第二話(十八章~三十四章)
第二話です。
十八 四者会談
神・ブラーからのアリスとアイリーン、そしてサタンへの呼びかけにより、四者会談が行われることになった。場所はミスラのリッピ県、アイリーンのいる家だ。
予めアリスはアイリーンと電話で話した。
アイリーンはこう言った。
「リッピ特産の干しあんずをあげたらサタンは喜ぶかな」
「さあ……彼の好みが何であるかわからないけど、ピザとかの方が好きそうじゃない?」「そうかな。素朴に干しあんずで攻めてみるよ」
「私は何かプレゼント持っていったほうがいいのかな」
「自分の考えの通りにするのが一番だよ」
「じゃあケーキ持って行こう。じゃあ切るね、またね」
「はーい」
アリスは次はブラーと電話で話した。
「はい、ブラーですけど。アリスさん?」
「そうです」
「聞いていいですか? サタンの心がわからないんですよ」
「サタンの心? 私の方がまだ理解があるかも」
「そうでしょうね。私は宇宙の善の部分を司る者ですから、サタンとは正反対なんですよ」
「取り持ちましょう」
「よろしくお願いします」
「では失礼します」
このことを聞かされて、僕は希望を持った。
僕はアリスさんの家の前でアリスさんにこう言った。
「サタンと和解できれば、地球もミスラみたいに苦しみの少ない星になるかな」
「どうだろうね。サタンはサタンなりに苦しさとか抱えてるだろうから、その寂しさとか、どれだけわかってあげられるかだね」
二週間後、アリスとブラーはアイリーンの家に行った。アイリーンはテーブルの上に急須と干しあんずを用意していた。アリスは持ってきたケーキをテーブルの上に載せた。
時間より十五分遅れてサタンがやってきた。その姿は五十五歳くらいの、ぼろのような服を着た男だった。
「サタンさん、はじめまして」アイリーンはお辞儀をした。
「ああ。あまりていねいじゃなくていい」
アリスも続いた。
「サタンさん、はじめまして」
「ああ」
ブラーは言った。
「アイリーンさん、席に着かせていただいていいですか」
「どうぞ。みなさん席についてください。……まずお茶とお菓子を配ります」
そう言うとアイリーンは急須からそれぞれの湯呑みにお茶を注いだ。その次に、干しあんずを三個づつ皿に載せて配った。
「次は私がやる」アリスはすでに箱の中に入っているケーキをみんなに配った。
「まず食わせてもらってから話をするんでいいかな」とサタンが言った。
アイリーンは「いいですよ」と答えた。
サタンは干しあんずを一個一個味わって食べ、ケーキも意外においしそうに食べるのだった。
サタンは言った。
「お茶は興奮するから飲まない」
アイリーンはこれに応じた。
「じゃあミネラルウォーターでも」
サタンはコクリと返事をした。
サタンは言った。
「言っていいかな? この世的なものはよくないって地球のクリスチャンが言うけど、本気で言ってるのかね、彼らは。金とセックス、広い家、高級車、有名人のコンサート、そういうものが人間の幸せだろう。クリスチャンの言っていることは負け惜しみのように感じるんだが」
アリスが言った。
「愛はないの?」
サタンは答えた。
「多くの夫婦は相手の顔に満足してないだろ。ブサイクな女房やブサイクな夫に愛なんか感じられるか?」
アイリーンは「ごもっとも」と言った。
サタンは続けた。
「夫婦の間に愛情があるなんて、いい顔の夫婦だけだろ。不公平なんだよこの世は」
ブラーが話し出した。
「その不公平をなくすために、あなたが地球を管理するのをやめていただきたいんです」
「俺が管理しなかったらどうなる? 食べ物の大量生産は中断するぞ?」
「いまはもうあなたの時代ではないんですよ。宇宙の色々な星の住民が見た夢、それがミスラというすばらしい星を作ったんです。地球だってあなたが管理をやめれば、素晴らしい星になるんです」
「つまり『この世の神サタン』である私は必要ないと」
「いえ……特にやめてもらいたいのが、テレビ中心主義というか、アイドルやタレントに興味を持たない子がいじめられるとか、そういうこの世的で地球的な世界のありようが変わってほしいんです」
「テレビは楽しいだろう」
「そう思わない人もいるんです」
「いじめがある世界が悪か?」
「もちろん」
「強い者が弱いものを従わせる、そういう世界はいけないか?」
「駄目です」
アイリーンが割って入った。
「まあまあ。お二人ともちょっと落ち着いてください」
アリスはケーキを食べながら二人のやりとりを観察していた。
ブラーは言った。
「人間も動物も可能な限り幸せになる権利があると思います」
サタンはこう答えた。
「人間は絶望の中でしか生きられない。それが現実なんだよ」
ブラーは言った。
「そうですか。あなたは私より少々心が幼いようだ」
サタンは言った。
「人間には幸せなどない」
そして彼は立ち上がり、手のひらに収まる大きさの赤い宝石のようなものを頭の上にかざすと、「じゃあな。交渉決裂だ」と言って、その場から消えた。
アイリーンは言った。
「ブラーさん、追い詰めてどうするんですか」
ブラーは答えた。
「ええ。冷静さを失ってしまった」
アイリーンはテーブルの上を片付け始めた。そして言った。
「もう少しいい話ができると思ったんだけど、善と悪がこんなにも会話が成立しないとはね」
アリスとアイリーン、ブラーの三人は解散し、それぞれの目的地へと帰った。
僕とエステルは、アリスさんが帰ってくるのを、彼女の家の前で待っていた。
「おーい!」アリスさんは魔法のじゅうたんの上から手を振った。僕ら二人も手を振り返した。
「交渉決裂だった」と、アリスさんは魔法のじゅうたんを丸めながら言った。
エステルは「それは残念ね」と言った。
僕は言った。
「地球は幸せな星にはならないのか」
アリスさんは答えた。
「そうみたいね」
僕はエステルに向かって言った。
「ねえ、エステル。今日は鯛の実と豚肉の実のしゃぶしゃぶにしようよ」
「いいよ。私スーパーに行ってくるね」
「うん」
その日は、メートと言われるポント太陽系の赤い惑星がいつになくギラギラと輝いていた。
十九 ソーダの実
ずっとラプターに会っていなかった。今、どうしているかな。
僕は「ソーダの実」を持ってアリスさんの家を訪れた。
ピンポーン。
「はーい!」というアリスの声。
アリスさんは半袖短パンという姿で現れた。ブロンドの髪が映える。何という妖艶さ…… でも浮気はダメだ。第一アリスさんにはアランがいる。
アランも顔を出した。
「こんにちは川村さん」
「こんにちは。今日はソーダの実を差し入れに持ってきました」
「ソーダの実ですか。シュワシュワしておいしいんですよね」
「ええ」
アリスさんは言った。
「ラプターにも食べさせよう」
僕は言った。
「文鳥に炭酸なんて食べさせて大丈夫?」
アリスさんはこう答えた。
「うーん、だめかも。前にネットの動画見たら文鳥が炭酸にむせてた。……とにかく上がって」
僕は家に上がり、居間に行った。畳敷きの居間だ。
アランが言った。
「私は畳が好きなんです。私の要望でこの居間は畳にしました」
僕は答えた。
「そうなんですか。僕も畳は好きですよ」
アリスさんは僕の手からソーダの実を取って台所に行った。
アランは言った。
「川村さんは紅茶がお好きなんでしたよね」
「ええ」
「ちょっと待ってくださいね」
居間の低いテーブルの上には電気ポットが置かれていた。アランは後ろの戸棚から紅茶のパックとティーカップを取り出し、お湯を注いだ。
「これもどうぞ」アランはテーブルの横にあった土産品のような菓子の箱を手に取った。
「ぶどう餅です」
「ぶどう餅?」
アランは箱を開けた。
ぶどう果汁五〇パーセントと書かれた紙が入っていた。やわらかい求肥餅のようなものらしい。
一つ取って食べてみた。
「すごい。ほんとにぶどうの味がする」
「すごいでしょう」
切り分けたソーダの実を載せた皿とラプターのかごを両手に持って、アリスさんが戻ってきた。
かごの中からラプターが言った。
「僕もソーダの実食べたい!」
アリスはかごを開けた。ラプターはかごから出るとすぐにソーダの実にかじりついた。
ラプターは言った。
「薄い炭酸だから僕にも食べられるよ」
「そう、それはよかった」とアリスさんは言った。
「僕も食べていいですか」と僕はアリスさんに聞いた。
「もちろん」
ソーダの実はメロンの味で、大変甘く、果汁に少しだけ炭酸が入っている。そういう味だった。
僕の憂うつは流れ去り
思春期と青春は化石になった
あんまりきれいな化石ではないが
今では 大事な宝物
僕はアランに聞いた。
「アランさんは高校は共学校でした?」
「そうだけど、どうして?」
「ミスラには男子校や女子高ってあるのかなぁって思って」
「男子校も女子高もないよ」
「そうなんですか」
「地球にはあるんですか」
「ええ。貴重な思春期を失ってしまいましたよ」
「かわいそうに」とアリスさんが言った。
「親と担任が強制的にその学校に入れたんだ」
アランとアリスは悲しそうな表情をした。
アリスさんは言った。
「青春がなかったの?」
僕はうん、と答えた。そして言った。
「悪魔に消去されたんだ。二十一歳から三十八歳まで、地獄の苦しみを味わわされた。でもよく考えると、偏差値がふた回りも低い、しかも理系の男子校に入れられたのは、悪魔が担任と両親を洗脳して実行させたことだと思うんだ」
アリスさんは言った。
「地球は悪魔がいるのにそれを強迫神経症とか、統合失調症とか…… 悪魔のかたを持って! この前サタンに会ったんだけど、猫をかぶってた。サタンもアイリーンやブラーさんは怖いみたいで。実際はもっと邪悪な存在に決まってるよ」
僕は言った。
「地球からサタンは消えないのかな」
「消えて欲しいよね」
二十 カレン
僕は父であることも、夫であることも忘れて、ただ近隣の林に向かった。途中、暖かい夕立が降り始め、僕を癒した。時計は防水なので大丈夫だったが、濡れて気持ちが悪かったので外した。四時五十八分。
林に入ると雨は僕の体に届かなくなった。林にはアケビがなっていた。僕はそれをむさぼり食べた。ああ、小学校のころから人生をやり直せたら!
アケビを六個くらい食べたら、もうお腹いっぱいになった。
そんな時、雨宿りにでも来たのか、二十代くらいの女が現れた。なんという美人なのか。エステルはかわいい顔で処女だったので僕の願いを満たしてくれた。でもこの女は僕の欲情を引き起こす顔立ちと体つきをしている。
「こんにちは」美人はそう言った。
「ここにはアケビがなっていますよ」と僕は言った。
「そう」女はアケビを手に取ると、上品な手つきでそれを食べた。
「僕は川村典弘。あなたは?」
「カレン」
「カレンさんですか」
「あの、あなた、今不倫をしたがっているでしょう」
「わかりますか」
「ええ。私も人妻です」
「いいのかな」
「いいと思いますよ。家庭は崩壊するけど」
「……」
僕は、壊れていく運命を選ぶべきなのか。滅びにこそ活路があるような気もする。エステルやアンナと会えなくなっても、この赤い口紅の女と一緒に生きていくか――
カレンは突然僕の唇に口づけた。
僕は彼女に抱きしめられ、どうすることもできなかった。
そして落ち葉の上に押し倒され、僕は騎上位で奪われることになった。
カレンは言った。
「このまま進んでもいい?」
僕は「うん」と答えた。
エステルと結婚する前、僕は処女を求めていただけだったが、僕の本当の望みはそうではなかったのかもしれない。僕は自分と同じ好色な性質の女を求めていたらしい。
後背位で攻め、次はシクスティ・ナインを試みた。
熱情。
これこそ僕の求めていたことだ……
ひととおりの性交渉が終わると、彼女は電話番号を紙に書いてくれた。そして言った。
「絶対家では電話しないでね。外からかけて」
「わかった」
「じゃあまた今度」
カレンは着衣の乱れを直し、林を出ていった。
二十一 優しい家族
僕は濡れたまま家に帰った。
「ただいま」
エステルが迎えてくれた。
「おかえりなさい。……びしょびしょだね。すぐタオル持ってくるから」
「いや、いいんだ。風呂に入る」
「そう。ご飯、カツ丼だからね」
「うん」
僕はどうしたらいいのか。不倫を始めたときは、行けると思った。でもやはり家族愛にそむく行為はしてはいけなかったのか?
カレンの魅力は捨てがたい。
もしかしたら僕は、地球から働きかけるサタンの魔手に堕ちつつあるのかもしれないな、と思い、つらかった。
アンナが風呂場の引き戸のところに来て、戸を閉めたまま言った。
「お父さん、国語のテストで九十点取ったよ!」
「そうか、よかったな。お父さん、ちょっと悪いことしちゃったんだ。お前はいい子だな」
「悪いことしたの?」
「うん」
「そうなんだ」アンナは残念そうな声でそう言った。そして去っていった。
カレンに会いたい。
なぜ僕は心が二つに引き裂かれているんだ。
取り返しのつかない失敗をしてしまった。
離婚して、カレンと内縁関係にでもなればいい。僕のような父親はエステルとアンナの家には必要ない。そうだ。それで行こう。
涙が出てきた。
カツ丼。豚肉の実から作ったカツ丼。
「おいしいと思うよ」とエステルは言う。
「うん」僕はいただきますと言ってカツ丼を食べ始めた。
僕が泣きながらカツ丼を食べているのを見て、エステルが言った。
「どうしたの? 何かつらいことでもあったの?」
僕は言った。
「ごめん。僕はエステルとアンナを裏切ったんだ」
「裏切った?」
「浮気をしたんだよ。カレンさんていう人と。今日その人と出会って、サタンの誘惑にやられて……」
「そうなんだ」エステルは下を向いてしまった。アンナはどうしたらいいのかわからないという顔をしていた。
「僕は出て行くよ」
「出て行ってどうするの」
「カレンさんと暮らす」
「そんなのいやだ!」とエステルは言った。
「お父さん出て行かないで! サタンのせいならしょうがないよ!」アンナはそう言って、僕のほうに来て僕にすがりついた。
「僕は取り返しのつかないことをしちゃった。許してもらえるとは思えない」
「許すから!」エステルは強く言った。
「お父さん、出て行かないで!」アンナは必死だった。
僕は言った。
「僕はどうやって償ったらいい?」
「あなたはサタンの被害者だよ。悲惨な思いをしたのはあなた自身でしょ」とエステルは言った。
「そうかもね。ごめん!」そう言って僕は頭を下げた。
「しばらく夜はあれだけど、我慢してね」とエステル。
「うん。自業自得だからね」
エステルは僕の好きなメロン百パーセントジュースを冷蔵庫から取り出し、僕の前に置くのだった。
「これでも飲んで、元気出して」
「ありがとう」
カワムラ家の平和は元に戻るだろうか。愛が強くとも、痛手は大きい。
二十二 アリスの子
アリスはアランの子をはらんだ。これでアリスは神のハーフを生むことになる。
アリスの家で、アランは言った。
「はい、アオヅル」そう言ってアランは安産の薬であるアオヅルのエキスの入ったグラスをアリスに手渡した。
「ありがとう」
アリスはアオヅルを少しづつ口に含んで飲んだ。
「アオヅルってどんな味がするの?」とアランは言った。
「飲んでみて」
アランはアオヅルを口に含む。……甘い。甘くて独特の芳香がある。
「結構おいしいね!」
「でしょ」
「早く赤ちゃんの顔が見たいなぁ」
「まだ早いよ」
「待ちきれないんだよ」
「そう。……川村さんのとこのアンナちゃんももう七歳だね。川村さん夫婦はアンナちゃんを立派に育てているね」とアランは言った。
「うん。……地球での出産じゃなくてよかったね。地球はサタンに支配されている場所だから、アオヅルはないもんね」
「うん。……川村典弘さんが浮気したってこと、聞いた?」
「聞いてない」
「エステルが言うには、サタンがそうさせたんだって」
「そうなんだ」
「エステルは、サタンがさせたことなら仕方ないから許すって言ってた」
「悲しいことだね」
「がっくり来ちゃうよ。せっかくみんなで楽しく暮らしてたのに、サタンの悪事のせいですべてが台無しじゃない。本当に、ノイローゼになりそう。サタンは許してはいけない存在なんだね」
「ブラーさんが何とかしてくれないかな」
「あの人は宇宙一の神だから、きっと何か考えてくれているよ。もう! サタンなんか死ねばいいのに!」
森で仕事をしている僕のところに、アリスさんから電話がかかってきた。
「はい、川村です」
アリスさんは言った。
「典弘さん、浮気したんだって?」
「うん」
「つらいでしょう」
「うん」
「地球人は地球なりの魂の育ち方をしているから、サタンの誘惑には弱いんだよね」
「そうなんだ」
「サタンの誘惑が何でミスラにまで届くのかな。もしかしたらその浮気相手の人がサタンの側の人間なのかも」
「そうなのかな」
「真相はわからないけど、四者会談のすぐ後でしょう? サタンの側の人間が接触を図ってきても不思議はない」
「ねえ、アリスさん」
「何」
「ミスラに教会ってないの」
「教会は天国であるミスラには必要ないの。キリスト教ってあるでしょ? それは地球専用なの。人々や動物達の願いが幸せな惑星であるミスラを作った。だから地球とミスラでは人間の生き方も違うのよ。ミスラでの神との関わり方、つまりブラーさんとの関わり方は、特別何かの決まった祈りの言葉を唱えたりしなきゃいけないっていうものじゃなくて、
『ありのままに』っていうことがすすめられてるよ」
「そうなんだ。ありのままに、か。地球にそんな歌があったなぁ。レットイットビーって言うんだ」
「……じゃあ、仕事の邪魔しちゃしけないから切るね」
「うん」
「またお茶会開こうね」とアリスさんは言った。
「うん」
電話は切れた。浮気をしたのでどんなにひどく言われるかと思っていたが、取り越し苦労だったようだ。地球人と違ってミスラ人やフラール人(アリスは神だが)は優しい。
やがてアリスのお腹が膨らんだ。アリスは、これでサタンとの戦いのための大事な戦力が一人増える、と言った。こちら、ブラー側の戦力は、ブラー本人、アイリーン、アリス、そしてまだ名前の決まっていないアリスの子。そのほか、アリスたち以外にもブラーは何人かの神を知っている。
二十三 酒
僕はふと、たくさんの種類の酒が飲みたくなった。だからスーパーで、コーヒーのリキュール、カシスのリキュール、桃のリキュール、炭酸、唐辛子ウォツカ、ミックスナッツを買った。
たまには古い映画でも見ながら酒を飲んでくつろぎたい。
エステルは言った。
「どうしたの? そんなに酒を買い込んで」
「たまにはいいかと思って」
「私も混ぜてよ」そう言ってエステルは僕の座っているソファに割り込んできた。そして、どんな映画? と聞いてきた。僕は、昔地球でやったゲームに似ている映画、と答えた。
映画の始まりの曲。どこか悲しいメロディー。
二人の間に、初めて会った頃のせつなさが蘇る。
映画は悲しみに満ち、この世が無常であると伝えている。
ミスラも完全ではない。いや、人間は完全ではないというべきか。
流れていく日常。すり減っていく、自分と愛しい人たちの寿命。
アリスさん。
僕たちはアリスさんより先に逝くよ。
ブラーさんは地球からサタンを追い出し、宇宙を消さない方向で進めていくと言った。
宇宙の中の生命の原理が死の原理に勝ったのだ。
画面に映る雪だるま。一人ぼっちの雪だるま。
やはり唐辛子ウォツカはおいしい。この酒に勝る酒なし。エステルも気に入っているようだ。
アンナがやってきた。
「お父さん、私にもちょっとだけ!」
「だめ! でも百パーセントジュースならあるぞ。パイナップルとトマトどっちがいい?」
「お酒がいい」
「じゃあ、アルコールの入っていないビールな」
「うん」
冷蔵庫からノンアルコールビールを取り出し、アンナの持つグラスに注ぐ。アンナはそれを飲むと「にがーい」と言って立ち尽くすのだった。
「ハハ、まだアンナには早かったか」
「ジュースがいいな」
エステルが冷蔵庫からジュースを持ってきて、アンナのグラスに注いだ。
「うん。やっぱりジュースがおいしい」
いつの間にか映画は終わってしまった。夕食の後でまた見ることにしよう。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。
誰だろう。
扉を開けると、そこにはアリスさんがいた。もうお腹が大きくなっている。
「酒を持ってきた」とアリスは言った。
「酒?」
「妊娠中は酒が飲めないから、いっそエステルにあげようと思って」
そう語るアリスの持つ手提げ袋の中からは、アーモンドのリキュールとキイチゴのリキュール、そしてビール六缶が出てきた。そして言った。
「引き取って」
「悪いね。代わりにとうもろこしでも持っていく?」と僕は言った。
「うん。とうもろこしおいしいよね」
「うん」
エステルとアンナも玄関に来た。
「アリスさん、こんにちは」とアンナが言った。
「こんにちは。もうちゃんとした文字が書けるようになったんでしょうね」
「はい。結構上手になりました」
エステルも会話に加わった。
「今日はサバの実の塩焼きなんです」
「うわー、食べたいなぁ、サバの実」
「あいにく家族の分しか買ってないんですよ。かわりにタラの実を持っていきます?」
「ううん、タラではサバの代わりは到底つとまらない」
ミスラでは小さい頃から魚のサバやタラなどの絵と、これに対応する植物の実の絵を並べて紹介する教育をしている。
僕は心配になってこう言った。
「サタン対策はどうなってるの? 人間ではサタンには対抗できないんでしょう?」
アリスさんは答えた。
「うん。神か神の血を引く者でないとね。具体的には祈りと祈りのぶつかり合いの勝負になる。祈りの深い者の望むことが実現しやすい。その祈りの実現能力が人間と神では格段の差があるわけ」
「そうなんだ」
エステルが言った。
「お茶でも飲んでいきます?」
「いえ、今日はもう夕飯の時間が近いから」と言って、アリスは断った。
「そう。アオヅルは飲んでるの」
「飲んでるよ。……じゃあ、帰るね」
「また明日」
アリスはまた明日、と言って帰っていった。
二十四 あっけない結末
一ヵ月後、地球から戻ってきたミスラ人により、サタンが自殺したとの報告がなされた。
しばらくの間、アリスは地球人に向けて「夢の中に語りかける演説」を行っていた。それが奏功して、地球人たちのほとんどが「サタンに支配された世界」を嫌がった。サタンが自殺したのは、地球人たちの離反がショックだったからだ。サタンの考えに毒されていた地球人たちは次々と悪い夢から目を覚ました。
ブラーは地球に出張した。地球の建て直しを図るのである。
今日は土曜日。僕は会社員のように土日を休んでいるので、紅茶を飲みながら自分の部屋でくつろいでいた。
昼頃、エステルが部屋に来たので、僕は「ねこまんま」が食べたいと言った。エステルはオクラとなめこの入った味噌汁でねこまんまを作ってくれた。それはとてもおいしく、僕を満足させた。
「もう宇宙に幸せを邪魔する存在はいないんだね」と僕は言った。
「うん。地球もミスラみたいになるといいね」
「そうだね」
二〇一二年に起こるといわれていた「アセンション」は実際には八年遅れになったわけだ。
夕方になって僕は、今日は僕が夕飯作るから、とエステルに言った。買い物にはエステルとアンナも付き添ってくれた。
粘り気がおいしいツルムラサキ (これはおひたしにする)、次にブリの実 (照り焼き)、さらにもやし (味噌汁)、山芋 (とろろ)を
買った。エルト県ではパンが主食の家が多く、エステルもそうだったが、僕が米の食事を持ち込んだら、エステルにもアンナにも好評だったので、うちは米が主食といってもいいくらいになった。
僕は自分の貯金の額が三千四百万ルーネンくらいになったことを思い出し、自分で惑星間航行装置を買って、地球の様子を見に行こうかと考えた。地球はどんなふうに変わっているだろう。マクドナルドが菜食専門の店に変わっていたりして…… 地球に牛肉の木やマグロの木が生えてくるのもそう早い時期ではないのではないかと思う。
楽しい夕食を済ませた後、僕ら家族三人は次々風呂に入った。
そして屋上に上がり、枝豆を食べながら、遠くの川で毎週土曜日に打ち上げられている花火を見た。世界は終わらない。多くの命が、幸せな世界を夢見るその能力によって、世界を変えていく。この世界は宇宙全体にいる全ての命が見た夢の総和なのだ。
僕は何だかせつなくなって、一階に唐辛子ウォツカとグラスを取りに行った。
凍らせた唐辛子ウォツカはトロリとして、
飲み口がいい。
花火が、一つ、二つと、次々に弾けていく。もうそろそろ今日の花火は終わりなんだな、と残念な気持ちになる。唐辛子ウォツカを二杯飲み終えたころ、最後の花火が空に広がった。
麻布十番にいた頃は楽しかった。麻布十番のSクリニックの弁当はおいしかった。交流ノートに書かれた「字の形がかっこいいですね」というメッセージが嬉しかった。当時はまだ僕も字がきれいだった。
地球はサタンに支配されていた。サタンの「この世的」な (この悪の世の)基準にそぐわない者は、精神疾患にされて薬漬けだった。そのための精神病棟と精神科だった。しかしそれももう終わり。地球はサタンの支配する世界ではなくなったのだ。
僕はアリスさんの家に行くことにした。ちょっと行ってくるね、と言い置いて、家を出た。
アリスさんの家のチャイムを鳴らすと、彼女は扉を開けた。お腹が膨らんでいる。
「ああ、典弘さん」
「こんばんは
「こんばんは。どうしたの」
アリスさんは家から出て、ドアを閉めた。
僕は言った。
「地球は今どうなってるの」
「千里眼を使ったら、悪い人たちが改心していくのが見えたよ。ちっとも改めない犯罪少年なんかも見えたけど。地球は少しづついい世界に変わっていってるみたい」
「そうなんだ。よかった。ブラーさんも大変だね」
「神様だからね」
二十五 地球へ
僕は地球の様子を目に焼き付けておきたかった。マグロの木、牛肉の木などももう生えているのかどうかも、知りたかった。
僕は今回はエステルとアンナを地球に連れていかないことにした。地球は過渡期なので何があるかわからないからだ。本当は、サタンが消えたのだから、いい方向へしか向かわないはずだが……
僕は惑星間航行装置を売っている店を知らないので、アリスさんから譲ってもらった。かわりに代金の一千万ルーネンを渡した。
アリスさんは「気をつけて行って来てね。宇宙旅行の前には水分は控えてね」と言った。
「わかった。帰ったら、地球がどうなっていたか報告するよ」
「うん」
僕はアリスさんの家を出て、自宅に戻った。
エステルが玄関に来て言った。
「お茶の時間だよ」
僕が居間に行くと、紅茶とシュークリームの載ったお盆をテーブルに置いてくれた。
ありがとう、と僕は言った。
「これ食べたら地球に行くんでしょ?」
「うん」
「気をつけてね」
僕は紅茶の最後のひとしずくを飲むと、キャリーケースを引きずって、家の外に出た。
エステルは言った。
「気をつけて!」
僕は手を振った。
アリスさんは地球で見えなくなる魔法を使ってくれたけど、僕は魔法なんか使えない。でも大体、地球では何も知らない地球人から目撃されるのを防ぐために、見えなくなる魔法を使ったのであり、誰でも惑星間航行装置が使えるミスラでは、誰かに見られても別に問題はないのではないか。
そう考え、家の前で惑星間航行装置を起動した。みるみるうちに高度が上がり、障壁に守られたまま宇宙へ飛び出す。
一時間、こうしていればいい。一人でいる一時間が長いわけでもない。肉の実や魚の実、そして果物の採集をしているときはいつも一人だ。もっとも、採集をする森で同業者に出会うことはあるが。
ミスラの太陽である青白い恒星・ポントがどんどん小さくなっていく。
僕の神経症を引き起こしたのも、統合失調症を引き起こしたのも、地球で悪魔つきを統合失調症という病気だと人々に思わせているのも、どれも悪魔だ。邪悪なものがひたすら僕を苦しめた。人々はそれを「病気」だといって、苦しくなる薬品を投与し、僕を苦しめた。
人の心が通い合っていれば、そんなこと (服薬の強制)は起こらないはずだ。
なぜいやだという薬品を投与しようとするのか。
自然破壊が進んでいない未開発国 (未開発国とは発展途上国のこと)では人の心が豊かで、統合失調症は少ないと言われている。そもそも薬が買えないから自然治癒するという話である。発展途上国では助け合いがなされるから人の心は回復していくという意見もある。
目を閉じていると、一時間はすぐに経った。惑星間航行装置のアラームが鳴り、着地点である東京に近づいていることを知らせた。
着陸するところを地球人に見られても大丈夫だろうか? いや、もうすでにミスラ星から地球に来た旅行者は多いらしいのだ。堂々と着地しよう。
僕は実家の近くの自動販売機のそばに降り立った。
着地してすぐ、僕は自動販売機でジュースを買った。意外なことに、実家の近所の家から中村由利子の曲が聞こえてきた。僕は立ち止まって聴き入ってしまった。サタン的価値観に毒されていないピアニスト。
途中、子供に綿あめを持たせて子供と一緒に歩いている親を見た。親子愛があるようでほほえましかった。
地球がサタン的価値観から脱しようとしている。
さらに、駐車場を見ると、キイチゴがなっていた。地球が変わろうとしているんだ。
宇宙のみんなが見た夢がこうして現実に現れてくる。
アンナももう七歳。もうそろそろ恋を覚える年齢だろうか。クラスに気になる子はいるのだろうか。
実家に着いた。赤い車が停めてある。次兄が来ているのだ。
チャイムを鳴らすと、母が迎えた。
「久しぶりだな。どうしてた」
「地球に来るためのお金を貯めてた」
「そうか。上がりな」
テーブルの上にはういろうと急須が置かれていた。次兄がういろうをかじっている。
「食えよ」と言って彼はういろうの方を指差した。僕はそこにあったペティナイフでういろうを切り、いただきますと言って食べた。
母が言った。
「お茶と一緒に食べなきゃおいしくないぞ」
次兄が僕の湯呑みにお茶を入れてくれた。僕はありがとう、と言った。
僕はさらに言った。
「地球に何か変化ない? 地球を支配してたサタンが自殺したんだ」
次兄が答えた。
「変化? そうだな、ベジタリアンが増えてる」
「そうなんだ、やっぱり。ミスラ星はベジタリアンばっかりなんだよ」
「それから、鶏肉に似た細胞を持った実がアメリカで発見された」
「おお! やっぱりそうなんだ。地球もベジタリアンに移行しようとしてるんだね」
「俺もベジタリアンになったぞ」
「そうなんだ。普段何食べてるの」
「とうもろこしのゆでたのとか、インド風のカレー」
「カレーおいしそうだね」
何ヶ月か前に、ソラマメを原料とした「豆のだし」が発売になったと次兄は言った。コンソメ味とかつおだし味があるのだという。
兄は言った。
「それから、家の相場が二百万円くらいになった。経済学者は経済の大幅な健全化が起こってるんだって言ってる」
「そうなんだ」
窓から流れ込む風にカーテンが揺れている。
ゆっくりしていきな、と母は言った。
兄が「ビール飲むか」と言ったので、一缶飲んだ。そして僕は風呂に入ることにした。
六時に夕飯にするから、と母は言った。
僕はバスタブに入った。実家の風呂も寝て入る浅い風呂なのだ。
でも、人生って、それほど楽しいものじゃないかもしれない。エステルと出会ってお互いの体を求め合ったあの頃は至福だった。でも今は…… もちろんアンナはかわいい。でも仕事をして家族に奉仕するという毎日、疲れるんだよね。
いや、僕はまだサタンの影響力の消え去らない地球の負のエネルギーにやられているのか?
バスルームの引き戸を誰かがノックしている。
「典弘、スイカジュースを作ったからここに置いとくぞ」
母だ。母は去っていった。
僕は引き戸を開け、スイカジュースを取ってバスタブに戻った。小さい頃から母はこういう格別においしいものをたくさん作ってくれた。カワハギのスープや鯛のスープが特においしかった。
地球はサタンの支配する肉食領域だったわけで、その頃の味――魚のスープは、これからは我慢しなくてはならない。地球の人ならカワハギの実や鯛の実がなるのを待ち続けるしかない。でもミスラにはカワハギの実も鯛の実もある。
居間で、兄がコンポから宇多田ヒカルの曲を流しているようだ。
スイカジュースを賞味してから僕はシャワーのお湯で口をすすぎ、風呂を出た。
吸水性の高い、くたびれたバスタオル。それで体を拭いたら、二缶目のビールが待っていた。
今日の料理は焼きナス、ゴーヤチャンプルー、枝豆、ゴマ豆腐、豆ご飯だった。母なりに菜食を工夫していいるらしい。
近所から青い鳥であるオナガの声が聞こえる。ギョー、ギョー、という荒い声は「オナガの悪声」として知られている。地球でも動物達と人間が共存する時代が来るのか。感慨深いものがある。
いつも大きな悪いニュースに生きている実感を求めた。湾岸戦争のときも。貿易センタービルのときも。
でも、そうした不幸な出来事がなくなると、かわりに、橋ができたとか、植物の新種発見とか、結婚とか、明るいニュースばかりになるだろう。ミスラはそうなのだ。僕がテロや戦争などのときの興奮を思い出しているということは、僕はまだ地球人的気質が抜けていないということかもしれない。
僕ら家族はビールを飲み、料理を食べ、最後に市販のゼリー……を食べようとしたが、ゼラチンは動物 (豚ではないかと思う)の体から取っているので、やめた。兄は「今度集まったときは寒天ゼリーにしよう」と言った。
母は「何日間居るつもりだ」と聞いてきた。僕は「一泊二日で帰るよ」と言った。
夜。目が覚めて、ジュースを買いに行くことにした。区画整理で街が一新されたことに伴い、近所に自動販売機が何台か置かれた。あたかも砂漠の街のようなその場所で、僕は街灯の光を浴びていた。
自動販売機にはジュースがたくさん並んでいるが、ここには動物の遺体が含まれた飲み物はない。冬になるとポタージュやコンソメスープが出てくるが、方向性を改めた地球人はそういうことはもうしなくなるかもしれない。
僕はグレープフルーツ百パーセントのジュースを買って、飲んだ。
ミスラの魚の実には、皮や殻 (海老)のうまみがないことが難点だ。でもミスラ人は小さい頃から生きた魚やエビなど食べずに育っているので、何も疑問は感じないらしい。
空き缶をくずかごに捨てて家に戻った。母も兄も寝ている。
僕は再び床についた。
翌朝はお茶漬けだった。
生きることは虚しいと思っても、昨夜見た砂漠の街のような風景を胸に抱いて生きれば、生きられる。
僕はこの砂漠のような街や、木々の匂いと潮風が香る葛西臨海公園、そして神保町や秋葉原、麻布十番の街並みを愛しながら生きてきた。
街で印象を追いかける。そしてそっと風が吹く。そんなとき、僕は生きていることの喜びをかみ締める。
僕は母に「帰る」と言った。「もう少しゆっくりしていけばいいのに」「せっかく惑星間航行装置を買ったのだからすぐ帰るのはもったいないんじゃないか」と母は言った。
僕は秋葉原あたりを散歩していくのもいいかなと思い、もう一泊していくことにした。
僕は言った。
「じゃあ、秋葉原に行ってくるよ。久々に秋葉原の街を歩いてきたい」
母は答えた。
「そうか。じゃあ行ってきなさい」
僕は手を振って実家を後にした。
都営新宿線に乗り、岩本町を目指す。大学時代は、カバンに文庫本や新書を詰めて、ヘッドホンステレオも携帯していた。毎日が楽しかった。大学は中退してしまったけど、今はエステルやアンナがいてくれて嬉しい。
一之江を過ぎると地上に抜け、船堀に着く。船堀のダイエーも結構品揃えのいい店だ。でも僕は特にそこで降りはしなかった。
電車は川を越え、東大島に着く。そしてまた地下に潜る。そこから八駅進んだところが岩本町だ。
岩本町や小川町は都営新宿線から秋葉原の街に行くときに降りる駅だ。岩本町で降りると、橋を渡った向こうに書泉ブックタワーがある。
電気街に来た。「萌え」系の展示をしてある店が目立つ。
秋葉原にビルはそびえ立ち、鳩は空を行く。
そして僕はミネラルウォーターを買う。
僕は駅ビルの二階でミントのチョコレートを買ってから、それを食べながらゲームセンターに行った。最近は格闘ゲームばかりなのだろうか、一人で楽しめそうなゲームが見当たらなかった。しかし僕はもう地球を出て七年になる。四十五歳のおじさんがゲームセンターをふらふらしているのもどうか。
僕は最後に石丸電気に行き、中村由利子のCDを一枚買って帰った。CDプレイヤーなら実家に置いてある。ミスラと地球のコンセントの規格は違うから、乾電池もたくさん買っていこう。
僕が実家に帰ると、兄はもういなかった。忙しいのだろう。
母はそばの実をゆでたものを作って待っていた。味付けは干し椎茸と昆布だ。じゅんさいも入っている。
そばの実を食べながらビールを一缶開けた僕は横になって休んだ。
「疲れたのか」と母は言った。僕はうん、と答え、なぜ秋葉原から帰った自分の気持ちが沈んでいるのか考えた。多分、最近までサタンが支配していた地球にいるからだろう。
二十六 青年ルイ
僕は惑星間航行装置でミスラに帰り、仕事に復帰した。ウェストポーチに入れたCDプレイヤーで中村由利子の曲を聴きながら仕事をした。今日は鶏肉の実を採集している。例によっていくつかの実を市場で売らずに持ち帰る。豊かに実を生じるミスラの大地に感謝だ。
採集を終え、アリスさんの家の前に乗り付けた。
車を降りてチャイムを鳴らすとアリスさんが現れたが、化粧が途中だったため、変な顔だった。
「化粧が終わるまで待って」
僕はわかった、と言い、車の中でガムを噛みながら待った。
地球酔いをしてしまった。サタンの負のエネルギーが残っている地球。ミスラのような天国にいたので、地球人としての負のエネルギーに対する耐性を失っていたのだと思う。
その時、悲しそうな顔をした二十歳くらいの男が歩いてきた。チェックの半袖ワイシャツにスラックスという姿で、肩掛けカバンをかけている。
男は僕の車とアリスさんの家を見比べた。
僕は思い切って声を掛けてみることにした。
車を出て僕は言った。
「あの、あなた、アリス・フラールさんに御用ですか」
「いえ、別に」
「何か用なの」
「いいんです。さよなら!」そう言って男は横道に逃げてしまった。
何だろう。彼はまるで若い頃の僕じゃないか。気になる。ああいう人を無視していいものだろうか。
アリスさんが扉を開けて出てきた。買い物袋を二つ持っている。
僕は言った。
「何か変な男が来てたよ」
「どんな人」
「若くて、清潔感のある服装で、恥ずかしがり屋みたいな感じの男だった」
「ああ、ルイ君。ルイ君だ」
「ルイ?」
「ルイ・ロワーヌ君。大学生」
「アリスさんとあの子はどういう関係なの」
「橋でずっと下を見て悲しそうにしてたから、声をかけてあげたの。僕には恋人もいないし、大学の単位も取れないって嘆いてた」
「そうなんだ」
アリスは妊娠しているお腹を軽く撫でながら言った。
「私、お腹こうでしょ? スーパーに行きたいの。車で連れて行ってくれない?」
「いいよ」
「ありがとう」
僕は助手席にアリスさんを載せて、車で五分くらいの場所にあるスーパーに行った。駐車料金は二百ルーネン。
「何か飲みたいなー」と僕は言った。
「地下の生ジュースにすれば」
「そうだね」
地下に行くと、黒マンゴーのストレートジュースがあった。僕らはそれを買い求め、二人で飲んだ。
そしてアリスさんはカートに次々食料品を入れていった。かぼちゃ、ねぎ、シソ、タマネギ、じゃがいも、冷凍ピザ、チョコレート、スナック菓子、昆布、干し椎茸、マッシュルーム、ヤングコーン、シリアル、食パン、豚肉の実の生ハム……
僕はアリスさんの方を見て言った。
「ねえ」
アリスさんは答えた。
「何」
「アランさんて結構稼ぐの?」
「まあまあだね」
「何の仕事してるんだっけ」
「高校教師」
「そうなんだ。……話は変わるけど、あのルイ・ロワーヌって人、その後どうしたの」
「橋の近くの喫茶店に連れてって、話を聞いてあげた」
「ふーん」
「家族とうまくいってないんだって」
「僕もそうだったけど、結局は和解できたんだよね。時間が解決することもあるって思う」
「でも本人は悩みのさなかだからね」
「うん」
「で、友達になってあげたの」
「そうなんだ。また会えるかな」
「会えるんじゃない」
僕はスパークリングワインを二瓶、豚肉の実の生ハム一つ、そしていかり豆を一袋買った。
アリスさんが言った。
「いかり豆! しばらく食べてなかった。おいしいんだよねこれ」
「うん。皮が切ってあるタイプだから安心して食べられるよ」
「私も買っていこう」
アリスはいかり豆を五袋もカートに入れた。
アリスの買ったものは合計で一万ルーネンを超えた。僕は二千九百ルーネンだった。
僕は身重のアリスさんを気遣い、両手に買い物袋を持った。
アリスさんは言った。
「重いでしょう。申し訳ないね」
「いいから。それより出産がんばってね」
僕らは車でアリスさんの家に帰った。アリスさんは買ったものを家の中で整理すると(スパークリングワインや生ものを冷蔵庫に入れた)、再び僕の車に乗った。エステルやアンナに会いたいのだという。
車が自宅に着いた。
アリスさんを見たエステルは言った。
「いらっしゃい! 何か用意するね」
「だんなさんスパークリングワイン買ってきたよ」
「そうなんですか。……典弘さん、スパークリングワイン、食事の時にする? それとも今飲む?」
「今はビールが飲みたい」
「わかった」
「生ハム買って来たよ」
「そう。生ハム大好きなんだよね」
アリスは言った。
「私も大好き」
アリス、エステル、アンナ、僕の四人がテーブルにつき、生ハムを食べた。僕とエステルはビールを飲んだ。アンナとアリスさんは百パーセントイチゴジュースだ。地球ではあまり見受けられないが、ミスラでは百パーセントイチゴジュースも百パーセントメロンジュースも店頭に並んでいる。
僕は言った。
「エステルはルイ・ロワーヌさんって知ってる?」
エステルは答えた。
「知らない」
「大学生なんだ。以前の僕みたいな境遇だから、他人事と思えなくて」
「今度その人を海辺に誘ったら喜ぶんじゃない?」
アリスは言った。
「そうだね。今度みんなで海に行こう」
僕らはエルト湾に行く計画を立てた。ミスラでは工場や一般家庭の排水は一度水道水並みに浄化してから川に流すので、海が汚れることはない。だからエルト湾は青くきれいである。
夏の終わり。次第に秋の気配が近づき、水色の太陽・ポントの強い日差しも和らいでくる。
寂しいことに、ミスラには月はない。月がなくて寂しくないかとエステルに聞いてみたが、もともとないから寂しくはないそうだ。
リー、リー。
コオロギの声が聞こえてきた。
「コオロギ!」アンナはコオロギが大好きなのである。
僕はといえば、小さい頃コオロギにひどいことをした。言えないほどひどいことを。
僕は泣いた。ティッシュを取って涙を拭いた。
エステルは「どうしたの?」と聞いてきた。
僕は「小さい頃、コオロギにひどいことしたんだ。悪いことしたな、って思って」
「そう。典弘さんはサタンが支配してた地球に生まれた地球人だから、ひどいことをしてしまったんだね」
「うん」
「もう悔い改めたでしょ?」
「うん」
エステルはグラスにビールを注いでくれた。
殺生のないミスラ。植物性の生ハムがあるミスラ。優しい人ばかりで、病気がなく、医者も産婦人科医も存在せず、助産婦だけが存在しているミスラ。
僕はアンナを連れてコオロギを見に行った。夜気が涼しい。プランターの手前にコオロギが一匹いた。
突然、ブラーさんが言った。
(川村典弘さんが殺したコオロギは、もうあなたを恨んでいませんよ)
そうなんだ! 僕を恨んでいないなんて! コオロギさん、ごめんね!
僕はブラーさんに感謝した。
アンナはコオロギと仲良しになったようだ。虫も殺さないという言い方が地球にはあるが、ミスラ人にとってそれは当たり前のことのようである。そもそもサタンの支配下にないため、殺そうという気持ちが起こらないらしい。
アンナは「バイバーイ」と言ってコオロギと別れた。
今日はいい気分で寝られそうだ。少なくともコオロギさんは、僕の罪を許してくれた。それにブラーさん、つまり父なる神様が、僕を見守ってくれている。
僕はすべてに感謝した。
エステルは言った。
「このまま夕食にしちゃおうか」
僕は答えた。
「いいよ。アリスさん、夕食食べていって」
アリスさんは言った。
「ありがとう、ごちそうになります」
スパークリングワインを開けた。……僕は、ふと、嫌いな言葉だった「ポジティブシンキング」という言葉が許せるようになっている自分に気づいた。何もかもみんなのおかげだ。
エステルは台所に戻って、水餃子の入った鍋を持ってきた。そして言った。
「たくさん作ったからね。お腹いっぱい食べて」
僕らの時間が流れていく。サタンの手下である悪魔に憑かれていた頃の閉塞感とは全く違う時間が流れている。あの無間地獄から脱出できたのは、アリスさんのおかげだ。
僕らは思い出話に終始した。フラールの城の中のメイドさんの演奏は素晴らしかったなぁ、と僕は言った。アリスさんが「また聞きにいく?」と言ったので、僕は「それじゃまた今度フラールに行こうね」と言った。
食事が終わり、アリスさんは自分の家に帰った。僕は好きな入浴剤を入れて風呂に入る。あとは寝るだけだ。そして明日も採集の仕事がある。地球のような労働の疎外がない、やりがいのある仕事でよかった。
今日は寝室にいる僕のところにエステルが来て、僕を誘った。アンナが寝付いたらまた来るね、と言い残して、彼女はアンナの部屋に行ってしまった。
二十七 ルイを救済する
翌日、土曜日なので僕は暇だった。アンナは近所で学校の友達と遊んでいるとのことだ。
僕はアリスさんの家に行った。チャイムを鳴らすとアランが現れた。
「川村さん、今ルイ君が来ているんです。川村さんも一緒にお茶でもどうです?」
「いただきます」
僕はアリスさんの――いや、アリスさんとアランの家に上がった。
畳の部屋のテーブルの上にはレモングラスの茎が入ったガラスのポットと、ラングドシャがあった。僕はテーブルのそばにあぐらをかいて座った。
コンポからは宇多田ヒカルの曲が流れている。何で地球の曲がミスラで流れているんだ。
僕はその理由をアリスさんに聞いた。
「地球に旅行した旅行者が宇多田さんのCDを持って帰ってね、友達とかに聞かせてたら爆発的にヒットしたの。メモリースティックにコピーしてみんなが聞いてるらしいよ」
「そうなんだ。地球なら著作権法にひっかかるけど、著作権はサタン的な締め付けかもね」
「地球は色々大変だね」
僕はラングドシャを一枚食べた。サクッとした歯ざわりが好きだ。そしてレモングラスのお茶をすする。レモングラスのお茶会。山形由美のフルートの曲に「ウーロンティーパーティー」っていうタイトルの曲があったっけ。その曲を初めて聞いたとき、なんて素晴らしい曲だろうと思ったけど、レモングラスパーティもなかなかいい。憧れのお茶会が自分の身近にやってきて実現してくれたのだ。
ルイは縮こまって、メモ帳に何か文字を書いていた。
アリスさんはルイの方を見ながら言った。
「ルイ君はこう見えて大変な物知りで、ごらんの通りハンサムだし、彼女がいないなんて何かの間違いじゃないかと思うんだけどね」
ルイは言った。
「僕は孤独なんです。学生会に入らないかって言われても断ってしまったし、かといってスポーツが苦手なのでラグビー部の勧誘も断ったし、図書室で前に座ってる女が髪をかき上げてモーションをかけてくる程度で、大学では何もいいことないんです」
「モーション掛けてきたなら反応すればよかったじゃん」とアリスさんは言った。
「恥ずかしくって」とルイは言った。「別にただ髪をかきあげただけなのかもしれないし。……僕、どうすれば人生がうまく行くのかな」
アリスさんは言った。
「二十歳で経験がまだなんだから、早めに済ませたほうがいいよね。恋のない青春なんて寂しいからね」
「出会いがないんです」
アリスさんは言った。
「やっぱり何かのサークルに入るべきだよ」
「やっぱりそうですか」ルイの表情が少し明るくなった。
「文芸サークルに入ろうかと思います」
「そうそう、それがいいと思うよ」とアリスさんは言った。
僕は言った。
「作家を目指したことがあったなぁ……」
ルイが言った。
「僕、作家になるのもいいなって思いました。文芸部に入って腕を磨きます」
アリスさんは言った。
「その調子!」
アリスさんはレモングラスのお茶のおかわりをルイの前に置いた。
お茶会は一時間ほどで終わり、僕らは解散した。ルイ君と会えてよかったと僕は思った。
その後僕は、ルイ君が (処女ではないが)絶世の美人である、同じ文芸部のエレン・モーガンという女性と付き合い始めたということを伝え聞いた。エレンはルイに文学の道ではなく、普通に大学を卒業して一流会社に入ってほしいと思っているらしかった。
順風満帆な人生か。僕はカレンっていう人と浮気したっけ。エステルはすごく美人だというわけではないけどかわいい顔をしている。それに処女だった。どちらの人生がいいとか悪いとか、比べられない。でも、僕の方が幸せまでの道のりを遠回りした。
二十八 ルイ・ロワーヌの時代
土曜日、アンナやエステルと一緒にアリスさんの家を訪れていると、アリスさんの携帯電話に電話がかかってきた。
アリスさんは電話に出た。
「はい。アリス・フラールです」
「アリスさん? 僕、『カーリントン賞』を受賞したんだ」
「『カーリントン賞』? おめでとう! それならこれから作家としてやっていけるね。がんばってね!」
「はい! ……アリスさん、この世が終わりになるって聞いたんですけど、そんなことないですよね?」
「その計画は取り消しになったよ。百年後にあらゆる生き物が体をなくして心だけの幸せな存在になって、さらに四百年後に世界そのものが消失するってことだったんだけど、宇宙の神様が――ブラーさんって言うんだけど――やっぱりミスラ的な楽園なら人は生きていて楽しいっていう考えから、計画を取り消しにしたの。現に地球のサタンは自殺して、いい世界になりつつある」
「そうなんですか。……最近地球との交易が盛んですね」
「そうだね。新しい時代の幕開けだね」
「じゃあ電話切ります」
「うん。また今度遊びに来てね」
「はい! それじゃ失礼します」
アリスさんは携帯電話を置いて言った。
「ルイ君、カーリントン賞受賞だって」
僕は言った。
「それってすごい賞なの?」
「地球の芥川賞くらいすごい賞」
「そうなんだ」
僕はだいぶ前、作家になる夢をあきらめた。でも、果物や肉の実・魚の実の採集という仕事の魅力もなかなかだった。それなりに儲かるし、何より一人でできるというのがいい。ミスラの運転免許試験が簡単なものでよかった。だからこそ車に乗れるし、採集のために車を出してそこに果物を積めるのである。
翌週、アリスさんのもとに詩の書かれたハガキが届いた。アリスさんはわざわざそのハガキをうちに持ってきて見せてくれた。ついでになんと天丼まで持ってきてくれた。エステルは「今日は夕飯は作らなくていいね」と言った。
ハガキの表には、「エレン・モーガンさんと結婚します」と書かれていた。裏に書いてある内容は以下のようだった。
「運命
運命は 作っていけるもの?
そこには 願いがある
願いが他の心と同調して 未来を照らし出す
それは 新しい生き方の始まりで
色々な 楽しい夢に支えられている
この世から夢が消えたら どんなに寂しいだろう
夢に導かれて生きていく」
アリスさんは言った。
「いっぱしの文学者気取りじゃないの」
エステルは言った。
「もうお金持ち確定ね、ルイさん」
僕は言った。
「ちょっと嫉妬しちゃうな。地球の聖書には『金持ちが天の国の門を通るよりらくだが針の穴を通る方がたやすい』とか書いてあるけど、これって嫉妬だよね」
アリスさんは笑いながら言った。
「嫉妬以外の何なのよー」
僕らはこれからルイ・ロワーヌにどう接していったらいいのか悩んだ。
いくつものテレビ番組に出て、印象的な発言を残し、ネット掲示板には「ルイの顔に勝てる奴はあまりいない罠 PART5」などのスレッドが立った。彼は一躍金持ちの有名人になったのだ。
そしてルイ・ロワーヌの顔写真の印刷されたワインまで出回った。瓶の裏にはルイの詩が書かれていた。全く、売れっ子の作家とはここまでになるのかと僕は驚いた。
エルト県は日本でいえば千葉である。隣に東京のような大都会・ミントンがある。ルイとエレンの結婚式はミントンの由緒正しい結婚式場で行われた。ルイとエレンは美男美女なので、大変な話題になった。
アンナももう八歳。結婚式場でアンナは「私もあんな美人になりたいな」と言う。僕は「アンナはかわいいから心配するな」と返したが、あそこまでの絶世の美女にはなれないだろう、あきらめろアンナ……と心の中では思っていた。
エステルとアラン、アリスさんももちろん結婚式場に来ていた。僕ら五人はみんな二人のこれからの結婚生活の幸福を願っていた。
極上の「アワビの実」がふるまわれ、メロンの果肉をたっぷり使ったメロンケーキが出た。特にアンナがこれらの料理に感激していた。子供だから見るもの全てが新しいのだ。
僕ももう四十六歳。エステルと出会った時にはこんなにも年を取るとは思っていなかった。
でもミスラには病気はない。医者もいない。意外にも四十六歳になっても体にガタが来ているという感じはない。そういえば町を歩いているお年寄りはみんな颯爽と歩いている。ミスラには老化に伴う病気すらないらしい。
ビバ! 楽園ミスラ。僕は心の中でそうつぶやいた。
二十九 ピアニスト・吉田沙耶
我が家族は、安くなった惑星間航行装置で地球へ旅行に行くことにした。行き先は当然ながら僕の実家である。今回の旅の目的は、中村由利子を尊敬すると公言している若いピアニスト・吉田沙耶のコンサートに行くことだ。でも家族はあまり乗り気でない。音楽ばかりはセンスの違いがあるから仕方ないか。
惑星間航行装置は安くなったばかりでなく、ミスラ‐地球間の旅が一時間から五〇分に短縮された。
僕ら家族はアリスさんの家にあいさつに行ってから、地球へ向かった。八歳のアンナは初めて見る大きな青白い太陽・ポントを「きれいだねー」と言っていた。
実家の前に降り立つと、家の前で母が待っていた。
母は言った。
「アンナちゃん、元気? すっかり大きくなって」
「おばあちゃん、こんにちは」
「こんにちは。……アンナちゃん今日の夕食何が食べたい?」
「海老の実」
「海老の実。地球ではまだ海老の実一個が十万円もするんだ。残念だけど出せないよ」
「じゃあ、植物ならいいですか」
「そうしてくれると助かるね」
「じゃあ……里芋とお好み焼き」
「わかった。お好み焼きにはソラマメのだしを使うからね。卵も使わないから」
「注文が多くてすみません」
午後三時。やかんに入った野草のお茶を飲みながら、僕ら家族はゆったりした時間を過ごしている。菓子は最中で、テーブルのお盆の上に二十個くらい載っている。
母は言った。
「アンナちゃん、大きくなったら何になりたいの」
「うーん、私もお父さんと同じで採集をやりたいです」
「そうなんだ。お父さん好き?」
「好きです」
「いいお父さんでよかったね」
「でもお父さん、大酒飲みなんですよね」
僕は話に割り入った。
「それほどでもないよね、エステル」
「子供には大酒飲みに見えるのかもね」
「そうだよ、そんなには飲んでないよ」
最中はミスラではあまり見かけない菓子である。だからアンナは夢中になって食べていた。
コンサートは午後七時開演。新宿まではJRで三十分くらいかかる。六時に出れば着くだろう。
僕とアンナは最中を食い尽くさんばかりの勢いだったが、母が「食べすぎ」と言って止めた。それなら最初から二十個も置かなければいいのに、と子供のような反発心を覚えた。
母は買い物に出たが、四時半になって帰ってきた。里芋をゆで、とうもろこしのお好み焼きを焼き、食卓に出してくれた。
「召し上がれ」と母は嬉しげな表情で言った。
僕はお好み焼きを食べた。トウバンジャンの味がする。
「トウバンジャン入れたでしょ」と僕は言う。
「隠し味に入れたんだ。よく気づいたな」と母は言った。
里芋は誰がゆでてもおいしいに決まっているのだが、今日の里芋もまた格別だった。母とアンナは味噌をつけて食べていたが、僕とエステルは粗塩で食べた。
エステルは言った。
「そろそろだね」
時計は五時四十分を指している。
母は言った。
「じゃあ歯を磨かないとね。……アンナちゃん、歯ブラシ持ってきた?」
「トラベルセットがあります」
僕らは歯を磨き、母に礼を言ったのち、家を出て、JR小岩駅に向かって歩いていった。
夕方の上り電車なので空いている。
日が沈もうとしている。夕日はいつも僕を感動させる。神の御心。夕日でみんなを楽しませたいというブラーさんの心。
アンナがお茶を飲みたいというので、僕は扉が開いたときにダッシュして自動販売機のお茶を買った。
あまりにぎりぎりだったので、アンナは「ごめんねお父さん。もうあんな無理なこと言わないから」と言った。
僕は「お父さん扉に挟まりそうだったよ」と言った。
もうすぐ目的地だ。僕はポロシャツにスラックスでよかっただろうか。
駅から出て、コンサートホールまで歩いた。
新宿の街は見慣れていないせいか、あまり好きではない。何かの理由で通いつけるようになれば別なのだろうが。
会場入り口で演目をもらった。よく見ると「オン・ザ・グリーン・アース」という曲名が書かれていた。オン・ザ・グリーン・アースは中村由利子の傑作である。最後から二番目の曲になっている。
着席し、静かに時間を待つと、吉田沙耶が舞台に出てきた。顔がよく見えない。眼鏡を持ってくるんだった、と僕は後悔した。
曲を聴いていると、中村由利子や神山純一と同等と思われるすばらしい作曲の才能だった。中村由利子が風とするなら吉田沙耶は水だった。水といえば、以前「AQUA」という名前のCDがあったが、あれもよかったと思う。吉田沙耶の曲はそのAQUAを思わせる。
さざ波のような、洞窟の水たまりのような、涼しげな曲…… 僕は吉田沙耶のファンになった。
エステルとアンナに感想を聞くと、あまり好きでないとのことだった。残念……
アンナは「はやりの歌の方がいい」と言うし、エステルは「この人の曲はわからないなぁ。ごめんね」と言う。あんまりだ。
最後から二番目の曲、オン・ザ・グリーン・アース。
僕は個人的な感慨に浸った。音楽は個人的な好みであり、他人に押し付けることはできない。今日はがっくりくる一日だったなぁ……
でも、この曲の演奏が終わると、拍手はひときわ大きかった。やはり傑作だけのことはある。
最後の曲は一分三十秒ほどの小品で、これも素晴らしかった。僕はブラームスの短い曲を思い出した。ニューエイジミュージックを知らずクラシックを聞いていたあの頃。
吉田沙耶はお辞儀をして舞台を去った。
「ごめんねお父さん。私退屈だった」と僕に失望を与えるアンナ。もはや僕は「そうか。ごめんな」と言うことしかできなかった。エステルは僕に対して少々同情気味だ。
ルイ・ロワーヌ。吉田沙耶。新時代の旗手が次々出てくる。そしてみんなの願いがみんなの幸せを実現していく。
コンサートホール内で吉田沙耶のCDを売っていた。CDばかりでなくミスラの規格に合わせたメモリースティックも売られていたので、僕はそれを買った。帰ってから存分に聴こう。
僕らは少し込んだJR線に乗って帰った。普段体力も脳もあまり使わない僕は、疲れるっていいことだな、と思った。
実家に着くと、母は乳白色の入浴剤を入れて待っていてくれた。
母はエステルに向かって言った。
「私はまだ入ってませんから。アンナちゃんから入ってもらえれば」
僕は言った。
「僕は最後でいいよ」
エステルが応じた。
「さすがはお父さん。……今日のコンサートあんまり面白くないと思ったけど、後から思い返すといい曲ばっかりだった気がする」
「そう、それはよかった」と僕は答えた。
僕は二階の部屋に寝転んだ。
僕は、小さい頃から勉強ができた。大学へ行く費用も父が出してくれた。切実さの何もない人生を生きた。恋愛も、三またをかけたりして、一人に一途にならなかったのがいけなかったのか、誰ともうまくいかなかった。でもそれは当時の地球がサタンの支配領域だったからだろう。二十代の頃はすべてが悪かった。
そんな僕の前に、ミスラの霊気をまとったアリスさんが現れた。彼女こそ、宇宙のあまたの生命が夢みることで作り上げた楽園・ミスラからの使いだった。地球というサタンの支配圏を脱し、ミスラに行ったら、結婚も仕事もできた。愛の世界ミスラと憎しみの世界・地球が全く違うものとして存在していたが、サタンの死により、地球は愛の星になりつつある。
誰かが階段を上ってくる音がする。
アンナが僕を呼びに来たのだ。
「お父さん、みんなお風呂終わったよ」
「ありがとうアンナ。いま行く」
アンナは階段を下りていった。僕もアンナに続いて階段を下りた。
みんなでメロンを食べている。もう僕はミスラの住民として動物を食べないようにしなければならないし、地球のモードも菜食主義の方向に向かっている。メロンほどうまみの強い食べ物があるだろうか? 何も僕たちは動物を食べることにこだわらなくてもいいのではないか。メロンを見るとそう思う。
僕はメロンをひと切れもらい、スプーンですくって食べた。熟していて甘い。
ミスラが宇宙の命たちが夢みたことでできたのなら、地球は何なのだろうか。旧約聖書の楽園にいたエバが罪を犯したせいで世界、つまり地球の支配権はサタンに引き渡されてしまったという。地球はもともとがサタン的なものだったのかもしれない。でもそれより前には、神が作ったままの楽園だったのか。いや、そもそもキリスト教の神とブラーさんは別物じゃないのか。……それとも唯一神とはブラーさんのことなのだろうか。
母が言った。
「どうした、典弘。手が止まってるぞ」
僕は答えた。
「うん。神様のことを考えていたんだ」
「神様か。神様なんて本当にいるのかねえ」
「僕、神様に会ったんだ。夢の中で。アリスさんなんかじかに会ったらしいよ」
「神様っているのか。知らなかった」
僕は風呂に入った。その後、みんなでだらしなく柿の種を食べながらテレビを見た。テレビは工場の中身を見せていた。こうやって駄菓子を作ってるんだよ、と。
僕は何だか静かな、静かな気分になって、もう眠る時間だと思った。そして歯を磨き、「もう寝るから」と言って二階に行った。母は「アンナちゃんは私と一緒に寝るから」と言った。僕はうん、とだけ返事をした。
僕はエステルと一緒に寝た。もう何度も重なり合った体。
三十 アリスの子
アリスはもちろんアオヅルを飲んでいたので安産だった。というより、ミスラの妊婦はみなアオヅルを飲むので例外なく安産なのである。助産院を出てきたアリスとアラン、そして赤ちゃんは、まずアリスとアランの家に帰った。
自宅でアリスは言った。
「名前は何にしよう」
アランは答えた。
「うーん……ジョルジュとか」
「いまいちだなぁ…… シャルルとか」
「発音難しすぎだよ! あえてカールにするとか」
「カール。それがいいかも」
そうしてアリスの産んだ男の子の名前はカールに決まった。カール・ダントン。
アランは言った。
「俺、強化豆乳買いに行ってくるよ。アリスは家で待ってて」
アリスはうん、と言ってアランを見送った。
彼女は久々にルイ・ロワーヌと話したくなって、彼に電話をかけた。
「はい、ルイ・ロワーヌです」
「こんにちは、ルイ。小説のほうははかどってる?」
「ええ。書けなくなっても時間を置いて書けるようになるテクニックを編み出しました」
「すごいじゃない。年収どれくらいあるの」
「一億六千万ルーネンくらいかな」
「えーっ! そんなにお金持ちなの?」
「処女作が映画化とかされて、かなり儲かったんだよね」
「才能のある人は違うなぁ。正直アランとルイを比べてしまうよ。悔しいなぁ、庶民とお金持ちの越えられない壁を感じてしまう」
「困ったときはお金貸しますよ」
「嫌味なセリフはやめてください」
「ごめんなさい」
「でもさ、お金持ちなんだから今度何かおごってよ。ルイが橋の上にいた日に、話を聞いてラーメンおごってあげたでしょ?」
「はい。いいでしょう。おごってあげます」
「うそうそ。いいの本気にしなくっても。ルイがそのことを覚えていてくれさえすれば。……ハァ。私も歌でも練習してみるかなぁ…… あわよくば今をときめく歌姫に……」
「正直、なんとコメントしていいやら」
「夢をつかむには、努力だね!」
「そうですね。ちょっといま編集者さんと話し中なので、この辺で」
「はい。仕事がんばってね」
「はい。それでは」
アリスの実家は金持ちだが、それは自分の金ではない。たとえ神の一柱であっても到達できない領域――つまり金持ちになることは、アリスにはあまりにも困難に思えるのだった。アランについて不満はないが、年収一千万ルーネンの高校教師のアランは決してそれ以上を稼げない。アリスは自分の金銭欲を抑えられないことに気づいた。しかしミスラは楽園なので、きっと何か解決があるだろう、願いはかなうだろうと思った。
アリスはゆりかごの中のカールに話しかけた。
「カール、お父さんは中くらいの収入で、うちは中流階級なの。何とかならないかなぁ。いいアイデアない?」
カールは静かに眠っている。
その時アランは栄養強化豆乳を持って帰ってきた。
「お帰り、アラン」
「ただいま。カールはどうしてる?」
「寝てる。強化豆乳は一つだけ出しておいて。残りは冷蔵庫の中に入れておいて欲しい」
「わかった」
そうか、お金を自分自身の力で稼ぐことに意味があるのか、とアリスは思った。親が金持ちだからって私は自分が特別な人間 (神)だと思うことが多かった。それは間違いなんだ。
カールを「悪いものと戦う戦力」に、と思ったけど、サタンが死んだ今ではもうその必要もないね、とアリスは思った。
アランは「コーヒー飲む?」とアリスにたずねた。アリスは「お願い」と言った。アランはコップにセットしてコーヒーを注ぐタイプのドリップコーヒーを二つのコップにセットした。
アリスの胸中に、今までの様々な思い出が駆け巡り、せつなさを呼び起こす。フラール星の城で生活していた頃は、恋に憧れて、男性の裸の雑誌を買ったりもした。高校に通っているときに初めての相手に出会ったけれど、処女を失ったことを母は「きず物じゃ、いい結婚なんてできない」と怒ったものだった。
由緒正しいフラール王家の王女がきず物になるなんて、と。でもそれは一面では正しかった。私が少なからず好感を持っていた貴族の男の子が、アリスは結婚相手にどうかと言われて、経験者とは結婚できないと言ったらしいのだ。
アランはコーヒーの入ったコップを持ってきてくれた。アリスはありがとう、と言った。 アリスは言った。
「幸せって何だろう」
「どうしたんだよ、急に」
「今、私悩んでるの。ここまで順風満帆な人生を生きてきたけど、川村さんの地獄の十七年間みたいなものが私にもやってきたのかな、って思って」
「悩み? ミスラ人らしくもない。……いや、君はフラール人だったね」
「そうなの。私は生まれつきミスラっていう楽園に生まれついたわけじゃないから」
「何かしてほしいことはある?」
「そうだなぁ、さくらんぼ百パーセントのジュース買ってきて」
「了解。いま買ってくるよ」
そしてアリスは意味もなく風呂に入り、入浴剤をもてあそぶのだった。
三十一 新しい時代
安価だった惑星間航行装置よりも、足場とトイレという強みのある宇宙船の方が主流になってきた昨今だった。
ミスラの科学技術から作られた宇宙船は地球から出て、ミスラやフラールを目指して飛ぶようになった。たくさんの宇宙船が飛ぶようになったので、衝突を防ぐため、地球‐ミスラ間の航行は二時間かけるように、地球とミスラの協議で決定された。
惑星間航行装置は一千万ルーネンだったが、宇宙船は、地球とミスラの間を片道百万ルーネン (約五十万円)でつないだ。これは画期的なことで、地球とミスラ、フラールの交流は増し、華々しい文化が三つの星に栄えていくのだった。
サタンのくびきを逃れた地球は本来の姿を取り戻した。日本にもアメリカにも、他の国々にも、世界樹と呼ばれる五十メートルにもなる大樹が出現した。おいしい果物のなる木や草も増殖した。ジャガイモもタマネギもやがて生え出てくるようになり、ミスラ同様、農業自体が消滅して採集に取って代わられた。
そして「優しい気持ちになった」地球人は、肉や魚を食べなくなった。
いかに働かないか、が地球人のテーマになった。あたかも果樹園のようにたくさんの食べられる植物が現れた地域があり、「働かずにただ果物や野草を取ってきて毎日の糧にする」生活の仕方を選ぼうとする人が増えた。トイレットペーパーや水、電気、ガス、調味料、食用油、衣服などは必要なので、ミスラと同じく、取ってきた果物や肉の実、魚の実、野草、綿を織って作った服などを売って生計を立てる人が増えてきた。
地球人は幸せになった。だから、果樹園のような地域が出てきたからといって、どこの国でも、国家が採集を制限したり取り締まったりすることはなかった。それはみんなが幸せになったからである。そして戦争も起こらなくなった。
ミスラ同様、排水は上水道と同じ程度にまで浄化してから排出されるようになり、東京湾のような海もきれいな青い海になった。
ペットを飼うという行為がなくなり、人々は動物と共存するようになった。宇宙は心であり、星も心であるので、やがて動物界も草食化が進んだ。肉食動物の住環境には必要なだけの果実や木の実が実り、栄養のある草が育った。
西暦二〇二〇年は、人類と地球上の生き物がサタンと悪魔から解放された記念の年になった。
ついでにいえば、寄生虫というものも消え、ハエ、カ、ゴキブリも消えた。サタン的な悪趣味の形を取る現実は、地球環境から消えてなくなった。
そしてクリスチャンは「神の国が来た」といって新時代の到来を喜んだ。
三十二 終わろうとするもの
地球で、サタンからの侵食が激しかった個人が、絶望を宿しているために、新しい時代の「光」に耐えられなくなって自殺する事例が見受けられるようになった。
サタン的なものの一つは、自殺願望だった。川村典弘もまた青年期に自殺願望を抱いたことがあったが、彼には救済が間に合った。
地球では宗教団体が集団自殺を計画する事件が相次いだ。サタン的なものは死に向かうのである。それは取り返しのつかない絶望で、もはや彼らに希望を与えることはできない。
クリスチャンにすすめられ、信仰を持つことで新しい希望を見出す者もあったが、もはや取り返しのつかないほど絶望している者も多かった。
それは、終わろうとするもの。
世界は私に厳しく
私の願いを聞いてはくれなかった
神は耐えられないような試練を私に与えた
そして必要なものばかり奪っていった
そう 全て終わりにしよう
私は神から 愛する人から
必要とされなかった
もう 生きている意味はない
私は楽園に住む資格などない
幸せな人達の笑顔を見ながら生きることなど
私にはできない
ブラーは多くの魂が救済されるよう取り計らった。
不幸な人たちはもはや楽園すら望まなかった。世界の消滅は、そもそも不幸な生命が願ったことである。生命のある星々がすべてミスラ的楽園になるよう、ブラーは「祈った」。
少しでも多くの絶望した生命が、希望を持って生きられるよう祈った。
ブラーは全ての命の幸福を願った。
神は世界なんか作るべきじゃなかったんだ、と絶望している人たちは思った。この毎日続く地獄のような人生、それでも死ねないということがどんなにつらいか、それをわかってよ神様! と祈る者がいた。しかし神の存在を知らず、助けてくれとさえ言えない者も多かった。
アイリーンは宇宙で二番目に能力の高い神である。
彼女はリッピ県の丘の上でハープを弾いた。それは儀式だった。世界の全てが愛になるように。この世の苦しみがことごとく駆逐されるように。
アイリーンのハープの調べは宇宙全体に届いた。それは物理法則を超えた宗教的現象である。
養鶏場のニワトリたちは希望に胸を膨らませ、太陽の光の下を駆け回った。養鶏場で仕事をしていた人々は、ニワトリという命が存分にその自由を謳歌し、幸せになってくれること、そしてそれでも新しい仕事が見つかる確信が持てることを喜んだ。ニワトリ達の必要に応じて「日々の糧」は与えられた。つまり、草が生え、実がなった。
日々の糧は与えられる。
明日はあす自らが思い悩む。
三十三 カワムラ家のその後
川村典弘は、地球が幸せな星、つまり神の国になっていくことを喜んだ。エステルは時々地球旅行に行けることを幸せに思った。アンナは九歳になったが、いよいよ二人目の子供がエステルに宿った。日々の糧は与えられる。明日はあす自らが思い悩む。このキリスト教の教えは本当だ、と川村典弘は思っていた。
典弘と家族は一時アパートに引越し、家を売った。そして近所の土地に四階建てで屋上のある建物を建てた。
新しく移り住んだ家は快適で、ワクワクすることに満ちていた。人間や動物、虫の役目とは、神のもとで「喜びながら生きること」なのではないかと典弘は思った。
ある日、カワムラ家は屋上でバーベキューをした。牛肉の実、ラム肉の実、鶏肉の実、トビウオの実、ピーマン、タマネギ、トウモロコシなどを焼いた。煙は空に立ち上る。土曜の花火の音が川のほうから聞こえてくる。
一時死の原理にとらわれた宇宙だったが、宇宙はブラーがかつて保障していた「永遠の生命」の約束を思い出した。その結果、生命の原理が死の原理に打ち勝った。永遠の生命の約束をブラーは一時忘れそうになっていたのだ。
バーベキューをしている時、アリスとアラン、そしてまだ一歳のカールがやってきた。
カールはアリスによって植物性ヨーグルトを与えられ、満足していた。
アリスはカールに向かって言った。これから楽しい人生が始まるんだよ、と。
エステルが「遠慮しないでたくさん食べてください」と言ったので、アリスとアランはたくさん食べた。もう肉の実も魚の実もなくなってしまったので、エステルは宅配ピザを頼むことにした。彼女はスパークリングワインも宅配してくれるよう頼んだ。
旅客機が一機、飛行機雲を伸ばしながら、東の空から西のほうへ飛んでいく。典弘は航空会社の提供する高額なサービス、つまり大型の輸送機のような頑丈で大きい飛行機によって旅をすることを夢見た。そのタイプの飛行機には個室があり、シャワーも食堂もあった。しかし料金がとても高かった。
典弘はエルノという国に行きたかった。エルノはエルト県のあるこの国・リフォルのはるか西にある国だ。さながらイギリスと呼ばれている。イギリスの森のような場所があるそうだ。
典弘はエルノ行きを提案した。
アランとアリスは二年間待ってくれないか、と言った。まだカールが小さいからである。このため、典弘とエステルは国内旅行に切り替えた。天然の果樹園、採集者の憧れであるコッコ県に行こう、と典弘は言った。アランとアリスは「いいなあ」と言ってうらやましがった。
典弘はあらためて、将来何になりたいかとアンナに聞いた。アンナは商業高校を出て経理になりたいと殊勝なことを言った。大学には行きたくないのか、と典弘が言うと、自分の自由になるお金が早く欲しいの、と彼女は答えた。
典弘は思った。結局親に高校や大学の学費を返していないな、と。三年後、アンナは中学に入学する。色々とお金がかかるだろうな、と典弘は思った。しかしミスラには苦労はないのである。今日の糧は与えられる。必要なものは神が用意してくださる。明日はあす自らが思い悩む。
宅配ピザとスパークリングワインが届いたが、その頃にはもうみんな、遅れてやってきた満腹感に満たされていたので、それら食べ物と飲み物は冷蔵庫行きになった。
今度はもんじゃパーティにしよう、とアリスが言った。みんなそれに賛成した。
バーベキューの焼き網と炭を片付け、パーティをおしまいにした。
アランとアリス、カールは「おやすみなさい」と言って自分達の家に帰っていった。
一週間後、典弘とエステル、アンナは電車でコッコ県に行った。一面の草原があり、丘があった。秋なので日差しは弱い。風が草原を吹き抜ける。
遠くにたくさんの植物が生えている場所が見えた。果樹園だ。それは天然の果樹園なのである。典弘たち三人はそこへ向かった。
ぶどう、梨、栗、いちじく、ライム、ざくろ…… 色々な木が入り混じって生えている。先客がいたらしく、果実をもぎ取った跡がそこここに見られた。典弘たちは取りすぎにならない程度の果物をリュックに入れた。
途中、典弘たちは果樹園の中に他の家族を見つけた。お互いあいさつを交わした。果樹園の横にはテーブルがあるので、そこで二つの家族は語らいながら果物の味を楽しんだ。
アンナは終始目を輝かせていた。九歳の子供は何を見ても新しいのだろう。向こうの家族に十歳位かと思われる男の子がいた。アンナはその子を意識しているようだった。
典弘は幼児の頃の恋を思い出した。幼稚園で好きだった子がお遊戯会のときに踊っているのを見て、典弘は「声をかけられない」絶望を感じていた。絶望はサタン的なものである。典弘の人生は始まりからそうだった。手のかからない子だと親は言ったが、ただ、厳しく叱る父におびえていただけだった。
そして、典弘は非社交的で静かな性格に育った。過去を変えることはできない。神ですら人を過去に戻すことはできない。テレビゲームで失った思春期。もちろんテレビゲームそのものが悪いわけではない。実際、典弘は友人のうちでゲームをしたことがあった。ただ、ゲームばかりして友達と遊ばなくなり、高校時代にも、友達ができなかった。
痛みの過去を乗り越えて。
三十四 久遠
僕はリフォルのミントン県に住んでいる大学一年生だ。名前はザックと言う。今、恋をしている。キャンパスでいつもすれ違う女がいる。見た目、処女のような彼女。しかし彼女は処女なのかどうかを超えた魅力がある。僕は週に一回はすれ違う彼女と交際したくて、でもどうしていいかわからなかった。
そのことでエルノ語の講師が相談に乗ってくれた。まず単位が取れないという僕の訴えに対して、特別に違うレポートを書いてもらいましょうということになり、解決した。僕は暗い自殺願望を抱いており、多分それは恋を知らない青年期の痛みだと思う、と話した。エルノ語講師のミシェル・ルブランは相談室でエロチックに脚を組んで話をした。僕は次第に「すれ違う少女」よりミシェルさんのほうが好きになっていた。
冬になり、ミシェルさんにいつもの感謝のしるしとしてジュースの詰め合わせを持っていったら、「みんなで飲むわね」と言って受け取ってくれた。できればミシェルさん一人で飲んで欲しかったのだが。
うわさに聞いたのは、ミシェルさんが既婚者であること。僕はそれでもミシェルさんに自分を奪ってほしかった。初めて相談室に来たとき、四十二歳のミシェルさんは握手をしてくれたっけ。
久遠。僕が憧れてやまないブリュネットのミシェルさん。僕は彼女と永遠の時間を過ごしたい。
地球から来た聖書によると、神が結び合わせた夫婦を引き離してはならない、とある。でも僕はもうミシェルさんなしには立ち行かない。旦那さんがいても僕は彼女と交際したい。
思い切って告白することにした。
僕は相談室でたどたどしく「好きです。僕の恋人になってください」という主旨のことを言った。
ミシェルさんは「そんなに私が好きなんですか。嬉しいです」と言ってくれた。そしてその夜、僕らは「ホテル・ヤマシタ」で結ばれた。
彼女は「大人の世界には浮気も筆おろしも、スワッピングだってあるから、あまり重く考えないことよ」と言った。彼女が自分のものになりきらないところがなおさら僕にとっては魅力的だった。
そして僕らは週に一、二回会って食事をし、ホテルに行く仲になった。恋のライバルが旦那さん以外にいないだろうかと心配したが、特にそういう男はいないようだった。そして僕は、相談室に通うのをやめた。
ミシェルさんは、飲んでいる間中女性が妊娠しなくなるアカヅルを飲んでいた。だから避妊具は必要なかった。
僕は大学四年になった。エルノ語専攻の学生はエルノに卒業旅行に行くことになった。ミシェルさんはその引率になった。
エルノに向かう大型機は食堂もシャワーも個室もあり、至れり尽くせりだった。
「旅行の間は何もできないから、もどかしいわね。十日間の我慢よ」とミシェルさんは言った。
僕はエルノの街で二十五歳くらいのすごいブロンド美人とすれ違った。その女を呼ぶ男の声が「アリス!」と叫んでいたので、アリスという名前だということがわかった。ミシェルさんは彼女を知っていた。「あの人は女神様なのよ」とミシェルさんは言った。
僕らは四年生なので、レストランで酒を注文することができた。僕はドリアとビールを注文した。親に金を出してもらっている今の状況から前に出て、卒業したら一流会社に入ってたくさん稼ぐんだ、という欲望を僕は抱いていた。
ホテルの一室で僕は辛口の白ワインを飲んだ。隣室の男子学生は、僕に「よぉ」と声をかけてきたが、僕は「こんばんは」と言うだけで、特に付き合いを持とうとはしなかった。
エルノは美術館で有名だから、みんなで美術館に行った。高い天井と数々の絵画。僕はその中で、金色に輝く王妃の絵が一番気に入った。
そしてその美術館の中で、ミシェルさんは一瞬だけ僕の手を握ってくれた。僕はミシェルさんがもう僕とは交際を続けることができない、と考えているのではないかという予感がした。僕はその考えのため、弱ってしまい、美術館の中の椅子に座り込んだ。
翌日、僕らは帰りの飛行機に乗った。大型機はエルノを出発し、五時間でミントンに着いた。その日はミシェルさんとはそのまま別れた。
僕は数日後、大学のミシェルさんの部屋に行った。机の上に紙類がたくさん置いてあった。
彼女は言った。
「そろそろこの関係を終わりにしようと思うの。ザック君はもう大学を卒業するじゃないですか。未来があるのよ。その未来を私が縛るわけにはいかないと思うの」
僕は納得がいかず、子供のようにミシェルさんにしがみついた。
「今日で最後の夜よ」と彼女は言った。
そして僕らは、ミシェルさんが借りているがほとんど使っていないアパートの部屋に行き、激しく求め合った。
翌朝、僕らはゆうべ買って来たシリアルに植物性ミルクをかけて食べた。
駅で彼女はお別れを言った。
「元気でね。あなたはお嫁さんを探すべき。いい人を探すのよ。じゃ!」
僕は大きい声で「さよなら!」と言った。この幸せ、青春が僕に存在していたことに僕は感謝した。インターネットのニュース記事によると、なにしろ最近までの地球には青春のない人がいたということだ。サタンに支配された地球に生まれなくてよかった。しかし僕は、これら全ての幸せな運命が神によって与えられた幸せだということは知らなかった。僕はずっと、神に感謝することを知らない多くの不信仰な人間のうちの一人だったのだ。
(終)
お読みくださりありがとうございました。




