四、カメと人魚姫
「私となら!?」
どんな愛の言葉より胸に刺さった。自分を必要とされたことで一瞬にしてエーデリスは撃ち抜かれていた。
「こんななよなよしたお姫様だってのに根性は一人前みたいだからね。アタシに弟子入りしようなんて奴は初めてさ。誰もかれも一方的に要求を突きつけて楽をするもんだがアンタは違った。自分の力で運命を変えようとしてる。そういう所が気に入ったのかもしれないね。ただしアタシは厳しいよ」
「厳しくたっていいわ。でもどうして人間の国を……その、楽園じゃあいけないの?」
同じく途方もないことに変わりはないのだが、手の届かない地上よりはずっと現実味がある。
「自分を裏切った国を手に入れて満足かい?」
「え?」
「いいかい。これはアンタにとって復讐でもあるのさ。楽園を奪って終わり、それで満足するなんて小さな真似アタシは教えない。真の復讐ってのは相手より幸せになることなんだよ!」
「そうなの!?」
エーデリスは初めて聞く理論の虜だ。
「そうさ。相手に自分のことを羨ましがらせるんだ。想像してごらん。人間の城でふんぞり帰る姿を――アンタを追放した奴らはさぞ驚くだろうね」
「驚くにきまっているわ。私だって驚きだもの!」
「ああ。決して奴らには真似できないからね。すると奴らはアンタを羨むのさ」
「羨む……なんだか凄そう。それに不思議だわ。羨むのはいつも私の方だったのに」
ミレーネは何でも持っていた。自分とは違う本物のお姫様。家族からの愛にたくさんの友達。美しい色彩に綺麗な貝で造られた宝石。けれどまだ足りないという。エーデリスの分まで欲しがり奪い取った貪欲なミレーネのことだ、パメラの言う通りさぞ羨むのかもしれない。
「人魚のお姫さんには無縁の世界だろうがアタシの手足として働いてくれるってんなら歓迎するよ。楽園みたいに煌びやかな世界とは無縁だが、これはこれで自由なもんさ」
「私……私は……」
いつまでもはっきりしないエーデリスにしびれを切らし喝が飛ぶのはすぐだった。あまり気は長くはないことを覚えておこう。
「はっきりおし!」
「はいぃっ!」
強烈な一括に背筋が伸びる。ピンと尾鰭の先まで伸びていた。
「いつまでもウジウジしてんじゃないよ! 終わったことはそれまでだ。いい女ってのはね、後ろより前を向いてるもんなんだよ。――ったく、アンタならと思ったけどアタシの見込み違いか!?」
せっかく誘ってくれた相手を失望させてしまった。そんなやるせなさを抱くも凌駕したのは感動だ。
「かっこいい……」
「は?」
エーデリスは知らず憧れていた。海の魔女と呼ばれようと凛々しく生き続ける彼女に強烈な感銘さえ受けている。
「やっぱり貴女はかっこいい人。最高の悪役、私が目指す理想の人だわ!」
「は? アタシ? 確かにアタシはいい女だけど」
「私やる。やります!」
「そ、そうかい? 本当だろうね……いいかい、どんな境遇だろうと泣いて目を伏せたら終りさ。アンタには綺麗な瞳がついてるんだから、その目でしっかり前を見るんだよ」
「はいっ!」
初めての教えに大きく返事をする。パメラの言葉には深い説得力があった。まるで経験しているからこそわかると言われているような気がした。
「貴女もなの? 貴女も私と同じなの?」
「さあ、どうだろうね」
追及するために身を乗り出すエーデリスの目の前で岩が動いた。突然のことに驚き体を震わせていると黒く透き通った瞳と目が合う。
「カメ?」
そう、目の前にはカメがいた。立派な甲羅を背負う平べったい体はまさにウミカメだ。両手で抱え込むのにちょうどいい大きさだと思う。
カメは微動だにせずじっとエーデリスを眺めていた。引き結ばれた口は何か言いたいことがあるのかもしれない。人魚にとってカメと話すことは何の不思議もないがこのカメはどこか普通と違って見える。目を逸らせない迫力のようなものを発していた。やがてカメは満足そうに右の前脚を差し出す。
「パメラとお呼び。これからはアタシの手足として働いてもらうよ。なにせカメにはできないことが多いからね」
やはりと確信する。このカメこそが海の魔女だ。そうは言うけれど、今のエーデリスよりカメの方ができることがはるかに多いだろう。なんて頼もしい人――いやカメだ。楽園を追放された哀れな人魚姫として語り継がれるよりパメラのようになりたい。
「ここがどん底だというのなら私は這い上がる。私を追放した人たちに思い知らせてやるわ」
初めて掲げた目標と呼べるもの。それだけで世界がずっと広がった。この海はどこまでも続いているというのにエーデリスの世界はとても狭かった。愛されたくて、認められたくて、許されたくて頑張ったけれど、良い子でいるのはもう止める。
「私は立派な悪役になって、それから幸せになって、復讐を遂げるの。だから私を使って。立派な悪役を教えて!」
パメラはにたりとほくそ笑む。きっとさぞ彼女の思い通りにことが運んだに違いない。けれどそれで構わないとエーデリスは思うのだ。騙されたところで失う物は何一つ持ち合わせていない。
「こりゃいい拾いものをしたねえ」
人魚姫はカメと壮大な夢を見る――
とはいえエーデリスの胸に渦巻く不安といったら嵐の比ではない。拾いものとパメラは言った。いきなり物のような言い回しをされたエーデリスの不安はたちどころに増す。
けれど不安は杞憂だった。教えは厳しいけれどいつだって驚くことはあっても理不尽な要求をすることはない。楽園以外のことをまるで知らないエーデリスに呆れながらも最後には決まって「仕方ないねえ」と呟きながらも根気よく教えてくれた。
パメラは怖ろしいほど博識なカメだ。その小さな頭のどこに知識が詰まっているのか不思議でならない。彼女なら信じられないほど気長な計画を本当に叶えてしまうのではないかと思わせるほどに。
不安に眠れない夜は「ほら、泣くんじゃないよ! ったく、こっちへ来な!」と子守歌を聞かせてくれたこともある。その歌声は優しく暗い海の底に光が差した。
パメラには何でも話した。かつて楽園でどのような生活を送っていたのか、今日は誰と何をして遊んだのか、珍しい模様の魚を見たことや珊瑚礁が綺麗な場所まで何もかもだ。そうしているうちにエーデリスはいつしか孤独ではなくなっていた。師弟でありながら家族のような絆で結ばれていると感じるようになっていた。
そんなパメラにも一つだけ内緒にしていることがある。エーデリスのたった一つの秘めごと、かつての小さな出会いだけはどうしても打ち明けることができずにいた。
海の魔女=カメ
次こそお相手の登場になりますので、どんどん行きます!