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ミスラの夢  作者: 水形玲
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第一話(一章~十七章)

第一話です。

 一 出会い


 僕は一人で高原に来ていた。

 道からそれて草原に入る。

 そこには一人のブロンドの少女がいた。

 僕は声を掛ける。英語のほうがいいだろうか。でも英語で今何て言えばいいのかわからない。

「あの、すいません」

「何」

 少女は振り向いた。

僕は言った。

「旅行中の方ですか」

「私は永遠に旅行をしてるの。いつでも旅行中」

 少女が日本語を話したので僕は驚いた。

「私はアリスっていいます。神の一柱です。あなたは何ていうの」

「川村典弘。よろしく」

 アリスは手を伸ばして握手を求めた。僕は恥ずかしかったがその白い手を握った。

 僕は思春期を失い、恋愛をしなかったので、これで少女との恋、控えめに言っても少女との交際ができる、と思って嬉しかった。しかし神の一柱とは……

「川村さんは何の仕事をしてるの」

「生活保護なんだ」

「どうして」

「難病なんだ」

「なんびょう?」

「何の病気か聞きたい?」

「いいよ、言いたくなければ。……それより、あなたってほんとに素敵な人だね。私、今日っていう日を記念日にしたいくらい。いいかな、メモして」

「いいよ」

 アリスはバッグからスケジュール帳を取り出し、「五月二十八日。川村典弘さんに出会った日」とつぶやながら、それを書き入れた。

「僕が素敵な人だなんて」

「自信がないの?」

「うん」

「しょうがないなぁ。まあとにかく、私はお腹がすいたから、ちょっと魔法を使いますね。『魔力でできたバゲット、現れて』」

 アリスがそう言うと、彼女の手の上にバゲットが出現した。

 僕は驚いた。

「何、これ食べられるの?」

「手作りのパンには劣るけどね。私の記憶の中から味とか歯ざわりを再現した物体なの。……はい、半分あげる」

 そう言ってアリスはパンを半分にちぎって僕に手渡した。僕はそれを食べてみた。いまひとつだ。心を込めなければおいしいものはできないということか。それなら、一時間かけて魔法を使えば、おいしいパンができるだろうか。それをアリスに聞いたら、魔法に一時間も使うなんて、そんな気の長いこと考えたこともない、と言った。 

「いま二時。お腹は膨れたでしょう?」

「うん。もう十分」

「私、トイレだけが欲しいのよね。お風呂は大丈夫。バッグにウェットティッシュが入ってるから。体は拭くだけ」

「君も大変なんだね。おうちはどこにあるの」

「ポント太陽系の惑星ミスラ。すっごい遠くなんだよね」

「……」

「驚いた?」

「うん。ミスラの人だから魔法が使えるの?」

「違う。神だから。まあ、魔法を使う能力の大小はあっても、ミスラ人はみんな祈りの魔法が使えるよ。地球人は何かを具現化する力が弱いんだよね」

「じゃあ、今日はどこへ泊まるの」

「木の下」

「もしかしてお金がない?」

「うん。今もう五万円くらいしかないんだ」

「僕もお金ないけど、部屋ならあるよ。東京の僕の部屋においでよ」

「いいの」

「歓迎するよ」

「川村さん優しそうだから、変なことしないよね?」

「しません」

「なら連れてって。電車賃は自分で出すから」

「わかった」

 僕らは草原から出て、砂利道を歩いていった。

「お金を出現させることもできるけど、ちょっと罪悪感感じるんだよね」とアリスは言った。

 砂利道の先には舗装道路があり、さらにその先には僕の泊まっているホテルがあった。

 僕はホテルのロビーでアリスに待っているように言った。

 僕は自分の部屋に戻り、荷物を持って一階に下り、チェックアウトした。

神の一柱…… これは大変な出会いだ。神様と一緒にいれば今後の人生はきっと運が開けるぞ、と僕は期待した。

「じゃあ、駅に連れてって」


 僕らはバスで駅に行った。高原だけあってバスの来る本数が少なかった。

やっと来た電車は、ガラガラだった。

 アリスは言った。

「私、乗り物の中で鈍行の電車が一番好きなんだ」

「そうなんだ」

 僕は昼ごはんのために用意しておいたおにぎり二個を取り出して、一個をアリスに渡した。

「ありがとう」

 僕らは、窓の外の山々を眺めながら、電車に揺られていた。僕もアリスも過去を思い出し、懐かしい気持ちになっているようだった。

「何考えてたの」とアリスは言った。

「大学を休学してた頃のこと。遠くの県の女子高校生と文通して、相思相愛になったことを思い出してた」

「そう。私はミスラ星の私の家に生えてたアボカドの木を思い出してた」

 僕らは車窓から外を眺めるのをやめなかった。

 アリスにも、思い残した思い出の一つや二つはあるのだろう。

 念のため、僕はアリスに歳を聞くことにした。

「ねえ、アリスちゃん、君何歳なの」

「二五〇二歳」

「えーっ! そんな歳なんだ」

「神だからね」

 そう言ってアリスは僕に慈しみの表情を見せた。そして言った。

「まぁ、とりあえず川村さんのおにぎりを食べるとしますか。いただきます」

「いただきます」

「あ、焼きタラコ。私動物だめなんだよね」

「ベジタリアンなの? 僕のは野沢菜だよ。取り替えよう」

 僕らはおにぎりを交換した。

「ねえ、川村さんはどうして旅行に来てたの」

「文通やインターネットでは恋人はできっこない、成功確率ゼロだと思ったんだ。旅先で誰かに出会えないかなぁって思って。そしたらアリスさんに出会えた」

「私もその思いつきの恩恵を受けたわけね。あらためてよろしく」

「よろしく」

 アリスさんは言った。

「あー、ビール飲みたいなぁ……」

「目撃されて質問されちゃうよね」

「そう。だから飲みたくても飲めない」

「僕のアパートに着いたら飲ませてあげるよ」

「ほんと! 川村さんって優しいね」

「普通のビールと黒ビールどっちがいい」

「黒ビール」

「じゃあアパートの近くのスーパーで買っていこう」

 そうこうしているうちに、電車は東京駅に着いた。

 アリスさんは言った。

「この人ごみ。地球の住民を見てるとかわいそうになってくるんだよね」

「どうして」

「働き蜂だし、体罰やパワハラが横行してる」

「ミスラ星の神様の目からみると地球はそんなものですか」

「川村さんはいい線行ってる。言わば覚者ね」

「そうなんだ。僕は自分に自信がないから気づかなかった」

 僕たちは亀戸を目指した。込んだ電車の中で立っていることがアリスさんには結構な苦労であるようだった。


 亀戸。僕とアリスさんはスーパーで買い物をした。

 今日はシチューにするよ、と僕が言ったので、アリスさんはこう答えた。

「ミスラ人はみんなベジタリアンなんだ。シチューに肉を入れるのやめてもらえないかな。その分今日のシチュー代出すから」

「いいよ」と僕は答えた。

「シチューのルーの成分の肉はしょうがないけどね」

 セロリと舞茸とシチューのルー、そして黒ビール六缶を買って帰った。

 部屋に帰ったとたん、雨が降ってきた。

 僕は言った。

「運が良かったね。ちょうどいい時間に帰って来れた」

「まあ雨なら空気の傘を出せば防げるけどね」

「そんなことができるんだ」

「うん」

 アリスさんは再び慈しむような表情になった。

「アリスさん……」

「私が何考えてるかわかる?」

「いや、わからない」

「今までに出会った来た人たちのこと。川村さんは中でも特に苦悩が深いみたいで、かわいそうだなって思って」

 僕は黒ビールをグラスに注いでアリスさんに渡した。そして立ち上がり、台所に行ってシチューを作った。

 僕がシチューを作っている間に、アリスさんは黒ビールを二缶空けた。

 僕はテーブルの真ん中に鍋を置いて言った。

「ほら、これがセロリと舞茸のシチュー」

「おいしそうだね!」

 二人は夢中でシチューをすすった。アリスさんが二五〇二歳であるということは、老境を超えた何かを持った心なのか。僕など彼女の何十分の一の時間しか生きていない。永遠に旅をしているってどんな感じなんだろう。

「おかわりは自由にしていいから」

アリスさんは突然カバンから小さなカゴを出した。その蓋を開けると、一羽の白い文鳥が飛び出した。

 白い文鳥は言った。

「こんにちは」

「え? 君しゃべれるの?」

「ミスラでは珍しくないよ」

 アリスさんが言った。

「ミスラでおしゃべり白文鳥を捕まえて慣らしたの。すごいでしょう」

「うん」

「どうしたの? 悲しそうな顔して」

「僕、桜文鳥飼ってたけど、死んじゃったんだ。原因不明だったんだ」

「そうなんだ」

「僕はある日魔が差して、その文鳥をいじめちゃったんだ。だから……」

 アリスさんは言った。

「その文鳥のこと好きだったんでしょう」

「うん」

「それなら、文鳥さんが死んだのは川村さんのせいじゃないよ」

「そう言ってくれてありがとう」

 白文鳥が言った。

「僕、ラプターっていうんだ。よろしく。僕で慰めにならないかい」

「なるかもしれない」

「そう。……僕はそのシチューに興味がある。アリス、それを冷まして僕の口に運んでくれないかな」

「了解」

 アリスさんはスプーンでシチューをすくい、ふうふう吹いて冷ましてからラプターに与えた。

「うまいな! 川村さん、あんた料理上手だね!」

「それほどでもないけど」

 アリスさんは言った。

「いや、ほんと、セロリと舞茸っていうセンス、最高だと思うよ」

「ありがとうアリスさん」 

「うん。……私、風呂に入りたいな。髪も油っぽくなってるし、ずっと入ってないから」「いいよ。今お湯を張りますから」

「川村さん」

「何ですか」

「私が年上だからってそんなにかしこまらなくていいから。敬語とか必要ないよ」

「そう……ですか。でもさん付けだけはさせてください」

「うん、いいよ」

 僕はバスルームに行き、蛇口からお湯を出した。

 バスタブの横に鏡がある。僕の顔。だいぶ疲れているようだ。人生に疲れたのだ。

 そこにアリスさんが歩いてきた。

「ねえ」

「何」

「一つだけ魔法を使ってあげるって言ったら、どんな魔法がいい?」

「うーん……やっぱり、恋人ができる魔法かな」

「恋人ができる魔法? 難しい魔法だね。私には使えない。じゃあ他には?」

「うーん、じゃあキャビアを出して」

「わかった。『魔力でできたキャビア、現れて』」

 アリスさんの右手の上に、キャビアの缶詰が出現した。

僕は言った。

「ありがとう!」

 スプーンを取りに行ってから、さっそく缶を開けてキャビアを食べた。それなりにおいしいけれど、やっぱり本物にはかなわない気がする。

「ねえ、食べ物を出す魔法って難しいの?」

「結構難しいほう。一三〇〇一歳の大おばばのアイリーンならおいしいのを作れるんだけどね」

「アイリーン?」

「ミスラに住んでる大おばば」

「ミスラ星に行ってみたいな」

「今度行ってみようか。私も懐かしいし」

「ぜひお願いするよ」

「うん」

「もうそろそろお湯がたまった頃だね」

「じゃあ行ってきまーす」

 そう行ってアリスさんは扉の向こうへと消えた。

 僕はラプターに話しかけた。

「ねえ、ラプターさん」

「何」

「アリスさんって何で子供の姿をしてるの」

「大きな魔法を使うのに失敗して子供の姿になっちゃったんだってさ」

「戻る方法はないの?」

「アイリーンさん並みに魔法を使うのがうまくなればもとに戻れるかもね」

「アイリーンさんは元に戻してくれないの」

「自分の問題だから自分で片付けろって言われたらしいよ」

「厳しいね」

「世の中厳しいものさ」


 僕はアリスさんに恋をしそうになったが、二〇五二歳の年上の人だという認識がその感情を止めた。本当はおばあさんである。

 アリスさんが風呂から上がってきた。

「いいお湯だった」

 僕は言った。

「それはよかった」

「アリス、僕水浴びしたい」とラプターが言った。

「いいよラプター、こっちへおいで」

 アリスさんがそう言うと、ラプターは彼女の手の上に乗った。

「洗面台使わせてもらっていい?」

「いいよ」

「じゃあ借りまーす」

 アリスさんはラプターを手に乗せてバスルームに行った。その中に洗面台があるのである。

 僕の運命。三十八歳まで何一つ夢が叶わなかった半生。高校時代、ラジカセやテレビ、ヘッドホンステレオなど、たくさんの物に満たされた自分の部屋を築き上げた。物があふれていた。でも夢は――就きたい職業に就く夢と、恋人を作る夢は叶わなかった。僕は大学に入ってから完全に前進を止めてしまった。そして三十八歳まで、苦しみ抜いた。

 ようやく運命回復の道が見え始めた。ミスラに行くことだ。きっとそこには何かある。

 アリスさんとラプターが戻ってきた。

 アリスさんは言った。

「川村さん、魔法で恋人は出せなくても、ミスラ人のお嫁さんを紹介してあげようか」

「本当?」

「うん。あてはあるから」

「ぜひお願いするよ」

「わかった」

「川村さんってミスラ人っぽいんだよね。きっとミスラが住み心地いいよ」

「家族や友達に何て言おう」

「そのまま伝えれば?」

「そのまま?」

「宇宙のことが地球に知れるのも時間の問題だったから、伝えていいと思うよ」

「そう。……何か急に焼肉食べたくなったなぁ……」

「急にそう思ったの」

「うん」

「肉は最低限にしようね。って言いながら私もキャビア出してあげたりしたけど。ミスラでは肉や魚は食べないんだ。ミスラはミスラ人や宇宙の他の星の人たち、生き物達の夢が作り上げた星環境だから、『肉の実』や『魚の実』が木になってるんだよ。だから獣や鳥や魚を殺さなくていいの」

「すごいねそれ! 肉の実! アハハハハ」

「そんなにおかしい?」

「いやいや、おいしいんだろうね、その肉の実や魚の実」

「すごくおいしいよ」

 アリスさんは言った。

「明日出発しようか」

「そんなに早く?」

「私ミスラにある現地のお金と地球のお金を交換しないと、もう地球にいられないし」

「そうなんだ」

「お金は大事ね」

 アリスさんがそう言ったので僕はズキッと来た。

 ラプターが言った。

「ひまわりの種! ひまわりの種!」

 アリスさんが言った。

「また我慢できなくなったの。ねえ、川村さん、ラプターはひまわりの種が食べたいらしいんだけど、一緒に買いに行ってくれない?」

「いいよ」

 そうして僕らは再びスーパーに行くことになった。

スーパーの自動ドアが開くと、冷たい空気が出てきた。もう七月。これから暑くなる。夏の恋の思い出は文通だけ。そんな寂しい過去を僕は背負っている。

 僕が涙を流すと、アリスはそれに気づいてポケットティシューを一枚くれた。

僕は言った。

「ありがとう」

アリスさんはうなずいた。「私が二十歳くらいだったら……ううん、何でもない」

 僕は聞かなかったふりをした。

 ラプターは部屋にいる。今はアリスさんのバッグの中にはいない。

アリスさんのバッグの中には、餌と水が出る小型のかごが入っている。それはともかく、ラプターは、言葉の通じない小鳥のように逃げ出したりはしないので、そのまま部屋に置いてきた。

 ナッツ類の棚に来た。

「川村さん、私たち、いつかは命がなくなって、消えていってしまうんだね」

「神様だから、永遠に生きられると思ったの?」

「私にも寿命がある。神でさえ永遠には生きられない。それならいっそ、好きな人と一緒になって……」

「アリスさんには恋人はいるの」

「今まで何人もいたけど、今はいないの」

「そう」

「あ、ひまわりの種」

 アリスがそう言って取ったのはかぼちゃの種だった。

「度忘れしたの?」

「うん」

 アリスは舌をペロッと出した。年甲斐もなく……と僕は思った。

「これがひまわりの種だよね」そう言って僕はひまわりの種をアリスに手渡した。

「ありがとう」

「お金は僕が支払うよ」

「ううん、私が。だってもうお地球のお金使う機会ないもの」

「そう」

 僕はカロリーゼロの乳性飲料を買ってレジを通った。そのときにはもうアリスさんは買い物カゴを載せる台のところにいた。

「おーい!」とアリスさんが呼ぶ。「ちょっと待って」と僕が答える。

 僕は支払いを済ませて、再びアリスさんと並んで歩いた。

 その後、ラプターにたらふくひまわりの種を食べさせ、僕とアリスさんは同じ布団で寝た。



二 ミスラ星


 二日後、僕らはミスラ星に行くことにした。それまでに家族や友達に伝えるべきことを伝えたが、そうしたらみんな宇宙に行くということを信じてくれた。

 アリスさんは言った。

「まず、姿を消すね。『私たち二人の姿、見えなくなって』」

 彼女がそう言うと、僕らの姿は見えなくなった。厳密に言えば、僕とアリスには自分や相手の姿がうっすらと見えるのだった。他の人たちには見えないらしい。

「じゃあ行きます」

 アリスさんは万歩計のような感じの装置を取り出して言った。

「これ、惑星間航行装置」

 アリスさんが惑星間航行装置のボタンを押すと、僕らの体は上に引き上げられ、みるみる街が小さくなっていった。

アリスさんは言った。

「障壁で守られているから空気は大丈夫」

「そうなんだ」

 あたりは暗くなった。宇宙に出たのだ。

 まぶしく輝く太陽と、その手前に地球が見える。

 急に星の流れが速くなった。

 アリスさんは言った。

「高速航行中」

「そうなんだ」

「ねえ、前ね、こうして男の子といっしょに宇宙を飛んでいると『アリスさんはメーテルみたいだ』って言われたの。メーテルって誰? 漫画の登場人物としか答えてくれなかったの」

「銀河鉄道スリーナインっていう漫画に出てくる神秘的な女性だよ。何人もの少年と旅した過去のある女性」

「そうなんだ! どうりでね。……ねえ、私おばあちゃんだけど、私と寝ない?」

「えーっ?」

「どう」

「いいけど、まだ早すぎるよ。出会って間もないのに。そう思うのは僕がまだ未経験だからかな」

「そうね。気が乗らなければ別にいいの」

 僕は恥ずかしかったが、もうこの年では僕のほっぺたは赤くははならない。

 アリスさんは言った。

「レモンケーキ、現れて」

 アリスの両手に二個のレモンケーキが現れた。

 僕は言った。

「トイレとかどうするの?」

「トイレに行かなくていいように事前に済ますのがルール。宇宙旅行用の簡易トイレも売ってるけどね」

「そうなんだ」

「はい、レモンケーキ」

「ありがとう」

 レモンケーキの味はやはりいまいちだった。

 宇宙を飛んで一時間。やがてミスラ星を従属させている恒星・ポントが見えてきた。青白くまぶしい太陽。

「ポント星は私たちミスラ人の命の源」

「ふーん」

「じゃあいくよ。地上に降りる」

 ぐんぐん高度が下がっていく。雲の中を突っ切って、僕らは緑の多い都会の一角の公園に着地した。公園には様々な木が植えてある。

 アリスさんは言った。

「ちょっとトイレ」

そう言って彼女はトイレに入った。

 宇宙旅行はミスラ人にとって常識なのか、突然下りてきた僕らを見て驚いている人は一人もいなかった。

 しばらくしてトイレから出てきたアリスさんを見て、一人の男の子が「わー! アリスさん、こんにちは! ご利益、ご利益!」と言いながらアリスさんに肉迫した。

 アリスさんは「いい子、いい子」と言って男の子の頭を撫でた。

 アリスさんは子供に語りかけた。

「どう? 学校は」

「体育が5!」

「そうなんだ。それはよかった」

 そうして僕たちがその公園を後にしようとすると、男の子は「バイバーイ!」と言って僕らを見送った。

 公園を出たところの道路にも、街路樹がたくさん植えてあった。独特な形の葉をつけている。

 アリスさんは言った。「天ぷらでも食べようか」

 僕は答えた。「魚の実の天ぷら?」

「そう」そしてアリスさんは続けた。「出てきて、魔法のほうき」

 そうすると長いほうきがアリスさんの手元に現れた。アリスさんはそれを水平にして、腰掛けるように乗った。

「川村さんも乗って」

「うん」

 アリスさんはほうきに向かって言った。

「天ぷらのマルゴーに行って!」

 アリスさんがそう言うと、ほうきは自転車並みの速さで街を駆け巡った。何て乗りにくいんだろう、と僕は思った。

 天ぷらのマルゴーは路地裏にあった。

 アリスさんはほうきに向かって言った。

「ご苦労さま」

するとほうきは消えた。

 アリスさんは言った。

「肉の実は皮で包まれてるから衛生的なんだよ。だから刺身でも食べられるの」

「ふーん」

 アリスはマルゴーの引き戸を開けた。

 店主が言った。

「いらっしゃい」

 アリスさんは言った。

「天ぷらセット二人前」

「まいど」

 僕らはカウンターに座った。

「あ、牛肉の実の刺身もお願い」

「了解」

 一体僕とアリスさんの関係は何なのだろう。僕がもっと積極的な性格だったなら、もうとっくに彼女と寝ていたかもしれない。

 食材が揚がる音がする。

 僕は子ども時代を思い出した。テーブルの中央にガスコンロを置いて、てんぷら専用の鍋を置き、野菜や魚を揚げて楽しんだ。父はまだ、生きていた。そこには理不尽な父がいたが、それでも一つの家庭だった。

 僕はまた涙を流した。

 アリスさんは言った。

「どうしたの」

「昔の実家が懐かしくなっちゃってさ」

「そう」

 天ぷらが揚がった。タラの芽、ユキノシタ、アスパラガス、春菊、魚の実 (タラ)、魚の実 (アジ)。

 アリスさんは言った。

「食べてみて」

「うん。……おいしーい! 魚の実って本当の魚と同じだね!」

「でしょう」

「おいしいでしょう」と店主は言った。

「はい。おいしいです」

 魚の実もいいが、タラの芽もユキノシタもおいしかった。

 僕らは店を出て歩いた。恒星ポントの日差しは強く、真夏の地球を思わせた。しかしほどよい風が吹いている。

 僕らはアリスさんの家に行くことにした。それは歩いてすぐの場所だった。三階建てで屋上がある。

 アリスさんは鍵を開けて言った。

「ただいまー」

 部屋の中には誰もいない。

 僕は言った。

「お邪魔します」

「どうぞ。今お茶入れるから」

「お願いします」

 アリスさんはカモミールのお茶を入れてくれた。そして言った。

「ちょっと待っててね」

 アリスさんはタンスからミスラのお札を取り出して、財布に収めた。

「そうそう。お嫁さんを紹介するんだったね。エステルっていう子がいるの。三十二歳。きっとうまくいくんじゃないかな」

「うん。ありがとう」



 三 エステル


 僕らはアリスさんの家を出て、麻布十番のような感じの街にやってきた。

 石造りのヨーロッパ風の家から一人の黒髪の女が出てきた。

「あ、アリスさん、こんにちは」

 アリスさんは言った。

「どこ行くの」

「ちょっと気晴らしのために買い物に」

「一緒に行ってもいい?」

「いいですよ。……その方は?」

「川村典弘さん。地球人」

「はじめまして。エステル・ビオンっていいます」

 僕は答えた。

「はじめまして」

「ミスラはどうですか」

「風が気持ちいい星ですね」

「ええ。地球から来られた方はたいていそうおっしゃいます。……ちょっと待っててください。買い物用の手さげ袋持ってきます」

 そう言ってエステルはいったん家に引っ込んだ。そして三枚の布製の手提げ袋を持ってきた。

彼女は手提げ袋を僕とアリスさんに渡して、言った。

「じゃあ、行きましょうか」

 僕らは近所のデパートに行き、雑貨のコーナーで品物を見た。

 僕は純銀製のはさみがとてもきれいだと思った。

「川村さんどうしたの」

「純銀製のはさみ。きれいでしょう」

「本当にきれい……」とエステルは言った。

 アリスは本題に入った。

「ねえエステル」

「何」

「川村さんと結婚する気ない?」

「え? そんな急に言われても」

「どう?」

「えー? いいけど……」

「いいってさ!」アリスさんは僕の背中をポンと叩いた。

 僕は言った。

「あの、お付き合いお願いできますか」

「はい……」

「交渉成立!」アリスはにっこり笑っていた。

 僕は言った。

「でも、僕は仕事してないんだよね」

「どうせミスラに移住するんでしょう」とアリスさんは言った。

「うん」

「ミスラには地球みたいな労働の疎外がないから、楽に働けるよ」

「そうなんだ。何の仕事がいいかな」

 エステルは言った。

「採集とかどうですか」

「木の実を取るの?」

「そうです」

「いいですね。採集かぁ」

「エルト県には森が多くて、どこを見ても鈴なりに実がなってるんです。普通の人も取れますけど、つまり採集代行業ですね」

「エルト県?」

「エルトっていうのは、ここの県の名前」

「そうなんですか」

「人と話すのが苦手な人でもできると思います」

「いいアイデアをありがとう。……エステルさん、何を買いに来たの」

「気晴らしの買い物は気まぐれに決めてるんです。今日は桃のリキュールを買いたいんですよ」

「桃のリキュール。地球にもあります」

「そうなんですか。私は他にも黒スグリのリキュールやキイチゴのリキュールが好きなんです」

「そうなんだ」

 アリスさんは言った。

「二人が仲良くなってよかったー」

 アリスさんは満面の笑みだった。

エステルは言った。

「川村さん」

「何ですか」

「今までに女性と付き合ったことはありますか。端的にいうと、つまり……」

「経験はないです」

「よかった。私独占欲が強いんですよ。だから相手の方がいい年でも、まっさらだったらなぁって思ったんです。私この年まで売れ残りで……」

「エステルさんもまっさらなんですよね」

「まっさらです!」

 アリスが笑っている。

「二人とももうすぐ天国が待ってるねー」

 僕とエステルは恥ずかしくなってしまった。

 エステルは言った。

「アリスさんは今までに何人くらいの男性と付き合ったんですか」

「うーん、覚えてないけど、五十人くらいかなー」

「さすが二五〇二歳」

「私も欲求不満なんだよね。この子供の姿だと誰も本気にしてくれないから。アイリーンが元に戻してくれればねえ……」

「もう一度頼んでみたら」

「そうだね。そうしてみる。あー、男が欲しい」

 僕とエステルは苦笑した。

 僕らはリキュールのコーナーに着いた。

 アリスさんはアーモンドの絵が書かれた瓶を手に取り「これおいしいんだよね!」と言った。

「僕もそれ買おうかな。……あ、ミスラのお金持ってないんだった」

 アリスさんは言った。

「恩義があるからおごってあげるよ」

「ありがとう」

 エステルは言った。

「私はこの桃のリキュール」

 僕らはレジで品物を清算し、それぞれ手提げ袋に瓶を入れた。

 エステルは言った。

「三人でお酒のパーティー開こう」

 アリスは答えた。

「いいね! おつまみは?」

 僕は言った。

「クラッカーとか良くないですか?」

 アリスさんが言った。

「そこのお菓子屋さんでクラッカーを買おう」

 アリスさんの指差した先には菓子屋があった。

 アリスさんは店の中に入り、クラッカーを買って帰ってきた。

「ほら。この一袋で二百ルーネン」

 袋の中にはいっぱいクラッカーが詰まっていた。

 僕は言った。

「ルーネンって、お金?」

「そう。二百ルーネンは日本の百円くらいかな」

「安いね!」

「今日はいいことがいっぱい起こった」

「うん!」

僕たちはアリスさんの家に戻り、クラッカーをつまみにリキュールを飲んだ。アーモンドのリキュールも、桃のリキュールも大変香りがよかった。甘いリキュールにクラッカーの塩味がよく合った。

 エステルは大学時代の写真を見せてくれた。今よりももっといい顔立ちをしていた。僕も二〇歳の頃はもっといい顔をしていた。加齢は残酷なものである。

エステルは言った。

「アリスさんはいいなぁ。年をとらなくて」

「私は神だからね」

「神様としての役目ってあるの」

「ただ遊びほうけてるだけだよ。ただ、神が

祈ったことは、人が祈るよりも強く現実世界に反映されてくるんだ。私みたいな神の役目は、世界の見守り役だね」

 労働の疎外のある地球。悪にまみれた地球。僕の家族も地球の悪を受け入れて生きるしかない。僕は、悪のない大地・ミスラで生きていきたい。家族を置いていくのは悪いが、仕方ない。

 地球にキリスト教があるのは、僕などが想像するよりもはるかに多く悪があるからだ。たとえば小さな悪として体罰がある。家で体罰を行うような親で、それゆえ愛に裏切られ、五十歳くらいになっても人生の意味を見出せないような人は、病気になって死んでいくことが多いかもしれない。心が不幸せな人は免疫が低いからだ。

 でも、かといって、地球人が嫌いなわけではない。それぞれの家のそれぞれの人に人生がある。人に立ち入れば楽しいこともあるかもしれない。でも実際には、僕はやはり、より孤独であろうとする。

 酒盛りが終わると、エステルが言った。

「川村さん」

 僕は答えた。

「何ですか」

「レモンティー飲みませんか」

「はい、いただきます」

「アリスさんも」

「うん」

 エステルは台所に行ってレモンを切り、三つのティーカップをお盆に載せて戻ってきた。

「角砂糖はどうしますか」とエステルは誰に言うでもなく言った。

 アリスさんは「私は三個」と言った。僕は要らないです、と言った。

 アリスさんは言った。

「いいね、こういう自由な時間。二五〇二年の人生の中でも格別だよ」

 エステルは言った。

「私たちが結婚することを喜んでくれてるの?」

「もちろん」

 僕は言った。

「何だか恥ずかしいな。この僕が結婚できるなんて。地球ではずっと家事手伝いをしてたけど、ミスラ星には労働の疎外がない。一生懸命採集をさせてもらいます」

「頑張ってくださいね。私も子育て頑張ります」とエステルは言った。「それから、取った木の実や果物を売るにも、気負わないで下さい。ミスラには地球みたいな殺伐はないから」

「うん。ありがとう」

 アリスさんは言った。

「ねえ、エステル、私に誰かいい人紹介してよ」

「アリスさんも知ってるでしょう? 私の交友関係が狭いってこと」

「うん」

「そんなにいい人いないんですか」

「川村さんは取られちゃったからね」

「……」

「冗談、冗談。友達とは何もしない主義だから」

 エステルは言った。

「川村さん、今日どこに泊まるんですか」

 アリスさんが言った。

「私のとこ」

 僕は言った。

「アリスさん、ありがとう」

 その時、玄関から「ただいま」という声がした。

 エステルは「あ、お母さん」と言って母を迎えに行った。

 エステルの母は言った。

「今日は鱈の実とカサゴの実のスープだよ」

「そうなんだ。おいしそう」

「お友達? ……あぁ、アリスさん。いつも家族がお世話になってます」

「いえいえこちらこそ」

「そちらの男性は」

「川村典弘さん。いい人だよ」

 エステルの母は言った。

「こんにちは」

 僕はこんにちはと答えたが、エステルと結婚することについては黙っていた。

 しかしアリスさんが言ってしまった。

「エステルさんと川村さん、結婚することに決めたんですよ」

「えーっ? 本当ですか」とエステルの母は言った。

「本当です」

 エステルは言った。

「認めてくれる?」

「いいけど、急なものだから……」

 アリスさんは言った。

「そろそろ帰ります」

 エステルの母が答えた。

「そうですか。またいらしてくださいね。川村さんも」

「はい。また参ります」



 四 川に行く


 次の日、僕とアリスさんとエステルは、アリスさんの家から十分ほど歩いたところにある川に行った。河口に近いので水の流れはゆるやかだ。

 アリスさんはカニを捕まえて喜んでいた。

「ほら、川村さん、カニ!」

 二五〇二歳でもアリスさんはこんなにはしゃぐのか、と思い僕は楽しい気分になった。

 僕は言った。

「どれ、僕に貸して」

「はい!」と言ってアリスさんはカニを僕に受け渡した。

 カニはじたばたと脚とはさみを動かしていた。

 僕は言った。

「僕、小さい頃にカニのはさみに爆竹をはさませて爆破したことがあるんだよね。悪い子でしょ」

「……地球人ってそんなに悪いことするんだ」

 僕はカニを逃がしてやった。

 エステルは何かを発見したようだ。

「見て! トマトがある」

 葦の茂みの横にトマトが生えていた。実は赤く熟し、あたかも摘まれるのを待っているかのようだった。

「食べよう」とアリスさんが言ったが、エステルがさえぎった。

「誰かが育ててるのかもしれない。勝手に取ったらいけないかも」

「そっか」

 僕は魚を見つけて言った。

「こっちにはでっかい魚の死骸があるよ」

「どれ」とアリスさんは言い、木の棒を持って魚の死骸のある場所に来た。

「蛆がわいてないね」と僕は言った。

 アリスさんが答えた。

「ミスラにはハエっていう生物がいないんだよ」

「そうなんだ」

「みんなの思いがミスラっていう星を作ってきた。地球には悪感情のもとがあって、醜い星になってるの。でもそんなかわいそうな地球が私は好きだけどね」

「さすがは神様」

 エステルは言った。

「ハエって、あのばい菌をまき散らす虫?」

 僕は答えた。

「そうだよ。地球ではまだ根絶されていないんだ。ハエのおかげで動物の死骸が消える、だからハエは必要だって考える人もいるけど、ぼくはそうは思わないな」

「じゃあカは?」

「蚊も必要ない生物だよね。蚊なんかがいても別に誰も得をしないから。――逆に聞くけど、ミスラの代表的な羽虫は何」

「ポップっていう虫」

「ポップ?」

「緑色で、羽が二枚あるの」

「クサカゲロウみたいなものかな」

「クサカゲロウ?」

「かわいい虫だよ」

「私地球に行ってみたい」

「幻滅すると思う。地球から見ればミスラは天国だから」

「幻滅?」

「うん。僕はこの星、ミスラ星に住みたい」

 アリスさんが空中を指差して言った。

「ポップはこれ!」

 クサカゲロウそっくりな虫が飛んでいた。僕は手の甲にポップを止まらせた。

「まるでクサカゲロウだ。ほんとにそっくり」

 エステルは言った。

「ゴキブリってどんな虫? 汚い虫だって聞いてるけど」

「ああ。ゴキブリも僕は好きじゃないな。どのくらい汚いのか知らないけど、多分不潔な虫だと思う」

「そうなんだ」

 アリスさんは言った。

「そろそろ帰ろうか」

 エステルが答えた。

「待って。最後に水切りをしてから帰りたい」

 エステルは石を拾って川に投げた。一、二、三、四、五。五回跳ねた。

 僕もやってみた。一、二、三。三回しか跳ねなかった。アリスさんに至っては二回である。

 その後五分くらい水切りをしてから、僕らは帰った。



 五 アイリーンに会いに行く


 僕とアリスさんは神・アイリーンに会いに行くことにした。

 アイリーンさんは田舎に住んでいるので、電車ではお金と時間がかかりすぎる。アリスさんは自分の家の居間に丸めて置いてあるじゅうたんを出し、「これに乗っていこう」と言った。

 僕は言った。

「すごい。魔法のじゅうたんですか」

「中級の魔法」

 アリスさんは例によって呪文を唱え、僕たち二人の姿を消した。そしてじゅうたんも半透明 (他人には見えない)にした。

 アリスさんが家の扉を開けたら、僕はじゅうたんを肩にかついで持ち出した。

 アリスさんは言った。

「重いでしょう」

「うん。重かった」

 僕とアリスさんはじゅうたんを広げて、そこに座った。

「魔法のじゅうたん、アイリーンの家まで連れてって」

 じゅうたんは三階建ての建物くらいの高さに舞い上がり、前に進んでいった。家々は相当のスピードで前方から迫ってきては、背後に流れていった。

住宅街を越え、川を越え、高速道路を越え農業用地を越え、山を迂回して、ようやくアリスがこう言った。

「ここがリッピ県。リッピ県には特産の干しあんずがあるんだ」

「そうなんだ」

 山と山の間に町がある。じゅうたんはその町の中の一つの家の前にそっと着地した。

リアカーを引いたおばあさんがやってきた。

「フキ、買ってく?」

 アリスさんは苦笑しながら答えた。

「フキ? フキはいいです。今日は旅行中なもので……」

「そうですか。じゃ」

 僕も苦笑した。フキ自体は嫌いではないが、アリスさんも言うとおり今日は旅行中である。アイリーンさんへの手土産に、調理に手間のかかるフキを持っていくというのもどうかと思う。

アイリーンさんの家はすぐ見つかった。塀で囲まれた庭の中には温泉が湧き出しているらしい岩風呂があった。

 ピンポーン。

 アリスさんがチャイムを鳴らすと、三十代前半くらいの女性がドアを開けて出てきた。彼女は僕に笑いかけて、言った。

「こんにちは、川村さん」

 僕は答えた。

「え、僕の名前がわかるんですか」

「あなたが来ることは知っていました。瞑想していたらあなたの姿が見えて、声が聞こえたんです」

「未来を予知できたと」

「そうですね。未来というか、その時そのままの川村さんが見えました」

「アイリーンさんは一三〇〇一歳でいらっしゃるんですよね」

「はい。私のほうがあなたより幼い姿ですけど」

 正直、三十代前半の姿をした彼女が僕には魅力的に感じられた。僕は惚れっぽいのだろう。

アリスさんは言った。

「アイリーン、私をもとの二十五歳の姿に戻して」

「そうね……私も意固地だったかもしれない。考えてあげてもいいよ」

「本当?」

「うん」

「どうしたら元に戻してくれる?」

「私に豚汁をご馳走してくれたら」

「私に作れって言うの」

「うん」

「わかった。今から?」

「うん」

「じゃあ材料買ってくるね。……川村さんはここで待ってて」

「わかった」

アリスさんは家を出て行った。

 アイリーンさんは言った。

「お茶を用意します。レモングラスとローズヒップとペパーミント、どれがいいですか」

「じゃあレモングラス」

「わかりました」

 彼女は奥に引っ込んだ。

 きれいな部屋だ。カーテンも汚れていないし、掃除が行き届いているようだ。部屋の中央にはテーブルと椅子があり、窓際には観葉植物があった。

 小さい頃、槍を模した細長い木の棒を持っていたら家のゴムノキに木の棒の先がぶつかって、樹液が出てしまったことがある。父は疑いの心が強い人だったので、「樹液を見るために傷つけたんだろ」と言ってきかなかった。

 アイリーンさんがお茶を持ってきた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 久々に飲むレモングラスのお茶はおいしかった。それにのどが渇いていたので、渇きが癒えた。

 今日の夕飯は豚汁かぁ……ということは、「豚肉の実」を使うわけだね。アリスさん、豚汁楽しみにしてるよ。

アイリーンさんが窓を開けた。心地よい風が頬を撫でる。この風に当たっていれば汗も引きそうだ。なんという、何という人生の喜び。香りと風と…… しかし、僕はもっとすばらしいことを知らないのだった。僕にとっては、夜の外気や昼のそよ風、花や香辛料の香り、雨の匂いなど、思春期的なものが強く訴えかける。孤独なせいかもしれない。女を知らない分、思春期めいた思いにとどまっているのかもしれない。

アイリーンさんは立ったままお茶を飲んでいる。

 彼女は言った。

「お酒は飲まれますか」

「ああ、あまり飲まないです。アルコールの味自体嫌いになりましたね。でもカクテルやビールなら」

「カクテルやビールならオーケーなんですか」

「はい」

「じゃあ今晩はビールをお出ししましょう」

「すいません」

 アイリーンさんにも魅力を感じてしまう僕だった。しかし、それはいけない。エステルと結婚するのだ。

 それにしても、僕の人生には女ばかり現れるなぁ…… 男友達なんて一人しかいないし。僕が男性的な荒々しい性質を持っていないせいだろうか。

 そのとき扉が開く音がした。アリスさんだ。

「ただいまー!」

 アイリーンさんが言った。

「おかえりなさい。……お金私が出すね」

「いいから。気にしないで」

「そう?」

「それより、台所貸して」

「うん」

 アリスさんは台所に消えた。


 豚汁はとてもおいしくできた。テーブルの上には豚肉の実の皮が置かれていた。「こういうものだよ」とアリスが教えてくれたのだ。アボカドの皮に似ている。毛が生えた動物のような皮ではないのだ。

 僕は言った。

「おいしい。アリスさん、料理上手なんだね」

「それほどでも」アリスさんは子供の格好をしたままビールをあおった。

 アイリーンさんは言った。

「アリスが元の姿に戻れば、人前でもビールが飲めるからね」

僕は思いついて言った。

「アリスさん、今のままの子供の姿を写真に撮らせてくれないかな」

「いいよ。アイリーン、写真撮ろう」

「うん」

 僕たちは三人横に並んで、窓際に置いたカメラにシャッターを切らせた。

 アリスさんが言った。

「楽しいね」

 アイリーンさんが答えた。

「私たちもいずれ死ぬけど、何か、ずっと生きていたいよね」

「一三〇〇一歳まで生きてもまだそう思う?」

「神の特権を持っていると、そう思うね」

「私も長生きしたいけど……知り合った人が死んでいくのが嫌なんだよね」


 その後、さっき見た庭の温泉に入り、来客用のふかふかのベッドで寝た。僕は一体何をしているのだろう。人生がこんなに楽しくていいのだろうか。

 甘い感覚を楽しんでいるうち、眠りに落ちた。



六 エステルとの結婚


アリスさんはアイリーンさんによって二十五歳相当の姿に戻してもらった。その姿があまりに美しいので僕は驚いた。

 アイリーンさんにさよならを言って、魔法のじゅうたんでアリスさんの家に帰ってきたのち、僕とエステルの結婚式があった。僕はお金を持っていないので、アリスさんに一万ルーネン借りて水晶の指輪をエステルに贈った。エステルはこれを大変喜んでくれた。

エステルはこう言っていた。

「水晶を選ぶなんてセンスいいね。ミスラでは石が高いかどうかで石の価値を判断しないんだ」

「水晶はいい石なの」

「もちろん」

 僕らは肉体の愛を知り、天にも昇る思いだった。 

手をつないで川辺を散歩したり、海辺で一緒にビールを飲んだりした。僕たちの人生はここで最終章に突入するかのようだったが、現実はそれを許さない。僕は採集者にならなければいけないのだ。

 エステルは言った。

「怖がらなくていいよ。何でも豊かに恵まれているミスラでは苦労して仕事をする人がいないんだよ。果物も木の実も豊かに取れる。値段は買う側にも売る側にもちょうどいい値段。争うことがないんだよね、ミスラは」

僕はパラダイスにいたんだ、と気づいた。

アリスさんは親元にいるエステルと僕のために百六十万ルーネンを貸してくれた。これは日本円にして八十万円程度の金額である。ミスラの経済は健康であるため、よい家が八十万円程度でも売られていることがあるのだ。

 ミスラ人は出産で苦しまない。地球は悪い想いの集合体からできた世界なので、出産には苦しみが伴う。(楽園でエバが罪を犯したために女の出産には苦しみが伴うようになった。)地球をそのような悪い世界たらしめているのがサタンだ。

 サタンは愛を求める方法がわからずに、虚偽という一番悪い手段を取ってしまう者である。虚偽によっては人は幸せになれない。真実が人を幸福に導くのだ。


新居で、エステルと僕は幸せに浸った。僕は彼女のためにジャガイモやトウモロコシを茹でてあげることもあったし、舞茸やサツマイモの入ったシチューを作ってあげることもあった。グラタンの作り方がわからない僕のために、彼女はそれを作ってくれた。

 夜、ベランダから月の光がさす。二人は布団の中で、永遠に続く銀色の世界を夢見るのだった。そこには苦しみがなく、安らぎだけがあった。

 やがて、エステルのお腹が膨らんだ。エステルのために食事を作ったり洗濯をしてあげたりする僕だったが、その分僕は仕事の時間を減らして家に帰るのだった。車の運転免許は必要なかった。ただ一ヶ月練習場で運転の練習をするだけで車に乗る許可が得られた。

そして子供が生まれた。出産直前、エステルは安産をもたらすアオヅルという植物のエキスを飲んでいた。そのため、安産だった。

 助産院から帰ってきたエステルは言った。

「名前は?」

「女の子だから、……うーん」

「悩むね」

「うん」

「マリーは」

「どうかなぁ。……アンナはどう」

「いいね、アンナ。アンナにしよう」

「うん」

 ピンポーン。

「はーい」エステルが扉を開けると、アリスさんが立っていた。二十五歳のブロンド美女である。

「出産祝いにジュースの詰め合わせを持ってきたよ」

「ありがとう、アリスさん!」

 僕はエステルに向かって言った。

「アンナに飲ませる強化豆乳ある?」

「買ってきておいたよ」とエステルが言う。

「そう。じゃあ早速飲ませよう」

 アンナは静かに眠っている。

 エステルは言った。

「寝てる。まだ飲みたくないみたいねー」

 昼なので、僕は森で取った魚の実をフライにすることにした。すでに魚の実はスライスして冷蔵庫に入れてある。味をしみこませていたのだ。

 僕は魚にパン粉をまぶして揚げた。油の中で魚の実が泡を立てる。

 僕は地球で何をやっていたのか。教師にこびへつらい、高い偏差値をたたき出していたが、そうやって手に入れたものは地獄だった。まじめさは真面目君に任せておけばよかった。僕はもっとやんちゃに生きるべきだったのだ。

 アンナが泣いている。フライを揚げているからすぐにそっちに行くことはできない。アンナ、と僕は呼んだ。

 フライが揚がったので、クッキングペーパーを敷いた皿に盛った。これは油っこい…… 油ものを平気で受け付ける胃だったのは思春期だ。今ではもう油が多いとちょっともたれる。じゃあ何で俺はフライなんか揚げたんだよ。

 僕はフライをテーブルの方へ持っていって「できたよ」と言った。

「おいしそう」とエステルは言った。

 エステルとアリスさんはフライをパンにはさんで食べた。

「おいしい!」とアリスさんが言った。

「そんなにおいしい?」と僕。

「ほんとにおいしい。食べてごらんよ」

「うん」

 僕はフライのサンドを頬張った。

「……ほんとだ。こんなにおいしいなんて。きっとこの魚の実がすごくいい実だったんだね」

 エステルは言った。

「タルタルソースの実もすごくいい実だったんだね」

 僕は聞いた。

「アンナはもう強化豆乳飲んだの」

「うん」

「育児も大変だね」

「うん」

 アリスさんが言う。

「でも、百年後ぐらいに迫っているって」

 僕は言った。

「何が」

「この宇宙が悩みのない世界になるときが」

「悩みのない世界?」

「そう。人間は体を捨てて心だけの存在になるの。そしてただ静かな幸せを感じているだけになる。その先に、すべての生物が悩みも苦しみもなくなる無の世界が待っていて、これは五百年後くらいになるらしいよ」

「誰がそんなことを言ってるの」

「私の霊力がそう告げた」

「この世は終わるの?」

「そう。この世を治めている一番偉大な神様がこの世を創造されて、人々の意見を聞いていたら、生きていて喜びと苦しみを両方味わうよりは、命がなくて苦しみも喜びもないほうがいいって思ってる人があまりに多かったから、この世界の全ての命を消すことにしたんだって、神様が言ってた」

「そうなんだ。……アリスさんやアイリーンさんの他にも神様がいるんだ」

「うん」

「世界の終わりか。本当はその方がいいんだろうね。人生は苦しみだから」

「……」

「でも僕は一生を生き通さなければならないんだね」

「私は五百年後に消去される」

 アリスはローズヒップのお茶を飲んでから、言った。

「世界から反対意見が聞こえてくる…… 生きたい、世界が消えるのは嫌だって」

「そう。苦しみがあっても生きたいと思う人たちがいるんだね」

 エステルが言った。

「他の生物を苦しめるのは嫌、自分も苦しむのは嫌、っていうのは脆弱な意見なのかな」

 僕は答えた。

「苦しみが嫌な人と、快楽の方が強い人がいるんだよ、きっと」



七 休暇


二年後、僕とエステルとアンナで、立ち入り禁止でない国有地の空き地に来ていた。一週間休むことにしたのだ。

 空き地には野鳥やカナヘビがいた。カナヘビを捕まえようと思ったが、潰したり尻尾を切ってしまったらかわいそうだと思って、そのままにしておいた。

 ふと浮かんだのは、東京・日比谷公園近くの裁判所合同庁舎。悪魔を訴えようとして判例を読んだり六法全書を勉強したりしていた。悪魔に対して要求する金額は十五年×二億円の三十億円だが、位置も素性もわからない悪魔が払ってくれるわけがないのだ。時間の値段は高いが、無残に引き裂かれた十五年の賠償金を悪魔は踏み倒している。

 ミスラに来てわかったことだが、悪魔は地球にしかいなかった。

 僕とエステルとアンナはみな、セイタカアワダチソウの枯れた棒を持って遊んだ。ポキッと折れるところが面白い草だ。野菊にハナムグリが付いていたので、僕は取ってアンナに見せた。アンナは「きれーい」と言った。

空き地の壁際にはカンナが生えていた。僕がその茎をナイフで切ると、液が染み出てきた。別に甘い液なわけではないが。

空き地の真ん中からすこし離れたところにイチジクがたくさんなっていたので、僕ら親子三人はこのイチジクの実を食べた。おいしいイチジクだった。

 夕日が逆光をもたらし、カラスが鳴く頃になったので、僕らは銀色のウチの車に乗って帰った。車内で流す音楽は「癒しの音楽選集 パート2」というタイトルだった。

 今日は何を食べようか。エステルはお好み焼きがいいと言った。僕もアンナもそれでいいと言った。

 このまま人生が熟していく。

 そして僕は五十代、六十代になり、日ごとの知識の獲得と加齢による静謐が訪れるだろう。

 地球ではそのこと――加齢により人生の質が向上すること――が隠されている。虚偽を信じるサタンが、真実に背を向けて「加齢はつらい」と宣伝しているからだ。


 僕らは家に着いた。

 お好み焼きの準備をするエステルだった。

 僕は先に風呂に入ることにした。

 寝て入る形のバスタブ。僕は四十歳になって、そして子供ができて、少し男らしくなったような気がする。いや、どうだろうか。僕が男らしいなんて。

 お好み焼きの焼ける匂いがする。

 アンナ、僕は父親と母親からそうされたように、お前を苦しめたり、お前によりかかったりしないからな。安心しろ。

僕はミスラに来るまでは仕事が続かないことが多く、収入にならなかった。悪魔の声が聞こえていたからだ。悪魔は僕を怠惰にし、空腹中枢を刺激することで大食いにして太らせた。悪魔を退ける方法はなかった。苦しみのうちに十七年の歳月が過ぎていった。

 この世の神サタン。

 キリスト教でいう「この世的」とは、サタンが支配する世界、悪しきこの世を意味する。悪しきこの世においては、アイドルやタレントに興味を持たないなど、この世的な基準になじめない者は虐げられる。それが悪魔の声である。

 ミスラはサタンの支配圏の外にあるようだ。だからパワハラや体罰がない。

 一生ミスラで過ごしたい。でも家族や友達にも会いたい。アリスさんの持っている惑星間航行装置で会いにいくことはできるはず。

僕は風呂から上がり、歩いてすぐの場所にあるアリスさんの家に行った。

 ピンポーン。

「ちょっと待って下さーい」と大きな声が聞こえた。

 しばらくして、アリスさんはドアを開けた。

「ああ、川村さん」

 僕は言った。

「お願いなんだけど、一度地球に帰りたいんだ。いい?」

「うん。これからはそういうこと気軽に言ってね。地球に行くには惑星間航行装置を使えばいいだけだから」

「家族や友達に会いに行きたいんだ」

「そう。いつがいい」

「あさってあたりかなぁ」

「あさってね。覚えとく」

「じゃあよろしくね」

「はーい」

 アリスはドアを閉めた。

 僕は、エステルと結婚し、アンナが生まれて、幸せだ。でも地球にはサタンがいて、善良であればこそ苦しみを受けている人がたくさんいる(サタンは悪い人は嫌いでないので、悪い人を苦しめない)。

 僕は「この世的心情」がわからない。その分、サタンの心情を理解することもできない。それで地球では、大学から転落した後の十七年間を苦しんだ。

 父や母に金を出させて、不潔恐怖症のためお金のかかる手袋の代金や酒、つまみの代金に費やしていたころは、「親は俺のために金を出せばいいんだ。親のせいで不潔恐怖になったんだからな」くらいに思っていた。

 つまり、不潔恐怖の三年間の後で反省してこの世的心情から離れた。この世的でない幸せな人間になったから、悪魔に目をつけられた?

「この世的」というのは、親が子供に体罰をしたり、パワハラが横行していたり、アイドル・タレントに興味がない人が変わり者扱いされたり、歌えない人にカラオケを強要したり、家族の心がバラバラだったりする世界を意味する。

 この世的心情を忘れた者は、悪魔の攻撃のターゲットになるのかもしれない。

地球に戻ろう。



 八 地球


 僕が戻った場所、地球は相変わらず「悪の世」だったが、亀戸の街並みに暖かみを感じた。

 初夏。もちろん日差しは強いが、青白い太陽・ポントよりは穏やかな日差しだ。しかしミスラの夏のように風が吹かないので、暑さはこっちの方が上である。

 僕とアリスさんはスーパーに行き、唐辛子ウォツカ、黒ビール、いかり豆、ゆでピーナツ、そして翌朝の朝食のための食パンとピーナツバターを買った。

 アリスさんは言った。

「また川村さんの部屋で楽しい酒盛りだね」

 僕は答えた。

「アリスさんと出会う直前に、僕、悪魔の声が聞こえなくなったんだ。だから医者がもう治りましたねって言って、薬を飲まなくていいことになったんだ。今、薬飲んでないからアルコールは飲みたいだけ飲めるよ。薬が入ってると酒がまずいんだよね」

「難病って悪魔つきのことだったんだね」

「うん」

「楽しみだなぁ、明日川村さんの家族に会いに行くの」

「おいしいものも食べられるよ。肉や魚は食べられないって言ったら、植物だけの食事を作ってくれるって」

「ほんと」

「うん」

 アリスさんは立ち上がって窓際に立った。そして窓の外の駐車場を眺めながら言った。

「……消えてしまう世界でも、こうして亀戸は輝いてるね」

「百年後だっけ? 僕らの体がなくなるの」

「百年後なら川村さんは生きてないじゃない」

「あ、そうか」

「私の体は消える」

 僕も立ち上がり、窓際に行った。

「人間も、植物も、この駐車場の車も、そしてこの街も、みんなはかないものなんだね」

「うん。残念ながら川村さんは私の最後の男にはならなかったけど、私は私でいい人を探そうと思ってる」

「いい人、見つかるといいね」

「うん」

 僕は冷房の効率を上げるためにカーテンを閉めた。

 アリスさんは言った。

「シャワー借りていいかな」

「シャワーだけじゃなく風呂にも入りなよ」

「ありがとう」

 アリスさんは僕からバスタオルを受け取ると、扉の向こうに消えた。

 僕は一人で唐辛子ウォツカを飲んだ。一番おいしいと思う酒だ。つまみのゆでピーナツはとてもおいしい。人間はなぜ肉や魚など食べるのだろう。植物だけでもおいしいものはいっぱいあるのに。(肉しか手に入らない地域では仕方がないかもしれないが)

 僕は唐辛子ウォツカをどんどん飲んだ。何ておいしい酒なんだろう。

 明日は家族と会う。みんなどうしているかな。二年間も帰ってこなかったから寂しがらせてしまっただろうか。

サタンの支配する悪の世、地球。僕はそれでも地球が好きだった。

 アリスさんが風呂から出た。

 しまった。調子に乗って食べ過ぎてしまった。

 僕は言った。

「僕も風呂に入るよ。テレビでも見てて」

 そういって僕はテレビのスイッチを入れ、扉の向こうに行った。

 髪を荒い、体を洗い、ひげを剃ってから、ぬるめのお湯を張り、粒状の入浴剤を入れる。

地球で悪魔から受けていた苦しみも、もう過去だ。二年以上前のことだ。アリスさんは僕の苦しみを振り払ってくれた。アリスさんの神としての力がそうさせたのだろうか。

僕はバスタブの中で眠ってしまった。


 アリスさんが起こしに来たのは約二十分後だった。

「酒盛りやろうよ酒盛り」

「僕は食べ過ぎちゃったから酒だけ飲むね」

「食いしん坊なんだから」

 二人で簡単な酒盛りをした。その後で僕はちゃぶ台をどかした。そしてタンスから服を取り出し、次々重ねていった。そうやって敷布団のかわりにした。

「悪いね、私のために」

「さすがに二十五歳の姿ではね」

「もう寝る時間?」

「うん」

「歯ブラシはある?」

「ほら」アリスさんはバッグの中からトラベルセットを出し、見せてくれた。

「あるんだ」

「うん」

「あーあ、川村さんをエステルに譲るんじゃなかったなぁ」

「もう結婚したから無理だよ。ごめんね」

「残念」

 僕とアリスさんは歯を磨き、冷房をかけたまま

眠りについた。

 明日は家族と食事だ。


 朝。

 食パンにピーナツバターを塗って食べた。飲み物は、アパートの前にある自動販売機で買った紅茶。何で香り物の紅茶に香料を入れるんだろう、といつも思う。

三年前は、こうして笑っていられる時間が持てるなんて思わなかった。悪魔が離れていく時が来るなんて思わなかった。

 悪魔はいつか離れるよ。そう過去の自分に伝えてやりたい思いだった。

 アリスさんは言った。

「じゃ、行こうか」

「うん」

 電車で小岩に向かった。



 九 家族


 小岩の駅から八分歩くと、そこは一戸建ての僕の母の家だ。

 チャイムを鳴らすと、母が玄関に出てきた。

「はい。……おお、典弘か。それから、アリスさん」

「はじめまして」

「こちらこそ。たいしたべっぴんさんですね。……じゃ、お入りください」

 僕らは家に上がった。

 母は言った。

「ちゃんと肉類を使わないようにしましたから」

 アリスさんは言った。

「ありがとうございます」

 僕は聞いてみた。

「味付けはどうしたの」

「味噌やらトウバンジャンやらを使った」

「お酒は何がお好きですか」と母はアリスに聞いた。

「黒ビールです」

「あいにく、今普通のビールしかなくて……」

「普通のビールも好きですよ」

「それはよかった」

 母は冷蔵庫からビールを取り出し、僕たちに着席するようすすめた。

 テーブルには次兄がついていた。長兄は外国にいるので、来られなかったらしい。

 次兄は言った。

「典弘は悪魔のほうはもういいのか?」

「もう僕から離れた」

「よかったな」

「悪魔は劣等感の塊で、愛が欲しいと思っているくせに、その愛を求めたい相手を虐待するという愚かさがあるから、いつまでも孤独なんだ」

「そうなのか」

 僕はビールをあおった。薬が入っていないとこんなにもビールがおいしい。一九九七年からの僕の十五年は精神科によって奪われた。本当の統合失調症には薬が効くが、統合失調症に似た悪魔つきには薬が一切効かない。しかし精神科は本当の統合失調症と悪魔つきの区別ができないのである。

 僕は少年時代に、母から情緒豊かな子だと言われた。十五夜に月やススキを見るのが好きだった。

 中学の修学旅行の時、僕は窓際の布団から空を眺め、星を見た。そして「星がきれいだなぁ」と言うと、皮肉っぽく「何言ってんの」と言われた。その人には星がきれいだと思う感受性はなかったわけである。悪魔にもそういうロマンチスト的性質はなく、取り付いた人間のロマンチックな性質をよく思わないようだ。

「どうしたんだ典弘」

「いや、ちょっと自分の特殊性について考えてた」

「特殊性って何だ」

「感受性の強い人は悪魔に憑かれることも多いっていうこと」

 アリスさんが言った。

「典弘さんは本当に優しい人で、奥さんのエステルさんや娘さんのアンナちゃんに対して全然怒らないで優しく接してらっしゃるんですよ」

「そうなんですか。……典弘、今度お前の家に遊びに行っていいか」

「いいよ」

「孫娘の顔が見たいからな」

「宇宙旅行だよ」

「うん」

 アリスさんは言った。

「川村さんのお母さん、宇宙旅行に行くのあさってくらいじゃだめですか」

「え? いいですよ」

「そうですか。なら話が早い。川村さん、帰りにお母さんを連れて行こう」

「わかった」


 三日後、アリスさんと母と僕は家の庭に立ち、宇宙へと飛び立った。

「わー、どんどん地球が離れていく。すごい」

 母はそのたびそのたび驚き楽しんでいる様子だった。

ミスラの太陽ポントの前に来たときには、

「水色の太陽! まぶしいなー!」と感激した様子だった。

 この前も着地した公園に僕らは着地した。

夕方なので子供は一人もいなかった。ただ一人の男がベンチに座ってウイスキーか何かを飲んでいるだけだった。

 歩いて三分、自宅に着いた。

 チャイムを鳴らすとエステルがドアの隙間から顔をのぞかせた。

「エステル! ずっと君に会いたかったよ。アンナにも。何か自分の一部がなくなってしまったみたいに感じてた」

「お帰りなさい、典弘さん。その方はお母さん?」

 母は言った。

「息子がお世話になってます」

「お入りください」

 エステルはドアを開いた。

「私もいるよー」とアリスさんが言った。

 エステルは言った。

「今日はワンタンスープなの」

「大好物」アリスは嬉しそうだった。

「ビール出しましょうか」とエステルは僕に聞いたので、僕は「そうしてくれ」と言った。

 アンナが植物性ミルクから作られたヨーグルトを食べている。

 母は言った。

「アンナちゃん、こんにちはー」

「誰?」

「おばあちゃんだよ」

 アンナは笑顔になった。

母はアンナにかかりっきりになった。本当に心の底から孫娘がかわいいらしい。こういう愛情にあふれる良い母でよかった。

 母は僕に向けて言った。

「お前文鳥飼わないのか」

 僕は答えた。

「もう飼っている文鳥が死ぬのは嫌なんだ」

「そうか」

 エステルが母にレモングラスのお茶を持ってきた。

「お茶です」

「ありがとう」

 母は僕に向けて言った。

「典弘、二年も地球に帰ってこないから心配したぞ」

「うん。悪かった」

 アリスは言った。

「私も申し訳ないことをしました。惑星間航行装置って高いんですよ。日本のお金に換算すると五百万円くらいするんです」

 母は驚いて言った。

「そんなにするんですか。申し訳ない」

「私もそれなりにお金持ちですけど、五百万円の惑星間航行装置をバンバン使えるほどの金持ちではないので」

「じゃあ私長く居ようかな。なあ典弘」

「うーん、どう? エステル」

「私はいいよ。お母さんが一緒でも」

「僕もそれでいい」

 母は言った。

「お世話になります」

 エステルは答えた。

「こんな優しい夫を生んでくださりありがとうございました」

「いえいえ、かわいいアンナちゃんを生んでくださりありがとうございました」

 アンナは喜びの声を上げている。

 僕は言った。

「お母さん」

「何だ」

「お母さんが生きているうちに親孝行できてよかった」

「そうか」

 母は涙をハンカチで拭いた。

「お前が神経症になった時な、もうだめかもしれないって思ったんだ。それが立派に家まで持って、よくやってくれた」

 エステルはビールを持ってきた。

「みなさんビールをどうぞ」

 そして台所からワンタンスープとチンゲンサイの炒め物、パンを次々と持ってきた。

 母は言った。

「ごはんはないんですか」

「あ……私小さい頃からパンで育ってるもので……」

「そうなんですか。失礼しました」

母はエステルに代わって、アンナにスプーンでワンタンを食べさせてやっていた。僕は「自分で食べれるよな、アンナ」と言い、その行為をやめてもらった。

 アンナが年頃の十八歳になる頃には、俺は五十六歳か。五十六。その頃まで健康を保てるように気をつけよう。何より野菜を食べることだな、と僕は思った。

 僕はこうも思った。中学一年の時のテストで学年三位を取り、以後偏差値六十八程度を保ってきた自分だったが、自分は高いものではない、決して自分は他人の上ではない、みんながみんな自分の世界を持っているんだ、と思った。

 僕はこれからもっともっと色々な経験をしてもっと大人になっていくんだ。



 十 夢


 一ヵ月後、アリスさんは母を地球に送り届けた。

 僕とエステルとアンナは近所の喫茶店に来ていた。僕はチーズケーキを食べ(植物性ミルクを原料としている)、エステルとアンナはグラタンを食べていた。

僕の夢は、恋人を作り、交わることだった。でもそれが叶ってしまうと、もう次に夢がないのだ。何か夢が欲しい。

 僕は帰宅のついでに、ビデオ屋にメモリースティックを借りに行った。

 その店で僕はアニメ監督の撮った実写映画を借りた。料金は一週間につき四百ルーネンだった。

 家に帰ってビデオの機材を箱から出していると、エステルが「ビデオ見るんだ?」と言った。

「見たいビデオがあるんだよ」と僕は答えた。

「そうなの」

 エステルは僕の作業を見守っていた。興味があるのだろうか。

 そして画面は映る。

 草原で、三十代とおぼしき男が女子高校生を押し倒すが、拒否されて逃げられてしまう。男は友達の女子高校生二人と会い、このことを報告する。「押し倒すなんてガラにもないことするからだよ」と指摘されてしまう。

男は恋に絶望し、雑貨を車に積んで、山にこもる。山には果物が豊かになっていて、男の口を潤す。

 彼は街の生活よりも山の生活がよくなってしまった。それでも恋をしたい気持ちは変わらないのだった。

 街へ帰って、小説を書く仕事をしていると、仕事上のお知り合いが出来、男はその人と交際することになる。そして突然の幕切れ。

単なるハッピーエンドなんてつまらないな。人生ってもっと苦しいことがいっぱいあるものじゃないか。僕はそう思った。

 あるとき地球で、新約聖書を買った。キリスト教というものの特殊性、そしてキリスト教的信仰が徹底的に人間に優しいことを知った。

 なぜ僕は信仰を取り戻したり信仰から離れたりするのだろう。ミスラが住み心地のよい楽園だからといって、本当に信仰を忘れてしまっていいのか。

 でも、キリスト教は悪魔から僕を守ってはくれなかった。それだけは確かなことである。結局、キリスト教の神はいないのかもしれない。アリスの言っている神様って一神教の神のことなのかな。

 僕はキリスト教を捨てることにした。

 ある日本の歌も聖書を否定していた。人間はもっと自由に生きるべきだという歌詞なのだ。

 エステルは退屈なのか、横でさつまいもチップスを食べていた。

 僕は言った。

「僕にもちょうだい」

「いいよ」

 さつまいもチップスは甘く、さつまいも独特の香りがして、とてもおいしかった。

 彼女は言った。

「あ、アンナを見に行ってくる」

「うん。僕も行く」

アンナはベッドの上で気持ちよさそうに寝ていた。

アンナ……

 アンナは目を覚ました。

「お父さん」そう言って彼女は僕のほうへ手を伸ばした。僕はその手をつかんだ。

 僕は言った。

「今日何が食べたい?」

「シューマイ」

「いいね。お母さんに言っとくね」

「うん」

 僕はシュウマイが食べたい件をエステルに伝えた。

 エステルは言った。

「豚肉の実を買ってこなきゃ」

「自分で一から作るの?」

「あ、やっぱり出来合いの方がいいか」

「そうだよ。大変だろう」

「そうね。じゃあ私買い物行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 エステルは扉を閉めた。

「お父さーん」アンナが僕の前まで歩いてきた。

「アンナ」僕は高い高いをした。

「高い高いイヤ」とアンナは言った。

 僕は部屋の明かりとテレビをつけ、アンナを僕の横に座らせて、ノヴァーリスの「青い花」を読んだ。地球のネット通販でこの本を買うときは期待に胸をふくらませていたのに、その内容は…… 僕にはこの本の良さは理解できなかった。ヘルダーリンの詩集もそうだった。人から聞いた評判がいいからといって自分にとっても面白いとは限らない。

僕はアンナに言った。

「お父さんビデオ見るからあっちの部屋に行くね。アンナも来て」

「わかった」

 僕は愛蔵しているミスラのアニメ映画を見た。天才的と言われたアニメ監督の作品だ。主人公とヒロインは感受性豊かで、心理描写が卓越していた。

 アンナは退屈そうだった。

「ごめんね、アンナ。何かしたいことある?」

「つみき」

「そうか。積み木をしたいのか」

 僕はテレビの下から積み木を取り出し、テーブルに載せた。

「お父さんもやって」

「わかった」

 僕は、娘が僕のことを必要としていることがありがたかった。地球にいた時の精神状態

とは大違いだ。地球にいた時は、毎日が悪魔との戦いだった。ミスラは救済が成功した世界。

 積み木。こんな単純な遊びの何が面白いんだよアンナ、と思ったが、アンナは本当に楽しそうに積み木を積んでいる。そう、大人は何十ものおもちゃを遍歴してきたから、積み木に興味を持たないのは当然だ。しかし子供は違う。

かわいいな。

 僕はアンナの頭を撫でた。アンナはひょこっと首をすくめるのだった。

 これを求めていたんだ。幸せというもの。

 エステルはどうしているかな。何を買ってくるだろう。

アニメ映画は佳境に入り、ヒロインは五階の病室から紙飛行機を飛ばす。それは誰に受け取られることもない手紙。

 ……エステルが帰ってきた。

「今日はヤングコーンのスープにします」と彼女は言った。

「やんぐこーんってなに?」とアンナは問いかける。

 僕は答える。

「とうもろこしのちっちゃいやつ」

 エステルは買い物用のバッグから小瓶を取り出して言った。

「ほら、シトラスのコロン。あなたシトラス好きでしょ? だから買ってきたの。もちろん私の小遣いからだよ」

「ありがとう。さっそく開けてみるかな」

 僕がコロンの蓋を開けると、鮮烈な香りが広がった。アンナは小瓶に顔を近づけた。僕がアンナの鼻先にコロンをやると、アンナはうっとりして目を閉じた。

 エステルは言った。

「子供でもわかるのね。コロンがいい匂いだってことが」

「そうだね」

「じゃあ私は台所で料理してきます。何も食べないで待っててね」

「了解」

 僕らはお絵かきをすることにした。

 八色のサインペンでお絵かき。

 僕はクワガタを描いた。

 アンナはそれを見て、これ何? と聞いた。

僕は「虫だよ。クワガタっていうんだ」と答えた。


 結局、僕の夢はもう残っていないのだろうか。夢が現実になると、実感のある幸せになる。でも現実にならないままの夢もいいものだ。たとえばピューターの杯が欲しいとか。豪華客船での旅もいい。これから夢をいくつも現実にしていこう。……いや、現実にしないままの夢を見よう。 ……? どっちだ?



 十一 アリスの恋人


ある日、アリスさんが僕の家に男を連れてきた。紹介したいというのである。僕は家の中に彼らを招き入れた。

 僕は言った。

「エステル、何かお茶を。ローズヒップがいいかな」

「今はペパーミントしかないけど、それでいい?」

「いいよ」

 アリスさんと男は居間に来て座った。

 男は言った。

「はじめまして。アラン・ダントンといいます」

「こちらこそはじめまして。川村典弘です。よろしく」

 アリスさんは言った。

「豪華客船に乗ったら、食事の席が隣になってお知り合いになったの」

「そうなんだ。相変わらずアリスさんはお金持ちだね」

「まあね」

 エステルはペパーミントティーの入ったカップを三つ出した。

 エステルは言った。

「アランさんはじめまして。今は娘の面倒を見なければならないのですいません」

 そう言ってエステルは引っ込んだ。

 アリスさんは言った。

「アランは二十五歳なの。私たち結婚することにしたんだ」

 僕は言った。

「アランさんはアリスさんが神だっていうことは知ってるんですか」

「もちろん。僕が彼女と結婚しても彼女の一生の一部分を占めるに過ぎないことはわかっています」

「私も五百年後には消える」

 アランはうん、と言った。

 アリスさんは言った。

「地球も、サタンもろともに消えてしまう」

 アランは言った。

「神様は、どうやっても良くならない悪魔や悪人の心がいやになって、世界を消すことにしたんだね」

 アリスさんは答えた。

「そうね。完成された世界であるミスラの住民はほとんどが『世界は消えないほうがいい』って思うかもしれないけど」

「五百年後に世界は消滅するんだね」

「全ての人が体を持たない心だけの安らかな存在になって、その次に世界自体が消滅するの」

「何か、寂しいな」

 僕はペパーミントティーを飲みながら、ああ、死んでしまったらこんな楽しみもないんだな、と思った。全ての命が心だけの存在になるとか、世界が消滅するとか言うけど、とりあえず僕には関係のない話題みたいだ。

アンナは大丈夫か。百年生きたら心だけの世界に。まあ、それが幸せな世界ならいいけど。

アリスさんが言った。

「私子供ほしいなー」

 アランが言った。

「僕と君の子供は神になるのかな」

「ハーフだね」

「神の能力は受け継ぐの」

「半分だけ。弱い力になるはず」

「そうなんだ」

 そのときエステルがチョコレートケーキを持って、アンナと一緒にやってきた。

「四等分にしましょう。アンナはお母さんと一緒に食べようね」

「うん」

 エステルは包丁でチョコレートケーキを切り分けた。そのうちの一つをさらに半分にして、エステル自身とアンナの分にした。

「おいしいですねこのケーキ」とアランは言った。

 アリスさんは言った。

「でしょう? エステルは結婚前からケーキを焼くのがうまいの」

 エステルは言った。

「ペパーミントティーに飽きたなら、コーヒーと紅茶がありますけど」

 アランだけコーヒーを飲みたいと言い、僕とアリスさんは紅茶を求めた。

 エステルは言った。

「アンナはミネラルウォーターね」

「ジュース飲みたい」

「アンナ、さっき飲んだから、今度はお水。ジュース飲みすぎると体によくないからね」

「うん」

アランは僕のほうを向いて言った。

「アンナちゃんはいい子ですね」

 僕は答えた。

「ええ、僕に似なくて本当によかった」

 エステルは言った。

「あなた、偽悪はやめてください」

「ああ、そうかもしれないね。ごめん」

 アランは言う。

「僕も子供欲しいな」

 アリスは言った。

「私も」



 十二 幸福


 アランとアリスの結婚式は、エルト県のうちでも有数の結婚式場で無事執り行われた。

 アリスはほとんど知り合いを呼ばなかった。偽りの友情が嫌いだからである。惑星間航行装置が一千万ルーネンもするので、他の星に父母が住んでいるアリスは、結婚式に父母を呼ばないことにして、おいおい故郷の星でパーティを開くということで自分を妥協させていた。


 そして一年経った。

 僕とエステルとアンナは果物のたわわになる場所に来た。ここは僕の仕事場の一つだ。実は豊かになっているので、別に誰が実を取ってもよく、採集権などというものも設定されていない。エルト県の外れのほうなので、ようするに実を運んで売ることが採集者の仕事なのである。

 エステルは言った。

「この黒マンゴーおいしそうね」

「ペティナイフ持ってきた」

 皮をむいた黒マンゴーは普通の色である。僕が切った黒マンゴーの身をエステルは食べた。

「おいしい!」

「ねえお父さん、私も食べたい」

 僕はアンナにも黒マンゴーの身をあげた。 アンナは言った。

「甘い」

「だろう」

黒マンゴーはうまみが強いのである。

 この場所は、セイタカアワダチソウやブタクサ、カモジグサなど地球人にはなつかしい草がたくさん生えていて、僕の心を落ち着かせてくれる。

 黒マンゴーの次に、僕は牛肉の実をスライスして、車の中にある、おろししょうがとしょうゆを混ぜた皿に付け、エステルとアンナに食べさせた。そして僕は言った。

「おいしい?」

「おいしい。脂が乗ってるね」とエステル。

「焼いたらもっとおいしいんじゃない」とアンナ。

「ごめんな。今日はガスコンロ持ってきてないんだ。帰ってから焼こうな」

「うん」

 空は青いが、西の空が夕焼けの色に染まりつつある。

 三年前までの悩みの多い時代は終わって、今は安らぎに満たされている。

 僕は言った。

「他にもあるよ。さとうきび」

 僕はサトウキビを切ってエステルとアンナに与えた。

「これって砂糖の原料なんでしょ」と三歳のアンナが言った。

「そうだよ。甘いだろ」

「うん」

 僕の父もよく僕を行楽に連れて行ってくれた。それなのに僕は父を疎んじていた。お父さん、ごめん。

 エステルが車から水筒と出来合いの弁当を持ち出してきた。

「この水筒には薄めの紅茶が入ってるから」

 僕たち三人は紅茶を飲んだ。トイレに行きたくなるから、パーキングエリアに寄らなくては。

そして僕らは出来合いの弁当を食べた。

「本当は私が作ってきたかったんだけど、傷むといけないから、買った弁当ね」

ミスラは悪魔がはびこる地球とは違う。

 僕は手を組み合わせて神に感謝した。

 そして僕は牛肉の実を五個取って、車の中に入れた。

 僕は言った。

「そろそろ帰るよー」

 僕らは車に乗り込んだ。

テレビゲームばかりしていた少年時代。僕は学業成績の高さゆえに孤独になった。ただひたすら高みを求めた。

 僕はいやな三十八年間を過ごした。友達との関係が切れてしまったり、精神病棟に連れて行かれて監禁や暴力、拷問をされたり。この世の神サタンが、僕と文通している恋人との関係を毎度毎度切り離したので、苦しかった。

 それでもエステルと出会えて、結婚して家庭を持つことができた。

 愛情。

 しかし愛情から見捨てられている人もいる。理想的な星であるミスラにはそんな人は一人もいないが、地球にはたくさんいるのだ。


 僕とエステル。もう一度出会った頃のときめきが欲しい。僕らは一緒に寿司を食べたり(魚の実にはバリエーションがあるのだ)、ドライブをしたりして愛を育んできた。

 あの季節は戻らないのか?

 まだ女の体を知らなかった頃だからこそ、せつない空想に身を浸していることができたのだろうか。

 結婚は恋愛の墓場だ、という言葉があったっけ。



十三 神の愛


 九十七年後に世界は心だけの世界になる。肉体は消滅する。四九七年後には、世界そのものが消滅する。

 生命にとって、生きるということはやはり苦しみなのだ。小さい頃転んで怪我をするのがミスラ的苦しみの代表だろうか。

「苦しい」という声が、ミスラの住民から神のもとに聞こえてきた。しかしそれはちょっとした怪我や、ミスラ人のほとんどが経験しない風邪の苦しみである。ミスラはそのまま現状維持でいいか――いや、世界を消滅させるにあたり、ミスラ星だけを特別扱いにするわけにはいかない。

 やはり世界自体を消滅させてしまうしかない。

神「ブラー」は思った。世界を作ったこと自体が失敗だったのかもしれない。ミスラという傑作はできた。でも、他に不幸な星はいくらもある。生きることに苦しみが伴うなら、世界は存在してはいけなかったのだ。


神である私は世界を消去する。

 はじめに、九十七年後にすべての生き物を心だけの存在にする。

 四百九十七年後に、世界そのものを消去する。残るのは無の空間。そこにはもう、一つも命が存在していないし、星も星雲もないのだ。

 真の平和。

 たくさんの人々、そして動物達の歴史を見てきた私としては、少し寂しい。もう私の友達が――人間も動物も――いなくなるのだ。

 私自身も無に還ることにしよう。そうすれば、世界は本当の無になる。再び世界を始める者もいない。



 十四 小学校入学


三年経って、アンナは小学校に上がった。

アンナは毎日が楽しいと言っている。アリスさんは自分で使っていた高級な肩掛けカバンをアンナにプレゼントしてくれた。僕はお礼にタオルケットを贈った。

 僕はアンナに聞いた。

「将来何になりたい?」

 アンナは答えた。

「画家」

「そうか。芸術家になるんだね」

「うん」

 エステルは言った。

「ポップが入ってきてる」

 エステルの手の甲にはポップがとまっていた。ポップは神様の虫と言われている。ポップにバチ当たりなことをすると世界が泣くという。ポップにも心があるのだ。

 エステルは窓を開け、「お行き」と言ってポップを解放した。

アンナは言った。

「じゃあ、行ってくる」

 エステルと僕が言った。

「行ってらっしゃい」

「じゃあ僕も仕事に行ってくるよ」と僕は行った。

「行ってらっしゃい」  


 僕は木の実のなる森に来て、鯛の実とイワシの実を取った。それを街の広場で売ると大体二万ルーネンくらいになる。鯛の実にもイワシの実にも骨はない。

 市場で実を売って、残りを家に持って帰った。アンナはオーディオ機器で流行歌を聴いている。そうか、僕が年を取って老人に近づいていくとしても、子供という新しい世代が活気をもたらしてくれるのか。

 僕は言った。

「エステル、今日の夕飯は何」

「イワシの実があるから、つみれ汁」

「おいしそうだね」

「料理が上手いだけが取り柄だから」

 僕はエステルの肩に手を置いた。

「子供がいると、愛する時間が制限されるね」

「そうだね」

 僕は地球にいた頃のことを思い出した。この世の神サタンに支配された地球。世俗的でない限りサタンから苦しめを受ける地球。ミスラにはサタンがいないので、世俗的な人も存在しない。地球にいた頃は苦しかった。地球と比べたら、夢のミスラである。

でも、僕らが寿命を終えた後に、この星も消えるのか。連綿と続いていく血筋はないわけだ。

 究極の幸せは生命が無に帰すること。


 ある日、アンナが図工の時間に書いた絵を持ち帰った。

 それは、天空の神殿を描いたものだった。神殿の向こうは夕日で、光もきれいに描かれていた。

 エステルは言った。

「すごいね!」

 アンナは言った。

「先生もほめてくれた」

 僕は「これなら本当に画家になれるかもな」と言った。

 ――何か、不意にせつなさを感じた。

 アリスさんに会いたい。彼女は無二の親友だ。

 僕は言った。

「ねえ、アリスさんを呼ぼうよ」

「いいよ。それならお菓子を買ってこなきゃね。ちょっと行ってくる」

「うん」

 待っている間、アンナと僕は人気アニメの塗り絵をして遊んだ。子供の遊びは素朴で癒されるなぁ、と僕は思った。

 僕はふと、朝ごはんの時にズボンを汚したことを思い出した。自分の部屋に行き、ズボンをはき替え、もとのズボンに酸素系漂白剤を塗って、洗濯機に入れた。

 アンナは言った。

「お父さん何してたの?」

「洗濯」

「洗濯?」

「うん」

「塗り絵の続きやろうよ」

「うん」

 その時エステルが帰ってきた。エステルはレアチーズケーキを四つと、フライドチキン八つを買ってきた。フライドチキンといっても「鶏肉の実」を揚げたもので、ミスラではチキンといえば鶏肉の実を指すのだ。

「あなた、お茶は紅茶でいい?」

「いいよ。……じゃあ俺アリスさんを呼びに言ってくる」

「うん」

 アリスさんの家は歩いて二分。庭には桃の木が植えてあり、毎年実をつける。

 僕はチャイムを鳴らした。

「はーい」

 アリスさんが出てきた。

「何の用?」

「一緒にティータイムでもと思って」

「そう。じゃあお呼ばれするね」

「アランさん、最近元気?」

「元気だよ。今日は仕事に行ってる。……お菓子やお茶はあるの」

「もう用意した」

「そう」

 僕らは並んで歩いた。

 アリスさんは言った。

「最初に会ったときのこと、覚えてる?」

 僕は答えた。

「うん」

「草むらだったよね。私が魔法の失敗で少女になってて、そこに川村さんが来た」

「懐かしいね。……あ、今日の夕飯、しゃぶしゃぶにしてもらおう」

「豪華だね」

「でも無理か。もうエステルは買い物から帰ってきたんだから」

「残念!」

「また明日にでも頼んでみる」

 僕はふと、地球のテレビで台風の夜に流れていた音楽を思い出した。僕はその、この世のものでないような音楽を思い出し、たったいま風に吹かれている。そして隣にアリスさんという友達がいる。そんな時間がとても幸せだった。

僕らの世代は九十七年後までの寿命はない。人生が途中で終わることはない。よかった。

病気やけがには気をつけよう。アンナは百歳以上生きれば、少し寿命が切れてしまうかもしれないが。

世界の終わり。それをアリスさんは目の当たりにする。宇宙はどんなふうにして終わるのだろう。

自宅に着いた。

 もうお茶の準備は出来ていた。ガラス製のポットに紅茶が入っている。

 エステルが言った。

「始まるよー」

 アリスさんは言った。

「エステル、こんな楽しいお茶会に呼んでくれてありがとうね」

 アリスさんはうれし泣きをして、ポケットティシューを目に当てていた。

 エステルは言った。

「どうして泣いてるの?」

「うん。私エステルたちとお別れしなきゃいけないから。寿命の差でね。……私は心だけの存在になって生き残る。……今こうして楽しい時間を過ごせるのが嬉しいよ」

「そう。じゃあここに座って。はいティーカップ」

「ありがとう」

「アリスさんもうちに来てくれてありがとうね」

 植物性ミルクから作られたレアチーズケーキ。鶏肉の実から作られたフライドチキン。そして紅茶。僕らは存分にその味を楽しんだ。

こうして、毎日が楽しいままに過ぎていくといいな。僕はそう思った。

 地球はサタンの支配下にあるので、大きな不幸がよく発生する。しかしミスラは楽園なので、大きな不幸、たとえばガンなどは一件も発生しない。それは宇宙の星々の住民が見た夢、理想がミスラを形成したからである。こんな世界があったらいいな、と。



十五 神と会う


僕は夢を見ていた。

 レストランでステーキを食べていると、色っぽい女が「相席していい?」と聞いてきて、僕の向かいに座るのである。

 僕は彼女が哀れな女に思えたので、「おごってあげるよ」と言った。そうすると彼女は感動したのか、カワハギのスープしか注文しないのだった。

 そんな時、男の声が聞こえた。そして今までの夢は消えてしまった。いい夢だったのに……

 次の瞬間、男と僕が向かい合っていた。男は五十代くらいの姿だった。男は言った。

「私は最大の神と言われている神です。名前はブラーです」

 僕は答えた。

「え? 神様? 神様が僕に何のご用ですか」

「君は地球でサタンに十七年間も苦しめられたね。その経験に敬意を払って、ちょっとアンケートを取りたいと思って」

「アンケートですか」

「用紙はないんですけどね」

「そうですか」

「君は、人生は生きるに値すると思う?」

「いや、人生なんてない方がいい。つらいことがいっぱいあった」

「そうですか。やっぱり地球はダメと。サタンに支配された地球はやっぱりダメなのか……」

「ミスラはいいと思います。ミスラでは苦しいことってない。物理法則じゃなく心の法則が支配しているから、転んで足をすりむいたりすることすらない」

「そうですね」

「ええ」

「仕事もやりがいがあるでしょう?」

「はい」

「私は地球を消すならミスラも消そうかと思ったんだ。ミスラは残しておいた方がいいね」

「そうですか。それならそうしてもらえれば。でも地球はどうするんですか。地球には僕の家族や友達がいるんです」

「そうか…… 地球からサタンを追い出すことが先決のようだね。……ありがとう。私も考えがまとまった。君の人生に幸福があるように祈っているよ」

「ありがとうございます」

「それじゃ」

 夢は元に戻り、嬉しいことにさっきの夢の続きを見ることが出来た。色っぽい女はニコニコしながら、カワハギのスープをおいしそうに食べていた。そして彼女は言った。

「あなたってキリスト様みたいね。この世の真実を知っている人ね」

「それほどでもないよ」

 そして夢は覚めた。

 僕は完成された世界・ミスラの朝に戻った。

 今日は久々にグラノーラに植物性ミルクをかけて食べた。

 グラノーラには栄養がいっぱいあるので、体が健康になっていくような感じがした。

 神様が本当にいるとはねぇ……

 僕はこれからの人生を有意義に生きようと思った。



 十六 アリスの実家


ある日、仕事から帰る車に、アリスさんから電話が入った。

「こんにちは、川村さん」

「こんにちは。何の用」

「私、今度実家に帰るの。川村さんも来ない?」

「行く。実家はどこにあるの」

「フラールっていう遠くの星」

「どんな星?」

「緑の多い星。鳥たちがいっぱいいて、地上にも動物がいっぱいいるの」

「ふーん」

「アランも一緒だけど、いい?」

「うん。アランさんいい人だからね」


 一ヵ月後、僕とアランとアリスさんは惑星間航行装置でフラールに向かった。航行中、僕らは音楽プレイヤーからの音楽を楽しんだ。

 フラールが迫ってくる。ここの太陽は地球の太陽と同じ、白い太陽だった。フラールは青い水の星。地球と同じ。

 だんだん高度が下がり、フラールの地表が見えてくる。そこらじゅうに熊がいる緑の土地、しかも城のある場所に僕らは着地した。

「着地成功」とアリスさんは言った。「早くフラール芋の芋ようかんが食べたいなぁ……」

「ねえ、アリスさん」と僕は言った。「ここにいる熊って襲ってこない?」

「優しい熊ばっかりだから大丈夫。ここのは草食だしね。時代は草食に向かっているの」

「そうなんだ」

 アランは言った。

「アリスの故郷はこういう星なんだ」

 アリスさんは答えた。

「熊だけじゃなく、キツネとかもふつうにそこらにいるよ」

 僕たちはすぐそこにある城に驚いた。

 僕は言った。

「城があるけど、ここがアリスさんの家?」

「私の実家。実は私、この星のプリンセスなの」

「えーっ!」アランと僕は同時に驚きの声を上げた。

 アリスは驚いている僕ら二人を置いて、金属製の門の横にあるドアホンのボタンを押し、「アリスだけど! 帰ってきました」と言った。すると守衛が詰め所から出てきて門を開けてくれた。

 僕はアランに向かって言った。

「アランさん、アリスさんプリンセスだって…… 逆玉じゃないですか」

「ハハハ…… 僕も驚いてます」

 門の中にも緑があった。針葉樹が多く、下には苔が密生していた。

 池があり、そこにはホテイアオイが浮いていた。小さい頃、よくあれを潰して遊んだっけ。

 城の中に入ると、アリスさんはメイドに向かって「フラール芋の芋ようかんを三人前。それから……」アリスさんは僕らがコーヒーを飲むのか紅茶を飲むのか聞いた。アランはコーヒー、僕は紅茶だった。「……紅茶を一人前とコーヒーを二人前」

「すぐ用意します」

そう言うと、十八歳くらいに見えるメイドは足早に歩いていった。


僕らはアリスさんによって、食堂のようなところに通された。

「ここで待ってればお菓子とお茶が来るから」

アリスさんはそう言って着席した。

「ほら、二人とも座って」とアリスさんは促した。

 僕らはアリスさんの両隣に着席した。

 僕は言った。

「掃除が行き届いてるね。僕の部屋なんかめったに掃除機かけないんだ」

 アリスさんは答えた。

「うちだってあまり掃除しないよ。ね、アラン」

「うん」

 さっきのメイドがお盆を持ってやってきた。

「アリスさん、今日の夕食は何にします?」

「ビーフストロガノフ」

「わかりました。シェフに言っておきますね」

「お願いね」

 その時、部屋の片方の入り口に初老の男が現れた。そして言った。

「アリス! 何年ぶりだ? どこ行ってたんだ」

 この人はどうやらアリスさんの父らしい。

 アリスさんは言った。

「地球とミスラに行ってた」

「地球とミスラ。そうか。それにしても何のためにサタンの支配している地球になんて……」

「人々の苦しみを見てやりたいっていう薄汚い好奇心があったの」

「そうか……まあ、帰ってきてよかった。そのお二人は?」

「こっちはアラン。私の夫」とアリスさんは右手をアランの肩に置いた。「こっちは――」アリスは左手で僕を指し、「川村典弘さん。つきあって三年になる友達」

 アランと僕は王に向かってよろしくお願いします、と言った。

「この星の王です。エリック・フラールです。よろしく」

 メイドは言った。

「すいません。王様、王様の分もコーヒーお持ちしますので」

「いや、私はいい。まだ片付けなければいけない書類があるんだ」

「そうですか。では失礼します」

 メイドはそう言って部屋を出て行った。

「ではまた夕食の時に」

 そう言って王は扉の向こうに消えた。

 アランは言った。

「いやぁ、緊張したよ」

「そりゃね。お父さんやお母さんが紹介してくれる男の人には目もくれずアランと結婚したんだからね」

「こちらでも結婚式をするのかな」

「一度結婚式をしたんだから、もうしないでしょう。多分ね。……ちなみに私は母のお腹に霊が宿って生まれた子。だからうちは神の一族じゃないわけ。私のお父さん老けてたでしょ? 神はたいてい若い姿に固定することを選ぶからね。だからうちの父も母もただの人間」

「お母さんは今いないの?」

「いると思うよ。会いたい?」

「会いたい」

「私メイドに言いつけてくる。ここで待ってて」

 アリスさんは部屋の外に出て行った。僕とアランはフラール芋の芋ようかんを食べながら、それぞれの飲み物を飲んだ。

「おいしいね、これ」と僕は言った。

「ええ、クリーミーでおいしいですね」とアランは言った。

 アリスさんはすぐに戻ってきた。そして言った。

「母を呼んでくるように頼んできた」

 アリスさんは椅子に座ると、おいしそうにフラール芋の芋ようかんを食べるのだった。


 やがてアリスさんの母がやってきた。

「アリスの母です。名前はマーガレット・フラールです」

僕とアランは自己紹介をした。

「川村典弘です。地球出身です。アリスさんの友達です。よろしく」

「アラン・ダントンです。ミスラ人です。アリスさんの夫です。よろしくお願いします」

「よろしく。……アリスはね、私に聖霊が宿って生まれた子なんです。アランさん、神であるアリスを受け入れてくださいね」

「大丈夫です」とアランは言った。


 くどいようだが、この日食卓を飾ったビーフストロガノフは、牛肉ではなく「牛肉の実」を材料にした料理だった。みながこの料理に舌鼓を打った。そしてゆでたアスパラガスも用意された。みな満足したようだった。


 その後、僕らは数日間をフラール星で過ごした。城の高級な部屋を使い、大理石の風呂に入り、時々外の熊やキツネを見に行って、ホテルにでも泊まっているかのような贅沢な気分に浸る数日間だった。その間にアランはフラール星が受理する婚姻届を書いたらしかった。

城の中にはピアノがあった。そこを偶然通りかかったメイドが「ピアノに興味があるんですか?」と言ったので、僕は「はい」と答えた。そうしたらメイドは「一曲お弾きしましょうか」というので、僕は演奏をお願いした。

 夏の田園風景のような曲だった。輝く太陽、流れる風、そこで過ごす人の楽しい感情、そして無限に広い青空。そんな曲。

 僕は拍手した。

「すばらしい曲ですね」

「フラールの作曲家が作った曲です」

「ピアノを習ってらしたんですか」

「ええ。小さい頃から」

「演奏を聞かせてくださりありがとうございます」

「いえ。私なんか」

「お名前は何とおっしゃるんですか」

「私なんて名乗るほどの者ではないんですが……ファーストネームはサラです」

「サラさん、また機会があったら演奏聞かせてくださいね」

「はい」

 サラは笑顔で部屋を出て行った。


 僕らは数日間の間に豪華な料理を食べたりもしたが、それはあまりにも典型的な出来事だったので、それ以上語るべきことは何もない。



十七 安息


 僕とアリスとアランの三人は、王妃からフラール産の上質な木綿のタオルケットをもらって、ミスラに帰った。

帰りの道で、僕はこう言った。

「僕タオルケット好きなんだよね」

 アリスさんが反応した。

「感触が好きなの?」

「タオルケットの全てが好き。特に、丸洗いできるところがいい」

 三人はミスラを一週間空けたことになる。

 僕は一人愚痴を言った。

「夏はいやだなぁ。服に染み込んだ汗が臭いのもとになるから。洗濯しても残るんだよね。部屋干しのせいかなぁ」

 アランが言った。

「それなら消臭成分入りのブルービーズっていう洗剤がいいよ」

 アリスさんは言った。

「あ、川村さんちブルービーズじゃないの? あれよく落ちるよ」

「そうなんだ。今度買ってみる」

 じゃあねー、さよなら、と言い合って、僕らはそれぞれの家に帰った。

 アンナは僕が家の扉を開けると僕のほうへ駆け寄ってきた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 エステルは夕飯の準備をしている。

「今日は何?」と僕は聞いた。

「シチュー」

「お城でタオルケットをもらってきたよ。アリスさんって遠くの星の王女さまなんだよ」

「本当? じゃあアリスさんの王家はみんな神なの?」

「いや。アリスさんのお母さんに聖霊が宿って生まれたのがアリスさんなんだって」

「ふーん。地球のキリストさんみたいな話ね」 僕のお腹がぐーっと鳴った。

「早く食べたいなぁ」

「食事前の間食は禁止だからね」

「うん」

 僕は暇なので風呂に入ることにした。

 風呂はいい。うちの風呂は天井が強化ガラスでできていて、昼は光が入り、夜は星が見えるのだ。仰向けになって入るタイプのバスタブなので、自然と空が見える。紫色の夕焼けだ。

 大型の飛行機が、飛行機雲を引きずって飛んでいく。居住空間のある大型の飛行機は料金が高いけど、一度乗ってみたい。豪華客船にも乗りたい。アンナに色々な思い出を作ってあげなくちゃ。

 僕はアロエ成分入りのボディソープで体を洗った。入浴剤とか、せっけんとか、ボディソープとか、珍しい製品を集めるのが好きだ。

 僕は風呂を出た。


 黙々とシチューを食べる。エステルの一ヶ月の小遣いは六万ルーネン。僕も同じ。アンナの小遣いは一万二千ルーネン。

 エステルは聞いてきた。

「おいしい?」

「おいしい。ごめん、感想が遅れた」

「もう」

 僕は少々地球が恋しくなった。それは、えびや貝が食べられるからだ。エビの実や貝の実というものはないのだ。ミスラの倫理では、植物しか食べてはいけないのである。少し厳しい。でも、動物を食べるからこそ地球でサタンの勢力が維持されているのだとしたら……それなら植物しか食べられないこともうなずける。ミスラは悪魔の誘惑に打ち勝った星であるらしい。

……友達を食べるのはいけない、とブラーさんが言ったような気がした。

この世の神サタン。彼は間違った知識を持っているゆえに、間違ったことをしてしまう。そしてその無知は憎しみと混ざり合って、人間界に愚行を奨励する。そしてこの世的な世界が展開するのを喜ぶ。それでいて、この世は苦しみの世であると嘆く。

「ねえ」エステルが言った。「ずっと黙って

何考えてるの」

「ミスラでは貝やエビがたべられないなぁと思って」

「えー、貝? エビ? ホタテの実もカキの実もエビの実もあるよ」

「そうなんだ。知らなかった。……今、神様、ブラーさんが『友達を食べるのはよくない』って言った気がしたんだ。だからもうエビや貝は食べられないのかと思って」

「そっか。神様優しいね」

「それにひきかえサタンと来たら……」

「サタン?」

「サタンは地球を支配しているんだ。神様は

地球からサタンを追い出すみたいなこと言ってた」

「追い出せるといいね」

第二話もお読みください。

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