10わかれ道(その二)
太陽が沈み、空と水平線の境界が闇に消えていく。
色とりどりのライトが点る水上ポートと、浜で繰り広げられるお祭騒ぎ。その光景をぼんやりと眺めながら、アルトは胸元にさがったそれの感触を、指で確かめていた。
丸い金属の円盤はかすかに温もり、硬くしっかりとした手触りで、これが現実の物であることを教えてくれている。
「ほれ」
傍らから差し出された串焼きを受け取ると、先に歩き始めたファルスの後を追う。
「……なんかさ、まだ信じられないよ」
焦げ目の付いた肉を頬張りながら、アルトはぼんやりと呟いた。
「夢じゃ、ないんだよね」
「ほっぺたでもつねってやろうか?」
「そんなことしなくても、大丈夫ですよ」
歩いていく二人の前に回って、テッドが一枚の写真を取り出し仔竜に手渡す。
そこに映っている光景に目を細め、ファルスはいたずらっぽく笑った。
「これだけのブツが揃ってるんだ、言い逃れはできないぞ」
幸せのこもった吐息を洩らして、アルトは頷いた。
「あ……あのね……おじさん、僕」
「おい」
掛けられた声に振り向くと、不機嫌そうな表情の赤い仔竜がそこに立っていた。打ち明けかけた感謝の言葉を中断されて、アルトはぶっきらぼうに問いかけた。
「まだ、なにか用?」
「……ほら」
ポケットから取り出された一枚のカード。ひったくるようにして受け取ると、スリーブに包まれたカードをしげしげと見つめ、ダンのほうへ視線を戻す。
「なんで、こんなこと?」
「賭けの賞品が汚れたらまずいだろ」
「う……うん」
「それから……ライルのこと、悪かった」
言うだけ言ってしまうと、ダンは振り返りもせずに去っていった。知らずのうちに緊張で強ばっていた体を、ファルスの手がそっと解きほぐす。
「やったな」
「うん」
言われてから、アルトは自分のやってきたことを、ようやく実感したように思った。
信じられないような、だが信じるに足る全て。それらをもたらしてくれた二人に、青い仔竜は深く礼をした。
「ほんとに、ありがとう。おじさん、テッド」
ファルスは黙って頷き、テッドは照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。
「アルト、そろそろ帰ろうよ」
「ん……そうだね」
少年の言葉を受けて、仔竜は大きな体を振り返った。
「それじゃ、また明日ね」
「いや、今日でお別れだ」
一瞬、相手が何を言っているのかが理解できなかった。その言葉の意味が染み通るうちに、アルトの胃袋がきゅっと縮こまっていく。
「な……なに言ってるのさ」
「実はな、ちょっと遠くへ引っ越すことになったんだ」
そう言うファルスの顔は穏やかに笑っている。
「もう……仕事に戻る時期なんでな」
「なんで、そんな急に……」
「本当はもっと前に決めてたんだがな。ラグーンレースが終わるまで、言わずにおこうと思ったんだ。お前の邪魔をしちゃ悪いと思ってな」
「それでも……今日なんて、急すぎますよ」
テッドの抗議にも力はこもっていない。むしろ、声を出すほどに萎えていくようだ。
「むしろ遅いくらいなんだよ。……グレイに頼んで、家も探してもらってあるんだ」
「待ってよ、だって僕まだちゃんとお礼してないし! せめてお別れ会とかそういうのやってからでも……」
太ったドラゴンは腰をかがめ、アルトに顔を合わせた。
「なぁアルト。今日のお前、すごかったなぁ」
「でもそれは……」
「俺さ、ホントは仕事なんてどうでもいいと思ってたんだよ。何やってもうまく行かなくて、正直辞めようかと思ってた。でも……お前を見てて思ったんだ」
言葉を切り、ファルスは優しくて、力強い笑顔を浮かべた。
「もうちょっと、逃げずに頑張ってみるのも、悪くないなってさ」
その表情にアルトの言葉は詰まり、代わりに瞳から気持ちが溢れ出た。太った顔の中には初めて飛び方を教わった、あの時と同じ真剣な表情があった。
「……もう……会えないの?」
わずかに沈黙を置き、彼は口を開いた。
「またいつか、逢えるさ」
いつか、という時の重さを噛み締めて、それでもアルトは頷いた。それから、胸に下がった勝利の証を取り外す。
「これ、あげるよ」
「おい……それは……」
「貰ってほしいんだ。僕のこと、忘れないように」
首を振ると、ファルスはメダルを押し返した。
「こんな大切なもの、受け取れるわけないだろ」
「でも!」
「それなら……それ、貰えるか?」
太い指が示した手の中のカードを、じっと見つめる。
初めて空を飛んで、そして勝ち取ったもの。金メダルと同じ、いやそれ以上の価値のあるたった一つのカード。でも、これ以上、すべての感謝を伝えるのにぴったりくるものもない気がした。
手の中の宝物をアルトはおずおずと差し出した。
「大事に、してね」
「ああ」
短く呟くと、ファルスはライルのカードをそっと受け取った。それから、しばらく黙って見つめていた。その視線に自分と同じか、それ以上に強い気持ちが込めて。
(あれ?)
ふと、心の中に浮かんだイメージ。ファルスの真剣な表情がよく知っている人物と重なり、思わずうろたえてしまう。
そんなバカな。いくら体色が似ているからって。おじさんとライルが似ているなんて。
「どうした?」
気が付くと、ファルスはいつものようにまんまるな顔で笑っていた。
「な、なんでもないよ」
「そっか。それじゃ、そろそろ行くわ」
手にしたカードを大事にしまいこむと、ファルスはいつもどおり、ゆっくりと歩きだした。
大きな丸い背中が、遠ざかっていく。
「おじさん! 絶対、また会おうね!」
「ああ」
振り返らずに片手を挙げると、彼は力強く答えを返した。
「絶対に、また逢おう」
涼しい早朝の海岸通りの道を、太った姿が歩いていく。祭りが繰り広げられた浜はしんと静まり返り、海の彼方にたった櫓だけが昨日の名残をとどめている。
目的地のバス停には、黒い肌を持つドラゴンが佇んでいた。
「ちゃんとお別れはしたのか」
「ああ」
小さな手荷物を一つ下げて、彼は友人に頭を下げた。
「迷惑ばかりかけて、すまない」
「もう慣れたよ」
やがて一台のバスが二人の前に止まる。窮屈そうに入り口を抜けると、彼は見送りの友人に手を振った。
「またな、グレイ」
「またな……ライル」
バスは一人のドラゴンを乗せて、セドナの街を去っていった。




