1、じゃがいもの夏(その二)
あごの下に絆創膏貼り付けると、保険医であるヒューの女性はアルトの頭を軽く撫でた。
「はい、これでいいわ」
「ありがとう、先生」
「……細かいすり傷以外は、大きなけがもないようだし、落ちたときの状況なら頭を打っているようでもない。もう練習にいっても平気よ」
白衣から消毒液の臭いを漂わせて椅子に座り込み机に向かう。それでもアルトはそのままその場に立ち尽くしていた。
「どうしたの? まだ痛むところとかある?」
どう言えばいいのか、少し迷った後アルトは口を開いた。
「先生……なんで僕、飛べないのかな」
「え? うーん……」
投げかけられた質問に形のいい眉の間にしわが寄る。ドラゴンのものと違う、平らな顔に思案する表情が浮かんだ。
「ごめんね、いきなり言われてもちょっと思いつかないわ。何しろ先生はヒューだし」
すまなさそうな、それでいて簡潔な返事にアルトは深々とため息をついた。
「今年の健康診断の結果はどうだった?」
「何も言われてないし、たぶん異常なしだったんじゃないかな……」
「そうなると、後は……」
「失礼しますっ!」
妙に馬鹿でかい声とともにドアが開け放たれる。緑色の肌を持つドラゴンはアルトの姿を認めると軽く頷いてみせた。
「ケガのほうもたいしたことないようだな、アルト」
「は、はい」
「あら、ハワード先生もどこかケガを?」
「そういうわけではないんですが、アルトのことが気になって!」
朗らかというより暑苦しい笑顔の教師に気付かれないよう、仔竜はそっとため息をついた。 ハワード・リンデン。学校中の生徒からこっそり「ハウリン(吼える)」とあだ名されているこの先生は、アルトが最も苦手な相手の一人だった。
「ところで、先生と何を話していたんだ?」
「ハワード先生は分かります? アルト君が飛べない理由」
保健の先生の言葉に、緑のドラゴンはにやっと笑った。
「成長期のせいですよ」
「成長期、ですか?」
「ええ。丁度アルトぐらいの歳だと、自分の翼と肉体の成長のバランスが崩れることが多いんですよ。翼を支える背筋力が未発達だったり、体重を支えられるだけの大きさまで翼が成長しきらなかったりすると、ちょっとした事で飛べなくなったりします……あとは『プネウマ』が集まりにくい体質だと飛ぶのが遅くなりますね」
「プネウマ……」
その言葉を聞いた途端、ヒューの女性の顔に何かを探り当てたような表情が浮かぶ。デスクの上で付けっぱなしになっていた端末に向き直り、モニターに何かの情報を表示した。
「翼面生体電流、身長、体重……」
「翼面積と体脂肪率のデータも出してください……うん、少し体重が軽いか」
二人の大人が陣取るモニターを隙間から覗き込むと、自分の顔写真と一緒にわけの分からない数字や文字が表示された。
「……異常なし、ですね。翼面生体電流の値も平均より少し高いくらいで問題なし」
「でしょう?」
気落ちしたような保険医と満足そうなドラゴンの教師を見比べて、仔竜はもう一度モニターを眺めた。
「プネウマ、ってなんですか?」
「簡単に言えば、ドラゴンが空を飛ぶのに役立つ小さな粒ね。アルト君やみんなの翼には、ちょっとだけ電気が流れているのは知っているでしょう?」
そう言われて思い出したのは冬の日のことだった。自分の翼をうっかり友達のテッドが触って、弾けた静電気でお互いひどい目に会った。
「その電気に引かれてプネウマが翼に付着する。そうするとドラゴンは飛びやすくなるの」
「翼に電気が流れていればプネウマは集まる。プネウマが集まっているならドラゴンは飛べるってことだ」
がしっ、と仔竜の肩を掴むと緑色の体育教師は軽く体を揺すった。
「と、言うわけだからあんまり心配するな! 練習して、体が成長すれば自然と飛べるようになる!」
「……はい」
「ちゃんとご飯は食えよ。お前の場合は多分、筋力不足で翼が支えきれてないのが原因だ」
「がんばってね、アルト君」
二人の教師に挨拶をして保健室を出ると、青い仔竜は少し大きめにため息をついた。
「ウソばっかり」
誰もいない廊下に自分の声が虚ろに響く。
成長期だから飛べない、このセリフはもう何十回となく聞かされていた。五年生の授業で始めて飛行練習用のポートから落ちたときから、六年生の夏休み目前に控えた今日まで。
実際、アルト以外の仔竜たちはすっかり飛べるようになっているし、成長期という言葉にもある程度説得力はある。ただ、アルトには他の子のような『成長』は起こっていない。
もし成長が必要なら、自分は一体どこまで『成長』すれば飛べるようになるんだろう?
『さすがアルト、また落っこちてるよ!』
耳の奥で蘇った嘲笑に仔竜の眉間にしわが寄った。
『あれじゃ、あいつ一生飛べないんじゃねーの』
一生。
アルトの背中を、その言葉が悪寒と共にはい回っていく。
もし、本当に一生飛べなかったら。
「アルト!」
唐突に掛けられた言葉に顔を上げると廊下の向こうから走ってくる見慣れた姿が見えた。
「なんでテッドがここに?」
「みんなに聞いたら医務室に行ったって……なかなか来ないから見にきたんだけど」
そばかすが目立つ色白のヒューの少年は、気遣わしそうにこちらを見つめた。
「大丈夫だよ。どこも異常なしだって」
「そっか。じゃあ、早く食堂に行こ!」
「テッドはもう食べたの?」
「一緒に食べようと思って待ってたんだ。もうぺこぺこだよ!」
むぎわら色の短い髪を揺らして、先に立つテッド。その後に続きながら、アルトの足並みも自然に早くなる。気が付くとお腹の中から空腹を訴えるぐるぐるという音がしていた。
「よかった、まだやってるみたいだよ」
扉の向こうから、騒がしさが漏れてくる。昼休みはかなりすぎているが、広い室内に備えられたテーブルのあちこちでたくさんの子供たちが食事を取っていた。
ただ、配膳用のカウンターの前には誰もいない。給仕係のおばさんたちも手近な椅子に座って談笑している。カウンターの端からトレーを手に、二人は品定めを始めた。
「おばさん! ここにあったチキンソテーは?」
「ごめんなさいね。さっき全部出ちゃったのよ」
「なんだあ……」
少し気落ちしたものの、テッドは白身魚のフライを手にしていたトレーに載せた。
「ごめんね。僕のこと、待っててくれたから……」
「いいんだよ。それよりも、ほら」
止める暇もなく、アルトのトレーの上にフライが三つ放り込まれる。
「いいよ! そんなに入れなくて!」
「良くない。アルト、僕より食べないことだってあるだろ」
次いで、スープやサラダ、マッシュポテトが大盛りにされていく。
「飛ぶのは体力使うって言うし、ちゃんと食べとこうよ」
「……そうだね」
保健室での会話を思い出して、アルトは頷いた。
「やっぱりさぁ」
「なに?」
「僕、ドラゴンに生まれたの、間違いだったんじゃないかな」
青い仔竜の一言に、友人はスープにパンを浸したままあきれ顔になった。
「またそんなこと言ってる」
「だけどさ、最下層から練習してるのは僕一人だけだし。飛べないし」
「だ、大丈夫だって! 太っちょのポルトだって飛べるようになったんだもん。あいつより軽い君が飛べないはずが無いよ!」
「そうかなあ……」
持て余してしまった料理たちをスプーンの先でいじりながら、アルトは諦観と満腹から吐息を洩らした。
「本当に、そう思う?」
「うん。これからも練習していけば……」
『落ちたんだよ、また』
その一言が、二人の会話を寸断した。
「これで、今年になって三十回近くは落ちてるぜ」
「そういや、うちのクラスで飛べないのって、あいつだけなんだってな」
声の元を探るべく、アルトはゆっくりと首をめぐらせた。
自分のいる場所から後へ三列目のテーブル。緑の肌を持つ仔竜が、栗色の髪の少年を相手に話し込んでいる。
「今日なんかさ、他の奴の飛行を見てから飛ぶように言われて、下層のポートで待たされてたんだぜ」
「なんつーか、悲惨の極致だな」
「で、一番最後に、ポルトが飛んだ後で落っこちてんだよ」
「それってさあ、先生もいい加減呆れてんじゃねーの?」
苦笑混じりで少年は肩をすくめた。
「あのデブだって飛べるのに、やせっぽちのあいつが飛べないってどーよ?」
「だよなー。どうせならヒューに生まれてくればよかったのにな、あいつ」
「あいつら……」
立ち上がろうとしたテッドの手を、アルトは素早く掴んだ。
「何するんだよ、君の悪口……」
「いいから、やめて」
心臓の脈打つ音が、耳元で鳴り始めた。食物とは違う不快で重い塊が、喉を通って胃袋の辺りに降り積もっていく。
「夏休み明けには、お前らと一緒にサッカーの授業やってるかもな」
「うわー、すげー気まずいよそれ。俺、笑わないでいられる自信ないわー」
「おい、お前ら」
赤い肌色を持つダンが、話し合っていた二人の間に首を差し入れた。
「いつまで喋ってんだよ。早くしないと、コート取られちまうぞ」
「わりぃ、今ちょっと――」
緑の仔竜はそこで初めてこちらに顔を向け、半笑いを浮かべた。その表情に気が付いた少年も、アルトに目線だけを送りトレーを手に立ち上がる。
そして、二人の話題に上がっていたアルトの姿を見つけると、嫌な薄笑いを浮かべた。
「あいつのこと話してたのか」
「ああ」
アルトのうろたえぶりを見つめて、ダンの顔が心底バカにしたような表情を浮かべ、こちらへ近づいてきた。
「よう。ポテト」
「な、なんだよ」
「お前、いい加減授業出んのやめたら?」
いきなりの一言に頭の中が真っ白になって、体が動かなくなる。たっぷりと皮肉を込めた言葉に反応できたのは隣に座っていたテッドのほうだった。
「いい加減にしろよっ! なんでいちいちアルトに突っかかって来るんだよ!」
「めざわりなんだよ。こっちが気持ちよく飛んでるところでボトボト落っこちてさ」
「ふざけんな! そんな勝手な言い草があるか!」
白い顔を真っ赤にして怒鳴るヒューの少年から慌てて身を引くと、まだ固まったままのアルトに向かって冷たい視線を投げた。まるで、汚いものでも見るように。
「じゃあな。今度から体育の時間は仮病でも使って休んでてくれよ」
テットが何か言うよりも早く、赤い仔竜と取り巻きたちが立ち去っていく。
だが、入り口付近でもう一度振り返ると、食堂中に響くような声で宣言した。
「じゃあな、ポテトのアルト」
その一言と一緒にひょいと手が上げられ、力なく落とされる。三人は爆笑しながら外へ出ていった。同時に食堂の視線のいくつかがこちらに集中しささやきやかすかな笑いが渦巻く。
「……な、なんだよ、あいつら!」
怒りに満ちた拳が、トレーの上からスープやサラダを飛び散らせる。笑った生徒を一渡りにらみ付けてテッドは顔を紅潮させた。
「あんなの、気にするこ……」
友人の言葉が、尻すぼみに小さくなっていく。
よっぽど、ひどい顔をしているんだろう。トレーの一部に顔を合わせたまま、アルトはぼんやりとそんなことを考えた。
白いマッシュポテトの表面は心なしか乾いて、黄ばんで見えた。




