5導き手(その一)
緑のトンネルを抜けて、アルトは辺りを見回した。
いつも通り大きな姿が居心地悪そうに緩衝器に座り込み、彼方を見つめながら手にした袋から輪型の物を取り出しては口に運んでいる。
だが、アルトの青い足は、その姿を見た途端にその場に張り付いてしまった。
「どうしたの? おじさん居なかった?」
「う、ううん」
自分がかすかに震えているのが分かる。今まで分からなかった、飛べない理由が分かる。そのことへの期待と不安。もし成長期のせい、なんて言葉が飛び出てきたらどうしよう。それとも、絶対に自分が飛べないとか。あるいは、何か特別な機械か何かを使わないとダメ、とか。
そんな妄想を頭を振って追い払うと、仔竜は彼の所へ歩み寄った。
「来たよ! おじさん!」
「おう」
はまっていた体を引き抜くと、ファルスは伸びをしてあいさつを返した。
「ところでお前ら、メシは食ったか?」
「まだだよ。お弁当は持ってきたけど」
「僕もです」
差し入れられた大きな手が袋から二種類の輪を取り出した。
「ベーグルとドーナツ、どっちが食いたい?」
「そんなことはいいから教えてよ! どうして僕が飛べないのか!」
「そう慌てなさんな」
受け取られなかった輪を二つとも口に収めてしまうと、ファルスは近くにおいてあったジュースのビンを拾い上げて飲み下した。
「一応、確認しておくが、耳や角の病気をしたことはあるか?」
「……ないけど、なんで?」
「その辺りに障害があっても飛べなくなるんでな、念のためさ。で、ここからが本題。多分、お前は『過電症』だ」
「……かでん、しょう?」
耳慣れない言葉に首をかしげたアルトに、ファルスはのそのそと近づいてきた。
「テッド、アルトの尻尾を直に触れずに持ち上げてくれ。適当な棒かなにかで、地面に接地しないようにな。アルト、俺がいいって言うまで翼を広げたり閉じたりしてみろ」
不思議な指示に首をかしげながらも、二人は言われたとおりに行動した。尻尾が持ち上げられた状態で、翼を開いたり閉じたりすると、
「いたぁっ!?」
突然、翼の間に静電気が生み出した痛みと痺れが走り、仔竜は顔をしかめてうずくまった。
「アルト!?」
「やっぱりな。その反応が出るって事は、ほぼ間違いなく過電症だ」
「ど、どういう、こと?」
「ドラゴンの翼には弱い静電気が通ってるのは知ってるか?」
ファルスの問いかけに、以前保健室で聞いた話が脳裏に蘇る。頷くと、彼はテッドに尻尾を下ろさせて話を続けた。
「俺達の翼は、この翼肢や皮膜の間に通っている梁骨やその周りの腱にある発電細胞から、微弱な静電気を発している。そして、その電気によってプネウマを集め、飛行の助けにしている」
太い指がアルトの翼の腕に似た部分と、翼の間を通る骨をたどる。くすぐったさに身をよじらせたアルトを横目で見ながらテッドが問いかけた。
「プネウマって……なんですか?」
「そいつは後で説明するよ。ま、とにかく、翼に電気が流れているドラゴンはプネウマが集まるから空を飛びやすい、ここまではいいな?」
「うん」
「だが、プネウマが大量に翼に付いたドラゴンは逆に全く飛べなくなる。アルト、お前みたいにな」
相手の言葉に頷いていた二人の子供は、一斉に首をかしげた。
「それっておかしくない? プネウマが付くと飛べるんだよね?」
「いっぱい付けたほうがいいんじゃないですか?」
「ま、そう考えるのが普通かもな。だが、プネウマってのは別に体を軽くしたりするような物質じゃない。ある条件で働くものなんだ」
彼はさっきアルトの尻尾を持ち上げるのに使っていた枝を広い、地面に妙な図形を書いた。
「なんですか、これ?」
「翼の断面図、俺やアルトの翼を横から見た形だ」
半月になった月のような図形。だが、中央にあるはずの膨らみが左側によっているため、いびつな形になっていた。
「俺たちドラゴンだけじゃなく、空を飛ぶ生きものは大抵、翼がこういう形になってる」
言いながら、ファルスはいびつな半月の上と下の部分に、図形にそって左から右に流れる、長い矢印を描きそえた。
「この線が、翼に風がぶつかってできる流れだ。この時、上の部分の風の気圧が低くなって、下の部分は気圧が高くなる」
「どうしてそうなるんですか?」
「その辺りの原理を説明するには、ハイスクールの物理学を解説しなきゃならないんでな。今は、翼がこういう形で空気の中を通ると、上下の圧力の差が出る、って覚えておいてくれ」
難しくなってきた話に何とかついていこうと、アルトは地面の図を見つめた。
「空気の粒には、密度の高いところから低いところに移動する性質がある。その移動する力が強いと、周囲にあるものが空気と一緒に移動する。この図の場合は下よりも上のほうの空気の密度が低くなるから、空気は上に向かって移動しようとする。そうすると翼はどうなる?」
「……一緒に上に移動する?」
「そうだ。その動きが『揚力』なんだ。揚力が働くことにとって、俺達は飛ぶことができる」
アルトはふと、ファルスの顔を見た。普段のふやけた食いしん坊の姿はどこにもない、真剣な表情が全く別人のような雰囲気を漂わせている。
「ところで、プネウマのことは?」
「ああ。これから説明する」
今度は翼の断面図を囲うように小さな点がいくつも打たれていく。やがて、その点は翼の周りを被って一回り大きな翼を図形を作り出した。
「この小さな点がプネウマだ。プネウマは翼の潤滑剤、いわば空気のすべりを良くするオイルみたいなものなんだ」
「空気のすべりを良くする?」
「摩擦係数……いや、えーと……そうだな。机や棚を動かすとき、車輪が付いてないのは動かしにくいだろ?」
「……プネウマが翼についてると、さっきの空気の流れが、もっとよく流れるようになるってことかな?」
アルトの言葉にファルスはほっとした顔で頷いた。
「そう言うことだ。だが、プネウマはいつも薄く張り付いているだけじゃない。翼に流れる電流が多くなると……」
ファルスの持った枝がプネウマの粒を増やしていく。あっという間に半月型の図形はいびつに膨らんだ洋ナシのようになった。
「うわぁ……」
「こんな状態じゃ、飛べないですよね」
「そうだ。つまり、アルトの翼には電流が流れすぎてプネウマが大量に付着し、形成している翼面が正しい形にならないんだ。ちなみに、さっきの翼をバタバタさせたやつ、あれは普通のドラゴンがやってもほとんど静電気は起こらないぜ」
仔竜はしげしげと図形を見つめ、それから自分の翼をそっと指でつまむ。
「理屈は分かった、気がするけどさ。でもどうしたらいいの?」
「静電気をコントロールする方法とかあるんですか?」
「うん。それにもちゃんと答えがあるんだが、ちょっとタイム」
脂肪でむっちりと膨れた手が、紙袋から粉砂糖をたっぷりまぶしたドーナツを取り出した。
「続きは昼飯の後でな、説明しすぎて腹減っちまったよ」
「……おじさん」
「お前らもなんか食っとけ。腹減るぞ?」
がつがつとドーナツを食い散らかす姿。さっきまでの真剣さを吹き飛ばすような食いっぷりに、アルトはそっとため息をついた。




