十三、迷える人魚姫
「私、ディルクから国を奪おうとしていたのね」
何もわかっていなかった。国を奪うことの意味なんて考えたこともない。自らの欲を優先し、パメラの言う通りに行動していたけれど、今になって初めて悪役になることへの重さを感じている。
最初から楽園を見据えていたのなら父から国を奪うことへの躊躇いを覚えたかもしれない。けれど人間の国というものはエーデリスにとって御伽噺ほど遠いものだった。自分とは縁のないほど遠く、知らない人間ばかりが暮らしていて、見知らぬ誰かが治めている国。
けれど遠いばかりの世界ではなくなってしまった。その地を踏み、人と触れ合い、何よりディルクと再会したことで迷いが生まれる。
この野望が叶った時、ディルクはどうするのか。あの美しい瞳に憎しみを宿すだろう。職務に忠実なアランは主人を害するような存在を許すことはない。
「馬鹿ね、私……大馬鹿……」
立派な悪役になることを望んだくせに嫌われることが怖い。情けないにもほどがある。
本当に大切なものが見えていなかった。何を選べばいいのか、迷っていたのだ。
~☆~★~☆~★~☆~★~☆~
四日後、ディルクとの約束の日。海から顔を覗かせたエーデリスは空の鈍さにまた気が重くなるのを感じた。
灰色で不安定な空。この雲に覆われた先に青い空が広がっているとは信じられないほど暗い。
青を映すことのできない海は荒れ、不安を煽るように風が海を叩けばあちこちで高い波が生まれ視界を遮る。肌に触れる波も攻撃的だ。
やがて空を見上げていると滴が頬を伝う。涙いているはずがないとエーデリスは慌てるが、それは雨粒だった。素直に泣ける空が羨ましいとさえ思う。
瞬くうちに雨は強さを増し、とうとうエーデリスも海に潜ることにする。人魚たちにとっても嵐は歓迎すべきものではない。
「ディルク?」
ふと、エーデリスは彼の名を呟いた。どこからか名を呼ばれた気がしたのだ。ミレーネという偽りの名ではなく、遠い昔に教えた本当の名を。
「ディルクなの?」
どうしてと考えるよりも早くディルクとの会話が甦る。出掛けると、話してはいなかったか。そのための四日後だと言っていた。
また、もう一度呼ばれた気がする。
あの懐かしい声が呼んでいる。止めてほしいと頭を振ったけれど耳を塞いでも消えない。海を伝い遠くから響いている。見えない何かがエーデリスを繋ぎ止めようとしていた。
いよいよたまらなくなって振り向いた。そこに彼の姿はないけれど、一筋の赤が舞う。その赤を目にした瞬間、どうしても逃れられないのだと思い知らされた。不格好に残されたリボンはエーデリスの未練と期待。どこかでまだ彼を信じたいと願っていることに気付かされた。
~☆~★~☆~★~☆~★~☆~
一隻の船が荒波に翻弄されている。船ならば何度か見かけたこともあるが、これまでとは比べ物にならない大きさだ。
距離があるというのに離れていても船上の混乱が伝わってくる。雷に紛れて飛び交う人間たちの怒号が緊迫した状況であることを伝えた。
波に煽られた船がひときわ大きく傾いた。幸い転覆することはなかったけれど、投げ出された人影が焼き付いて離れない。その姿を目にしたとたんに迷いは消えた。
海に落ちた人間は沈んでいくばかりだ。懸命にもがいたところで逆らえず、暗い闇が彼を誘いこもうとしている。
助けなければと思った。夢中で手を伸ばした先には彼がいる。もっと早く、早く、彼の元へたどり着くことばかり考えた。
どうして嬉しそうに抱きしめてくれたの?
どうして強引になってまで引き止めてくれたの?
何一つディルクの口から聞いていないのだ。
「嫌われたって、裏切られたって……貴方を忘れるなんて無理だった。今も、こんなにも貴方を想ってる」
どんなに目を背けてもディルクへと辿りつく。大切なものは最初から決まっていた。
「必ず助けるわ。その時は、今度は本当の名前を呼んでくれる?」
嵐の海であろうと人魚を翻弄することはできない。人魚だからこそ大切な人を助けられるのというのなら、初めて生まれたことに意味があると思えた。この身を誇らしいとさえ思う。
「ディルク!」
意識のないディルクを海面へ導くと容赦のない雨が体を叩く。彼が乗船していた船からは随分と離れてしまっていた。幸い転覆してはいないが荒波に翻弄されディルクを気遣う余裕はない。エーデリスも人間に姿を見られるわけにはいかず、岸を目指すしかないと考える。
「ねえ、聞こえる?」
どうか目を覚ましてほしいとディルクに声をかけ続けた。
「私、エーデリスよ。嘘を吐いて、逃げてばかりいてごめんなさい。私、ディルクにまた会えて嬉しかった。貴方が好きだと言ってくれた歌も何度だって歌うわ。だからお願い、目を覚まして!」
閲覧ありがとうございます!
本当に、見ていただけてとても嬉しいです!