5導き手(その二)
「じゃ、ちょっと走ってみな」
お昼の休憩の後、ファルスはそんなことを言い出した。
「走るって、滑走のこと?」
「学校で教わったとおりにやってみてくれ」
不思議に思いながら、仔竜は緩衝機の周りを走り始めた。いつもどおり体が自然と浮き上がり、少し走ったらジャンプをして数メートル滑空を繰り返す。一週回ったところで、アルトは二人の前に戻ってきた。
「こ、これでいい?」
「おう。つか、お前のフォーム、かなりきれいだな。長いこと滑走してきた賜物ってやつか」
「……そんなの誉められても、うれしくない」
「そう言うなって。滑走姿がきれいだって事は、これからやる練習がやりやすいってことなんだからさ」
むくれたアルトの髪をくしゃっとかき混ぜ、ファルスは笑った。
「というわけでアルト、もう一回走ってくれ」
「ま、またぁ?」
「ただし、今回は俺の指示にしたがってな。まず、そこに翼を広げて立ってみてくれ」
言われた通りにすると、太った姿が背中側に回り、
「で、体をこう、ぎゅっと前に倒す」
「え、あ、ちょっ、いたっ、いたたたた」
地面にこすりそうなぐらい体が前に倒される。そのままの姿勢で仔竜を固定しながら、ファルスは指示を続けた。
「この高さ、覚えたな?」
「覚えたけど……これは?」
「この姿勢のまま走るんだ」
「む、無理だよこんなの! 走ってる途中で倒れちゃう!」
「最初は歩いてもいいから、とにかくやれ」
仕方なく言われたとおりに走り始める。だが、不自然に体を曲げているせいで走るというより前につんのめる感じだ。翼の重さが体にかかって全身がふらふら揺れ、足がもつれる。
「……うわぁっ」
たった数メートル走ったところで、仔竜は地面をこすりながら突っ伏した。
「ま、最初はこんなもんか」
「なんだよこれ! こんなことやってホントに意味あるの!?」
「あるさ」
泥だらけの顔で怒るアルトに、ファルスはまじめな顔で応えた。
「アルト、プネウマの話は覚えてるな?」
「う、うん……」
「普通の仔竜は生体電流が弱いから、元から付いているプネウマの量はそれほど多くない。滑走して空気を翼に当て、プネウマが膜を作るまで取り込む必要がある。だが、お前は違う」
顔や服に付いた泥を払い落としながら、ファルスは言葉を続けた。
「お前には普段から多くのプネウマが付着している。つまり、何もしないでも翼にコーティングが施されているんだ。そこへ持ってきて、どんどん空気を翼に当てたらどうなる?」
もとから必要量を蓄えているところへ、さらに供給されるプネウマ。その結果から導き出されるのは――
「他の仔竜は飛びながらプネウマを補給し、同時に空気の流れによってプネウマが少しずつはがれていくから、プラスマイナスゼロの状態で飛ぶことができる。だが、お前の場合は常に過剰供給な状態なんだ。だから、飛べずに落ちる」
「じゃ、じゃあ、そのプネウマを少なくするほう方法は!?」
「そのために、さっきの練習をするんだ」
もう一度地面に翼の断面図が描かれる。今度は膨らんだ先端の部分が水平ではなく下向きに角度が付けられた状態になっている。
「翼の先の角度を『迎角』って言うんだが、普通の仔竜はこれを上向きにするように教わる。こうすることで低速でも揚力を得やすいからだ。だが、アルトはプネウマの量が多い分、ここで揚力を得るようにすると、もれなくプネウマも集めちまう」
「……もしかして、さっき走ったのって、僕の翼をこの絵みたいな形にするってこと?」
「ああ。水平よりも下向きに迎角を作って、いったんプネウマを少なくするんだ。普通の仔竜がこんなことをやったら地面にまっしぐらだが、お前ならそうはならない」
「ほんとに?」
「俺の友達で実践済みだ。安心しろ」
自信たっぷりに言う姿を見つめながら、アルトは気になった疑問を口にした。
「……おじさんの友達が、ちゃんと飛べるようになるのに、どの位かかった?」
しばらく、記憶を掘り返すような沈黙があって、
「一月くらい、かな」
「そんなに!?」
「あいつの場合は我流で飛ぼうとしてたせいで、かなりフォームが崩れてたからな。矯正に時間が掛かったんだ」
「僕の場合は?」
彼は仔竜の体を上から下まで、内側を見透かすくらい観察した。
「たぶん……早くて二週間、ってとこか」
「それなら、なんとかなる、かな」
「あくまで俺の見立てだからな。無理して、体壊すようなまねはするなよ」
そう言いながら、ファルスは背中を向けて薮の方へと歩きだした。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「なんだよ? まだ聞きたいことがあるのか?」
「そうじゃなくて、お願いがあるんだ」
逃げられないよう大きな体の前に回り込むと、アルトは藍色の顔をじっと見つめた。
「僕の、練習のコーチになって欲しいんだ」
「な……なんだって?」
「だって、まだ僕、ちゃんと飛べるようになってないんだよ?」
困ったように視線をそらして、ファルスは口の中で言葉を転がした。
「学校の先生に言えばちゃんと教えてもらえるさ。過電症の話をすれば大丈夫だと思うぜ」
「先生じゃなくておじさんに教えてほしいんだ!」
「なんで俺なんだよ」
「それは、その……」
「僕からもお願いします」
声の主に振り返ると、両腕にビンを抱えたテッドが薮を抜けてきたところだった。
「先生なら、みんなを飛べるように指導することはできます。でも、アルトを飛べるようにできるのはおじさんだと思うんです」
「ちょっとアドバイスしてくれるだけでいいんだ! どうか、お願いします!」
一斉に頭を下げる子供たちに、ファルスは深く深くため息をついた。
「教えるのはいいけど、うまくいかなくても知らないぞ」
「じゃあ……いいんだね!」
「別に用事があるってわけでもないしな。やってやるよ」
「やったあ!」
大きく両手を上げて喜ぶアルトに、テッドが硬水のビンを手渡してくる。
「よかったね」
「うん!」
「おじさんも、どうぞ」
水を受け取りながら、彼は少年に片手を上げてみせた。
「悪いな。アルトにばっかりかまってた挙げ句、おごってもらっちまって」
「いいんですよ」
自分のビンに呟くように、テッドは付け加えた。
「僕にできるのは、このくらいですから」
全員が水を飲み干してしまうと、ファルスは空の容器を受け取りながら尋ねた。
「いつから始める?」
「今からでも!」
「それはいいけど、しばらくは走り回るだけだぞ」
「うん!」
胸の奥にくすぐったいようなうずきがある。それが全身に広がって、期待と喜びの波に変わっていく。ただ走るだけじゃないんだ。走れば走るほど、空に近付いていく。
確かめるようにゆっくり大きく翼を広げると、仔竜は勢い良く緩衝器の周りを駆け出した。
それから、アルトの生活は今までと違うものになった。
朝起きだしてから食事をすませ、身仕度をすると真っすぐポートへと向かう。
準備運動を始める頃にはテッドが、緩衝器の周りを走っているところにファルスがやってくる。練習はファルスの提案もあって午前中で終わりになる。昼食の間は大抵、飛行についての疑問を解消する質問タイムになった。
「じゃあプネウマって、『ほこり取り』だったの!?」
「ああ。この星の火山から噴出する有害な粉塵を吸着する目的でな。その後、プネウマがこの星いっぱいに広がったとき、俺たちのご先祖様がもう一つの不思議な効果に気が付いたのさ」
目に見えない空気をつまむマネをして、アルトは関心したように頷いた。プネウマが散布されるまでドラゴンの飛行能力は限定されたもので、滑空すらままならない物だったらしい。
そんなちょっとした薀蓄が混ざるのもファルスの講義の面白いところだった。
「そういえば、何で先生たちは過電症のことに気がつかなかったんでしょうね?」
「珍しいからだよ。ドラゴン百万に対して、一人か二人いるかいないかって所だからな」
「でも、健康診断でもちょっと電気が多いくらいで異常なしだって言われたんだよ?」
自分の手ほどもあるハッシュポテトを飲み下して、ファルスは満足そうな吐息をついた。
「過電症はホルモンバランスの変化で電気量が変わるんだ。普段は平均値でも、興奮したり緊張したりすると倍近い発電量になるんだぜ」
解説するファルスの顔をアルトは感心して見つめた。まるで推理小説の探偵のように、自分の疑問を鮮やかに解決していく、その天啓のような言葉を聞きながら、ふと疑問がこぼれた。
「……でも、僕やおじさんの友達みたいに、そういうところを分かってもらえなかった竜は、どうしたんだろう……」
少し前まで現実だったかも知れない世界。誰一人分かってくれない苦しみを感じながら、絶望の中で空を諦めていったのか。締め付けられるような想像を、太い声がそっと救い上げた。
「免許取得センター、って知ってるよな」
「うん。車じゃなくて、航空免許のでしょ?」
「あそこには飛行機能を回復させるリハビリ施設が併設されている。怪我や病気で飛行に支障をきたした奴や、レッドカードを喰らいすぎた奴を、また飛べるようにサポートする所だ」
「レッドカード?」
なぜかその質問には答えず、ファルスは視線をあさっての方へ向けた。
「あそこなら専門的に『なぜ飛べないのか』を調べてくれるから、先天的異常でもなければ、必ず飛べるようになる。実は俺も、あいつを教える時、色々聞きにいったんだ」
「なら、アルトもその内、行ってたかもしれないんですね」
「そうだな。最近の仔竜には、アルトみたいな悩みを持ってるのも多いらしいから、飛行の授業が始まると免許センターに行かせる学校もあるらしい」
「で、レッドカードってなに?」
珍しく渋面を作って、太ったドラゴンは首筋を荒っぽく掻いた。
「ポートの長距離射出器を使用できる状態を『オールグリーン』て言うんだが、飛行前の翼面荷重検査で引っ掛かると、使用が制限される」
「翼面荷重?」
「そいつの翼が、どれだけの重さに耐えられるかって目安だ。安全域を超えた重量物を所有した奴は射出器はもちろん、中階層や低階層でも飛ばせてもらえないことがある」
ふと、仔竜はある事実に気が付き、口元に意地悪い笑みを浮かべた。
「ってことはさ、取り外しのきかない重量物を付けてる竜は?」
「……程度にもよるが」
わざとらしく咳払いをして、ファルスはアルトを一睨みした。
「そういう理由で射出器や中階層の使用禁止になった奴には『イエローカード』、ポートの全面使用禁止になった奴には『レッドカード』が自宅に郵送される」
「そうすると、どうなるの?」
「イエローなら五枚、レッドなら二枚で免許停止。一年以内にセンターで機能回復訓練を受けて、認可されないと免許取り消しになる」
「じゃあ、おじさんは?」
その質問に至って、太ったドラゴンは怒りと笑みをないまぜにした顔を仔竜に接近させた。
「そういうこと言いやがるのは、この口かぁ!?」
「ふひゃひゃ、あひゃ、ごえん、ごえんなはぁい!」
顎の上下が掴まれて、思いっきり広げられる。必死になって、アルトは弁解を繰り返した。
「ったく、お前も相当に性格悪いな。見れば分かるだろうが、そんなの」
「ごめんなさぁい……」
「でも……もったいないですよ」
遠慮がちに、テッドが声を掛ける。
「ファルスさん、飛行はかなりうまかったんでしょう?」
「昔の話さ。俺としては、もう空に未練はない」
「なんか、残念だな」
顎からの鈍い痛みを感じながら、仔竜は悄然と呟いた。
「僕が飛べるようになってもさ、おじさんは飛べないんだよね」
「飛べないんじゃなくて、飛ぶ気がないんだ」
「でも僕、おじさんと一緒に飛んでみたかったな」
アルトの一言を受けて、ファルスの手がいつものように頭に乗せられた。
「悪いな、期待に添えなくて。その代わりしっかり指導してやるから俺の分まで飛んでこい」
「……うん」
やさしく撫でる手つき。だが、その中に小さな震えのようなものを、アルトは感じたような気がした。