十、連行される人魚姫
「で、でも……」
真摯に頭を下げる人の頼みは断りにくい。しかし無理なものは無理であり、エーデリスは非情な決断を下す。
「私、本当に困るわ!」
「……そう」
いくら悪役を志したとはいえ心まで冷酷になれるわけがない。そう在れたならどんなによかったか、悲しそうな呟きがエーデリスの胸を締め付ける。理不尽な要求をされているはずなのに、彼を傷つけていることへの罪悪感が膨らんでいく。
「なら、せめて一つだけ言わせてくれないか」
静かでありながら確かな覚悟を秘めていた。せめてもの申し立てと、そうまで言われては耳を傾けるしかないだろう。
「ここで君が誘いを断ったとして。こいつに後をつけさせる」
「ええっ!?」
「はあっ!?」
エーデリスが叫び、続いてこいつと指名しされた人物も同じ反応を示す。堂々たる犯罪宣言を前にまたも彼らの気持ちは一つとなった。
すぐにエーデリスは後をつけられることの意味を悟る。どこまでも見張られていては人魚に戻ることができないのだ。彼は気付いているのだろうか。後をつけられては困る身なのだと。海でのエーデリスは最速とも言えるが陸では真逆、逃げ切ることは難しい。
はたしてディルクはこんなにも強引な人物だっただろうか。考えたところでエーデリスは表面上の彼しか見ていなかったことを思い知らされる。臆病なエーデリスが逃げ出してしまわないように手加減していたのかもしれない。確かにこんな姿を目の当たりにしていたら即日逃げていたと思う。
「えーっと、了承していただけたんですかね?」
エーデリスはかろうじて頷いた。
「いやーよかった! ありがとうございます、お嬢さん。危うく誘拐の片棒を担がされるとこだった……」
安堵した彼は律儀にもエーデリスのビンを持って追いかけてくれた。驚きのあまりすっかり忘れていたので有り難い。
「あの、私もう逃げないから、歩かせ――ひやぁ!」
少年の手ではない、成長した男の人の手が脚に触れている。
「な、貴方何して!?」
「これ本物?」
感触を確かめるように表面を撫でている。決して強い力ではないというのに体がおかしくなりそうだ。
「何言って、本物! 本物に決まって――だから、だめえっ!」
「あ、ああっごめん! えっと、俺が言いたいのはつまり歩いて平気なのかってことで!」
「は? もちろんですっ!」
そのための足ではないのかと不思議がるもエーデリスの境遇が変わることはなくディルクは歩き続けた。てっきり静かな場所へ移動して話をするのかと思っていたのだが、いつまで経っても降ろされる気配がない。ディルクはあっさり街を後にすると整備された道に沿って進んでいく。
「海に向かっているんですか?」
エーデリスにわかるのは海が近づいているということだけだ。聞いたところで目的地なんてわからないけれど、問いかけずにもいられない。
「ああ、方角的にはね。信じてもらうには実際に見てもらわないといけないかなって。君に犯罪者扱いはされたくないから」
この人はディルクなのだと、些細な会話からも感じた。やっていることは強引そのものだというのに口調は優しかったディルクのまま――
そこでエーデリスは彼の発言を思い返す。
見せる? 何を?
メイドに勧誘されたことを。城で働かないかとも言っていた。つまり彼はメイドが必要なほどの屋敷に住む身分なのだ。
「俺、一応この城の主人なんだ」
ディルクの肩越しに見えたものは大きな城を囲む塀だ。高く切り立つ崖に造られた城は海に面しているためエーデリスでもその存在を知っている。あそこに住むのは人間の王族なのだとパメラが教えてくれた。二人で目指すことを約束した場所――
「ディルク・ローネリアス、それが俺の名前」
ローネリアスとは国の名だ。数ある人間の国のうちの一つで何度もパメラから聴かされた、まさに征服を図っていた国名である。この日初めてエーデリスはディルクの正体を知った。
「ちなみに俺はしがない宮廷作家見習いのアランって言います。アラン・リセーヌはいずれ有名作家の仲間入りをする予定なんで、覚えて損はないですよ。綺麗なお嬢さん。あ、サイン入ります?」
「いや俺の護衛だろ」
「それは副業なんですって!」
呆れたようにディルクが言えばアランは負けじと食いついた。
「酷いっ! いつも言ってるじゃないですか。俺は、文系になりたかったんですよ!? こんな、王子の護衛なんて見るからに体力仕事じゃなくってですね、部屋にこもって静かに執筆して、大長編の恋愛小説とか書いて有名になりたかったって、いつも言ってますよね!?」
「俺もいつも言ってるだろ。アランはどう見ても護衛が天職だって」
「俺はロマンを求めてるんですよ。あんただって現にこうして男のロマンを叶えて――」
「あー!」
いきなりディルクに大声を出されたエーデリスは肩の上で身を竦ませる。何事かとディルクを見たが、気まずそうに視線を逸らされてしまった。
「それ喋ったら減給だからな」
「あ……はい。しかと肝に銘じました」
盗み見たディルクは笑みを携え、アランは悲壮漂う表情をしていた。
かくしてエーデリスが運び込まれたのは城の客室である。丁寧に椅子へと下ろされ、柔らかな生地が体を受け止めた。
「アラン、席を外してくれないか」
「えっと……俺のこと護衛って言ったのあんたなんですけど」
主に危害を加える可能性があるといいたいのだろう。エーデリスにしてもアランにはぜひともこの場に留まってもらいたいので同意のために何度も頷いた。でなければ空気の重さに耐えきれる自信がない。
「私もぜひアランさんにいてもらった方がいいと思います。その方が安全なので、そうしましょう!」
主にエーデリスの心身が。
「アラン?」
「……へーい」
譲歩を見せたのはアランだ。ディルクが追い払うような仕草をすればいよいよ退出してしまう。最後の希望は潰えた。
「さて」
そう言いながらもディルクが距離を詰めてくる。向かいのソファーではなく何故か隣に座られてしまった。
「あ、あの、あの、向かいの席が空いています!」
「そうだね。でもこっちがいいんだ」
「でもディルク、様には窮屈だと」
平静を装いながら指摘する。なんだもかんでも顔に出してはいけないのだと、これもまたパメラの教えである。
「ディルク様、か。昔のように呼んではくれないんだ?」
「あ――」
ディルクの瞳に見つめられ、とっさに視線を逸らす。見つめ返してしまえば嘘を見破られてしまう気がした。
「昔なんて、ありません。あるはずがないんです。だって私は――ミレーネなんです」
「……本当に?」
「はい」
自分で名乗ったくせに違うと言いたくなる。その声であの子の名を呼ばないでと思うことは我儘でしかないのに。
怖かった。本当の名前を明かせば待っているのはあの日の繰り返しかもしれない。震える体をきつく抱きしめる。魔法が切れるはずもないのに、人魚のエーデリスだと知られてしまうことが怖ろしい。
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