休日と吐露と、そして発覚
答えは意外な所からやってきた。
「ネオ、次の休暇だが、お前がシルを連れていってやれ」
「え……っ?」
情報部部長は、そうネオに言った。
この軍では、週休二日制を採用している。
週休二日制と言うと勘違いされることが多いのだが、法律上の定義は『一ヶ月に一回以上週に二日休みがある勤務形態』とされている。
つまり、一週間に1.5日の休みでも、法律上は週休二日制といえるのだ。
毎週二日休みがほしいなら、『完全週休二日制』の職場を探さなければならないのだ。
閑話休題。
軍の勤務形態は、週休1.5日である。
しかし、ここは前線基地。基地から一番近い、ある程度大きな街に行くにしても、半日以上かかるのだ。つまり往復だけで休暇が潰れてしまう。
そんな状況に対する救済策として、軍は一ヶ月に一度、色をつけて七日間、休暇をとることを推奨している。
こうすれば4週間働き1週間休むというサイクルが出来上がり、管理する軍側も楽になるからだ。
そんな実質六日の休みは、子供持ちが1日だけでも休日と休暇を重ねられるようにしたという噂もあるが、真偽は明らかではない。
そんな1ヶ月ぶりの休みに、シルを一緒に連れていくように部長は指示したのだ。
「残念ながら、監視役のローテーションが足りないんだ。いや、足りないことはないんだが、これだと万一の場合に対応できない。こっちも慌てていてな、レオリア帝国に潜入させているスパイから、レオリア帝国のスパイが潜入済みだという連絡が来ている。洗い直しに手間がかかっていて、そっちに人員を裂く余裕はない」
「そういうことですか……」
ネオは溜息をついた。
「ああ。まあそれはこっちの都合だからな、これをやろう」
そう言って、情報部部長は封筒に入った何かをネオに渡した。
「……これって……?」
首を傾げながらも明けた封筒の中には、二枚のチケットが入っていた。
「最寄り街の遊園地、テイメントパークの招待券だ。二人で行ってこい」
「…………」
ネオは黙った。
このパターンは何回目だろうか。そう、この雰囲気の中でそれらしい関係を疑われ、揶揄されるのは。
ネオはゆっくりと顔を上げる。手元にある、色とりどりのテイメントパークのチケットから、情報部部長の顔へと。
「(ニヤニヤ)」
そこにはやはり、にやりとした表情があった。
「……部長、いつまでこんな事を続けるんですか……?」
「いやいや、若いのは良いねぇと思ってるだけだよ」
諦めたようにネオは溜息をつく。ネオが彼女に口論で勝てない事は、最初から分かりきっている事だからだ。
「(いやでも羨ましいよほんとに私だってそんな出会いはしたことないよいやしてみたいなぁほんとさっさと婚活したいけどそんな暇ないしなぁ)」
なにやらぶつぶつ言っている部長に、ネオはなんとか心を立て直して言う。
「分かりました、ありがたく行かせてもらいます」
「シルには自分から伝えておけよ。休暇中7日間のシルの監視と世話はお前に一任する」
「はいっ」
そう言って、ネオは情報部応接室から出て行った。
バタン、と音を立てて扉が閉まってから数十秒経ってから、部長しかいないはずの応接室で彼女は呟く。
「だ、そうだ」
「了解です。周辺を警戒しておきます」
驚いたことに、どこからか返事があった。その発信源は、部長の背後だ。軍服を来た青年は、驚いた様子もない部長にさらに言う。
「わざとネオにいつもと違う行動を取らせることで、周りの反応の違いからフリズスキャルヴを、ひいては唯一アクセス可能な手掛かりであるネオに近づくであろうスパイをあぶり出す作戦の許可、ありがとうございます」
「WS部隊からの上申なんか無視できんよ」
部長は一つ溜息をついた。
ホワイトスパイ部隊、通称WS部隊。
書類上の名目は情報部の一部隊ということになっているが、実際は兵員の監察を行う部隊に近い。普通に軍に属している限り、ほぼどんな時でも上位に据えられる部隊になる。
その役割は、内部監査による敵側スパイの発見と、スパイ侵入経路の穴埋めだ。
ハッカーの技術を以ってハッカーに対する者達をホワイトハッカーと呼ぶように、スパイの技術を用いてスパイから守る者達を、ホワイトスパイと呼んでいるのだ。
そんなWS部隊が、スパイがいるという情報を掴んで動き出し、そして今は潜んでいるはずのスパイをあぶり出すために立てたのがこの計画だった。
敵スパイの目的は十中八九、フリズスキャルヴだ。
レオリア帝国の勝利の形でこの戦争を終結させるためには、フリズスキャルヴがレオリア帝国にとって大きな障害となる。何がなんでも、フリズスキャルヴを良ければ破壊、最悪でも使用不可能にしなければならないのだ。
レオリア帝国のスパイは、フリズスキャルヴに近づこうとするのだから、フリズスキャルヴについての重要な役職についていて、唯一スパイが近づけるネオに接触しようとするのは当たり前だ。
それを逆手にとる。
ネオを監視することで、スパイを逆探知できる可能性があるのだ。
「ネオはHVU計画にはなくてはならない存在だ。万が一でも殺されないように頼むぞ」
「分かりました」
◆ ◆
そんな訳で、二人は車に揺られていた。
基地から最寄り町-エドンまでは陸路で行く。空路は整備されてはいるが、主に荷物輸送用で人員輸送とは致命的に相性が悪い。質量、体積上限が明確に決まっているからだ。
よって、兵員輸送用は車輌で行われる、のだが。
戦場に近い荒野は、通常のサスペンションでは太刀打ちできない。また、レオリア帝国から狙われた時に通常車輌では防ぐことが出来ない。
そんな訳で休暇の時でさえ、あたかも戦時中のように電車のように進行方向に対して平行な椅子が設置された、車体全体の強度を上げるために窓が無いために薄暗い、軍用車輌に乗ることになる。
「やっぱり暗いよね……」
ネオはぽつりと呟いた。
ちなみに服装は、平時勤務用の軍服だ。スーツよりはカジュアルだが、ある程度は堅苦しさが残った、ネオが最も着慣れた格好。一応もう休暇期間中とはいえまだ軍事関係施設の中なので、まだ私服ではいられないことになる。
「はい、ちょっと……」
シルがその呟きに答えた。
ちなみに、この10人乗りの車輌に乗っている人間は、運転手、副運転手含めてすべてWS部隊の人間だ。これを逆にスパイ側が行ったと仮定すれば、それがどんなに危険な事か分かるだろう。この暗く狭い車輌の中で、何をしても外にばれることはない。暗殺するにはまたと無い機会である。だから、わざわざWS部隊が労力を裂いて護衛をしているのだ。残念ながら二人はそれを知らないが。
「これじゃあ、シルの顔も見にくいよ」
何の気も無しに放たれたその言葉に、シルは恥ずかしそうな顔をする。しかし薄暗さのせいか、ネオはそれに気付かない。
「……シルは、何をするのが楽しみなの?」
そんな中で放たれたネオの言葉に、車輌内の人間の意識が集中する。
WS部隊の面々にとっても、護衛対象の予定をある程度把握することは重要だからだ。二人の会話の断片から、それを推測するための情報を集めようとしているのだ。
「私は……」
シルはそう言いかける。しかしそれはなかなか出て来なくて、シルはその顔を迷いと羞恥に染めた。
そして。
「ネオがいる所なら……どこでも」
シルは悩んだ上で、考えた上でそう答えた。
(あ……)
そうして、気付いた。
考える必要なんて無かったのだ。今までの自分というものを無くしたシルにとって、現在の自分というのはネオと共にあるのだから。ネオが今の自分をくれた。
だから、シルはネオと共にいたいだけなのだ。
シルの心に、ほっこりと温かいものが広がって行く。
「そうか……」
ネオも一言だけ、そう応える。
ネオの方こそ、自分の気持ちはとっくに把握していた。
意識の表面こそ恥ずかしさで否定はしているが、それは既に気付いていることを、もう一度忘れているだけに過ぎない。
シルを護衛する、監視する上であるとまずいから一時的に封じただけの気持ちも、事実上監視役というより、不審人物を監視も無いまま基地の中に置いておく訳にはいかないという事情で押し付けられた(とネオは理解していたし、ある一面ではそれは正しい)この休暇中では、押さえ付けられる意味をなくす。なにせ、半分以上監視役というより厄介払いみたいなものだからだ。
「じゃあ色々な所に行こう。僕もエドンの町にはそう何回も行った訳ではないけれど、知っている所に連れて行ってあげるよ」
「はい」
その言葉に、シルは嬉しそうに頷く。
「どこが良いかな、一番有名なテイメントパークはチケットもらったから行けるし、郊外型アウトレットもあるし、海があるから海水浴……は季節外れか、でも夜景スポットくらいならあるかな?」
そんな風に話しながら悩むネオに、隣に座っていた金髪美人兵士が声をかける。
「話は聞かせてもらったわ! これ、持って行って良いわよ」
そう言って渡されたのは、エドンの観光者向けのガイドブックだった。
「これ、本当にもらって良いんですか……?」
「良いわよ、私もなんとなく眺めるために買っただけだし、きちんと使ってもらった方が本も喜ぶでしょう」
「ありがとうございます」
「……ありがとうございます」
思わぬプレゼントに、二人は女性兵士に口々にお礼を言う。
「シル見てよ、ここに載っている中だと、どこに行きたい……?」
金髪美人兵士にもらったガイドブックを広げて、薄暗い車輌の中で顔を寄せ合う話す二人。そのガイドブックには、所々に金髪美人兵士が書き込んだとおぼしきメモが残っている。
……繰り返すが、この車輌に乗っているのは全員WS部隊の人間、つまりはネオの休暇中にネオを気取らせずに護衛する任務に就いている人間だ。当然、遊びに行くのでは無いのだから本来ガイドブックなど持っているはずが無い。
これも、WS部隊の計画の一つ。これは、狙われやすい所には近づかず、効率的に護衛することの出来る所に二人で行くように仕向けるための、緻密に計算された書き込み付きのガイドブックだ。
こうやって、間接的に二人の行動を操ることでレオリア帝国側のスパイが近づく機会を潰し、しかし不自然な動きを確実に捉えて捕捉するのが今回のWS部隊の作戦である。
「へぇ、動物園は無いけれど水族館はあるのか……」
「水族館、ですか……? ちょっと、行ってみたい気がします……」
そういった誘導に気付いた様子も無い二人に、WS部隊の一同はそっと息を吐くのであった。
◆ ◆
日が暮れる頃になって、ようやくエンドの町に到着した。
「座りっぱなしだったから、体中が痛いね……」
「私は足を伸ばせなかったのがつらいです……」
兵員輸送車が止まったのは、エンドの町の中心に程近い、大きなホテルの前だった。
別にエンドの町にこのホテルしか無い訳ではないが、ここが一番大きくて、ホテルのグレードもそこそこで、各場所への交通の便が良い。そのため、休暇を過ごす軍人のほとんどがこのホテルに泊まっている。
輸送車に乗っていた10人が降りてから、まとまってホテルのチェックインカウンターに向かった。
別に軍から部屋が予約されている訳ではない。早めに部屋をとらないと、今日泊まるところを探すところからやり直さないといけないからだ。
「10部屋空いてるか?」
一緒の車で来た兵士の内一人が、カウンターで受付嬢に話しかけた。
「じゃあ、明日何時頃にロビーで待ち合わせにする? 確かここは朝ご飯はルームサービスとレストランと選べたはずだけど、どっちにする?」
「ええと……」
シルにはシルで、一人でやりたいことがあるかもしれないと、早々と明日の予定を確認しておくネオ。そんなネオに戸惑うように口ごもるシルだったが、そこで救世主が現れた。
「ちょいとごめんよお二人さん。話があるんだが?」
さっきチェックインカウンターでチェックイン作業をしていた男が、急に二人へ話し掛けてきたのだ。
「は、はい。どうかしましたか?」
不思議そうな顔で訊くネオに、男はこう言い放った。
「ああ、実は今日はもう9部屋しか残っていないらしくてな……。すまんがお前ら二人で相部屋になってくれ」
「え……?」
きょとん、とするネオとは対照的に、シルはその言葉に素早く反応した。
「分かりました、そうします。鍵は……」
「ああ、このカードキーだ。オートロックだから閉め出されないように気をつけろよ」
「ありがとうございます」
「じゃ、楽しめよー?」
そう二人に声をかけて、男が去った後にネオはようやく再起動した。
「え? え?」
「ネオ、今晩は一緒だね?」
そう言って、シルは嬉しそうにはにかんだ。
「……なんか、ネオが誑かされてる気がする」
嫌な事を考えてしまった時のように不機嫌さを撒き散らして人工アホ毛をわさわさ動かしながら、基地のあの部屋にいるサキは呟いた。
という訳でお泊りイベントである。
洗濯してローテーションさせること前提で、3、4日分しか着替えが入っていないバックを持って入ったのは、ツインのルームだ。正確には、シングルルームが8個しか空いていなかった、ということなのかもしれない。
「……」
「……」
シルから渡されたカードキーを使って部屋の中に入った二人は、とりあえず部屋の中を確かめてみた。
といっても、そんな高級ホテルでもないこのホテルのツインなんてそう広くはない。ドアを開けると細い通路が3メートルほど続き、右には洗面所とユニットバス。通路を抜けた先には大きめのベッドが二つ、淡いクリーム色を基調とした内装の部屋に据えられている。それ以外の調度品は、クローゼットと冷蔵庫、それに小さな棚とその上にあるテレビくらいしかない。
時刻は既に6時を回っている。
しかしそれは、夕食をとるにもシャワーを浴びるにしても早い時間帯だった。
「……」
「……」
二人は、互いにベッドに腰掛けたまま気まずい無言で過ごす。
「ねぇシル」
「ネオ……」
意を決して話し掛けた二人だが、しかしそのタイミングが被ってしまって、またきまりが悪くなって押し黙る。
「……いいよシル、先に言って良いよ」
そんな中で、シルの様子を見ながらネオがもう一度言葉を発した。
ネオの方の話題は、とりとめのないただの雑談のようなものだったからだ。
「シル……?」
ネオがもう一度、許すようにシルの名前を呼ぶと、シルは俯いていたその美しい顔を上げると、すっとネオを見据えた。
その唇が、開く。
「どうしてネオは、私にそこまでしてくれるの?」
そうして、その問いが放たれた。
「どうして……? そんな理由なんてない、僕がやりたかっただけだよ? 前もそう言わなかったっけ」
揺らぐことのないネオの返答に、シルは分かっていると心の中で思う。
そして、シルが聞きたいのはそんな言葉ではない。ただ、ストレートになんか聞けない言葉だからこうやって遠回りに訊いているだけだ。
ネオに惹かれているシルの、本当にそっちへ行って良いかどうかの最終確認。
それが、この質問なのだ。
「じゃあ、どうしてそんな気持ちになってくれたの……?」
恥ずかしげに、不安げに、心配そうに揺らぐシルの言葉にネオは何を求められているのかも分からないまま、ただただ言葉を紡いで行った。
「シルを初めて見た時……、とても綺麗だなっ、て思ったんだ……。それで……多分思ったんだよ、ああ、こういうのを守りたいなぁって……」
そこで、ネオは逡巡する。
この感情を吐露して良いのか、伝えて良いのだろうか。
記憶を失っているシルにこの気持ちを伝えることは、どこか卑怯な行為なのではないかと思ってしまう。
それでも。
もし、シルが故郷に恋人を持っていたとしても。
ネオの、この気持ちは終わらない。終われない。シルの持つ関係の中にどうしようもなく自分の入る隙間が無かったとしても、これだけは絶対に捨てられない。
そして。
何かを思い出すように宙を見てい顔を下げたネオは、もう一度シルの顔を見る。
「…………」
恥ずかしげに、不安げに、心配そうに揺らいで、覚悟を決めて何かを待っているような強い光をその瞳の奥に湛えた、シルの顔をもう一度目に入れる。
「……!」
それを見て、ネオも覚悟を決めた。
(シルが何かを望むなら、それを叶えるのが惚れた男の義務ってものだろうっ……!)
「いや」
その言葉に、込められた雰囲気に、シルの体が震えた。
言葉から想像されるのは、否定の言葉。何を言われるか怖くて、それでも聞くと決めてじっと耐えるように、無限にも等しい時間を待つシルへ、ネオはついに告白する。
「たぶん、一目惚れだったんだ」
「ぁ…………」
シルが、安心したように声を上げた。耐えられるようにきつく結ばれた口元はほころび、不安げに伏せられていた目は開き、恥ずかしげに下を向いていた顔が真っすぐにネオの顔を見据えた。
「シルを見た瞬間に、僕はもうシルの事が好きになっていたんだと思う。その時からシルの事を四六時中考えるようになって、仕事の時だって頭の片隅ではシルのことを考えていた。出来るだけシルの近くにいたいと思ったし、シルの隣にいることが出来る任務に命じられた時は本当にうれしかったよ。シルと一緒に色々な所に行ったのはすごく楽しかったし、幸せだった。今この瞬間だってそうだよ。シルと一緒にいられるだけで、僕はとても幸せな気持ちになれる」
「あ、あぁぁ…………」
シルの瞳から、透き通る雫が零れ落ちた。
両手で口元を押さえる純白の少女は、その美しい肌を羞恥ではない感情で赤く染めて、嗚咽を漏らす。
雫は途切れる事なく零れ続けて、少女の頬をいつまでも濡らしている。
「私、は……私はネオの……」
その感情と雫で美しい顔をぐしゃぐしゃにした少女は、自らの気持ちを少年に吐露しょうと口を開いて。
「今はいいよ」
少年に止められた。
「どう、して……っ?」
驚いたように訊く少女に、少年は答えた。
「その答えは、シルが記憶を取り戻してから聞くよ」
再び、少女の頬に銀線が走った。
本当に、少年は少女のことしか考えていなかったのだ。今その返事を確定させてしまうと、少女が記憶を取り戻した時困ったことになってしまうかもしれない。だから、少年は自分を殺してでも聞きたいはずの返事に耳をふさぐ。全てはただ、少女のために。例えそれによって少年が少女と離れなければならなくなったとしても、少女が幸せに笑っているその側に、少年の居場所が存在しなかったとしても、少年は絶対にこの選択を後悔しない。なぜなら少年が本当に望んでいるのは少女の幸福だからだ。
少女は、そんな少年の気持ちを理解した。
しかし少女の気持ちは決まっている。
少年が記憶を取り戻した時を心配するのとは対称的に、少女は記憶を取り戻した時のことなど全く心配していなかった。
少女のその感情は、昔の記憶のあるなしに左右されるなんて事は絶対にないと言い切れるからだ。
もし、少女が失った過去の中で恋人を作っていたとしても、少女は少年を選ぶとはっきり言える。
それは、記憶を失ったという未来を持たない少女の選択であって、今、記憶を失って少年の隣にいる少女の選択ではないからだ。
でも、少女はそうやって心配してくれる少年の優しさを無下にすることなんか出来なくて。
少女はその上で、少年の気持ちに報いることの出来る言葉を探す。
「ねぇ、ネオ」
「なに……?」
「私とネオは、ずっと友達よね……?」
「もちろん」
ネオの答えに、二人は意味なく顔を見合わせて。
そうして、二人で笑いあったのだった。
◆ ◆
次の日。
ネオは昨晩セットしておいたモーニングコールで目を覚ました。
「ううん……」
出来るだけ右手を伸ばして手探りで頭上を捜し、受話器を台から外す。
時刻は朝6時半。
寝起きの体を起こして、左手を確認する。
左手は、シルの手と繋がれたままだった。
……別に二人は同じベッドで寝た訳でも無いし、寝た訳でも無い。関係はまだ、友達以上恋人未満のままだ。
ただ、昨晩は少し寒くて、そういう風に暖を取りたいと二人が思っただけだ。
「シル、朝だよー?」
「ううん……」
昨日の疲れがまだ残っているのか、まだ少しまどろんでいるシルの綺麗な寝顔をネオは眺める。
少し経って、まどろみから覚めたシルが静かに目を開けた。
「おはよう、シル。よく眠れた?」
「おはようネオ?」
まだとろんとした目のままのシルは、反射的に挨拶をして、周りを見回して。
自分の手がネオと繋がれているのを見ると、
「…………っっ!!」
それを強引に離して顔まで布団を被ってしまった。
あとから昨晩の事を段々思い出したのだろう。ネオに非が無いことを思い出したのか、シルは少し顔を布団から田して、朱に染まったまま言った。
「あり、がと……」
その様子にネオは幸せな気分になるのであった。
◆ ◆
「……六時半起床、6時48分部屋を出てレストランに向かい、7時1分朝食を摂る。7時44分レストランを出て部屋に戻り、中で外出準備を行う。8時26分チェックインカウンターにて外出手続きを行いホテルを出発、街中をうろうろした後に9時6分テイメントパーク到着、か。馬鹿かお前は」
青年は平日のためにあまり混んではいないテイメントパークで、つねに二人を視界に収めながら呟いた。
その呟きは、襟につけた小型マイクに拾われて電波に乗る。
即座に返ってきた声は、耳の後ろにつけられたワイヤレス骨伝導スピーカーによって脳内に響いた。
『え、なにかまずかったですかね?』
「アホか新入り、誰が新入りの行動を報告しろって言った、俺達の任務は新入りの護衛と敵スパイの洗い出しだぞ。良いか新入り、考えて動け。こんなものが本当に必要か?」
『護衛対象の事を新入り言うのやめてください、会話が分かりにくいですよっ!』
新入りの抗議を黙殺してチャンネルを切った青年は、再び意識の焦点を二人に戻した。
青年の視界の先では、二人−ネオとシルが談笑しながらテイメントパークの売店でなにかを買っている。
『シルは何味が良い?』
『ええと……いちご』
『わかった。すみません、チョコといちごもらえますか?』
高性能の集音マイクが50メートル先の二人の会話をクリアに再生した。
(あっちは平和そうだが、さて)
青年は意識の焦点を、二人から全体へと変える。
注意を、二人の行動から二人へ意識を向けている人間へと向ける。
ずっと同じ方向を向いている人間というのは珍しい。たいていは、長くても10秒程度で方向をずらす。
逆にいえば、それ以上見詰めている人間は怪しいということだ。
しかし、敵スパイだってそんなことは心得ている。だから、端から見れば不自然ではないように一点を見続ける技術というのを絶対に身につけている。
だがそうすることが分かっていれば、その特徴を抽出してルーチンを割り出し、それを行っている人間を暴き出せば良い。
青年は視界に入る人間全てを精査していく。
「10時23分、視界の範囲クリア」
青年は呟いた。
今度の呟きは襟のマイクに集音はされているが、共有はされていない。ただのメモだ。
(こういう監視をやるか行くと予想される所の安全化とかをやれって言ってるんだよ、新入り。ったく、こういうのは自分で覚えないと意味が無いからな、面倒臭い)
他にも何人もが青年と同じように二人を監視しているはずだ。さらには、一番近くて高い建物の上にいて、ライフルと双眼鏡片手に広域監視している人もいる。通信管制と護衛本部を潰されないために残った人もいるし、あらかじめ売店の人間を洗ってスパイでないかを調査する人もいる。
(少し考えれば分かることだ、さっさと気付けよ新入り)
色々な人に無自覚に見守られながら、二人は楽しそうに過ごしていた。
◆ ◆
夕方。
一日テイメントパークで遊んで疲れた二人は、ベンチに座って喋っていた。
「楽しかったね……」
「うん、私は絶叫系はダメみたいだったけど、それ以外なら楽しかった」
「ぼくも絶叫系はあまり好きじゃ無いからちょうど良かったよ……」
「そうよね……」
「この後どうする? ナイトイベントもあるみたいだけど……?」
「ナイトイベント? どんなのがあるの?」
ネオの言葉に食いついてきたシルに、ネオはパンフレットを取り出してシルにも見えるように手に持った。
「ええと……? パレードの後に花火大会だって」
「花火……。ネオ、行かないっ?」
「わかった、行こうよ」
花火という言葉を聞いて嬉しそうに訊くシルに、ネオは苦笑しながら頷く。
「といってもパレードが始まるのは6時、花火が7時半らしいからまだ1時間くらいあるね。どうする、なにかもうちょっと乗る? それとも軽食でも食べる?」
「ううん、ここでちょっと話してたいな……」
「……そっか。ちょっと疲れた?」
シルの言葉に上げかけていた腰を下ろしたネオは、シルを気遣うように訊く。
「うん、ちょっと疲れた……かな?」
「じゃあ明日はちょっと寝坊しても良いか、予定も入ってないしね」
「そうね……。……今日は本当に楽しかった、こんなにネオと歩き回っていろんなものを見たのは初めて……」
「そうだね、僕もシルと一緒に遊園地を回れて嬉しかったよ」
「また……、来れるかな?」
「来れるよ。また一ヶ月後には休暇が来るし、何ならまた明日来れば良いんだから」
ネオの言葉に嬉しそうな表情を浮かべたシルに、ネオの心は弾む。
「ねえネオ、教えてよ」
「何を……?」
首を傾げるネオに、シルは笑って言う。
「ネオがいつもなにやってるのか」
「僕が、なにをやってるか……?」
「うん」
シルの期待の眼差しに、ネオは考えを巡らせる。
「シルが来る前は、普通に情報部で情報処理の仕事をしていたよ。レオリア帝国との情報戦もあったけど、いつもは物資の割り振りとか、そんな感じの仕事だった」
「へぇ、ネオってすごいのね、そんな仕事を任されるなんて」
「いやいや、これくらいなら情報部のみんなやってるよ」
照れたように言うネオに、シルはさらに質問を重ねた。
「じゃぁ、私の監視が終わった後の午後は、それをやっているの?」
ネオはシルのその質問に、反射的に答えてしまう。
「ううん、今はフリズスキャルヴの調せー、あっ」
途中で気付いて口を閉ざしたネオは、シルに秘密にしてもらうように言おうとして。
「シルごめん。これは秘密だったんだ、聞かなかったことに……っ!?」
シルの様子が変わったことに気付いた。
シルは、その美しい顔を歪ませて、なにかに耐えるように、不思議な表情を続けている。
「フリズ、スキャルヴ……?」
シルの口から呟きが漏れた。
次の瞬間。
「きゃあああああああああああああああああっっっ!!!!」
シルは、絶叫する。
「シ、シルっ!?」
叫びのせいか、急に慌ただしくなる雰囲気の中、ネオは気を失ったシルを支えることしか出来なかった。
◆ ◆
そこから先は、展開が急過ぎて、あまり覚えていない。
シルが気を失った直後、周りから人が沢山出てきてあれよあれよという間に病院へ、シルと一緒に送られた。
その数時間後には、ヘリコプターに乗せられて2時間ほどで基地に戻らされた。
軍人を、しかも機密情報に近い所にいる人間に近しい者に、機密漏洩の可能性がある外の病院に置いておく訳にはいかないということらしい。
結果的に、二人は救護室のシルの部屋に戻ってきた。
苦しそうに横たわるシルを、部屋の中でネオは見ていた。
「どうしたんだろう……? まさか、記憶が……?」
この数時間で何度も何度も自問自答した、その心配。
記憶を取り戻す事は、ネオにとってまだ吉凶判別つかないものだった。
シルが、思い出した記憶の中の恋人を取ったらどうしょう、自分の元から離れてしまったらどうしよう、とそんな恐怖ばかりが頭を巡る。
それでも、結果的にネオはシルの気持ちを尊重するのだろう。離れるシルを、祝福して送り出すのだろう。
しかしそれは、今悩まない理由にはならないのだ。今恐怖を感じない理由には、なり得ないのだ。
少年は、それでも少女の傍に寄り添い続ける。
少年にとって、辛く厳しい時間がゆっくりと流れて行く。
◆ ◆
一斉に、記憶がなだれ込む。
少女の頭の中に、寝ていたとしても夢という形で再生されつづける。
昔の記憶が。
忘れていた記憶が。
忘れていたかった記憶が。
少女は、恐怖する。
恐怖の記憶を、思い出す。
それはー。
◆ ◆