3、ゴマメノハギシリ(その一)
うっかり取りこぼさないよう、足でゆっくりとボールを右足でキープすると、アルトは目の前に立ちはだかる丸い体に向き直った。
「いくよ、おじさん」
「ち……ちょ、ちょっと待て」
太ったドラゴンは仔竜の足で十歩ぐらいの距離にいる。その背中にある骨組みだけのサッカーゴールはさらに十歩ぐらい離れた場所だ。じわじわと湧いてくる汗をぬぐいながらファルスの隙を覗うためにじっと観察する。
「さ、さっきから肺が、痛くて、頼むから、あと十秒、動くな」
「どーしようかなー」
全身を波打たせるように荒い息をつく太った体。全身汗だくになりながら、それでもこちらの動きに敏感に反応してくる。アルトはキープしていたボールから足を離して、すばやくつま先で蹴りだした。
「こなくそっ」
体型からは想像もつかないほどのすばやさでファルスが突進してくる。それを大きくかわしながら、アルトの体が半回転してシュートの体勢に入る。
鞭のようにしなった仔竜の尻尾がボールに叩きつけられるのと、太った体が横っ飛びにその軌道を塞いだのがほぼ同時。そして、弾力のある物体が肉に叩きつけられる鈍い音もまた、同時に炸裂した。
「ぐぇ……」
強烈なシュートを腹で跳ね返したファルスは、残っていた酸素を肺からすべて吐き出して、その場に悶絶した。
「だ、大丈夫!?」
「……う……うごくなって……いったろ」
「ご……ごめん」
それからしばらくの間、アルトは脂汗を流しながら、病人みたいなか細い息を繰り返すデブドラゴンを介抱する羽目になった。
「予定では、もうちょっと持つはずだったんだけどなぁ」
手にした硬水のビンを口に当てると、栓抜きも使わずにファルスは器用に歯で金属の栓をむしり取った。
「ほれ」
「ありがと。……ほんとに大丈夫?」
「なんとかな。これからは激しいスポーツは控えることにするさ」
「ダイエットすればいいのに」
「腹減るから却下。それにしてもアルト、運動音痴って割には割と動けるんだな」
「空以外でならね」
自嘲気味に吐き出した言葉に、太ったドラゴンがつられて爆笑する。ただ、その笑いは学校で聞くものとはまったく別物だった。からかわれているのには違いないが、不快になるどころか心地よさすら感じる。
(どうしてなんだろう?)
気が付けば二週間近く、アルトはファルスと過ごしている。学校に練習に行くといってそのまま着陸場へ行き、学校でのできごとやファルスの飛べなかった友人の近況など、他愛の無いことを話して時間を潰していた。
今日はたまたま、着陸場の整備点検があったため、公園のはずれにある人気の無いフットサル場に行き――コートの隅に転がっていたボールにファルスが興味を惹かれて――軽く運動することになったわけだ。
「なんだ、もう一本ほしいのか?」
じっと見つめていた視線に気が付いて、ファルスが声をかけてくる。あわてて手にしていた分を飲んでしまうと、開けてくれた次のビンを受け取る。
たぶん、似ているからだろう。理由をあれこれ考えて仔竜はそう結論づけた。
運動神経が鈍くて、空を飛べない仔竜。
太りすぎて、空を諦めてしまった成竜。
飛べないもの同士だからこそ身構えて話す必要はないし、なによりファルスはアルト以上に飛べない仔竜を知っている。彼の友人の話を失敗談を聞くたびに、悪いとは思いながらも自分の惨めなコンプレックスが慰められる気がしていた。
「さて、と。お前、昼飯は?」
飲み干したビンを片付けながら、太ったドラゴンはいつも通りの質問を投げてきた。
「持ってきた。おじさんは?」
「ん~、そうだなあ……昨日はホットドッグだったから、今日は鳥かな?」
「やった! 出店のスパイシーチキン、おいしいんだよね」
アルトが嬌声を上げると、太い指が仔竜の眉間を軽く弾いた。
「毎回たかってきやがって。夏休み終わる頃には、俺みたいな体型になってるぞ」
「平気だよ、育ち盛りだもん。それに、おじさんのダイエットにもなるでしょ?」
「言ってろよ。んじゃ、ちょっと行ってくる」
バケツを片手に去っていく後ろ姿を見送り、アルトは景色のすべてが目に映るのに任せた。
五面のフットサルコートには自分以外誰もいない。茂る木々の向こうに、そびえ建つポートと飛びかっていくドラゴンたちの姿が見える。
だが、いつもなら湧いてくるはずの焦げ付くような憧れは、今は奇妙なほど遠かった。
『で、こっそり忍び込んだのはいいんだけど、夜勤の職員に見つかって、ポートからつまみ出されちまったんだ。泣きわめくあいつを連れて帰るの、ホント大変だったよ』
『本気でカタパルトに乗るつもりだったの!?』
『ああ。あそこから打ち出してもらえば、ドラゴンの本能が目覚めるんじゃないかって、えらい真剣だったぜ』
以前聞いた話を思い出し、思わず口元がにやける。まだ実物を見たことはないが、近いうちに会わせてくれるとファルスは言っていた。もしかしたら、そのときに飛ぶコツを教えてもらえるかもしれない。
(そうしたら、もう下級生に混じって練習しなくてもいいんだ)
恥ずかしい思いも、同級生の失笑ももうすぐ終わる。知らないうちに仔竜のにやけ顔は満面の笑みに変わっていた。
「何やってるの、アルト」
「うわっ!?」
突然掛けられた一言に、妄想に浸りきっていた仔竜は現実に引き戻された。
「……こんな所にいたんだ」
「テ、テッド!?」
いつの間にか背後に立っていた少年は、表情を曇らせてこちらを見つめている。
「ど、どうしたのさ、一体」
「それは僕の台詞だよ。君は今、学校で練習の最中じゃないの?」
「もう、お昼の時間だよ? 練習なんてとっくに……」
「朝から学校で待ってたけど、君は来なかった」
顔を強ばらせたまま、テッドは目の前まで歩み寄ってきた。
「先生から聞いたよ。練習にこなくなって、もう二週間になるって」
「そ、それは……」
「大変なのは分かるけど、ちゃんと出ないと駄目じゃないか」
噛んで含めるような物言いと、真剣な眼差し。居心地の悪さにアルトは視線をさ迷わせた。
「ここで何してたの? 君一人だけ?」
「前に話しただろ、ファルスっていうおじさんと一緒だったんだ」
「誰と遊んでもいいけど、練習終わってからだって……」
「そんなこと……」
胸の奥で、鈍い怒りがもぞりと動いた。
「そんなこと! 言われなくてもわかってるよ!」
仔竜の絶叫に、テッドの顔が驚きに歪む。後悔がわずかに浮かんだが、憤りが溶岩のように理性を押しながした。
「僕だって、僕だってやろうと思ってる! でも、どうしたらいいんだよ!?」
「アルト……」
「先生の言うとおりにやってるのに、それでもできないときはどうしたらいいんだよ!」
「それは……」
「なーに叫んでんだ、まったく」
両腕にチキンの入った紙のケースを抱えて、ファルスがのんびりと声をかけてきた。
「なんだ、友達か?」
「……う、うん」
口篭もりながら、青い仔竜は二人の間で視線をさ迷わせた。
いつのまにか、少年は目の前の太ったドラゴンをにらみ据えていた。無言の圧力に、大きな体が思わず後ずさる。
「お、おい。俺、お前になにか悪いことしたか?」
「いいえ。別に」
「なら、にらむのは勘弁してくれよ」
顔を背けて視線を外したテッドに、ファルスは肩をすくめてみせた。
「とにかく、昼飯にしよう。腹減ると怒りっぽくなるもんだし。そっちの……」
「テッドです。テオドア・グエン」
「よかったら一緒に食わないか?」
「結構です」
いつになく冷淡な発言に、アルトの内に鈍い怒りが再び持ち上がってきた。
「なんだよ、その言い方。おじさんに悪いだろ」
「もうお昼ご飯食べてきたんだ。僕はいらない」
「なら! そんな怒ったように言わなくてもいいじゃないか!」
「もう止めろ」
ファルスは二人の間に体を割り込ませた。
「俺は気にしてないから、喧嘩なんかすんな。いらないってんなら、それでいいさ」
「でも……」
「テッド君も、それでいいよな」
反論しようと口を開きかけ、やがて少年は諦めたようにため息をついた。
「はい……。どうもすみませんでした」
「気にすんなって。んじゃ食おうか」
芝生の上に広げられた箱からいい匂いが漂ってくる。いつものように、両手掴みでチキンを頬張るファルスを横目に、アルトは離れて座っていた少年に声をかけた。
「そんな所にいないで、こっちにくれば?」
「……うん」
傍らの壮絶な食事の様子に、毒気を抜かれたような顔でテッドがささやく。
「いつもこんな調子なの?」
「まあね。昨日なんて、ホットドック五十二個食べてたよ」
「うわぁ……」
「お前に食われた分を入れれば、本当は五十五個だったんだがな」
ソーダで口の中のものを飲み下して、ファルスは揶揄するように頬を緩めた。
「しかも自分の弁当を食ってからだぞ?」
「本当ですか!?」
「しかたないよ」
心底驚いたようなテッドの表情に、アルトは満面に笑みを浮かべた。
「こんな大食いのおじさんと一緒じゃ、影響されるってば」
「また俺のせいかよ。夏休み終わる頃に丸々になってもしらねえぞ」
「だーいじょうぶ、家に帰ったときは……」
その時、テッドの顔に浮かんだ表情が、仔竜の言葉をさえぎった。
困ったように軽くうつむけた顔と、わずかに開かれた口元。今まで感じたことのない距離感のようなものが、目の前に横たわったような気がした。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
苦い笑いを浮かべると、表情を消してテッドが黙り込む。
見知っているはずの少年の言いようのない異変。だが、その根源が自分のさぼりやファルスの存在にあることが分かる程度で、その奥にあるものは少しもわからなかった。
「そういえば、テッド君」
「テッドでいいですよ」
両手についた油を惜しそうになめ取りながら、ファルスは尋ねた。
「んじゃテッド、今日はなにか用があってきたんじゃないのか」
「え?」
「それとも、アルトに練習へ戻るように説得しにきただけか?」
そこでようやく、少年の表情が和らいだ。背負っていたザックを下ろして、中身を探りはじめる。
「ほら、これ」
「ああっ!」
手の平と同じくらいの小さな包み。密封されたそれの表面には、飛翔するブレイズのプレイヤーが映り込んでいる。
「昨日、アルマーの店に入ったんだよ」
「まだ置いてあるかな!?」
「うん。よその在庫処理で放出されたのが、かなり入ってきてるから」
「なんだなんだ? 俺にも見せてみろ……」
そう言って、背中越しにアルトの手にしたものをファルスが覗き込んでくる。
ほんのわずかな一時、彼の動きが止まった、ような気がした。
「……おじさん?」
「ん? ああ。久しぶりなんでな、つい見とれちまった」
覗き込んでいた顔を起こすと、ファルスは朗らかに笑った。
「ブレイズのトレーディングカードか。なつかしいねぇ」
「おじさんも集めてた?」
「割りとな。好きなプレイヤーのばっかりだったけどな」
「どんなプレイヤーが好きでした?」
テッドが再びザックをまさぐると、今度は大きめのカードファイルが取り出されてくる。
「俺の子供の頃の話だぞ? 言ってもわからないだろ」
「大丈夫だよ。テッドは昔のプレイヤーの事もよく知ってるんだ。ね?」
照れ臭そうに鼻の頭をかきながら、少年は頷いてみせた。
「……ジョシュア・マイクロフトって知ってるか?」
「知ってるも何も、それって『炎帝』の事じゃないですか!」
手早くめくられた透明なシートの中から、示される一枚のカード。そこにはオレンジ色のスーツに身を包んだ、黒灰色の肌のドラゴンが映し出されていた。
「ジョシュア・マイクロフト。四十七戦三十二勝、個別総合優勝四回……史上、九番目の『シルフィード』達成者」
「シルフィード?」
「個別総合優勝を四回やった者に送られる称号だ。一度目がノーム、二度目がウンディーネ、三度目がサラマンダー……」
半ばファルスを押し退けるように、身を乗り出してテッドが説明を引き継いだ。
「ジョシュア・マイクロフトは、それをデビューしてたった四年でやったんだ。史上最短のシルフィード達成……『熾光』エドガー・メネトアが九年、『嵐の乗り手』ルドルフ・エッフェンベルクが七年、『雷光』マリウス・ウォーベンが五年だから……」
「まさに最速、ってわけさ」
語り手たちのあまりの熱の入り様に、仔竜は呆れて深い嘆息を洩らした。
「でも、総合優勝したときにそんな称号、言ってたっけ?」
「最近はチーム優勝を狙うのが主流だからな、個別優勝の称号を競ったのは昔の話。それに、有力なプレイヤーなら『ウンディーネ』くらいは取ってるもんだぜ」
「『サラマンダー』を超える者こそ、真のプレイヤー。そして『風』を司る者なり」
少年は厳かにその言葉を暗唱し、意外そうに太ったドラゴンは目をしばたかせた。
「初代シルフィード、ガイウス・フェルディナントの言葉か」
「サラマンダー・ブレイズ、つまり火の精霊の息吹を手なずけるものがその向こうにある風、『シルフィード』を掴めるってことなんだって」
「……一つ、聞きたいことがあるんだけど」
アルトは右手を上げて、胸に浮かんだ疑問を口にした。
「そのジョシュアってドラゴン、今はどうしてるの? そんなに有名なプレイヤーなら解説者になったり、チームの監督になっててもいいはずじゃない」
「死んだんだよ。事故でな」
ファルスの発言に、テッドがつられて目をつぶる。
「炎帝って称号は、彼がスポットの威力を引き出すために、危険域ぎりぎりの飛行をする姿に付けられたんだけど、そのせいで彼の肺には悪性の腫瘍ができていたんだ」
「シルフィードを取ってからわずか一年後、ジョシュアは出場したレースで……」
「……ジェット・スポットに墜落して、焼死したんだ」
ジェット・スポットに墜落。
仔竜は唾を飲み込んで、胸の内からのしかかってくる圧力に耐えた。
「公式には、鎮痛剤に用いていたモルヒネの過剰投与による、感覚喪失が原因だって言ってるが……」
「ファンの間では、覚悟の自殺だって……」
こちらの顔色に気が付いたのか、テッドは音がするほど勢い良くファイルを閉じた。
「ごめんね。変なこと聞かせちゃって」
「……暗い話になっちまったな。すまん」
「いいよ。僕が聞いたんだし」
済まなさそうな二人の表情に、仔竜はなんとか笑顔を作った。
「そういや、アルト」
「なに?」
「お前の一番好きなプレイヤーって、誰なんだ?」
その一言が、仔竜の心臓をどくりと波打たせた。突然の衝撃に、せっかく造り上げた笑顔の仮面がはがれ落ちそうになる。
「現役か? それとも……」
「もう行こうよ、アルト。カード無くなっちゃうよ」
「う、うん! じゃあ、おじさん、僕たちもう行くから」
「お……おう」
友人の助けをうけて何とか気持ちを立て直すと、アルトは荷物をまとめてその場から駆け出した。
「んじゃ、またね!」
不思議そうに立ち尽くすファルスにあいさつを送ると、傍らを走るテッドに頷いた。
「ありがと」
「うん」




