7裏切りの世界(その二)
木陰に置かれたベンチに、ファルスはぼんやりと座り込んでいた。
隣に置かれた屋台の食べ物やジュースのビンは全く手が付けられていない。時々、太った体がびくりと震え、そのたびに荒い息をつく。
緊張と恐怖に見開かれた目は、公園の景色とはまったく別のものを凝視し続けている。
とめどなく繰り返される、あの時の記憶を。
飛びすぎた瞬間に見えたピットインの指示を無視してホームストレートを飛びぬける。自分の十メートルほど先に見えるプレイヤーの姿がどうしても縮まらない。苛立った意識に苦りきった監督の言葉が割り込んだ。
『別にポールじゃなくても、三位入賞でも勝ちには繋がるんだ』
『『俺の』勝ち星にはならないだろ。総合なんて興味はない、あるのは目の前の『サラマンダー』だけだ!』
その会話を最後に十週以上ピットに入っていない。一分一秒が惜しい、くだらない言い合いなどしている暇はなかった。
並行にならんだ六番と七番のチェックポール。体を垂直にしながらインを攻めていく。背中とチェックポールがわずかに擦れるが、目の前のプレイヤーとの差が数メートル縮まった。
この位ならなんとかなる。会心の笑みを浮かべて、追うべき先頭を求めスポットを舐める。
目の前に群がるプレイヤーたちを強引なライン取りで追い抜きながら、脳裏に今シーズンのことが思いが浮かんでいた。チームのメンバーとの幾度とない衝突、新人の思いもよらない活躍、調子の上がらない自分に対する苛立ち。
だがそれも、これで終わる。ポールを取れば、個別・総合とも上位と並べる。
「……お前を抜いて、な!」
目と鼻の先になった赤いスーツに噛み付きそうな勢いで追いすがる。しかし、わずか数十センチの差が、どうしても埋まらない。小柄で翼の小さなプレイヤーはその体格ゆえにコーナリング性能が大きく、強風に煽られにくい。吹き荒れ続ける強風の中を自由にすり抜けていく。
対して、自分のような大柄で翼面積が大きいプレイヤーはそれだけスポットの影響を受けやすく、直線上での加速が有利になる。
強風に神経を集中しつつ、八番のポールの間に設置されたスポットの勢いを得て高く舞い上がる。間近に映る影。嘲るような笑みを浮かべると、間近に迫った九番ポールを攻めるべく、体を垂直に起こそうとした。
だが、
「なにっ!?」
突然の横風が体に吹き付け、中途半端な角度で体がスポットに侵入してしまう。急旋回と風のあおりを食らい、体が十番ポールの間へ引き込まれる。
甲高いジェットの排気音、猛烈な熱さ、金網を張ったスポットの火口が迫る。
全力で立てた翼、必死にねじった体、回避のためのむなしい行動を金属の顎が一瞬の内に全身を飲み込み――
「うあっ……ふっ、ふぅっ」
稲妻のように全身を貫く恐怖が、押し殺した絶叫で遮断される。
乱れた鼓動を押さえるようにファルスは胸の辺りを強く掴んだ。固くつぶった目蓋の上を、冷汗が流れ落ちていく。顎がガチガチと鳴り、体中を恐怖と悪寒が這い回る。事故の瞬間に襲い掛かった灼熱と激痛、自分の肉が焼ける臭いがリアルに蘇る。
昨日からずっとこの拷問は続いていた。食べても眠っても、繰り返し襲ってくる。
違う、違うんだ。もう終わったんだ。
苦しい気持ちを押し込めるように、袋から取り出した串焼きにかぶりつく。それでもまだ止まらない震えを抑えるようにハンバーガーを、ホットドッグを、フライドチキンを詰め込む。
胃袋が窮屈になるにつれて、どうにか気持ちが落ち着いてきた。
そうだ、これでいい。俺は、
「ファルスさん!」
一瞬、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走り、それから太ったドラゴンはなんとか驚きを押し隠して、聞き慣れた声の主に振り返った。
「……いきなり大声だすなよ。死ぬかと思ったぜ」
「ごめんなさい! それより大変なんです!」
息も絶え絶えに、テッドは必死に先を続けた。
「アルトが、今からダンと勝負するんです!」
「……そいつは、今月の終わりにやるんじゃなかったのか?」
「それが、昼間にダンの友達に勝負を挑まれたんですけど……」
無言で先を促すと、落ち着かない様子で少年は顛末を語り始めた。
「そいつとは二十メートルくらい差を付けてアルトの圧勝だったんです。でもその後ダン本人が練習ポートに来ちゃって……」
「で、勝負を早めたってわけか」
瞳を曇らせたテッドの肩をそっと叩いてやると、ファルスは空になった袋を手近なごみ箱に放り捨てた。
「心配すんなよ。向こうも同じ仔供なんだ、結構善戦するかもしれないぜ?」
「そう……だといいんですけど……」
「俺も行ってやるから、一緒に応援してやろうぜ」
「はい!」
「で、あいつは市立のポートか?」
こちらの問い掛けに、テッドは首を横に振った。
「いえ。ダン達と一緒に海の方へ」
「……海って、なんでまた」
「セドナ・ラグーンレースって知ってます?」
友人との会話を思い出し、彼は訝るように眉根を寄せた。
「沖の方に立ってる櫓から飛ぶっていう、あれだな」
「はい。実はアルト、そのレースに出るために練習してたんです」
「なんだってぇっ!?」
こちらの叫びに萎縮したテッドは、それでも緊張した面持ちになった。
「な、なにかまずいんですか?」
「競技場と自然の風が吹く場所は別物なんだよ! 今のあいつじゃ、飛ぶのも難しいはずだ」
「それじゃあ……勝負にならないじゃないですか!」
「あのバカ……」
片手を額に当てながら、ファルスは海のある方角を見つめた。
「アルトは?」
「僕が出てきたときには、ダンと一緒に練習組の一番後に……」
「とにかく、お前はアルトのところに行って勝負をやめさせろ。そうでないと、初勝利の次は初惨敗を体験することになるぞ!」
「は、はいっ!」
大慌てで去っていく少年の後を見ながら、ファルスは夕日の沈む方角に小声でぼやく。
「ったく、世話かけさせやがって」
そう言いながら、心のどこかでは安堵していた。仔竜同士のケンカの仲裁、そんなどこにでもあるような出来事の中にいる自分。これこそ、俺がファルスである証拠じゃないか。
アルトにかける言葉を考えつつ、太ったドラゴンは目的地へのそのそと走っていった。




