六、恋を知った人魚姫
前回の続きです。
すみません、一度間違えて投稿しておりました。大変失礼を致しました。
エーデリスの旋律が途切れ長いように感じた時間にも終わりが訪れる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
本当に、お礼を言うのは自分の方だ。この穏やかな時間はエーデリスに安らぎを与えてくれた。忘れかけていた心を取り戻すことができたのだから。
「素敵な歌だね。心があったかくなる」
「あ……ありがとう!」
今度はちゃんとお礼を言えた。ぎこちなさは残っているけれどエーデリスにすれば及第点だ。
「君は海の女神?」
「海の女神?」
初めて聞く名称に首をかしげる。
「知らない? 海には女神がいてこの国を守っているって、そういう伝説。彼女は海に生き、とても歌が上手いと聞いたから君のようだと思って」
「アルグレンテでは聞いたことがないわ」
「それが君の国?」
「あ……」
ほんの少し前まではそうだった。けれどもう祖国と呼んでいいのかさえわからないのだ。
「……とにかく、海の女神というのは私のことじゃないわ」
詳しくはわからないが、国を守っているのだからきっと追放者とは真逆のような存在だろう。人違いということだけは確信できる。
「そっか。良かった。女神じゃないんだ」
「良かったの?」
わけがわからない。女神を探していたのではないのか。
「うん。だって、女神様みたいに遠い存在じゃなければまた会えるだろ」
「貴方、私とまた会いたいの?」
さすがに正気か、とまでは言わないけれど。
「うん、会いたい。俺はディルク。ねえ、今度また歌ってよ」
突然のことに喉が震えた。どう答えればいいのか、でも、そう――彼は名乗ってくれたのだからまずは決まっている。
「……私、エーデリスよ。喜んで」
小さな約束をした。けれどその小さな約束はエーデリスに笑顔を思い出させた。心からの笑顔も、静かに流された涙の尊さも彼女しか知ることはない。
次の日も、その次の日も、エーデリスは洞窟に向かった。行く当てのないエーデリスはただ彼を、ディルクを待ち続けていた。それ以外にしたいことも、することもない。帰る場所さえ失ったばかりだ。
エーデリスにとってディルクは太陽のような存在だった。彼が洞窟の入り口から光を背負って現れるから、という理由だけではなくて。うっすらと暗闇に浮かぶオレンジ色の髪は本当に太陽のようだった。
エーデリスが望めばディルクは陸の様子を教えてくれた。きっと世間知らずだと思われただろうに、彼が無知を馬鹿にすることはない。
エーデリスが彼について知っていることは名前と、自分より五つ年上の十五歳であるということ。そして彼が窮屈さに耐えかねてここを訪れていること。少し寂しくも感じるけれどこれでいい。知ることは知られることだ。深く踏み込み自らの正体を知られることを恐れていた。互いの姿も立場も境遇さえも知りえない関係の方が都合がいい。
でもある時、ディルクから尋ねられた。
「どうしてエーデリスはいつも隠れているんだ?」
気になるのならほんの少し進むだけで答えは目の前にある。けれどディルクが境界線を越えることはない。その誠実さがエーデリスには好ましかった。咎める人間もいないというのに彼はどこまでもエーデリスに正直で、彼になら話してもいいと思えた。
「私、醜いから。自分の姿が嫌いなの。きっとディルクも幻滅すると思うわ」
「そんなに綺麗な髪をしているのに?」
洞窟の奥にいるエーデリスの方が有利とはいえ浮かび上がる黒髪は認識できるのだろう。
「私の……。私がいた国では黒は嫌われ者よ。国を呑みこむ不吉の象徴。この洞窟のように、暗く怖ろしいと言われているわ」
「確かに俺の国でも珍しい色だけど、普通に綺麗だと思うよ」
「綺麗?」
この色が? 闇のようなすべてを呑みこむ色が? ディルクは綺麗と、そう言った?
「うん」
躊躇いのない返答にエーデリスが狼狽える。ディルクの言葉はまっすぐで、とても嘘とは思えなかった。
「……でも私、やっぱりこの色は嫌いよ」
消え入りそうな呟きはいつまでもエーデリスの耳にこびりつく。きっとディルクにもどうしようもない根暗だと呆れられたはずだ。
すると次の日、ディルクはエーデリスの卑屈を呑みこむほどの勢いで訪れた。
「今日はエーデリスにプレゼントがあるんだ」
何かの記念日だと話した覚えはなのでエーデリスは不思議に思う。仮に貰ったところで何も返すことができないのにどうしてだろう。
「えっと、リボンなんだけど、よかったらどうかな。俺には必要のない物だし、エーデリスの綺麗な髪に似合うと思って!」
「あ……」
昨日の発言を後悔した。どうして思い至らなかったのか、ディルクは優しいから余計な気遣いをさせてしまった。本当に情けない自分が嫌いだ。
「それじゃあここに置いておくから」
「待って!」
あまりにも来たばかり、帰るには早すぎる頃合いだ。ここにいては姿を見られたくないエーデリスがリボンを受け取れないと身を引くつもりなのだろう。
「どうしたの?」
本当にどうしてしまったのか。ディルクがいぶかしむのは当然なのだが、肝心の呼び止めた方も困惑している。しばらくは「あの」とか「その」とか狼狽えていたが、ついにエーデリスは決意を固めた。
「私リボンなんてつけたことがないから、ちゃんと結べるかわからないし、似合うかもわからないわ。だから結んでもらえたら助かると思って……」
沈黙が訪れる。ディルクとなら静寂さえ苦にはならないけれど、今日ばかりは緊張した。
「いいの?」
選ぶ権利はエーデリスにあるのだと、まだ引き返すことができるのだと言われている。けれど最初から答えは決まっていた。
「……お願いできる?」
この優しい人に何かを返したいと思った。
「喜んで」
とても嬉しそうな了承の後、一歩、また一歩――彼が近づいてくる。
エーデリスは顔を上げ到着を待った。ディルクなら、そこにいるのがどんな存在でも受け入れてくれると信じていた。
やがて視線が交わる時が訪れる。驚きに見開かれた瞳は碧色をしていた。オレンジ色の髪は近くで見るとエーデリスの想像より眩しく感じた。
彼は鱗に覆われたエーデリスの足を見ていた。その手には赤いリボンがしっかりと握られている。
「うん、やっぱり綺麗だ」
また、何でもないことのように褒められた。もしかしたら最初から人間でない可能性に気付いていたのかもしれない。でなければ悠長に「髪型はどうしようか? 一応二本あるんだけど」などと言えるはずがない。
すっかり乾ききったエーデリスの髪にディルクの指先が触れる。そこでようやくエーデリスは少年とはいえ異性に何を頼んでいるのかと己の失態に気付かされた。ディルクの手が髪を梳くたびに全身が熱を持つ。しかもリボンは二本。つまり二回も耐えなければならないということだ。
「似合うよ」
たった一言でエーデリスは鳥のように空が飛べるのではないかと思った。
リボンは顔の両サイドにそれぞれ結ばれることになった。少し子どもっぽいかもしれないがディルクが似合うと言うのならきっと似合っている。他に見せる相手もいないのだから彼の望む姿であればいい。
本日の連続更新はここまでとなります。お付き合いありがとうございました。