第二幕 吸血鬼
この物語はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません
真名の問いに、玲瓏は即座に答えることができなかった。
助ける助けないの話でいえば、助けたいと思う。……だが、天瞳とやらの思惑が絡んでくるのなら話は別だ。
天童家当主の証。それを手に入れれば、黒司の口から六年前の真実の手がかりくらいは聞き出せるかもしれない。それは玲瓏にとって、またとない絶好の機会だ。しかし逆に、今、黒司に反抗しているような、軽率な行動は取れなくなった。佐藤栄子を救うことが、果たして天瞳の意に沿うことなのか。それとも、徒に人間の生死に関与しない、鋼の精神の持ち主を求めているのだろうか。こればかりは真名に丸投げするわけにもいくまい。
堂々巡りの問いを反駁しながら、玲瓏は繰り返し己に言い聞かせた。慌てるな。慌ててはいけない。慌てるとろくなことにならないぞ。まずは慌てず、判断材料を増やすんだ。そのためには、何が起きているのか見極めることが肝要だ。そもそも、玲瓏が凍鶴に戻ることになった直接の原因――叔父の黒司は何を考えて玲瓏を呼び戻したのか。家宝がどうのと聞いたから、天瞳に関わる話なのは間違いない。しかし、具体的な内容は凍鶴に来てから話すと言い、以降、この話題についてあの男は沈黙を貫いた。……こうなると、黒司の言いつけを無視して観光ごっこの予定を立てたのは妙手だったかもしれない。天瞳のことはいずれ知ることになったのだろうが、佐藤英子の件で身をもって異能の力のわけのわからなさを思い知った今となっては、口で説明されただけで天瞳の魔力を信じたかどうか、疑問に思う。おそらく、話半分で適当に聞き流していたのではないだろうか。そう考えれば、黒司を出し抜くという点において、状況は悪くない方向に推移している。
だとすると、やはり当面の問題は佐藤英子の生死だ。真名の能力を考えれば、確実に殺人鬼を退け彼女を救うことができる……のだろうか。よくよく考えてみれば、佐藤栄子を殺すかもしれない殺人鬼の手口は尋常なものではない。首を切り落として全身の血を抜くなど、完全に常軌を逸している。曲がりなりにも大衆の目に触れる新聞、ニュースはまだ自制しているが、犯人がネット上で吸血鬼と呼ばれていることは、ホテルの支配人から聞いている。それを聞いたときは、この科学隆盛の時代に吸血鬼とは馬鹿馬鹿しい、と鼻で笑ったものだが、真名がそうであるように、魔性の力を得た人間がこの世界にいることを、玲瓏は知っている。吸血鬼というのは犯行の手口から付けられた名前なのだろうが、名は体を表すというように、体が名を表すこともある。犯人が本当に吸血鬼だったとしたら、伝説に名高いその能力を鑑みるに、搦め手が苦手な真名には荷が重いかもしれない。
……とまあ、荒事に疎い玲瓏の見立てはこんなものだ。憶測だらけでとても役に立ちそうにないので、ここはやはり専門家にお任せしよう。
「まずは様子を見るべきです。……見捨てることを覚悟の上で」
ところが開口一番、真名はそう断言した。憎たらしいほど愛らしい笑顔と冷徹な言葉のギャップに、玲瓏は硬直を余儀なくされる。真名はその隙を突いて、続けざまに持論を展開する。
「犯人が人間なのか吸血鬼なのかは、この際どうでもいいことです。……最も重要なのは、若様が生き残ること。わたしの使命はあなたを守ることです。だからわたし、若様を守るためにしか動きません。でも、若様が自発的に犯人に対峙するなら、わたしは若様を守るべく敵を打ち倒すしかありません。勿論、自分から殺人鬼にターゲッティングされに行くなんて馬鹿な真似はやめてほしいんですけど。……本当はこんなアドバイスをするのも嫌なんですけど、若様が死なない範囲での無茶だったら、仕方がないので許容してあげます」
見えないところで無茶されて死なれるくらいなら、と真名は締めた。
要するに、死なない程度に無茶するのは許容範囲だということだ。見捨てる覚悟の上でというのも、犯人との敵対が明らかな死の危険を伴っていたら佐藤英子を見捨てて逃げろ、ということだろう。まあまあ現実的だ。……ちなみに最も現実的なのは警察に通報することで、その次が今夜殺されるかもしれない佐藤英子に警告することなのだが、どちらも証拠がないので信憑性に欠け、下手をすると玲瓏が疑われる可能性もあるので遠慮することにした。
最大の問題は、敵の脅威度を判断するのが真名である、ということだ。玲瓏の守り手である真名の判断は、玲瓏の安全が最優先である。護衛の真価は、敵の排除よりも、そもそも敵を近付かせないことにある。護衛対象の行動から危険につながる可能性を排除することで、敵に行動の機会を与えないのだ。そういう意味では、玲瓏が佐藤英子を救おうとすることは、非常にリスキーな行動だと言わざるを得ない。護衛としての真名には、玲瓏を止める義務がある。しかし一方で、一緒に育ってきた幼馴染みとして、また幼い頃から仕えてきた従者として玲瓏の願いを叶えたいという思いもあり、彼女の天秤は拮抗していた。いざ敵が現れたとき、真名の天秤はどちらに傾くのか。あるいは、玲瓏が無理矢理に真名を矢面に立たせるのか。
「よし、とりあえず真名の言う通り様子を見よう。殺人鬼が人間なら適当に痛めつけて警察に通報する。もし吸血鬼だったら、真名の判断に任せる。何事もなかったら、俺は明日病院に行く。いいな?」
「はい。……今夜ばかりは、何事かあってほしいものですね」
アルバイトを終えた佐藤英子がファミリーレストランの裏口から出てきたのは、二十一時半を過ぎた頃だった。
店を出た彼女は、一面を白く染める初雪を手で弄ぶと、寒そうに外套とマフラーを握りしめ、人知れず夜の闇に去っていく。
……そんな情景を頭の中で想像しながら、玲瓏は真名を促した。
「もう少し近付いたほうがいいんじゃない? いざってときに間に合わないよ」
「これで十分です。下手に近付くと不審に思われますよ」
「ならいいんだけどさ。……敵に気付いたら言えよ」
「勿論ですとも。信じてください、若様」
コンビニでの会話である。真名は異能により、離れた場所からでも対象の位置を把握できる。今回はその特性を如何なく発揮してもらい、こうして暖かいところから佐藤英子を尾行しているのだ。
「彼女がもう少し移動したらこちらも移動しましょう。離れすぎても面倒です」
「了解。……今思ったんだけど、こんな面倒な尾行するなら偶然を装って話しかけて、一緒に歩いたほうが簡単じゃないか?」
「いいえ、若様。今までの被害者は全て一人ずつ殺されています。わたし達が合流すると、犯人は今日の狩りを諦めて明日に延期するかもしれません」
「それは困るな。こんなことになった以上、明日には黒司のとこに行かなきゃならん。今夜の内に決着をつけないと」
軽口を叩きながらコンビニを出て、真名の先導を頼りに移動する。
「……人の匂いが少なくなってきました。この一帯を抜けるとまた人が増えるので、仕掛けてくるならそろそろではないかと」
「いよいよ尾行も大詰めか。これはもうコンビニに避難する余裕はないかな」
「そんなことはありませんよ。わたしとしては、今すぐホテルに引き返すことをお勧めします。……無断で出てきてしまいましたからね」
ファミリーレストランの周囲、つまり駅前はこの時間でも人が多く、殺人鬼が事を起こす隙はない、という真名の進言を信じ、玲瓏と真名は一旦ホテルに戻った。言うまでもなく、遅すぎる帰りはホテルの人間の精神を削ることになるからだ。ついでに言えば、ささやかなアリバイ作りのためでもある。エレベーターに乗り、玲瓏の部屋がある階へ上昇。支配人がエレベーターの前まで見送りに来たのだ、どうせ何階まで上昇したか確認されているのだろう。小細工でも何でもないが、扉上方の表示で宿泊している階に行ったことを確認させれば、一応のアリバイは成立する。エレベーターを出た後は階段で二階まで下り、適当な窓を破って飛び降りる。二階でも結構な高さだが、先に降りた真名に受け止められたので無傷。……次があればもう少しスマートな方法で外に出たいものだ。
そんな経緯で再度ホテルを出た後、佐藤英子の追跡劇が始まった。殺人鬼をあぶり出すためには、玲瓏と真名の姿は見えないほうが都合がいいため、適当に距離を取って追う。寒いのは苦手なので時折コンビニで時間を潰しながら、事態が動いたのはホテルを出てから二十分後。二十二時になろうかという時刻のことだった。
やはりと言うべきか、最初にそれを察知したのは真名だった。吹雪の中を進んでいた彼女は、突然立ち尽くした。
「あ……やられました」
「へ? どしたの?」
「腐った魚の臭いが出ました。これは多分、吸血鬼ですね。それに血の臭い。……残念ながら、彼女はもう助かりません」
「え? ……え?」
謀られたか。第一に玲瓏の頭の中に生まれたのは失望だった。真名の鼻が、腐った魚の臭いとやらを察知できないなんて有り得ない。わざとか。何てことだ、玲瓏の不注意で佐藤英子が死んでしまった。
第二に生まれたのは疑問。真名のスタンスは、常に選択は玲瓏に委ねるというもの。助けるか見殺しにするか、選択肢さえ与えずに事を終わらせるなど、真名のやり方ではない。
第三に、閃き。真名はさっき、腐った魚の臭いが出たと言った。来たではなく、出た。この表現から察するに、吸血鬼は前触れなく出現したのではないだろうか。
第四に、ようやく驚愕。佐藤英子が死んだ。しかも下手人は……吸血鬼だって?
「ほ、本物の吸血鬼なのか。殺人鬼のあだ名じゃなくて?」
「うーん、吸血鬼の臭いを嗅いだことがないので断言はできませんけど、こんな臭いの人間は知りません。ついでに墓土の臭いもするので、吸血鬼だと判断しました」
そして今は血の臭いも加わりました、と真名は告げる。彼女の目は、玲瓏の差配を求めていた。逃げるのか、それとも仇を――そう、佐藤英子の仇を討つのか。
正直、仇を討ちたいと思うほど、佐藤英子とは親しくない。ファミリーレストランの客と店員に過ぎない。話した内容も、決して愉快なものではなかった。彼女の仇を討ちたいという気持ちは、天童玲瓏という個人の中にはない。……しかし同時に、この状況を生み出した責任の一端が玲瓏にある、ということも理解している。佐藤英子の保護を最優先に考えれば、少なくとも今夜、彼女が死ぬことはなかったはずだ。そういう意味で、玲瓏は救えたはずの命を見殺しにしたという罪悪感に苛まれていた。これでは到底、冷静な判断はできそうにない。
「……真名、佐藤英子を殺した奴はまだそこにいるのか?」
それでも、行動しないわけにはいかなかった。黒司の口を割るには、おそらく天瞳が必要だ。そして天瞳を手に入れるためには、天童家当主としての器を示さなければならない。軟弱な思考に甘えるわけにはいかないのだ。
「はい、まだ動いてないです。血の臭いが濃くなってきたので、食事中かと。……仕掛けるんですか?」
「初志貫徹だ。真名がいけるなら仕掛ける。状況次第だけどな、敵が明らかに人間じゃなかったら八つ裂きにしろ」
「はい、若様。……ああでも、わたしの鼻でも気付けなかったということは変な能力を持っているかもしれません。認識阻害なら範囲攻撃で対処できるんですが、霧になるとかだと厄介です」
確かに吸血鬼ならその手の異能を持っていても不思議ではない。あくまでも伝説に倣うなら、の話だが。
「手も足も出ないなら逃げればいいだけだ。まずは不意打ちを仕掛ける。それで駄目なら正面から叩いてくれ」
「はい。では行きましょう」
真名の先導で、惨劇の現場へ向かう。相変わらずの吹雪だが、佐藤英子が襲われた場所は橋の付け根の空間……雪から死角になる位置で、彼女を抱き締めるように首筋に顔を密着させている男の姿がよく見えた。
男はこの寒空の下とは思えないツナギ姿で、ツナギのところどころに土が付着している。しかも男のすぐそばには人間大の穴があり、そこから何かが這い出してきたようにも見える。それを見て、玲瓏は敵の絡繰りに気付く。それは真名も同じだったようで、呆れたように苦笑している。男が真名の索敵に引っかからなかったのは、土中に潜んでいたからのようだ。獲物が上を通りかかるまで、ひたすら待ち伏せていたのだろう。実に気の長い狩人だ。
……何はともあれ、敵の姿は確認した。まだ食事に夢中なようなので、仕掛けるなら今だろう。真名に目配せする。真名は頷いた。玲瓏を物陰に隠し、真名が踏み出す。
ただでさえ音が吸収される雪の上を、暗殺者もかくやという無音で忍び寄る真名の存在に、敵はまだ気付いていない。いけるか。いけるのか。いけちゃうのか。いけ。いけ。いけ……!
真名が男の背後に辿り着いたが、男はまだ気付かない。音もなく、無慈悲な左の貫き手が背後から男の心臓を穿つ。同時に右の手刀が容赦なく男の首を刎ねる。有無を言わせぬ力技だが、まともな生き物ならこれで死ぬ。吸血鬼はまともではないが、心臓を破壊すれば血液が全身に行き渡らなくて動きが止まるし、首を刎ねれば行動不能にできるはずだ。事実、男の動きは止まり、玲瓏の命令を守ろうというのか、真名は律儀にも男の死体を八つに裂いていく。いや、裂くというより解体といったほうが正確かもしれない。どちらにしても、しばらく肉料理は食べられそうにない。玲瓏は夕食のステーキを吐き戻しそうになるのを堪えながら、真名に声をかけた。
「ご苦労さん。そいつはもういいから、佐藤英子の様子を確かめよう。まだ生きてるかもしれない」
そう言って、玲瓏が物陰から出て佐藤英子に近付いた瞬間、背筋に氷水を流し込まれたような悪寒が走る。その名は既視感。玲瓏は以前にも、この光景を見たことがある……気がする。想起されるのは、首の痛み。それに激しい耳鳴りと、命を侵食される感覚。そして、死者を冒涜するかのような、佐藤英子の醜い死に顔。これは……まさか……。
とっさに後ろへ飛ぶ。華麗な着地などできるはずもなく無様に尻もちをつくことになったが、この状況で羞恥心に割く余裕はない。
「な、何で……こんな、こんなことが」
佐藤英子が起き上がり、立った。その顔に生気はない。虚ろな、濁った目を玲瓏に向けてくる。これが死んだ人間の目なんだと、玲瓏は直感した。
「若様、下がってください」
ゆっくりに見えて、その実足早に玲瓏へ迫る佐藤英子の前に、真名が割って入った。
「真名、これはいったい……」
「これはきっと、グールです。バイオハザードは知ってますよね? あんなのです。噂で聞いた話だと、最下級の吸血鬼が生み出す、吸血鬼の成り損ないだとか」
「それは正解だが、正確ではない。そやつは、我ら血族の出涸らしよ」
低く、威厳に満ちた男の声。玲瓏が天童の、貴種の生まれでなければ無条件で平伏するような、支配者の声が轟いた。
「……隠れても無駄です。わたしを欺きたければ、そこで死んでいる男のように地面にでも埋まっていなさい」
「ははは、これは失礼、侮っていた。だが姿を見せるわけにはいかん。今宵は、貴様らを殺しに来たわけではないのでな」
ぎしり、と空気が軋んだ。真名の挑発に、形だけとはいえ声の主が闘気を以て応えたのだ。玲瓏からすれば、空気が重くなった、としか感じられないのだが。……同じく素人のはずの佐藤英子ですら、身動きが取れなくなっているというのに。もしかしたら、グールとやらになったことで、常人にはない感覚が目覚めたのかもしれないが。
「じゃあ、何をしにここへ? 血族と言うからには、あんたは吸血鬼だろう。……そこの男を助けに来たのか?」
闘気など感じられないからこそ、玲瓏は踏み込む。一方の真名といえば、尋常ならざる闘気に晒されて、玲瓏を無事に逃がす算段を立てていたところである。全く、恐れ知らずとは恐ろしいものだ。
「いいや、逆だ。己の狙いはその男の首級よ。……今宵はお互い運がいい。貴様らはその娘の仇を討ち、己は手を下さずして害獣を葬った。いいぞ、気分がいい。幼き勇者たちよ、名を聞こう」
「その前に」
玲瓏は震えながら立ち尽くしている佐藤英子、の成れの果てを見ながら言った。
「グールってのを人間に戻す方法はないのか、教えてくれ。教えてくれたら、その代価に名を名乗ろう。……叔父から益のない名乗りはするなと言われているんでね」
「面白い。己を前にしてその不遜な態度。なかなか面妖な家系に生まれたと見える。いいだろう、教えてやる。グールを人間に戻す方法、それは――」
こうだ、と言って声の主は何かをした。声の主が何をしたのか、彼が姿を見せない以上、玲瓏に知る術はない。だが、その結果は玲瓏の目の前に示された。佐藤英子が、穴だらけになって倒れたのだ。頭蓋の穴から脳漿が零れ、心臓があったと思しき胸の穴からはどす黒い血が溢れ出す。右の太腿にも穴が空き、派手な出血はないが筋繊維は断裂している。俯せに倒れる寸前、口の中に向こうの景色が見えた。歯もいくつか欠けているのも見て取れ、何かが貫通したのだと直感する。だが、そんなことはどうでもいい。これで佐藤英子が助かる機会は、永遠に失われてしまったのだ。
「……何を」
「これしかない。死体が動けばグールだが、動かなければただの死体だ。……グール化は不可逆の現象だ。年老いた者を若返らせることができないように、グールになった者を生きた人間に戻すのは不可能だ。そもそもグールは死んでいるのでな」
「……くそ」
だったらなおのこと、佐藤英子を助けるべきだった。死ぬことでしか人間に戻れない動く死体。それはつまり、佐藤英子は二度死んだということではないか。
「代価は払ったぞ。名乗れ、小僧」
感傷に浸る間も与えず、声の主は玲瓏を促す。彼にとって、グールは本当にどうでもいい存在なのだろう。玲瓏はそれに無性に腹が立った。立ったが、約束は約束だ。玲瓏は名を名乗った。それがどんな意味を持つのかも知らず。
「天童、玲瓏だ」
その瞬間、大地が鳴動した。否、これは悲鳴だ。否否、揺れているのは大地ではない――玲瓏だ。今まで感じたこともないような殺気を向けられ、本能的に震えているのだ。
「若様、逃げて!」
ガィン、と硬い金属同士がぶつかる音が響いた。真名、真名はどこだ。……いた。だが、真名と対峙しているあれは何だ。
「訂正するぞ、天童の子。今宵、己は運がいい。そして残念だが、貴様らは運が悪い。よりにもよってこの己――不死者秘儀団が秘儀会の一人、〈勝利〉の座を預かる悪魔公に見つかるとはな!」
それは、全身から杭を生やした――否、全身を杭に貫かれた怪物だった。杭の切っ先が両端にあるため、一見すると杭が生えているように見えるが、皮膚と杭の付け根から絶えず血を流している。……この男は狂っている。何をどう考えれば己を串刺しにするなどという凶行に至るというのだ!
「何をしてるんです若様、早く逃げてください!」
その叫びで我に返る。見れば、真名が串刺し男に飛びかかり、組み付こうとしている。真名の小さな体格が幸いし、串刺し男の杭が生む死角に潜むようにして最適の位置取りを奪おうとしている。
「見事な忠義だが、邪魔をするな小娘! 用があるのは貴様だけだ、天童の子!」
用がある。ということは、捕まっても死ぬことはないのか。だがしかし、こんな化け物の用事など、ろくなものではないに決まっている。例えばこの怪物が名乗った何とか団が天童黒司と敵対していて、佐藤英子を殺した男は凍鶴を恐怖に陥れるために何とか団が放った刺客で、さっき串刺し男が佐藤英子を殺したのは証拠隠滅のため、だったとしよう。玲瓏に用があるとしたら、人質以外の使い道は考えられない。もしかすると、黒司が玲瓏を凍鶴に呼び戻したのも、この化け物どもが関係しているのかもしれない。だとしたら、この六年間、頑なに玲瓏を遠ざけてきた黒司が前触れもなく玲瓏を呼び戻す理由としては上出来だ。
全ては推測に過ぎないが、串刺し男の目的が玲瓏の身柄だとしたら、捕まるのはまずい。真名の言う通り、早く逃げなければならない。……かといって、真名を見捨てて逃げるわけにはいかない。それは、それだけは、人間として、天童玲瓏という個人としてできない。だが真名の叫びは残酷に響き渡る。
「若様! わたし言いましたよね、見捨てる覚悟の上でと! それは佐藤英子のことだけではありません、わたしも含めてのことです! 正直、このままでは勝ち目がありません。だから、早く逃げて……!」
見たところ、真名は上手く串刺し男の動きを封じている。これなら大丈夫かもしれない。玲瓏は走り出した。串刺し男は真名にかかりっきりだ。下手に力を抜けば真名に殺されるのだから、仕方ないと言えば仕方ない。今夜はこれ以上の乱入者はいないらしく、玲瓏は誰からも掣肘されることなくその場を逃げ出すことができた。大いなる後悔と、真名に命をかけさせた罪悪感に苛まれながら。
玲瓏が逃げ出してから十分ほど経過した後だろうか、周囲に凄まじい破壊音が響き渡った。それは鉄が砕ける音であり、硝子が砕ける音であり、大地が砕ける音だった。続いて、人ではない何かの絶叫。悲しげにも、怒りに震えているようにも聞こえたその叫びを最後に、夜は再び静寂を取り戻した。
ホテルに戻った玲瓏は、部屋で震えていた。外に出ていないはずの玲瓏が外から戻ってきたことを問い詰める支配人に、思わず天童の権力を振りかざしてしまったことは痛恨のミスだ。明日の朝、丁重に謝罪しなければならない。……明日の朝が来れば、の話であるが。
あれから四十分ほど経過したが、真名はまだ帰ってこない。敵の追撃がないということはまだ奮戦しているのか、あるいは既に殺されたが玲瓏につながる情報は隠し通したのか。どちらにしても今夜の事件は玲瓏の人生で最悪の失敗だ。失敗。そう、大失敗だ。そもそも、あの串刺し男は何者なのだ。何で串刺しになっているのに死なない。吸血鬼だからなのか。だとしたら何とか団は吸血鬼の組織なのか。疑問は尽きないし、何か考えていなければとてもじゃないが平静を保てなかった。さしあたって、真名が帰ってきたら何をするか考えよう。まず朝一で黒司のところに行かなければならない。何がどうなっているのか、場合によっては脅してでも口を割る必要がある。
……伝説によれば、吸血鬼は日光に弱いという。太陽が昇れば安全が保証される気がして、朝が待ち遠しかった。