五、優しさに触れた人魚姫
海の魔女を訪ねる数日前、追放された直後のお話。
楽園には幸せしか存在しない。悲しみも、苦しみも、全部海に溶けてしまう。朧げな記憶の中で母が教えてくれたことだ。優しく穏やかな人だった。大好きな人を否定したくはないけれど、エーデリスは心の底から呟かずにはいられない。
「嘘つき」
ならどうして、自分は目の前に広がる煌びやかな世界を外から眺めているの? どうしてつい先ほどまで故郷だったはずの国から捨てられているの?
吐き出した溜息は泡となり消える。いっそ自分もこの泡のように消えてしまえたら惨めで哀れなこの身を顧みることもなくなるのに。
偽りの楽園に背を向け、どれほど泳ぎ進んだのかは覚えていない。ただ遠くへ――ひたすらそれだけを願って泳ぎ続けた。
こんな姿、誰にも見られたくない。小さな魚の視線さえ怖くてたまらない。こそこそと笑われているに決まっている。自分以外のものは全て敵、何もかもが怖くてたまらない。
海の底にはエーデリスが心から安らげる場所は存在しなかった。ならばとエーデリスは禁忌を思い浮かべる。
海の外を目指せばいい。
楽園にいた頃は考えもしなかった。陸は怖ろしいところ。憧れるなんて愚かな真似はおやめなさいと人魚たちは口をそろえて言う。それは楽園では最大の禁忌とされていた。けれどもう、エーデリスは楽園の人魚ではない。何を躊躇う必要があるだろう。
エーデリスは薄暗い洞窟にいた。初めて肌に触れる風は心地良く、すり抜けるとどこかへ消えてしまう。そんな自由な様子がとても憎らく感じる。
「私はこんなにも柵に苦しめられているのに狡いわ」
今はどんなものさえ憎くてしかたがない。海の青はあの子を思い出させるし波は耳障り。太陽は海の向こうから昇るというけれどもう顔を出さなくていい。どうせ連れてくるのなら朝ではなく終わりがいい。
「こんな世界、なくなってしまえばいいのよ」
たとえ願ったところでエーデリスにできるのは歌うことだけだ。
何もかも終わるように歌おうか。こんな世界壊れてしまえばいい。
衝動のまま歌い上げた。
破滅を、亡びを、恨みを、悲しみを、苦しみを、悔しさ、憎悪――
エーデリスを取り巻くあらゆる感情が旋律に乗り広がる。
紡ぎ、歌い、願った――
「えっと、誰かいる?」
「きぁあああっ!?」
あと一節で完璧なものとなるはずだった。こんな、身体全体で飛び跳ね格好悪くも途切れる予定はなかった。邪魔をしたのは誰だと恨めしくも声がした方へと視線を向ける。エーデリスは陸に上がった魚のようにしばらく呼吸を忘れた。
「な、なっ――!」
流暢に歌を紡いでいたはずの口はろくに機能してくれない。
(なんで、どうして人間がいるの!?)
幸いこの洞窟は海へと続いている。エーデリスもそこから顔を出している状態だった。とにかく今は歌のことは後回し、人間から逃げることが先決だ。
「待って!」
慌てて飛び込もうとした体は条件反射で縫い付けられる。それはどう聞いても引き止めるための言葉だった。楽園を追放される時でさえかけられなかった言葉。だからつい、切迫する少年の声につい止まってしまう。望んでいても与えられなかったもの、ずっとほしかったものだから。
「お願いだ。逃げないで!」
切実さを秘めた叫びはエーデリスを躊躇わせる。
「近づかれたくないのならこれ以上そばには行かない。絶対!」
振り向けば大きな岩に遮られ互いの姿は見えていなかった。おそらく声がしたので人がいると思ったのだろう。その言葉通り、彼は一歩たりとも近づこうとはしない。
「私に何か……文句でもあるの?」
ぎこちなくも会話を試みる。呼び止められたからには何かあるはずで、その理由を知りたいと思った。それにしても真っ先に浮かぶのがこの発想とは卑屈で嫌になる。
「文句? まさか!」
声を聞いただけでもエーデリスとは正反対の明るさを感じさせた。
「素敵な歌で驚いただけ。どこか悲しげだけど、でも綺麗で。もっと聴いていたくなる不思議な魅力を感じた」
「あ、ありがとう……?」
おそらく褒められているのだろうけれど、慣れていないのでどう反応すればいいかわからない。
「よければ続き、聴かせてくれないかな」
「……歌を?」
「うん。聴かせてほしい」
「私の歌、聴きたいの?」
「お願いできるなら」
彼は人間、でもそんなことどうでもよかった。だって彼はエーデリスという存在を望んでくれた。
お互いの間には大きな岩がある。境界を越えられそうになれば海に飛び込めばいいだけのこと。だからそれまでは――
「あの、さっきの歌は、あまりいいものではないから。今度はちゃんと歌うわ」
どうせ聴いてくれるのならいいものを。観客がいるのなら悲しいばかりの歌は相応しくない。これでもかつて海の国では一番と称されたこともある歌い手だ。
「仕切り直し。今度は貴方のために歌わせて。えっと……貴方に幸せが訪れますように」
他人の幸せなんて願っている場合じゃないくせに。嘲笑う自分もいたけれど無理やり追いやった。本当は幸せの願い方なんて知らないし、誰かのために歌うなんて初めてだけれど、なんとかしてみせる。
もっと和らかく? それとも優しく?
歌で緊張するなんて初めてだ。エーデリスにとって歌は誰かに聴かせるためのものではなかった。一人の時間を紛らわせる手段でしかなく、限られた場面でしか許されていなかった。どれほど優れた歌声を有していようと最後には黒が邪魔をする。
この声は誰にも届くことはないと思っていた。でも彼は聴きたいと言ってくれた。そんな人がいるのなら、せめて幸せな気持ちになってくれたなら嬉しい。
もうちょっと進めます。