横切るライルの姿。勝利の瞬間を切り取ったその画像を目に留めると、仔竜は画面の端にあるアイコンを軽く指で弾くまねをした。
そのファイルには、こんなタイトルがついていた。
『ライル、二度目の総合優勝達成!』
弾かれたファイルは、全画面表示の動画になって再生され始める。画面は黒一色になり、思い出したかのように映像を結んだ。
淡い雲すらない青空、ほんの少し後にカメラが切り替わる。
『……抜けるような晴天が広がっております、秋のカルドリーサーキットです』
高い位置から撮られた映像のため、表示された世界からは見下ろす形になっている。その底に並ぶ観客席を背中向きの群集が埋め尽くしていた。
『全国のサラマンダー・ブレイズファンの皆様、こんにちは。サラマンダー・ブレイズワールドグランプリ、最終戦の模様をお伝えいたします』
アルトの見つめる前で、新たな光景が画面に映し出される。四角く区切られた席の中に、スーツ姿の人とドラゴンが座っている。
『実況はわたくしIBCのアナウンサー、トリーネ・マルサラ。解説は元ブレイズプレイヤー<ライトニング>の二つ名でも有名なマリウス・ウォーベンさんにお越し願っています』
紹介されたドラゴンの方が、軽く会釈をしてみせる。
二つ名は優秀かつ特徴的な飛行スタイルを持つプレイヤーに付けられるものだが、年齢を重ねてつやを失った肌と、かなり横幅の広くなった体からは、その名前の由来になった痕跡も覗えない。
『さて、いよいよ今期最後のレースとなったわけですが、これまでの展開をご覧になっていかがですか?』
『そうですね。有力視されていたプレイヤーの故障や新人の躍進で、非常に目の離せないシーズンだったと思います』
解説席から一転、スタートポートの屋上からの映像に変わる。十数名からなるドラゴンの集団が映し出される。体に密着した専用のスーツを身に着けた彼らは、翼を曲げ伸ばしたり、ヘルメットやゴーグルの位置を確かめたりして準備に余念がない。
緊張し、強ばった表情を映していたカメラが、一人の選手をクローズアップした。
『ただ今、スタートポートの選手の様子をご覧になっていただいていますが、なんといっても今期一番の注目株は、彼をおいて他にないでしょう』
青というより、藍色に近い肌を持つドラゴン。黒地を基調に銀のラインを各所にあしらったスーツ。胸元には<シエル・エアリアル>というロゴが書き込まれている。
『ライル・ディオス。若干二十一歳にしてグランドチャンプとなった彼が、二度目の制覇をかけ、今日の勝負に臨みます』
突然、スピーカーから爆音が上がった。
アナウンサーの紹介がジェットスポットから吹き上がる炎と、それに熱狂した観客の絶叫に一時かき消された。スピーカーから聞こえる音が、初めてサーキットを見たときのことを思い出させる。
『各選手がスタートラインに付きます』
映像がスタートポートを見下ろす形になる。左肩上がりの台形に造られた金属の屋上、それぞれのドラゴンたちはポートの端、階段状に描かれたスタートラインの前に立っていた。
『全長五千メートル、総スポット数十五機。この世界最大のサーキットで繰り広げられる全二十一周の戦いの果てに、勝利を手にするのはいったいどの選手なのでしょうか』
真横からの映像に切り替わり、姿勢を低くして身構えるプレイヤーが映し出される。
その誰もがヘルメットを着け、ゴーグルを下ろしているために表情をうかがい知ることはできない。だが、彼らの意識はスタートラインの床に埋設された信号機に集中していた。
『シグナルが、オールレッドから……』
真横に点灯する四つの赤いライト、それが右から順に消えていき、
『……今、グリーンに! 各竜一斉にスタートです!』
左端から順に、色とりどりのドラゴンたちがポートを滑り降り、空へと舞っていく。
大気の包容を全身で享受する、力みのない優雅な飛翔。観客席の前を、一群となって突き進んでいく。
『スタートはアクシデントもなく、ほぼ団子状態のまま。ホームストレートから一番チェックポールに差し掛ります』
ホームストレートの果てに、高くそびえる二本の柱。その間で待ち受けるジェット・スポットの轟音。打ち合せたように集団の誰もが首を下げ、金属の火口へと向かっていく。そこを通過した途端、ドラゴンたちはスポットからはるか斜め上空へと猛烈な勢いで吹き上げられた。
『おおっと! ここで……』
ジェット・スポットに後押しされた数名のプレイヤーが、後続を引き離していく。
『集団を一歩抜きんでる形で飛び出したのは、アイケイロスのフリッツ・マイゼン。次いでシュツルムドラッツェのリヒャルト・ジンガー、シエル・エアリアルのライル・ディオスと続きます』
左前方に次のチェックポールを認め、ドラゴンたちの体が左へと傾いていく。その姿を映し出すカメラの前をライルの姿が一瞬、通り過ぎた。
『現在、先行しているフリッツは総合ポイントが三十四、もっとも優勝に近い存在。その後を追うプレイヤーも、ほぼポイントの順に並ぶ形となっています』
三番チェックポールは進行方向の右手、ちょうど四番チェックポールと直角に交わる形で据えられている。
その二つのポールが作り出すカーブに侵入する寸前、ドラゴンたちは一斉に体を右に傾斜させ、ほぼ垂直になりながらコーナーを飛びすぎた。
『三番、四番チェックを各選手、見事にスルー』
『今日のカルドリーは無風快晴ですからね。かなりアグレッシブに攻めていけますよ』
おもむろに、アルトは動画を先に進めた。
この先しばらくはライルが出てこない。出てきたとしても、ずっと三位か四位くらいに居続けるからだ。
流れすぎていく映像。早められた時間の中で、何人かのプレイヤーが別のカーブを曲がりそこね、勢いを殺しきれずにコースから離脱していく。
再びアルトの手が、時を緩やかにした。
『……もありますが、彼の場合バラストを付けることで、余計な煽りを……』
『っとぉ! これは!?』
眉間にしわを寄せて、アルトは小さくうめいた。
テレビ画面の向こうでは、ライルが一人のプレイヤーに接触して、大きくコースを外れていく様子が映し出される。
『ライルが十三番チェックポールに差し掛った瞬間! 周回遅れのレグナンをスルーしようとしたわけですが……』
『これは……どう見てもレグナンが入れ込みすぎですよ!』
今度はジェット・スポットから上を見た映像が、スローで流れる。ライルの腹側の方へと、赤色のドラゴンが割り込むように侵入していく。
下からの突き上げを受けて、衝突しそうな勢いで迫る彼の体を、青いドラゴンはなんとか全身を捻って避けた。
『映像でも、レグナンの体はポールのエンドラインを割り込んでますね』
『ええ。これは明らかにポイントをマイナスされますよ!』
「そうだよ」
心底むっとした表情でアルトは頷いた。
「ジェット・スポット内じゃ、エンドラインより下からの追い抜きは禁止じゃないか」
お互いは衝突こそしなかったものの、赤色のレグナンは翼を骨折して地面のネットへ。ライルも勢いを削がれて、後続に抜き去られていく。
『……どうやら持ちなおしたようですが、八位まで順位を下げたライル・ディオス』
『この状態からの挽回は、そうとう難しいですねえ』
解説者の言葉に、仔竜は苦笑した。何度も見ているはずなのに、この場面になるとついむきになってしまう。
いつのまにか握っていた拳を開いて息をつくと、アルトはじっとその時を待った。
『先行するアイケイロスのフリッツ・マイゼン。それに食らい付き、追い抜こうとするリヒャルト・ジンガー……と、ここでライルがピットに入るようです』
『さっきの接触で、どこか痛めたんでしょうか……』
スタートポート下に造られたピットへと、青い姿が消えていく。
カメラが切り替わりピットの中で水分を補給しているライルを映し出す。さっきの接触で破損したゴーグルなどのパーツを交換し、レース再開の準備が整えられていく。
藍色の素顔には緊張はあっても焦りは感じられない。
強い意思を秘めた瞳が、大きく開け放たれた出口だけを見つめている。
『換装が終了し……いまスタート!』
滑り込むようにして、ホームストレートに入りこむ青い姿。エンドラインを割りそうな勢いで、第一ポールへと突進していく。
『さあ、先行者に大きく水を開けられた形になったシエル・エアリアルのライル・ディオス。この状況で、どこまで順位を上げることができるのか』
実況の一言が終わると、画面は先頭の映像へと返っていく。白い肌のフリッツと、それを追い上げる褐色のリヒャルトの姿。
「でも、ここから何とかしちゃうんだもんな」
うれしさと驚きが胸の奥でうごめいて、くすぐったいような気持ちになる。
「やっぱり、ライルはすごいよ」
その呟きに応えるように、画面が切り替わった。
大回りしてポールをやり過ごしたプレイヤーの内側を、鋭く切り裂いていく青い影。
急旋回によって失われた高度をスポットで補給し、大気を貪るように次のポールへと飛び去っていく。
『第十ポールを抜けたところで、七位へ……っと!?』
速度を落としてイン側に抜けていくプレイヤーの脇を、アウト側のポールに接触しそうな速度で転進していく。
『ライル、ものすごい追い上げ! 十一番を通過して順位は五位へ!』
『彼、すごい強気で攻めてますよ!』
『十二番から十五番までのアッパースポットを、より高度を求めるように飛んでいきますライル・ディオス!』
ホームストレートとの高低差を造り出し、落下による加速力を得るために、他の物よりも段階的に高度を高めてある最終スポット群。その一つ一つが、彼をはるかな高みへと押し上げていく。
十五番ポールに印された高度百メートルの線。そこを割った瞬間、彼の姿は青い颶風となって、地上へと落ちかかった。
『ここでライルの<ライトニング・フォール>が炸裂! 四位のアーウィンを……今、抜きさった!』
思わずアルトの顔が画面にぐいっと近づく。スポットのあおりを利用して行う、危険域ぎりぎりの強烈な急降下と急加速。開設席のマリウスが現役時代に好んで使い、二つ名の元になったその技は、ライルのもっとも得意とするテクニックだった。
先行していたはずのプレイヤーを置き去りに、ホームストレートを飛び過ぎていく。
『すでに先頭集団は射程圏内! 開いてしまった空隙を埋めるかのように、猛然と肉薄するライル!』
『これは相当、さっきのニアミスが腹に据えかねてますね! 冗談じゃない、こんなところにいてたまるかって感じですよ!』
大写しの画面になったとき、先頭のドラゴンたちの姿の後に、ライルの姿が映りこむようになっていた。
カメラのアングルが、次第に青いドラゴンの追い上げの様子に集中してくる。
「そうだよ、そこの隙に……ああ、もう! 邪魔だよタイレル……」
「……ルト……アルト!?」
その一言で、仔竜は動画を一時停止した。
「な、なーに?」
「もうご飯だって、さっきから呼んでるでしょ! 早く下りてきなさい!」
「はーい! すぐ行くから!」
声にしたがってアルトは腰を浮かし、動画を消そうとした。
だが、彼の指は止まった時を溶かし、早送りを実行する。
「これだけ見たらね」
座りなおした仔竜の前で、移り変わっていく場面。その中で、青いドラゴンは次第に順位を上げていく。
そして再生。
『……すところ、あと二周! 依然、テールトゥノーズのままホームストレートを抜けていく二人!』
フリッツの白い尻尾に食らい付きそうな位置で、ライルの飛ぶ姿が映っている。
『おや!? ここで少しづつ、フリッツとの差が開いてきています!』
『中盤の追い上げが、かなりきてるんでしょう!』
三番のポールを過ぎたところで、白い姿との差はライル自身の身長ほど離れていた。
『奇跡の追い上げも、もはやこれまでか!? 今、十一番を抜き、最終コーナーへ!』
もう、何回もこのシーンを見ただろう。この後ライルはフリッツの後にぴったりと付いたまま、百二十メートルの<ライトニング・フォール>を決めるのだ。
『まさか、この高さからやるつもりなのか!? フリッツとの差は焼く五十メートル!!』
「行けっ」
ぎゅっと拳を握り締め、アルトはその瞬間を見つめた。金網越しに見たあのサーキットのときのように。
「行けっ、ライルっ!」
『来たっ! 来た来た来たーっ! ものすごい勢いで青い稲妻が降ってくる! ライル・ディオス、電光石火のトップスピードで、今っ、ゴぉーーッル!!』
「やったっ!」
アナウンサーの叫びとともに、思わずアルトの喉からも歓声がほとばしる。
その数十秒後、アルトはかんかんに怒った母親の鉄拳で、呻き声を漏らすことになった。