6俺の声が聞こえるか(その一)
「よう、おっちゃん。今日も元気かい?」
いつも通りの挨拶に、ガラスの商品ケースの向こうの店主も笑顔を返す。
「もちろんさ! あんたが寄っていってくれれば、もっと元気になれるね」
「んじゃ、端から順に五個づつね。アイスクリーム入りは抜いて」
紙袋いっぱいのクレープを頬張りながら、ファルスはのんびりとした足取りで、公園の大通りを歩きだした。
いつもどおりの喧騒が道に広がり、その間を縫う様にして進む。
「にいさん、今日の奴はいつも以上においしいよ」
「悪いな。もうおっちゃんの所でこれ、買っちまったからさ」
強いバターの匂いを漂わせるポップコーン売りの傍らを過ぎ、彼は目的地である金属の塔へと向かった。ポートの前のチケット売場には、ラッシュの時間を過ぎたせいか誰の姿もない。「長距離、成竜一枚ね」
「……あ、あのぉ……」
券売を担当していた人の青年は、申し分けなさそうな表情を浮かべた。
「済みませんが……あちらの方で検査を……」
「……なんだとぉ?」
眉間に力を入れて視線を送ると、相手はさらに萎縮して泣きだしそうな顔になる。
「あ、ファルスさん! バイト君をいじめないであげてくださいよ!」
「はは、もうみつかっちゃったか。んじゃ、入場券を成竜一枚」
安堵した表情の青年を残し、ファルスは声を掛けてきた制服姿のドラゴンと一緒にポートのエレベーターに入った。
「あんな気が弱そうな奴で、大丈夫なのか?」
「真面目でいい子なんですから、優しくしてくださいね」
低階層、中階層を通り過ぎ、二人は吹き渡る風で満ちる最上階へと運ばれる。
ちょうどその時、いくつもの金属を叩きつけあうような騒音が響き渡った。着陸用の緩衝器が、一番端のストッパーとぶつかってできた音だ。
「下手くそめ」
嫌そうな顔で毒づく係員に、ファルスは苦笑を浮かべた。
「気持ちも分からなくはないが、お客さんだぜ」
「だってあの緩衝器、半月前に修理したばかりなんですよ? 中にはわざと派手な音を立てて楽しんでる奴だっているんですから!」
「じゃあ、あれならお気に召すかな?」
太ったドラゴンはうっすらと笑いを浮かべて、新たな着陸者を指差した。
青空をバックに浮かび上がる黒点。それがみるみるうちに近付いて、緩衝器に体を向ける。
大きく広げられた翼が勢いを見事に抱き留め、板に触れた足を屈曲して衝撃を殺していく。掛けられた圧力で軽やかに走りだした車輪は、レールとの抵抗で次第に力を失い、非常にささやかな音を立ててストッパーと接触した。
「相変わらず、見事なフェザータッチですね!」
「あいつにとっては、普段の着陸から練習だからな」
自分の事のように自慢げに語ると、ファルスはやってくる姿に片手を挙げた。
「よう、グレイ。元気だったか?」
「おかげさまでね。そっちは……聞くまでもないか」
紙袋に手を差し入れるこちらを見やって、黒い肌のドラゴンは小さく嘆息した。
「空の具合はどうだった?」
「天気は上々。二日前に低気圧が退いてくれたから、湿りも無くて快適だったよ。さすがにセドナ辺りは突風の交差点だから、平穏とまではいかなかったけどな」
降り専用のエレベーターに向かう間に、グレイは上着のあちこちに結ばれた紐やジッパーを解いて、飛行仕様から普段着の形に戻していく。
ガラスで仕切られた箱が地上へと動きはじめ、傍らの友人は軽く体を捻ってこわばった体をほぐしていた。
「てっきり仕事着でくると思ったんだが、今日は休みか」
「いつもさっさといなくなるって、誰かさんがぼやくからな」
揶揄を避けるように、ファルスは視線を外の景色へと移した。
透明な板の前を幾度も鉄骨がよぎり、眼下の緑や歩道の群衆を打ち消していく。その度に映り込む二人の姿は、見事に対照的だった。
衣服の隙間から見える、太くはないが力強い筋肉の束。しなやかな曲線を描く尻尾と、折り畳まれてなお、計算された構成をうかがわせる一対の翼。灰色の髪の下で輝く瞳には陰りがなく、鼻筋を横切る大きな傷跡ですら顔立ちを引立てる要素になっている。
着くずされた衣服をまとっていても、グレイの周囲には心地よい緊張が感じられた。
その隣にいるのは、緊張とはまるで縁のない姿。
あらゆる部分が膨らみ、弛んでいる。張り詰めている所を強いて挙げるなら、上着をあわせておくベルトくらいだろう。
「どうした?」
「いや……」
エレベーターが、わずかに震えて地上へと辿り着く。
「昼飯、どこで食おうかと思ってさ。色々考えてたんだ」
「こっちは帰りもあるんだからな。重量超過で検査に引っ掛かるのはごめんだぞ」
「しょうがないな、今回は一軒だけで勘弁してやるよ」
軽口を叩きながら、ファルスは目の前の現実から素早く瞳を逸らした。
向かいに座ったグレイが、満足そうに吐息を洩らしたのを見て、ファルスは傍らを過ぎていくウエイトレスに声を掛けた。
「お皿、下げてもらえるかな? それと、デザートの方よろしく」
「はい」
「こっちはエスプレッソお願い」
去っていくウエイトレスを見送ると、友人は窓越しにセドナの青い海を眺めた。
「もう、そんな季節になるんだな」
「なにが?」
「沖の方に櫓が立ってるだろ」
そのことについてはファルスも気が付いていた。ただ、そのポートの出来損ないがなんであるか、確かめたことはなかったが。
「セドナ・ラグーンレースって言ってな。毎年九月の終わりに、あそこから浜に向かって飛ぶ競技があるんだよ」
「お前も出たことあるのか?」
「一度だけな。うちの団体の、競技開催地の視察も兼ねて」
「もちろん、優勝だろ?」
意外なことに、グレイは首を横に振った。
「三位入賞が精一杯だったよ。地元の連中はここらの風を熟知してるからな」
「で、もう一つの目的の方は?」
「……現在留保中。説明を聞いただけで、危険すぎるから承認は難しいってさ」
グレイの参加しているエクストリーム・グライドは、複雑な地形や強風の吹き荒ぶ崖にコースを設定して行なう競技だ。競技人口や世間の知名度は今だに低く、競技場として利用できる場所も少ない。
「でも、年内にAクラスに昇格できるコースがあるから、まだましだ」
「じゃあ、来年には国際試合を誘致できるのか」
「こっちでスポンサーが見つかればな……ああ、貧乏所帯はつらいぜ」
おどけた調子で黒いドラゴンは、白いクロスの掛かったテーブルに突っ伏した。
竜便の仕事の合間を見ながら競技に参加し、新たなコースの獲得に東奔西走する。そんな生活を、グレイは愚痴を言いながらも心から楽しんでいた。
眩しそうに目を細めて、ファルスは友人の顔を鷲掴みにした。
「ほれ、場所あけろ。デザートが載らないだろ」
「……で、お前は何かあったか?」
目の前を横切るケーキやプディングに遮られながら、こちらを伺う瞳。
逢うたびに繰り返されるその問い掛けに、思わず苦笑いが浮かぶ。
「いつも通り。食って、ごろごろして、ぶらぶらして」
「そうか」
「と、言いたいところだが、今は少し違う」
目を閉じると、澄んだ空の青色を持つ仔竜の姿が浮かんだ。
「おもしろい奴と友達になってさ。今はそいつと遊んでる」
「どんな奴?」
「昔のお前そっくりの仔竜だ、何から何までね。楽しいエピソードもいっぱい話したぜ」
揶揄を込めた言葉に、グレイの眉間にしわが寄った。
「俺の恥ずかしい過去をダシに楽しんだってわけか」
「怖い顔すんなって。そのエピソードで救われた仔竜がいるんだ、大目に見てくれよ」
「その仔、笑ってたか?」
「うん。かなりな」
不機嫌が煮詰まったような渋い顔の友人に、ファルスは遠慮なく爆笑を浴びせた。
「いいじゃないかよ。ポテトだったグレイア・サイラスはもういない。今じゃ乱気流すら擦り抜ける大空の雄だ。昔の失敗なんて笑い飛ばせるだろ」
「はいはい。分かりましたよ、そうやってせいぜい笑ってればいいさ」
呆れ混じりの返事をすると、友人はわずかに瞳を伏せて口をつぐんだ。空隙を埋めるようにファルスがデザートを頬張る音だけが流れる。
「……その仔は、今どうしてるんだ?」
「気になるか?」
「俺と同じ、って聞いたらな」
「そこもあの時と同じだよ」
その言葉に吸い寄せられるように、グレイがこちらに視線を向ける。その黒い顔には驚きと安堵のようなものが浮かんでいた。
「お前が、教えてるのか?」
「だから言ったろ『お前のエピソードに救われた』ってさ」
その言葉を反芻するようにグレイは頷き、それから改めてこちらに向き直った。
「……なあ」
テーブルの白いクロスに手を組み合わせて、黒いドラゴンは呟いた。
「お前、やってみる気ないか?」
「やるって……何を?」
「エクストリームだよ」
出し抜けの問い掛けに、ファルスは茫然として相手を見つめた。
柔らかな表情だが、何かを期待した真摯さが瞳の奥に見え隠れしている。決まりの悪さを払うように、彼は盛大に鼻白んだ。
「……俺みたいなポテトを誘うなんて、よっぽど運営に困ってるんだな」
「困ってるのは事実だが、そこまでじゃないさ」
「今の俺じゃ、いつ出れるか分からないぜ」
おどけた調子で腹を叩いてやる。だが、その小気味いい音を気にすることもなく、グレイは畳み掛けた。
「その気になったら言ってくれ。いつでも待ってるから」
「気が、向いたらな」
それ以上の追求を遮るように、彼は大皿に載ったタルトを立て続けに頬張った。