1、じゃがいもの夏(その一)
日差しが照り返す校庭に立ちながら、アルトは顔を海のほうに向けていた。
何か珍しいものがみえるわけじゃない。山の中腹に作られたこの学校に通うなら、飽きるほど眺められる光景に過ぎない。
なるべく、視界に入れたくなかったのだ。
自分の前後に並ぶ、色とりどりの肌を持つ仔竜たちを。
楽しそうに内緒話をする、同級生の顔を。
日差しは明るく強い。空気はからりとして、かすかに風があった。
雲一つない青空。いかにも夏という天候だ。
なるべく「それ」を見ないように、素早く反対側に視線を移すと、水しぶきの上がるプールが見えた。
バタ足の練習をしているんだろう。先生に怒られながら、それでも笑い声は止まらない。
「……いいなぁ」
喉の奥から、苦い言葉が漏れ出す。
今からでもあそこにいけないだろうか。
あるいは、突然おなかが痛くなったりしてくれないか。
「よーし、全員注目!」
野太い声に、アルトの意識は無理やり、前方へと引き戻された。
飛び込んでくる、大きな木造のやぐら。
四本の支柱を斜めの柱で止めた無骨なそれは、一番てっぺんにむき出しの床があり、その下にもう一段、さらに下に一段、床が作られている。
外付けされた鉄製の階段が、各階層への入り口代わりを果たしていた。
その出来損ないの塔の名前は『飛行練習台』。
アルトが、最も関わり合いになりたくない施設の筆頭だった。
「いつも言っていると思うが、防具の確認を忘れないこと。変な姿勢で飛翔口から飛び出さないこと。私語は謹んでふざけないこと。今日が夏休み前最後の飛行の授業だ、ケガのないように練習するんだぞ」
「はい!」
元気よく応える他の仔供とは裏腹に、アルトは口の中でもにょもにょと返事をした。
「よし。では全員整列してポートに入れ! 現在Aに進級しているものは最上階、BとCは中層部に移動! って、そこ! 言ってるそばから私語をするな!」
騒がしく列を作る仔供の最後尾に並びながら、アルトは自分と他の仔竜と見比べた。
背はそれほど低くないが、同じ六年生ではチビの部類に入るだろう。やせっぽちの体格のせいで、体操着のズボンのサイズは低学年のものだったする。
ただ、目立った違いはそのくらいだ。
青い体のどこにも問題はない。尻尾が長すぎるわけでもないし、翼がいびつに曲がっていたり、角が欠けているわけでもない。
間違いなく自分自身も同じドラゴンのはずだ。
「おい、アルト」
「は……はいっ!?」
気が付くと、列を整理していた先生の緑色の顔がどアップになっていた。
「どうかしたか?」
「え、そ、その」
「やっぱり、もう少し練習するか?」
厳ついしかめ面が気づかうような表情に変わる。その顔に現れた感情を押し返すように、仔竜は声を上げた。
「だ、大丈夫、です! やります!」
「それなら早く移動しろ。もうみんな位置についているぞ」
気が付けば、前に並んでいた生徒はほとんど階段を上ってポートに入っていっている。一人のデブ仔竜が中層部の入り口をスルーして上層部へ上がっていくのが見える。それどころか列に入っていた男子のほとんどが上層部へ移動していた。
はしゃぎながら女の仔たちが中層部に入っていく。その中に混ざった男の仔が、嫌そうな顔で中に吸い込まれていく。
ぽつんと残されたアルトに、緑色の先生は少し声のトーンを落として言った。
「がんばれよ」
「……はい」
うなずきとうなだれの中途半端な首の動きをすると、階段に足を掛ける。わずか十段昇ったところで、青い仔竜は飛翔口に入った。
やぐらの四方には壁が無く、外の景色がよく見える。防風林の茶色い幹と黄色い砂が敷き詰められた広場の光景には空の青はない。
そして、この最下層の飛翔口には自分以外は誰もいなかった。
「クリス・ライアン!」
外からの呼び声に導かれて、頭の上を一つの足音が駆け抜けた。
「それっ!」
掛け声と一緒に足音の主人が唐突にアルトの視界にあらわれた。広げた翼で鋭く風を切りながら、空を滑っていく。
防風林に挟まれて広がる砂の広場。その端に描かれた石灰の円を目指して、翼を広げた背中が突き進み――着地。目印の円を少し外したものの、飛行者は出番を待っている生徒の拍手を受けた。
再び起こる号令と返答。次々と生徒が風を切って飛翔していく。中層部の生徒達は残らず広場の果てにある円に到着していった。
「ダン・トリエスタ!」
呼び出しの声に、上から聞こえていた喧騒が急に止まった。広場の向こうにいる生徒も真剣な表情ではるか最上階に視線を向けている。
呼び出しに応え天井を駆け抜けていくしっかりとした足取り。力強く天井の端が蹴られる。思わず、アルトは立ち上がって飛翔口から身を乗り出した。
大きな赤い姿が空を横切り、背中を反らせて宙返りを一つ決める。体勢を立て直すと矢のような速度で円を目指して滑り降りていく。狙いをあやまたず、ダンは円の中央に着陸を成功させ、両手を差し上げた。
『おおーっ!!』
割れんばかりの拍手と歓声。その中心にいる仔竜は誇らしげに顔をそびやかすと、生徒の列に入った。その後も次々と上層の生徒が呼び出され、きれいな十字を蒼空に描き出していく。 そして、最後の飛行者が太った体を何とか円の中に落とし込むと、生徒達は爆笑と拍手でそれを迎えた。
称賛が、唐突に止んだ。
天井からはすでに足音がしない。
遠くで鳴いているの蝉の声がよく聞こえるほど、辺りは静まり返っていた。
視線が集まっている。たった一人しかいない場所、そこに立っている青い仔竜に。広場の向こうにいた仔供の目がじっと注がれていた。
「アルト・ロフナー!」
唾を飲み込むと、アルトは他の飛行者と同じように、空に向かって走りはじめた。
床の端に印された黄色い踏み切り線を蹴り、背中の翼をいっぱいに広げる。翼と背中に風の抵抗感がのしかかり、青い体が一瞬宙を滑った、ような気がした。
「うわああっ」
突然、全身に感じた浮力が消え、アルトの体は翼を広げたまま下に敷かれていたマットに墜落した。一瞬遅れて腹を強烈な衝撃が襲い、息が詰まって意識が遠ざかる。
「……落ちたぞぉっ!」
誰かが叫んだ瞬間、生徒の中から爆笑が巻き起こった。
「さすがアルト、また落っこちてるよ!」
「しょうがねぇよ。あいつポテトだもん」
「あれじゃ、あいつ一生飛べないんじゃねーの」
「こら、お前達! やめろ!」
先生の一喝で爆笑が小さなクスクス笑いに変わる。もう一度しかりつけると、濃緑のドラゴンはアルトの方へやってきた。
「……大丈夫か?」
「……はい。大丈夫です」
たしかに痛いが、立ち上がれないほどじゃない。ただ、アルトとしては、もう少しマットの上でうずくまっていたい気分だった。せめて、みんなの笑いが収まるまで。
「もしかすると、飛ぶ瞬間に余計な力が体に掛かっているのかもしれん。次に飛ぶときは助走をつけず、踏み切り線の所から直接飛ぶことから始めたほうがいいだろう」
「……はい」
動く気配のないアルトを濃緑色の両手が引き起こし、地面へと降ろした。
「とりあえず、お前はしばらく滑走の訓練を中心に練習だ。わかったな?」
「はい……」
「あごの下、すりむけてるぞ」
「え? あ……」
示された場所を指でたどると細かい痛みが伝わってきた。傷口に触れた指先がかすかに血で汚れている。
「保健室にいって消毒してもらってこい」
「……はい」
小声で返事をするアルトに軽く頷くと、先生は並んで待っている生徒に向き直った。
「それじゃ、次は急ブレーキと姿勢制御の練習に移る! 全員中層階に移動! 用具係は予備の救護マットを用具室から取ってくること!」
号令に従って去っていく集団。騒ぎを背中で感じながら、アルトは保健室へと歩きだした。
「ところで、ポテトってなに?」
生徒の群から無邪気に尋ねる女の仔の声が聞こえる。その問いかけにアルトの心臓が、大きく脈を打った。
「『飛べないおちこぼれ』のことをポテトって言うんだってさ」
「変なの。なんでポテトなの?」
「しらね。どーでもいいし。早く行こうぜ」
さざ波のような笑いを残して、彼らは去っていく。
胸の奥で痛みになっている思いを、アルトはため息と共に吐き出した。
「ポテト……か」