0、空を見た少年
アルト・ロフナーが彼と初めて出合ったのは、九歳の夏のことだ。
その時まで、アルトは自分が何であるかを知らなかった。
普通に学校に行き、普通に友達と遊んで、普通に日々を暮らす子供に過ぎなかった。
ライル・ディオス――彼と出会うまでは。
いつになく暑い日だった。
強烈な日差しが入り込み、観客席まで続く薄暗い通路も熱気が満ちていた。先を行く父親も水でもかぶったように汗まみれだ。
サウナ同然の空間を通り抜けると、目の前に広々とした空間が開けた。
緑に葺かれた芝生が、太陽を照り返して目に痛い。
観客席に日よけがあるのはプレミアムシートのエリアだけで、観客たちは帽子や日傘、タオルを頭に乗せて熱をさけていた。
クーラーボックスを抱えた売り子が、冷えたドリンクやアイスクリームを売り歩く声。
だが、アルトの視線は、目の前に現れた景色に釘付けだった。
だ円に囲われたフェンスの内側に、天を突くようなポールがそそり立っている。
いくつかのポールの間には、巨大な金属の箱のようなものがあり、周囲の空気がゆらゆらと揺らめいていた。
アルトから見て正面には巨大なスクリーンがあり、その左端のほうに、金属の枠組みがむき出しになった塔のようなものがある。
地面に道路らしいものはなく、片隅に救急車と消防車がが数台止まっているのみ。
それでもここは『サーキット』なのだ。
『お客様にお知らせします。まもなく、ブレイズセレモニーを開始します。セレモニー中の移動、フェンスに近接しての撮影は、行わないでください』
場内に響くアナウンスと共に、それまで雑談していた大人も、はしゃいでいた子供も、物売りの人々さえも、目の前の空間に注目する。
トランペットの音が、蒸した空気に響き渡る。
高まるファンファーレにかぶせるように、低い唸りが重なっていく。
それは地の底からほとばしる声。
金属の箱たちが震え、上部の空気が激しく揺らめいていく。
『ジェットスポット……点火、噴流開放カウントダウンスタート……十……九……八』
アナウンスに反応して、人々が立ち上がる。
口々に声をあげ、拳を突き上げ、あるいは翼を広げる。
その熱に押されて、アルトはわけも分からず、片手を突き上げた。
『四……三……二……一……Blow Out!』
どん、という音が腹の中に突き刺さり、金属の箱が咆哮した。
真っ赤な炎が吹き上がり、青空と世界を染め上げていく。
荒れ狂う火柱に人々が叫び、咆哮に負けないほどの拍手や足踏みで耳が痛くなるほどだ。
『"火竜の息吹よ、空往く者に誉れを"……お待たせしました。これよりSBWC第七戦を開催します!』
宣言と同時に炎が姿を消し、入れ替わるように巨大モニターが光をともす。
そこに映し出された姿に、アルトは目を奪われた。
すらりと背の高い、一人のドラゴン。
濃く深い青の肌、銀色の髪からのぞく二本の黒い角。鋭く伸びたマズルは、厳しい目つきとあいまって、意志の強さを感じさせた。
身につけた飛甲服に包まれていてもわかる、鍛えられた体。しなやかな尾はゆるゆると、調子を確かめるように動いている。
そして、背中に備わった翼を広げたとき、アルトは思わず息を呑んだ。
全身を隠せるほどの大きさ、傷も歪みもない見事な形は、飛ぶものなら誰でもあこがれるような均整を備えていた。
『シエル・エアリアル、ライル・ディオス。前回のイズモでは惜しくも四位という成績に終わりましたが、このメルカルートで雪辱なるか』
「ライル……」
初めて口にする名前、染み込んでいく感慨を味わう間に、画面の中の選手たちが、開け放たれた出口へと並んでいく。
空へと向けて開け放たれた門。階段状に描かれた白黒のラインに、それぞれが配置についていく。ライルは、右から四番目だ。
『スタート五秒前……』
選手たちの視線の先、横五列に並んだ赤いライトが、端から順に消えていく。
四、三、二、一。
そしてアルトは、それを見た。
進み出る色とりどりの竜たちをすり抜け、いち早く躍り出た姿を。
何の支えもない空へ、ためらいも恐れもなく飛び込む。
力もなくさし伸ばされた翼がきれいな十字形を構築し、風を切って飛び進んだ。
客席が一瞬静まり、歓声で沸き返る。
追いすがる者を振り返りもせず、目の前のポールを目指すライル。
その中央に陣取った箱を通り過ぎた彼の体が、勢い良く上空へと跳ね上がる。
吹き上がる噴流に押し上げられ、青い十字がどこまでも高く、誰よりも加速していく。その軌跡は緩やかな弧を描きながら、青空を切り取るナイフのようだ。
そして頂点に達した姿が、急激に落下する。
加速し、まっしぐらに地面を目指す体。それでも姿勢を起こし、驚くようなスピードを維持しながら水平になり、新たなポールを目指していく。
サラマンダー・ブレイズ。
もっとも危険で過酷と言われる、ドラゴンたちのレース。
その名前の意味を、アルトはその時初めて理解した。
日暮れ、帰り道を行くころには、ザックはすっかり膨れ上がっていた。
パンフレット、会場限定のグッズ、トレーディングカードの箱、誕生日のプレゼントでもこんなにもらったことはないくらいの大荷物だ。
「楽しかったか?」
返事につまり、アルトはただ頷くしかなかった。
当たり前の言葉では、とても言い表せそうにない気持ち。
「……おとうさん、僕も、なれるかな」
代わりに出たのは、思いがけない一言だった。
ブレイズのプレイヤーになりたい。
なにより、ライルのように。
「なれるさ。だってお前には――」
父親は軽く頭をなで、それからアルトの背中に備わったそれを、軽く叩いた。
「――こんな立派な翼が、付いているんだからな」
祭りの終わりに沈みかけていた心が、沸き立った。
レースを見ていたときよりも、ずっと強く。
サラマンダー・ブレイズのプレイヤーになること。
それがドラゴンの少年、アルト・ロフナーの、初めての願いになった。