種馬としてのプライド
ずっと、ずっと、兄たちと比べられて生きて行くのだと思っていた。
何をやらしても優秀な彼ら二人は、貴族の間でも一目置かれた存在として注目を浴び、さらには王子の友人としての役割を十分に果たしていた。
僕の世代の子どもは誰も敵わない。
遙か雲の上の存在。
それが僕の兄たち。
そんな彼らとの兄弟である証とでもいうのか、金髪碧眼と目鼻のパーツだけは引き継いだ。恐らく生まれて間もない頃は、三番目の優秀な子どもの誕生として大切にされてきたのだろう。
だけど、そんな記憶はない。
中身が伴わなければ、見た目がどれほど優秀な兄たちと同じでも相手にされない。いや、似ているからこそ比べられ、見劣りするのだろう。同世代の子どもたちを始め、みなが僕を不出来と呼ぶ。
子どもは残酷な生き物だから親が見ていないところで僕を嘲るけれど、その言葉は彼ら両親が僕がいないところで言っているのだろう。それを知ったのも偶然で、本当に僕は駄目な人間なんだ。
ただ、彼らの言葉を責める気にはなれなかった。
なぜなら僕は何をやらせても本当に駄目で、勉強を教われば人よりも進むのが遅い。やっと進めたと思えば、一つ前のことを忘れている。
僕の金髪の髪が、先生の座る右側だけ授業が終わると乱れることになっても仕方がない。
学ぶことが苦手なのだろう、と見切りを付けた父が次にとった行動は剣を学ぶことだった。三男なのだから家を継ぐことはできず、士官する他ない。この頃には父の愛情が欠片かもしれないけど、残っていたんだろう。
だけど、僕には剣を振るうことができなかった。
剣を振るための子どもようの剣を持ち上げることができないという、致命的な問題が見つかる。次に体力作りをすることになったけれど、まともに走ることもできない。
これが魔法も礼儀作法も……貴族の息子というだけでなく、人間としての劣化品というレッテルを貼られても仕方がない。
そのレッテルは年を追うごとに増えていく。
兄たちの名声が広がれば広がるだけ、重なるように。
気付けば息苦しくて、身動きがとれなくて、姿形だけは似ている兄たちの姿を目に入れないように、息を殺して生きていた。
そんな時だ。僕の婿入りが決まったのは。
僕の家は貴族の中でも上位の爵位を持っている。
その三男といえば引く手あまたのはずだけど、この頃の僕は楽観視するほど愚かではなかった。
この話は体の良いお払い箱なのだ。
とはいえ、これだけの失敗作を街に捨てないだけましなのかもしれない。
僕が婿入りする条件はとても簡単なものだった。
種馬としての役割を果たすこと。
貴族の爵位継承は男児しか認められていない国が多い中、我が国では女児の爵位継承が認められている。そのため婿入りしたとしても爵位をもらえるわけもなく、求められる能力は種だけ。
とはいえ、齢八歳の僕にその証を示せとはいわないだろうが、成長した後に能力がなければ婚約を破棄されるだろう。
僕が婿入りする先の伯爵家には女児しかおらず、伯爵位を受け継ぐため勉強をするのは早い方がいいと動きだし、国王に爵位継承を一旦認めてもらったらしい。
継承者が認められた今、伯爵家に必要なのは次代を受け継ぐ者。
それを手に入れるためには男が必要なのだ。
優しい優しいどこかの貴族の娘が、求めるのは僕ではなく種をもつ馬なのだと。婿養子先を訪れる前日にそう教えてくれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
連れてこられたケイトゥ伯爵家は侯爵家よりも小さかったけれど、遠目から見ても分かる白い壁は柔らかなクリーム色をしていてどこか温かみを覚えた。それでも次第に近づいてくれば緊張で呼吸が浅くなり、手に汗が浮かんでいた。
侯爵家の馬車を降りて伯爵家の中へと足を踏み入れる。
伯爵家の執事なのか、清潔感溢れる初老がエントランスで出迎えをしてくれた。そんな彼が言うには屋敷の中では堅苦しいからという理由で外での顔合わせをすることになったらしい。
僕に異論はなかったけれど、付き添いできた執事候補が抗議を申し立てる。
父でもなく、執事でもなく……候補。
下位の者を軽んじる父らしく、僕の婿入り先など興味がないのだろう。
抗議をしている執事候補も僕のためではなく、侯爵家の名前を貶める行為だと考えているだけだ。従者すらつけてもらってない僕にはこの程度の扱い。
「……ぼく……庭がいい……」
五分ほどだろうか。
互いに冷静に、それでいて無駄な押収を繰り広げていたのは。
僕は立っているのも疲れてきたのでそう小さな声で呟いた。
運良くもこの声が伯爵家執事の耳に入り、彼はどこか申し訳なさそうな顔をして頭を下げてくれた。そして執事候補も僕という存在を思い出したのだろう。本日のみとはいえ、主を放り出しているという事実から目を背けるように空咳をして、庭での顔合わせを許した。
(ぼくが一人で来られれば良かったんだけど……)
僕は知らない屋敷に一人で行くことが怖かった。
お見合いの席は初めてのことだし、似たようなお茶会に参加してもいつも失敗をして帰ってくる。だから、フォローをするという意味で付き添いが必要だった。彼はとても慇懃な態度で世話をしてくれそうだと、自嘲ではなく安堵という意味で笑みが浮かぶ。僕一人では侯爵家の名に泥を塗るだけだ。
心の中でまだ見ぬ女性に謝りながら、伯爵家の執事に案内されるまま庭へと向かった。すぐ後ろにいるであろう執事候補の見張るような視線に恐縮しながら、とぼとぼと歩いた。その間に二度ほど躓いたけど、ため息だけだった。初めてのお宅で叱責なんてされたらどうしようと思ったから安心した。
そして辿り着いた場所は童話の世界が広がっていた。
大人三人が横に並んでも歩けるほどの大きなアーチは色とりどりの花を咲かせ、葉っぱが太陽の光をすかし、葉模様を浮かび上がらせる。普段は眩しすぎる光りもこうして一枚隔てれば柔らかくなるのだとこの時僕は知った。
アーチは等間隔で続き、奥へと進んでいく間に鳥のさえずりが耳に優しくこだまする。
何年ぶりだろうか、こんなにも心穏やかになれたのは。
侯爵家の庭もそれは美しいけれど、父も母も僕が近づくのを良しとしない。どうしてなのかはわからないけれど、たぶん枯らすと思っているのだ。何をしても駄目な僕だから。
それぞれ違う花を咲かせたアーチを抜けると途端に、僕の足は鉛をつけられたように重くなった。目の前に白く美しい意匠をこらしたテーブルと椅子が、待ち構えたように置かれていたからだ。
テーブルの上にはティアードトレイが二つ。それぞれ違うお菓子が用意されている。すぐ後ろにはワゴンの前で待機しているメイドが二人。布で隠されているけれど、そこにはティーセットが用意されているのだろう。
一応は歓迎されているのだけれど、これも侯爵家に対しての物であり僕自身に向けられたものではない。わかっているけど、胸が痛んだ。彼らもきっと失望させてしまうから。
「さっ、伯爵の前に行きご挨拶をなさってください」
僕の背中を少し押し、前に出るように囁いてくるのは執事候補だ。彼に逆らう気概なんてものは持ち合わせていない僕は言われるがまま、重い足を引きずるようにして動かした。
案内をしてくれた執事は恰幅のいい男性のすぐ後ろに控えた。ではあれが伯爵本人だろう。目があえば作り物めいた笑みを向けてきた。
(この人が……。奥方を深く愛しているんだ)
伯爵夫人は数年前に亡くなったと聞く。本来なら後妻を迎えてもおかしくはない歳だけど、彼はとらないと明言してした。その流れをくんだ今回の伯爵位後継者の決定らしい。
らしい、というのは全て知り合いの公爵令嬢が聞いてもいないのに僕に告げてくるのだ。自慢げにこんなことも知らないのだろう、と。
ため息が零れるのを我慢しながら進み出て、伯爵の近くで止まった。近くと言っても手を伸ばしても届かない距離。適切と呼ばれるのはもう少し近づいたほうがいいのだけど、僕は真上から見下ろされるのが怖いからこの距離が限界だった。
父の外向けの笑顔ととても良く似た顔をゆっくりと見上げる。
(ああ、でも……どうしよう。ぼくなんかと目が合って、不愉快にならないのかな)
何より――僕の噂は聞き及んでいるのだろう。侯爵家の不出来な三男坊の話を。
見下ろす瞳に嘲りの色が浮かんでいたらどうしようか。後ろに立つ執事候補の視線を痛いぐらい背中に感じているけど、見上げる顔が途中で止まり横に逸らした。俯けば怒られることを知っていたから。
でも、その先にいた小さなお姫さまと視線がぶつかった。
「!!」
あっ、と声を上げなかったことだけは自分を褒めたい。
だけど、きっと気付かれたはずだ。僕は口を開けて間抜けな顔をしているから。彼女の存在に驚いていることに。
(ぼ、ぼく、なんて駄目なんだろう。あの子の存在を忘れるなんて……ぼく……)
あわあわと自分を責めているとかさっ、と近づいてくる足音を耳が拾った。
俯いたまま音のしたほうに視線を向けると大きな足と小さな足が見えた。ふたりが僕のところまで歩いてきている。
ドクンッ、と心臓が大きく跳ねる。でもここで俯いたままは失礼だからと言い聞かせ、緊張をなんとか押し殺し顔をあげた。
伯爵家の嫡子である彼女の装いは驚くほどシンプルなドレスだった。流行に疎い僕は知らなかったけれど、後に人づてに聞けばこの時の流行っていたドレスの型らしい。
切れてしまうのではないかと不安になるような細いビーズで彩られた紐を両肩にひっかけ、ドレスを支えている。バスト下で切り替えられたドレスは裾へいくほど淡い色で刺繍が施され、とても美しいものだった。
僕は……と見ればなんの変哲もないタキシードでみすぼらしい気持ちになる。
さらに俯きかけた時、彼女は更に一歩近づきついに僕の目の前まで移動していた。そして、ドレスの裾を持ち上げ軽くを腰を落とした礼をとった。
「初めまして、アシュレイ・ケイトゥと申しますわ。このたびは当家までわざわざご足労いただきありがとうございます」
お手本のような美しく無駄のない所作で挨拶する彼女は、なんて自信に溢れているのだろう。
自分の後ろにいる兄たちを思い出し、僕とは違う人種なのだと悟る。
彼女のことを真っ直ぐ見ることができず、目を逸らしたままぼそぼそっと自分の名前を告げる。
「オ、ズウェル・ローステスト……と……申します……」
「……ねえ、緊張しているの?」
「ぇ、ぁ……っ」
意図的に砕けた口調で話しかけてきてくれたのだ。そんな気遣いができる彼女に言葉を返したいのに、どもってしまうだけだった。
やってしまった、と泣きたい気持ちのまま沈んでいく。もう帰りたい。帰って部屋に引きこもって一生でなければいいんだ。
僕なんて……僕なんて……。
「大丈夫?」
青みがかったグレイの垂れ目がちな瞳が僕の顔を覗きこんできた。弾かれるようにして顔を上げると思いの他距離が近くなっている。驚いたまま一歩、二歩と後ずさると、彼女は首を傾げた。さらり、と流れる菫色の髪から甘い芳香が漂い、僕の琴線に触れた。
「あ……あの……」
真っ直ぐ見られることに慣れていない僕には、その瞳の色は強すぎる。すぐに逸らしたくて俯く。
それを是、と受けとったのだろう。
「正直なのね」
あっ、と思ったときに時分の失敗に気付く。
呆れられただろうか。急に起きた不安に押しつぶされそうになっていると彼女の小さな笑い声が聞こえた。
笑われた事実に顔が熱くなる。
バカにされたんだと、もうこの場から逃げたいと泣きそうになっているとこころに聞こえたのは「わたしも」という小さな同意だった。
「え……」
顔を上げた時にはアシュレイ嬢は父親の方に向かって体を向けた。
後ろ姿を追いかけながらドクン、と胸が大きく脈打つのを感じる。これはなんだろうと慌てながら、不快感がないことに安堵する。
僕はいつだって他人と関わると嫌な気持ちになって、翌日体調を崩すのだ。
「お父様、この方がわたしの旦那様になるの?」
「成人した時、お互いが問題ないと感じたならだけどね」
言外にアシュレイ嬢が嫌だと言えば、この婚約はなくなると言っているようなものだ。僕のような自信のない子どもを見ればそれも仕方がない。
恐る恐る見上げると伯爵はお嬢さんを抱き上げ、愛おしそうに笑いかけていた。
――愛されているんだ。
僕とは違って、と感じてしまい弾んでいた心臓の音が小さくなっていく。
「わたしにはまだ良く分からないけれど、これから育んでいけばいいのよね? お母様もお父様とそうやって結婚したって聞いたわ」
「ははっ、私とお前の母さんは運命だったんだよ。そして、アシュレイの運命の相手はきっとどこにもいないよ」
親バカという代名詞が浮かんだ。
「んもう! わたしにはわたしだけの王子さまがいるわ! お父様、降ろして。わたし、彼とふたりで過ごしてくる!」
伯爵本人は渋い顔をしつつ、目的は婚約者との顔合わせだ。
更に言えば爵位は僕の家のほうが上なのだから、無下にできるわけもなくお嬢さんの言葉に従った。
そして――
「行きましょう、未来の旦那様」
後ろで手を組んで愛らしい笑顔を浮かべ、僕に向かってそう言った。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
アシュレイ嬢が案内してくれたのは大きな木の下だ。そこが彼女のお気に入りの場所らしい。どうしてかと聞けば、ブランコが設置されていて気持ちがいいのだとか。
「でも……今はありませんけど」
「数日前にロープが切れてしまったの。わたしが激しく揺らすからだって、しばらく禁止なのよ」
納得がいかないのか頬を膨らませる姿は先ほどの淑女としての所作はなく、年相応に見える。
「ねえ、わたしはあなたと婚約することに問題を感じてないわ。まあ、今のところはだけど。あなたはどうなの?」
「……え、えっと……」
切り替えの早さに驚き、なんて言えばいいのか分からなくなってしまう。
「ぼ、ぼくは……その、ぼくでいいのかな、って」
「うん、いいわよ。じゃあ、お互い問題ないってことでよろしくね」
垂れ目がちな瞳から想像していた性格とは違い、案外押しが強いのだと知る。そんな彼女に僕なんかで本当にいいのだろうか。
いつか婚約破棄されるのであれは、少しでも早いほうがいい。そう思い僕は自分の欠点を知られる前に伝えることにした。
「あの……ぼく、本当に駄目で……」
「え? 何が?」
「勉強……とか、運動とか……特技が一個もなくて」
もじもじと指を絡ませ、しどろもどろになって呟く。
「うーん、あなに何も特技がないってことでいいんだよね? それで?」
打ち明けたんだ。すっきりした途端、僕の婚約者、という人にあっけらかんと質問を返されてしまった。なんて返事を出せばいいのか分からず、質問に質問をしてしまった。
「……そ、それでって……?」
「いや、だから、それがなんなのかって思って」
「ぼく、きみとは違って……」
「え、何が?」
小首を傾げ口元に指を添える。それだけで妖精のように美しく見とれてしまう。ぼーっとしていると風が悪戯をするように彼女のスカートの裾をはためく。瞬間、羽ばたき消えてしまうのだと思うほど幻想的な光景が広がった。
でも、彼女はそんな幻想を打ち壊すようにクスクス笑う。
「わたしだって特技なんてないわよ。あるとしたら、お喋りなこの口ぐらいだわ」
「……で、でも……立派に挨拶してた」
「あんなの付け焼き刃に決まってるじゃない。侯爵家の息子を婿に貰うのだから、見栄ぐらいはらないとね」
「……そ、そっか……」
意味もなく納得してしまうけれど、彼女の特技は度胸なんだろう。こんな風に堂々と普通は言えない。少なくとも僕には無理だし、兄たちにあてがわれた令嬢たちはみな楚々とした振る舞いに白い歯を見せないよう静かな微笑みを浮かべるだけ。
アシュレイ嬢は違う。
自分に自信があって、ないにしても他人にハッキリと告げる度胸がある。
羨ましい、と僕はそう思った。
「あなたも気にしすぎじゃないの?」
「……悩んだこともないの?」
「うん。だって、遊ぶほうが楽しいから」
僕の考えを否定するかのように言い放つ。
彼女に言ってあげたい。違うよ、と。君にはその愛らしい顔や、クルクル変わる表情や、耳に心地良い伸びやかな声や……ああ、上げだしたら切りが無い。知り合って間もない僕ですら簡単に彼女の素敵なところを上げられる。
そんな人に特技なんて必要ないんだと。
必要なのは何か足らない人間で、それを補う必要がある者だけなのだと。
なんて言って伝えればいいのか悩んでいると彼女は大きな木に寄りかかりながら僕に言う。
「何もなくても大好きなお父様や友だちがいるから。それで十分だわ」
それすらもない僕はなんなのだろう。
「愛されてるってことも特技のひとつなのだとしたら、わたしの特技ってそれかも」
「……じゃあ、ぼくが君を愛したら君の特技のひとつになれる?」
「…………なんか違う気がするんだけど?」
「ぼ、ぼくにも特技が欲しいんだ……。でも……自信がないから。それなら君の特技になりたいなって……。それともぼくにも特技があるのかな」
君の特技を僕が見つけたように。
期待をこめてそう問うと、婚約者はにっこりとそれは愛らしい笑みを浮かべた。
「知らないわよ。あなたのこと今日知ったばかりだから。でも、自分で考えて『ない』と思うんなら、ないんじゃないの?」
愕然とした。
彼女はにっこりと甘い顔に辛辣な言葉を乗せ僕の胸に突き刺したんだ。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「……またこの夢か」
十年前の記憶。
婚約者であるアシュレイと出会った日を何度も何度も僕の夢は繰り返す。
僕が見たいと思っているかだろう。あの時感じた想いを忘れないために。
八歳の時に初めて出会ってから芽生えた感情を失うことはなく、未だに心の中にくすぶっている。
僕も彼女も成長した。
相変わらず僕には特技らしい特技はないけれど、今ではどうでもいい些細な問題だ。
そんなものよりも大切なものがある。プライドというものだ。これを守るには更に精進しなければならない。
「やっとこの日が来たんだ」
独り言が消えると、今日一日のスケジュールをこなすためベッドから起きた。
食堂に入ると思いがけない人物が新聞を読みながらそこに座っていた。
定番の席に座るまでの距離で挨拶をする。
「おはようございます、父さん。珍しいですね、本宅にいるなんて」
珍しいことではあるけれど、この父親と一緒に朝食をとるのかと思うと辟易とする。理由は簡単だ。
「大学の成績を見るためにな。随分と優秀のようだな」
「ありがとうございます」
「伯爵家の娘だったか。お前がこれほど立派になると知っていれば、同格もしくは上を狙ったんだがな」
アシュレイですよ。
自分であてがってきた婚約者の、それも十年という年月を一緒にいるというのに名前を覚えていないとは呆れて言葉もない。
「僕の成績を見るためだけにこちらに?」
「まさか! 公爵家のご令嬢がお前にエスコートを――」
「今日は彼女のエスコートがあるから無理です。なぜ、デビュタントを迎える婚約者がいるのに、他の女性をエスコートしなければならないのです」
父親の言葉を遮り、膝の上に置いたナプキンを投げ捨てるように席を立ちながら告げる。
彼が僕に伯爵家の婿という役割を与えてくれたことには感謝している。ただ、それを壊そうとするのであれば敵だ。
「お前が嫌なら私の力で」
「取り決めでは双方の気持ちがない場合のみ破棄が可能となっています」
にがりきった表情を浮かべる父親に向かってそう告げた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
彼女は本当に多くの人に愛されていた。聡明なだけではなく、可憐な姿やちょっと生意気な口調も全て魅力的なのだから仕方がないだろう。
誰をも魅了する魅力を持つ彼女を時々、腕の中に閉じ込めてしまいたくなる。実行しては耳のふちまで真っ赤に染め、潤んだ瞳で見上げ腕を叩かれる。この瞬間、歓喜に体が震えた。
こんな風に他人に幸せを与えることができる人間がいるだろうか。
いない。絶対にいない。いたらアシュレイの真似をしたまがい物だ。
僕はそんな彼女の婚約者。
馬車を降りてエスコートしながら、白いドレスを着たアシュレイを見下ろす。
胸元が大きく開いた形は最後まで反対したけれど、大人としての魅力を現わすにはこの形が最適なのだろう。
「まだ拗ねているの?」
アシュレイはさっきから一言も喋らない僕を見上げ、小首を傾げる。
結い上げている髪のほつれ毛が揺れ動き、うなじの艶めかしさをより演出する。僕の体は言葉にできない熱を帯びるけれど、ぐっと堪えながら首を横にふった。
「ううん。すごく綺麗だから見惚れちゃっていたんだ」
「まさか! 馬車に乗っている間中、ずっと?」
「うん。レイ、すごく綺麗だよ……。この日を君の隣で祝える僕は幸せ者だね」
「大げさなのよ。でも、ありがとう」
照れ隠しなのかちょっときつめの返事がくる。
こんな表情を他の男に見せたくなくて思わず周囲に視線を走らせてしまう。しかし、遅かった。会場入りしたと同時に、彼女を狙う男たちの視線は向けられていたようだ。
デビューするのは今日だというのに、他の男たちに彼女の美しさは有名ですでに花の女神に例えられていた。
父親である伯爵が親バカを発揮してあちこちに自慢していることも関係しているが、学校で彼女の姿を何人も目にしていることが起因だ。
本来、女性であれば高等学校までは通わない。しかし、彼女は女伯爵になる身。男同様学ばなくてはいけない。そのため、デビュタント前だというのに多くの男性に知れ渡り、多くの貴族の視線を攫う形になった。
――彼女に見惚れるのも仕方がないんだけどね。
立ち姿は凜としていて、口紅なんていらない艶やかな蕾みのような唇。そして、幼い頃から変わらない、咲き誇るような笑顔。
自分を飾らない、と見る目のないやつらは言うけれど、飾る必要がないのだ。ありのままの彼女は美しいのだから。
幼い頃の自分を褒めてやりたい。美しく育った彼女の隣に立つための努力は並大抵のものではなかったけれど、今では相応のものを得たと確信している。
「ねえ、国王さまのお話が始まるより先に友だちと合流したいのだけど、いい?」
「もちろんだよ。僕はずっと君だけのものなんだから」
「平常通りで喜んでいいのかな?」
肩を竦めながら、それでも僕の腕を掴む手は強く握られたままだ。彼女は育った環境から緊張を表に出さないよう教育されていたけれど、僕にだけ頼っている。そのことが嬉しくて自然と口元が緩んでしまう。
そんな時だ。四方から色とりどりのドレスを身に纏った女性たちが近づいてきたのは。
「オズウェル様、こんばんわ。今日の夜会服も素敵ですね」
「ありがとうございます、ニルダーナ嬢」
「オズウェル様! この前の学会での発表とても素晴らしかったですわ」
頭だけを下げ、レイを見下ろす。
「レイ、喉は渇いてない? まだダンスの時間まであるから、あちらの方で軽食を――」
「オズウェル様、お待ちしてましたの。この前のパーティーではダンスの相手をしていただけなかったでしょう? 今回こそはと思って」
次々と現われる女性にうんざりしていると、頭一つ分身長が低いアシュレイは肩を竦め僕から腕を離した。
「あなたに用事があるようだから、わたしはお友だちと一緒にいるわ」
「待って、レイ!」
追いすがろうとすれば隙を与えまいとして蛾が群がってくる。その間にも彼女は人混みを縫うようにして立ち去ってしまう。
僕が他の女といても君はなにも思わないの? そんな不安が押し寄せてくる間にも、女性たちは僕を囲う。
ああ、面倒だ。
邪魔でしかない存在が僕を不安にさせる。全員消えてしまえばいいのに。
彼女たちはじりじりと獲物を狙った獣のように間合いを詰めてくる。逃げたくても前後左右を囲われてはどうすることもできない。嘆息すれば何を勘違いしたのか、頬を染め見上げてくる。
僕が君たちに囲まれて喜んでいるとでも思ったのだろうか。
「この前の学会の発表を聞いて、父が是非我が家に来て欲しいと言っておりまして」
「まあ、我が家にも是非! オズウェル様がもしよろしければ、領地のほうにもいらしていただければ……」
侯爵家の三男というものは彼女たちにとって魅力的なのだろうか。
僕の努力が実りだしてからというもの、こういった女性が多くなった。
「みなさん、オズウェル様が困っておいででしょう? 今日は婚約者のアシュレイ様もご一緒なのですから」
現われたのは公爵令嬢であり、この場でもっとも権力を持つ家の出だ。そのためか、女性たちは道をあけ、やすやすと僕の目の前にやってくる。
隣にアシュレイがいないことを知って、嬉しいのか一段と唇の端が持ち上がる。
「オズウェル様には休息が必要だと思うのです。発表のための研究でお忙しかったのでしょう? 女伯爵を支えるというものはかくも大変なのですね。しかしあまりご無理をせず、私には本当の貴方を見せてくださいね」
何も答えたくなくて、肩を竦めてみせる。
「何より、あなたぐらい優秀な方でしたら、婿養子……それも女伯爵の夫になる必要はないのではありませんか?」
「君がそんな風に褒めてくれるなんて思いませんでした」
「まあ……そんな……」
くすっと笑ってしまっても仕方がない。
忘れたとは言わせない。彼女は幼い頃、優秀な兄たちと比べ続け、能なしと言ったんだ。
何より、彼女の言葉はまったく僕の心には響かない。
今までは放置していたけれど、さすがにこれからは相手にできない。
「申し訳ないけれど、あまり格好悪い姿を婚約者の前で晒すような真似をさせないでください」
「……まあ。その程度のことであなたを手放すのなら、私と」
「レイとの距離が広がるにつれ、僕の心は黒いもので染められてしまうんです。でも、それは種馬としての役割から外れている。こんな気持ちを抱くのは恥ずべきことなんです」
「………………は? た、た、ね?」
僕の周りを囲う女性たち間からさざめきが起き、皆が一様に顔を赤く染める。
まったく琴線に触れることのない変化にさらに追い打ちをかけるように告げた。
「僕はたしかに学業も魔法学も剣術も人より少し秀でていますけれど――」
全て、彼女への愛の証となるために努力。
「僕の特技は愛しい愛しい婚約者を愛するこの心です。彼女の種馬になる、それだけが生きがいなんですよ」
つ、と視線を向けると何か感じ取ったのかアシュレイが顔を真っ赤に染めこちらを睨んでいる。今の会話が聞こえているはずがないのに。何を怒っているのか気になり、彼女のほうへと向かうことにした。
「失礼、婚約者が僕を呼んでいるようなので」
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「レイ、もしかして僕が彼女たちとお喋りしていることに嫉妬してくれたの?」
「あなた、わたしたちが社交界でなんて言われているか知っているの!?」
質問の答えとしてはなっていないけれど、レイが僕を見上げてくる瞳が可愛くてどうだって良くなってしまう。
「知らないけど、なんて言われているかなんて興味ないよ。ただ、そうだね。最近の君は僕に対してそっけない上、婚約破棄について打診してきたけど……それと関係しているの?」
デビュタントが決まる少し前。彼女に呼び出され、婚約を続けるか否かの確認をされた。
学院でアシュレイを見ているのは男だけではない。アシュレイ自身も知り合う機会があったということだ。僕以外の男を彼女が欲しているのだろうか。そう思うだけで胸が焼き付くほどの感情がわいてくる。
「違うわ。破棄っていうけど、あれは一応確認を――」
アシュレイが周囲の視線を気にするように声のトーンを抑え僕に告げる。だけど、焦る僕にはそんな気遣いはできない。
「僕は君の種馬にもなれないの、アシュレイ? そのためだけに頑張って体を鍛え、君の子どもが恥ずかしくないよう、尊敬できる父になろうと知識を得てきたのに!」
「ち、ちが……! っていうか、お願いだから、その単語を止めてって前から言っているでしょう!」
何を恥ずかしがっているのか分からないけれど、こんな時でもアシュレイは可愛い。
耳まで真っ赤に染め、抑えきれない熱が瞳に薄い透明な膜を張る。潤んだ瞳は忙しなく動き、彼女の豊かな表情を彩る。
気に入らないのは周囲の視線を気にしているところ。この中に好きな男がいるのかい? それならここで決闘を申し込んだっていい。僕以上に最高な種馬はいないってところを彼女に証明するために。
「止めないよ。僕以上の種馬を見つけたんだろう? それは誰? 僕は君を手放せない。だから、どうか決闘をさせてくれないか」
そっけない原因がなんなのか探るけれど、まったく身に覚えがないのだ。そこにきて婚約破棄をしないか、という打診。
これは確定としかいえない。
「僕にとって女王さまの馬になることだけが生きがい。それを邪魔する輩は一切を排除するつもりだよ。愛人なんて絶対に認めない。種馬にも種馬としてのプライドがあるんだよ、アシュレイ」
「ち、違うから! 本当に他の人を選びたいとかじゃなくて……!」
「じゃあ、僕の種でいいの?」
「だ、だから……もう!」
アシュレイの手が僕の肩を叩く。話を聞けということらしい。
「わたし、ちゃんと貴方の努力の結果を知っているの。だから……」
「じゃあ、今すぐ僕を君の種にしてくれるの?」
「もう馬鹿!! 何、馬鹿なこと言ってるのよ!」
「だってそうだろう? 僕の努力はまだ実を結んでいないんだ、確約をもらわないと不安だよ」
「なんてことを人前で言ってるの!? 噂の出所はやっぱりあなたね!」
何を怒っているのかわからなくて、アシュレイの気持ちを宥めるように背中に手を回す。なのに、彼女は肩を怒らせ払う。そのまま口を開きかけたけれど、周囲の視線が気になったのだろう。背伸びをして僕にだけ聞こえるように耳打ちする。
「う、噂になっているのよ。あなた方が夫婦になる前に……その、体を繋いでいる、と」
ああ、だからさっき僕のことを見て怒っていたのか。
「……今さらそんなことで恥ずかしがっているの?」
しどろもどろになりながら恥ずかしげに語る様子が可愛くて、支えるように腰に手を回す。彼女は恥ずかしがりながらもがくけれど、そのたびに鼻孔をくすぐる甘い匂いが漂う。酩酊しそうになるけれど、腕から力が抜けることはなく永遠にこの時が続けばいいと思った。
だというのに彼女は顔を真っ赤にして、叫んだ。
「当然みたいな顔しないで! わたし、あなたに指一本、触れさせていないわ」
「その通りだよ。僕の体は綺麗なままだよ。ああ……でも、君を啼かせたくて色々と知識は仕入れているよ」
「~~~~~~~~~~~馬鹿っ! オズなんて知らないわ!」
開いているもう一つの手で、彼女の白魚のような美しい手を僕の頬に添える。と、悲鳴を上げる。何にそんなに驚くのだろうと不思議に思っていると、胸を勢いよく押され腕を離してしまう。と、そのまま逃げていった。
追いかけようにも呆気にとられて足が動かない。
「……どうして逃げられてしまうんだろう」
僕の質問に答えてくれたのは近くで事の成り行きを見守っていた友人だ。
「いや、誰がみたってお前が悪いだろ。というか、もっと言い方ってものがあるだろ?」
「それはまあ……」
事情というものがある。
最初の頃は友人としてしか見られていなかったこと。彼女に近づく男たちが、婿養子に入る者は侯爵家の人間ではなく身分が下の夫のほうがいいのでは、と話を持ちだしたこと。早々に僕という男のものになったと勘違いさせたほうがいいと判断した末のことだ。
まあついでに僕にたかってくる羽虫避けにもなるかなと。気味の悪い男を演じて……いや、本音だから演じてはいないな。
「それにしてもさ。お前にはプライドってもんがないのか? 男として立身したいっていうかさ」
「あるに決まってるよ」
「へえ、じゃあやっぱり婚約破棄するのか? もしくは立場を奪うとかか?」
何をこいつは言っているんだろう。
そんなものに何の意味がある。僕が認められているもの全て、アシュレイのために学び得られた結果。彼女がいなければ僕はすぐに進む道を失い、昔の何もできなかった頃に戻ってしまうだろう。
そんな簡単なことも、僕自身でなければわからないらしい。なら、分からないようなので教えてやる。
「少しでも彼女の役に立つよう知識を得、体を鍛え、彼女に幸福な家族を作り、女伯爵となった時に支えること。彼女の特技であり続ける大切なパーツで居続け……そして彼女をどろどろに甘やかして、アシュレイの愛情を一身に向けられる存在になることだよ」
そう、それが種馬として選ばれた僕のプライド。