十四、告白される人魚姫
人間になる薬を飲み、意識の戻らないディルクを砂浜へと引き上げる。
ディルクのために歌いたい。頑なに秘めていた想いは溢れ、旋律に乗りディルクへと届けられた。
「うっ……」
想いの宿った旋律がディルクを癒す。
微かな呻きにエーデリスは歌を止めた。
「ディルク!?」
あれほど激しく体を叩きつけていた雨は止んでいた。風が空を覆う雲を運び、途切れた雲の隙間から差し込む光が二人を照らす。
「……エー、デリス?」
ディルクは咳き込み薄く目が開かれる。鮮やかな双眸はわけがわからないと言うように瞬きエーデリスの姿を映す。けれどエーデリスにも説明ができるほどの余裕は残されていなかった。
「無事でよかった!」
抑えきれない喜びに抱き着く。本来であれば絶対に取らない行動であり、これっぽっちも冷静さは残されていなかった。
「エーデリス……本当に?」
「本当に私よ! ごめんなさい。ミレーネと名乗ったのは嘘なの。私、本当はエーデリスなの!」
「……うん。知ってた」
やはり知っていたのだ。それでいて黙って嘘を受け入れてくれた。
重い手を上げたディルクがゆっくりとエーデリスの濡れた髪を撫でる。そこでようやく抱き着いていることを自覚したエーデリスは慌ててディルクから離れた。突然生じた距離に行き場を失ったディルクの手は自らの濡れた髪を掻き揚げる。
「えっと、これ夢? だとしたらなんて俺にとって都合のいい夢だろう。エーデリスの歌が聞こえて、目が覚めたら君がいた」
夢扱いされたエーデリスは我慢ならずにその手を掴む。
「夢じゃないわ。私、ここにいるもの」
「本物……そうだ、俺……帰りの船で海に落ちた?」
一応記憶はあるらしい。しかし大事件を経たにも関わらず反応の薄さにエーデリスは不満である。
「そうよ! 貴方は死にかけていたの。人間は海の中で自由に動き回れないんだから無茶をしないで!」
「あはは、怒られた」
「笑い事じゃないわ!」
「でも、エーデリスとの約束までに帰って来ることができた。俺にとってはそれが一番大事」
「どうしてそう暢気にしていられるのよ! もっと自分を大切にして」
「死ぬほどの後悔ならエーデリスとの約束を破った時に経験したよ」
「約束って……」
忘れていなかったからこそ、ディルクの語る約束があの日のことだと思い知らされる。
「もう二度と、エーデリスとの約束を破るのは嫌だ」
まるで存在を主張するように何かがディルクのジャケットから転がり落ちた。砂に落ちたそれを二人して目で追うと見慣れた懐中時計が転がっている。蓋の閉じたそれにはきつく赤いリボンが結ばれていた。
「これ……」
同じリボンは彼女の髪で揺れている。
「ああ、海に落ちなくてよかった」
「どうして、貴方がこれを……」
「昔、大切な人を傷つけた。俺の罪の証だよ」
エーデリスは自らの過ちを知った。どれほどの時を経たのかはわからない。けれどディルクは確かに約束の場所を訪れていた。そして今日まで持ち続けてくれたのだ。
「わ、たし……ごめんなさい!」
「え?」
止めどない後悔が押し寄せる。
「私、ディルクのことを疑った。貴方は来てくれていたのに、私は最後まで信じることができなかった! なんて愚かなの。もっとずっと、いつまでだって待っていればよかったのに! 朝が来ても、次の夜が来たって、何度繰り返したって、干からびたって永遠に!」
「ちょ、待ってエーデリス。謝るのは俺」
「絶対に私だわ。勝手に決めつけて逃げてたのよ!」
「ごめんエーデリス。その謝罪は聞けない」
ディルクから受けた初めての拒絶に目の前が暗くなる。ただし自己嫌悪に陥っている暇は与えられなかった。
腕を引かれ、頭を引き寄せられる。目を閉じる間もなく冷えたディルクの唇が触れた。零れ落ちそうなほど見開かれた青い瞳には近さのあまりぼやけたディルクの顔が映る。
やがて触れるだけのキスが離れてもエーデリスの口から謝罪が紡がれることはなかった。ディルクの企みは見事に成功したといえるだろう。それほどまでに放心している。
「女の子に狼藉を働いた自覚はある。張り手も覚悟してる。でもどうしても聞いてほしい」
エーデリスは働かない頭で辛うじて頷いた。
「俺は二度死にかけたことがある。昔、子どもの頃と今日だ。その度にエーデリスのことを考えた。そんな君が目の前にいて、もう後悔したくないと思ったら体が動いてた。はい、懺悔終わり。――いいよ。思う存分殴って!」
「え、ええっ!?」
ここで殴れる人間がいるならぜひ紹介してもらいたい。
「わ、私には無理いっ!」
青い海にはエーデリスの叫びが響く。
「も、もういいから! とにかく王宮へ行きましょう! きっとみんな心配しているわ。立てる? 無理なら誰か人を呼んでくるわ」
「平気。でも少しだけ、肩を貸してくれると助かるかな」
「私でよければ遠慮なく使って!」
「こないだは逃げようとしたのに?」
「今拗ねてる場合じゃないわよね!?」
ディルクが必要としてくれるのなら助けになりたい。当然のように導き出された答えなのだが、すぐに肩を貸したことを後悔させられた。
「それで、俺はエーデリスが好きなんだけど。君は?」
「今それを聞くの!?」
「だって戻ったら絶対に騒がしいだろ」
なにしろ王子が海で溺れるという大事件の真っ最中だ。
「せっかく二人きりなんだし、逃げられない状況だし――ねえ?」
にっこりと笑うディルクに体が引きつる。心なしか肩に回された腕の力が強くなった気がした。どうあっても逃がさないつもりだ。
嵐は止み青い空が顔を覗かせる。再び同じ道を歩み始めた二人を祝福するように。
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