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好きだから故の決断

 夜。


 仕事もなく皆が寝静まった頃、『部屋』の中で動く影があった。


 その影は小柄で、周りの人を起こさないように、恐る恐る、静かに音を殺して進んで行く。


 影は、『部屋』の中、フリズスキャルヴメインサーバーが設置されている部屋へと侵入していく。


 いったい、影の目的は何なのだろうか。


 影はゆっくりと、しかし皆が寝ている部屋から離れたからか、勝手知ったるその部屋を、堂々と進んで行く。


 影の目的地は、コンピュータのようだった。


 それも、明らかにHUV計画で中枢を担っているネオのコンピュータ付近を狙っているようだ。


 コンピュータを狙って、何をしようというのだ。その真意は、推し量ることが出来ない。


 ついに、影は到達した。


 到達したコンピュータデスクに影は腰を下ろし、そしてコンピュータの電源を入れる。


 一瞬の空白のあと、ブオンという音とともにコンピュータへ接続されている画面に制作会社のロゴが表示される。


 そこで初めて燈された明かりに、画面の周囲と、そして何より侵入者それ自体が照らされた。


 小柄な体と、そしてアホ毛のように頭から延びる髪の毛が特徴的な彼女は、表情を出すことが珍しいその容貌を闇の中に浮かび上がらせる。


 「ふふ」


 サキだった。


 よく見れば、電源をつけたのはネオのデスクの横にあるサキの(いつも使っている)コンピュータであり、こんな夜中であるということを除けば、別段不自然な事ではなかったのかもしれない。


 コンピュータが起動を終えると、サキは手慣れたようすでパスワードを一瞬で入力し、ログオンする。


 そこからが長かった。


 よほど重いファイルが保存されているのか、ローディング画面から中々デスクトップにまで行かないコンピュータから目を離して、サキは携帯端末を取り出した。


 そう、あの監視カメラから吸い出した動画データが入っている携帯端末を。


 サキは携帯端末を操作して、七つあるファイルのうち一つを再生してみた。


 「……むぅ。やっぱり」


 サキはそう呟いた。


 とてつもなく重いそのファイルの、その全体再生時間は24:00:00。適当に再生時間を示すバーを移動させても、変化したのか分からない動画が延々と続いて行くだけだ。


 つまり、あの監視カメラはセンサーと連動して動くものがあった場合のみ動いているのではなく、一分一秒休む事なく、ずっと動き続けているのだ。


 それは、警備体制としては正しいのだろうが、それをチェックする側としては堪ったものではない。なにせ、全て普通に見れば一週間かかるし、倍速で再生すれば見逃す確率が増える。


 だが。


 そもそもサキは、そんな事をするつもりはない。


 やっと立ち上がったパソコンのデスクトップをサキは一瞥すると、並べられた少ないアイコンから、統合開発環境を起動する。


 統合開発環境とは、簡単に言えばソフトウェアを開発するためのソフトウェアだ。


 プログラム言語を、機械の理解できる機械語へ変換する機能を有するそれに、サキは凄まじい速度でプログラムを書き込んで行く。


 忘れているかもしれないが、サキは軍にスカウトされるほど優秀な情報分野の天才だ。HUV計画ではネオが主導権を握っているとはいえ、実力だけを比べれば二人は同レベルである。いつもの様子からは想像がつか無いかもしれないが、そんなサキにとって今から作ろうとしているプログラム程度、お茶の子さいさいなのである。


 同時平行して、コンピュータの中に七つのファイルをコピーし、そのアドレスを確認しながらサキが作り上げるソフトウェアは、丁度監視カメラのデータが全てコンピュータに移し終わった頃に完成した。


 早速ミスが無いかどうか確かめるソフトウェアの機能を使い、大きな間違いが無いかどうか確認しながらサキはそのプログラムをコンパイル(機械語へ翻訳)する。


 「よし。あともうちょっと……」


 そう言って実行させたプログラムは、監視カメラの動画ファイルを参照しながらサキの意図通りに動きはじめた。


 サキが作ったプログラムは、動画の一コマ一コマを一枚の静止画と見て、前後のコマ同士の違いを検出するソフトウェアだ。その違いがサキが設定した一定値以上になった場合、そのコマの周囲を抽出し別枠で保存する、という仕組みになっているのだ。


 こうすることで、集中が切れやすい目視で148時間分確認するよりも、遥かに簡単で遥かに精度の高いチェックをすることが出来る。


 果たして。


 設定したフォルダーに、短い動画が追加されて行くのを見て、人工アホ毛は満足そうに揺れている。


 しかし、全ての動画についてチェックが終わるまで、サキはすることがなにも無い。


 (ネオは何て言って褒めてくれるかなぁ……?)


 そんな事を妄想しながら、サキは時間が経つのを待っていた。




 テロン、という音とともにチェックが終わったことをプログラムが通知した。


 「ん」


 サキは現実世界へと帰還し、設定されたフォルダーを覗き込む。


 そこには、30秒程度の動画が42本入っていた。


 「むぅ。それでもちょっと多い……」


 サキはそう呟く。


 しかし、実際に確認する時間自体は500分の1にまで小さくなっている。全体的に見れば、よくやったとしか言いようのない結果だ。全体の0.002%のそれらを見つけるのはどれだけ困難か、言うまでもないだろう。


 それでもサキは、一つずつ全ての動画を見て行った。


 1本目。 シルがご飯を持って来る姿

 2本目。 シルがご飯を持って行く姿。

 3本目。 シルがご飯を持って来る姿。

 ・

 ・

 ・

 41本目。シルがご飯を持って来る姿。

 42本目。シルがご飯を持って行く姿。


 「……?」


 全ての動画を見終わったサキは、首を傾げた。


 そこには、自分達へご飯を運ぶシルの姿しかいなかったのだ。


 「……? あの女は気に入らないけど、味方のはず。一週間前以上から仕掛けられていた……?」


 サキの頭では、そこまでしか考えることは出来なかった。


 「むぅ。あしたネオに見てもらおう。そうすれば分かるはず」


 それから少しの間サキは考えたが、どれだけ考えてもそれ以外の解釈を思い付くことは出来なかった。


 結局、サキはそう思って夜遅くの秘密の行為を終わらせることにしたのだった。




 ◆  ◆




 その日は、珍しくシルが寝坊した。


 「ごっ、ごめんなさい……」


 飛び起きてきたシルに、食堂でネオは気遣うように言った。


 「大丈夫だよ、シル。昨日から調子が悪そうだったし、食事もWS部隊の人が届けてくれたから」


 「本当にごめんなさい」


 申し訳なさそうに言い連ねるシルだったが、そこにサキが登場して爆弾発言をぶち込んだ。


 「そこまで言うならもうネオには近づかないで」

 「えっ、サキっ!?」

 「それは……、出来ません」


 しかし、二人の猛反撃に合い撤回を余儀なくされる。


 「むぅ。……ネオがそこまで言うのなら……」


 嫌々ながらも言を翻したサキに、ネオが宥めるように言った。


 「サキ、あんまり人を貶めるような事を言うものじゃ無いよ」


 「むぅ。ごめん、なさい?」


 何やら納得していなさそうな人工アホ毛を携えていたサキだったが、ネオは追及をそこまでにして、シルの方へ向き直る。


 「ごめんよシル、サキもこう言ってるし、許してくれると嬉しいなぁ」


 「大丈夫、です……。もともと、そんな気にしてません」


 心配そうに訊くネオだったが、シルの快い言葉に顔を綻ばせる。


 「ありがとう、シル。じゃあ朝ごはんを食べちゃおうか、僕たちもまだ食べていなかったし」

 「わかった。でもネオの隣はこの女ではなくてわたしが絶対に座る」

 「分かりました。サキさん、私もそうします。私もネオには返さないといけない恩がたくさん溜まっているんです」


 そんなこんなで、ネオは両手に花で準備を始めた。




 朝食が終われば、通常ならHUV計画の仕事が始まる。しかし、今現在仕事は凍結中な上、まだ部長には『穴』の事は報告していないため、まだ仕事は始められないのだ。


 という訳で、伝令係としてのシルの出番と相成る訳だ。


 「そんな訳でシル、部長のところへ行って、スパイが使った手法を発見したという事と、その詳細について報告して来てほしいんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、シルの胸に痛みが走った。もちろん肉体的なものではない。胸に冷たいものが充満したような、全身にその寒さが伝播しそうな、そういう精神的な痛みだ。


 「分かり……ました……」


 シルにはそう答えるしかない。それ以外の答えは、ここでは許されない。


 そうしないと、この胸に一人抱える秘密に気づかれてしまうかもしれないから。


 「ネオ、私はどういう仕組みだった知らない……?」

 「あ、そうか、シルは昨日は休んでいたからね」


 ネオは納得したかのように一つ頷くと、シルに優しく説明を始めた。


 「まず前提として、この部屋の電波遮断は完全だった。でも伝声管を使って、それを迂回する形で電波を通していたんだ」

 「伝声管……?」


 シルは内心の驚きを気取られないように押し殺しながら聞き返す。


 「うん、伝声管。一応電波を通さないようになっていたみたいだけど、中身が液体ということを利用して、可聴域外の音をつかって電波遮断をすり抜けていたんだ」


 シルの背筋に、氷を突っ込まれたような戦慄と悪寒が走った。この短時間でそれだけのものを暴き出した、全てを見透かすようなネオの言葉に仰天しているのだ。


 まるで。


 あたかも、神話に出てくるフリズスキャルヴのような。



 神話で主神は、全ての世界を見通すその玉座に座り、一度放たれれば一撃で勝敗を定め、そして手元へ帰ってくる槍を用いて『軍事』を司るその戦闘力を見せ付けていた。


 その合わせ技は、同時に『知恵』をも司る主神の象徴であるのかもしれない。


 それは。


 その玉座とその槍を用いることは、敵対者の完全なる消滅を意味する。


 その槍を用いられるということは、即ち敗北に等しいのだから狙われないようにするのが最上の策のはずなのに、その可能性もを塗り潰す玉座があれば、敵対者が勝てる道理はない。



 忘れているかもしれないが。


 ネオもまた、父を手伝ってフリズスキャルヴを創設するほどの、天才である。


 全体をシステムと見て、それを構成する要素を暴くことは、いつもネオがやっている作業に等しい。


 システムを構築するために、必要な構文を選択することと、それはどれほどの違いがあるのだろうか?


 今回はその思考リソースが、システム開発ではなく現実の事件に向いただけ。


 これがネオの一面であり、そして天才を天才たらしめている才能なのである。



 「っていう訳なんだけど……。シル? 聞いてる、シル……?」


 そんな不思議な考えに取り憑かれていたシルは、ネオの言葉で現実に帰還した。


 「うん、大丈夫。」


 その世界に飛び立っていたシルは、短くネオに笑いかける。


 「もう対策は十分なの?」

 「その点に対しては大丈夫だよ、部屋の内外に仕掛けられたコンバータ……変換機は、既に取り除いてある。一番の問題はこの部屋に入ったことがある人の中にスパイが紛れ込んでいるってことだね」


 シルの疑問に対し、笑顔で答えた。


 「わかった。部長さんのところまで行って、報告して来れば良いんだよね?」

 「そうだね。……送るよ」

 「……ありがとう」


 ネオの申し出に、嬉しそうに微笑むシル。その顔に、ネオは骨抜きになっていることを自覚する。


 『扉』を抜けて、薄暗い階段を上りながら二人は話していた。


 「ネオは、すごいね……。私だったら絶対わかんないよ」

 「……サキにも同じ事を言われたけど、そんな事無いよ。ただ単に運が良かっただけだよ。どこかで何かが違えば、この問題を解いていたのはシルだったのかもしれないしね」

 「そう? 私にも解けた……?」


 シルのその嬉しそうな顔に、ネオも同じく笑顔で返す。


 「うん、あの時シルが一緒に入れば、シルの方が早かったかもしれないよ?」


 そんなとりとめのない話をしていれば、出口は……控室へ通じる扉へは、すぐに到達する。


 「じゃあ、またあとで、シル」

 「うん」


 シルは近くの操作盤を見て、控室の中に誰もいない事を確認すると、控室と廊下を繋ぐドアをロックして、本棚と一体化したこちら側の扉を開く。


 「じゃあ、ネオ。……大好き」

 「……!」


 シルがその扉を閉めて、姿が見えなくなる寸前、その声が聞こえた。


 ネオが以前、受け取ることを拒否したその言葉を。


 ネオがなにかを言う前に、その扉は完全に閉まりきる。


 ネオの心中には、なんとなく悪い予感が残っていた。



 ◆  ◆



 「ネオ」

 「どうしたの、サキ?」


 『部屋』に帰ってきたネオに、シルについて考え込む時間は与えられなかった。


 シルのことなど考えさせないとばかりに、サキが突撃してきたからだ。


 「見てほしいものがあるの」


 無表情の顔にそう告げられて、ネオは黙って着いて行く以外に選択肢はない。


 そうしてネオがたどり着いたのは、サキのデスクだった。


 「って、なんでコンピュータの電源つけてるのっ!? まだ許可下りてないよっ!?」

 「むぅ。そんなことはどうでも良い。ネットワーク接続は切ってるし」

 「サキ、ウイルスが仕込まれていたらそれも関係なくなるよ? 強制的に接続履歴のあるネットワークに接続して終わりだからね?」


 そんな押し問答をしていると、業を煮やしたように突然サキがコンピュータに取り付いて、一気に操作をしてしまう。


 「あっ、こらサキっ!!」

 「むぅっ! ネオ、これを見て」


 イライラに人工アホ毛が凶悪に揺れる中、ついにサキは目的のファイルの再生に成功する。


 ……といっても、それは昨日サキが書いたプログラムによって抽出した短いファイルではなく、例の24時間のファイルのうちの一つだったのだが。


 「サキ、これがなに?」


 まだ出来るだけ早くサキのコンピュータを消そうとしているネオは、一瞥してそう訊いた。


 それも仕方の無いことかもしれない。


 誰もいない時のその動画は、薄暗い世界が延々と映し出されているだけなのだから。


 「ネオ、わからない?」

 「……なにが?」


 やっぱりネオは、コンピュータを消すことに躍起になって、注意が向いていないようだ、と思ったサキは、答えを告げる。


 「これ、『扉』の前の監視カメラの映像……」


 瞬間、ネオの体に雷に打たれたような衝撃が走った。


 「『扉』の前の、監視カメラ……っ!」


 それは、大変な事だ。


 この『部屋』の中にスパイが潜入している事がほぼ確実になった以上、『部屋』から出て来てコンバータを仕掛けるためにカメラの前で動くほかない。


 その行動を、カメラが捕らえている可能性があるのだ。


 「サキ、この動画の形式はなに? 数分に一回取る形なのか、それとも……」

 「うん、24時間途切れず記録してる」


 ……っしっ!、とネオは拳を握った。これで見逃しさえしなければ、絶対にスパイを割り出すことが出来る。


 「何日前の分からあるの?」

 「一週間分」

 「十分だよ」


 その言葉を聞いて、ネオはすべてのピースが調ったと笑顔を見せる。


 フリズスキャルヴのデータ流出が行われたのは昨日。準備だけしていて、運用を昨日から行ったと仮定しても、そう遠い話ではないはずだ。つまり一週間あれば十分過ぎる。


 「サキ、抽出しよう。一コマ前と違いがあるコマだけを探せば、物が動いた時だけの動画を抽出できるはずだから」

 「もうやってある」

 「サキっ! 早いね……っ! よくやったっ!」

 「もちろん」


 サキが珍しく顔を綻ばせ、嬉しそうに人工アホ毛を揺らす中、サキは抽出した42本もの短い動画をリストアップする。


 「私も見てみたけど、誰が犯人なのか分からなかった。でもネオが見れば、なにか分かるかもしれない」


 そう言って、サキは順番にファイルを再生する。


 1本目。 シルがご飯を持って来る姿

 2本目。 シルがご飯を持って行く姿。

 3本目。 シルがご飯を持って来る姿。

 4本目。 シルがご飯を持って行く姿。

 5本目。 シルがご飯を持って来る姿。

 ・

 ・

 ・

 39本目。シルがご飯を持って来る姿。

 40本目。シルがご飯を持って行く姿。

 41本目。シルがご飯を持って来る姿。

 42本目。シルがご飯を持って行く姿。



 「むぅ。……やっぱり分からない」


 そうして、サキが呟いた。


 全て見終わったあと、ネオは黙ったまま動かない。


 「動画にはシルしかいない。スパイは写ってない」


 でも、と黙ったままのネオを尻目にサキは続ける。


 「コンバータを設置しないとけないから、絶対写ってるはず」


 その声を背景に、ネオは考える。


 「(どうしてスパイが写っていない……?)」

 「(もしかして、中にいながら外にコンバータを貼付ける手法があるのか……?)」

 「(そもそも、一週間以上前から取り付けられていて、気付かなかっただけの可能性は……?)」


 ネオのその顔は、苦悶に満ちていた。


 「(いや、外から中にコンバータを取り付ける手法があるならば、わざわざ『部屋』の中にスパイを潜入させる必要は無い。だが外から中に取り付けたとしても、やはり写っていないのが問題だ)」

 「(一週間以上前から取り付けられてて、気づかないはずが無い。だから、確実に監視カメラ映像内で取り付けられているはずだ)」


 「ネオ……」


 苦しそうなネオを見て、サキがか細い声を出す。


 だが、ネオはそんなサキの可愛らしい姿に反応する余裕さえなかった。


 心のどこかから、声が聞こえたから。


 (お前はもう、その可能性に気付いているはずだ)


 そんな声が。


 「(僕が……何に気付いているって……?)」


 問い返すも、声は一向に帰って来ない。


 まるで、その声さえ届けば十分だと言わんばかりに。


 「うぅぅ……」


 ネオはうめき声を漏らす。

 「(最初から考えろ、どの可能性を見逃している? 監視カメラ映像でなにを見逃した? 何を当然と思って排除した?)」


 そして。


 ネオは思い付く。


 気付いてしまう。


 真っさらな視線で考えれば、それはとてもとても簡単な事を。


 犯人が写っているはずの証拠映像に、人影は一人しか写っていなかった。それならば犯人は確定しているだろう。


 犯人がしか存在し得ないタイミングで、一人の人影が現れた。ならば犯人は決定しただろう。


 そう。


 これ以上の解答は、もう存在し得ない。




 「シル……」




 ネオはそう呟いた。


 そう考えれば、いろいろな事が腑に落ちる。


 何故あんなところで生き延びられたのかということも。


 フリズスキャルヴ、と呟いて倒れたことも。

 そして、さっきの告白も。



 「シル……っ!」


 ネオは腰のものの所在を確かめると、歩きはじめた。








 シルは、薄暗い階段を下りていた。


 足元にしか照明が無いこの階段は、もしも黒ずくめの人間がいたら、数メートルも離れれば気付くことはないだろうと思うほど、闇が深い。


 「ふぅ……」


 そっと溜息をつく。もう自分の正体はばれていて、部長のところに行ったら即座に処刑されるものと思っていたが、部長はまだそこまで到達していなかった。


 おかげで、これで最後とだと思ってネオに伝えた気持ちも、無駄になってしまった。


 このあと、どんな顔で彼と話せば良いんだろう、とシルは思う。


 もうすぐ『扉』だ。


 もうすぐ、彼に会える。


 「その前に……」


 シルは歩きながら、ポケットから手の平より小さい、壁の色とまったく同じ色彩を持ったカードを取り出した。


 いや、カードではない。

 最小限の機能だけを搭載し、岩石ラジオのように電波自体のエネルギーで作動する、音波電波間コンバータだ。


 「これで、最後……」


 薄暗い闇の中、シルはそれを伝声管に目立た無いように貼付ける。


 その、直前だった。


 背後からシルの頭に、冷たい感触が押し当てられる。


 「なんで……」


 その声は、彼女が最も愛する声だった。


 「なんで、そんなことやってるんだよ……」


 彼女が最も愛するその彼の言葉に、シルはゆっくりと俯いた。



 ◆  ◆



 ここに来て。


 ここまで来て、少年の胸に飛来したのは、裏切った怒りでもなく、悲しみでもなく、心配だった。


 少年は、本当に考えていたのだ。ここでシルにこの話をして、シルが二度とスパイ行為を働かないと誓うなら、この事実を忘れる、と約束するということを。


 でも。


 少女は、少年の思いを守れなかった。


 「どうして……」


 少年は、繰り返す。


 少年は、少女を守りたいのだ。誓ったから。これまでの状況だけなら、部長にひそかに頼み込んで、影武者を処刑してもらうなり、ネオの今までの功績が無くなるかもしれないが、そういった手段で何とかすることは出来たのだ。


 だが、もう違う。


 再犯は、文句なしに、事情酌量の余地もなく、完全に殺されてしまう。


 この時点で、少年にはどうすることも出来ない少女の死は決まったのだ。


 「シル、最初から説明してよ……。記憶喪失っていうのも、嘘だったの……?」


 少年は、哀しさと、淋しさと、どうしようもないやるせなさに身を震わせながら訊く。


 少女は、その美しい銀髪を垂らし、顔を俯けたまま答えを返す。


 「ううん……。ネオに助けられた時点で、私は本当に記憶喪失だった……」

 「じゃぁっ?」

 「ネオ、知ってる? ……帝国は、人体への記憶操作技術を確立させたの」


 そう、哀しそうに、寂しそうにしながら。


 「帝国は、連合に記憶喪失の兵を送り込んで、情報収集することに決めた。記憶喪失なら、限りなくグレーだけど完全には黒と言えない、そして時間経過とともに信頼される諜報員が出来上がるから……」


 「じゃあ、でもシルは、記憶を……」

 「うん、取り戻してる」


 少女は悲しそうに頷いた。


 「だって、これだけじゃ連合の情報に触れられても、帝国に送ることは出来ない。だから、帝国はさらに記憶操作を私に施した……」

 「それは……?」


 少年の質問に、少女はその顔を俯けたまま答える。

 「『フリズスキャルヴ』」

 「……?」

 「その言葉とともに、私の記憶喪失が解けるように……」

 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁっっ!!」


 その言葉に、少年は喉が詰まるような感覚を感じた。そしてその直後に溢れ出てきたのは、堪えることの出来ない涙と叫びだった。


 少年は、慟哭する。


 自分の不注意が、漏らすべきではないあれが、結果的ではあるが少女をこの状況を導いたのだと。


 どんなに後悔してもし足りない。どんなに悔やんでも悔やみ足りない。どれだけ惜しんでも、どれだけ懺悔しても満ちることはない。そう。


 自分が。愛する少女を死地に追いやったのだと。


 少女に突き付けられている拳銃がブルブルと大きく震えた。


 「ネオ、そんなに思い詰めないで……」


 少女は赦しの言葉を告げる。


 「あのままだったら、ここに来て同じことになっていた……。遅いか、早いかの違いだけ……」


 だが。


 その言葉が、少年を慰めることはない。これは、永遠に少年の心に突き刺さり続ける角になる。


 「でも……、だからってっ……!」


 ネオの手から、ついに拳銃が滑り落ちた。


 「大丈夫……、記憶喪失の時生まれたこの気持ちも、本物……」


 泣きじゃくる少年に、安心してと伝えるように少女は告げる。


 「私も、ネオとずっと一緒にいたい……」


 慟哭する、慚愧の念に駆られる少年に、少女は再びその言葉を……。


 いや。


 少女の本当の気持ちを告げる。


 「大好き……愛して、います……」


 唐突に。


 いや、微かに反響する慟哭を背景に、ネオは慟哭を止める。拳銃を落とした腕で目元をごしごしとこすると、ネオもやっと、ここに至ってそれを言うことを許される。


 「僕も……、シルのことが……大好きです……」


 嗚咽が漏れた。


 それがどちらのものなのかなんて分からない。ただ悲しみの充満する嗚咽が、反響する慟哭を塗り潰して行く。


 突然。


 ……いや、二人にとっては予定調和なのだろう、それが当然なのだろう、シルが体ごと後ろへ振り返る。


 涙に濡れて、その純白で美しい顔を歪ませながら、対面する。


 「シル……」

 「ネオ……」


 二人は互いにその名を愛しそうに、噛み締めるように呼び合った。


 直後。


 薄暗い暗闇の中で、立っていた二つの影が重なった。


 二人は互いにその腕に力を込めて、放したくないと、別れたくないと相手の体温を、感触を、そして愛を貪りあう。


 それに続くのは唇だった。


 互いにその体重を預け合ながら、唇が重なる。両者の顔が、これ以上ないほどに近づいて、そして触れる。


 存在を引き止めるように。互いの心を留めるように。


 長く、長い抱擁のあとに、ただ静寂のみが支配する暗闇の中でネオだけを見つめて、シルは言った。


 「私は、もうどうにもならない。どんな未来を辿っても、殺される」


 ネオが寂しそうに、認めたくない気持ちを滲ませながら頷くのを見て、シルはそっと続ける。



 「だから………。……最後はあなたが良い」



 「っ……っ……、っっ…っ……!」


 ネオはそれを聞いて、再び声なき慟哭を漏らす。


 そんなネオをなだめるように、シルの腕が抱くネオの背中を優しく叩いた。


 泣き虫の子供をあやすように。


 「僕は……っ、僕はっ……!」


 断りそうになる気持ちを蹴り飛ばして、ネオは、彼女の幸せのために、そっと、そっと、最後に頷いた。


 結局のところ。


 ネオは、最初から最後まで変わらなかった。


 彼女を守りたいと、彼女の笑顔を咲かせたいと、いつでも願う少年は、たとえそれが死ぬより辛いことでも、少女の幸せの為ならやり遂げる。


 そして。


 ついに。


 ついに、少年は床から拳銃を拾い上げた。


 「どこ、が……。どこが、良い……?」

 「出来るだけ……、痛まないところにして……。それで、確実にいけるところ……」

 「じゃあ、それでもシルの姿が出来るだけ綺麗に残るように……、心臓で良いかい?」

 「うん……それで、お願い」


 少女の左胸に突き付けられた拳銃が、ブルブルと震えた。いや違う。ネオの手が震えているのだ。


 「あ……」

 「どうしたの?」


 突然漏らしたネオの声に、シルは訊く。


 「これ……、あの日シルを助けるために握った拳銃だ……」


 それは、何の皮肉なのだろう。


 助けるために握った武器で、守るべき者を殺すというのは。


 「大丈夫。……それで、私を救って……?」


 シルの両手が、ネオの右腕に添えられた。それは不思議なほど温かくて、じんわりと広がる温かみはネオの震えを解いて行く。


 「ネオ」


 全ての準備が調って、ついに控えた少女はネオに告げる。


 「ありがとう」


 ネオは少女のその必死に作ったであろう笑顔を見て。




 引き金を、引いた。








 ◆  ◆


 報告書


 帝国軍スパイは、排除に成功しました。

 捕獲時に暴れたため、その場で射殺。処刑は不可能になりました。

 つきましては、今回スパイが使った手口の調査を行い、次回以降の侵入を防ぎます。


 また、この一連の事件にて、ネオ・ウィータン、サキ・ミサヤキが軍から辞職しました。


 報告は以上です。

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