第一幕 幼馴染み
この物語はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません
結局、凍鶴に到着したのは二十時過ぎだった。困ったことに、雪の影響で発車がさらに遅れたのだ。この冬最初の雪にしては量が多く風も強かったらしいので、仕方のないことではあるが。
それにしてもよく降る、とホテルの窓から外を眺める。東京ではそうそう雪が降らないので、しんしんと降り続ける雪を見るのも六年振りだった。この調子で雪が降り続けるなら、三日後のクリスマスはホワイトクリスマスになるかもしれない。天気予報では明日も雪が降るというので、少なくとも明後日のイヴまでは雪が残っているだろう。六年前までは当たり前のように見ていた景色を前に、玲瓏はしばらく感傷に浸ることにした。昔の記憶というものは、思い出さないとどんどん忘れていってしまう。今ではもう、父の声を思い出せなくなっていた。
ホテルの窓から、とあるように、玲瓏は凍鶴駅に隣接するホテルの一室にいる。予定より遅れてしまったので、まずはホテルにチェックインしたのだ。遅れる旨は連絡しておいたが、早く顔を見せたほうがホテル側も安心するだろう、と考えてのことだった。というのも、ここ、凍鶴において天童の名は特別な意味を持つ。表向き、天童といえば古くから一帯を治めてきた名家であり、また、経済的に凍鶴の発展に寄与してきた名士の一族でもある。確証はないが、玲瓏の記憶にある天童の客人はだいたいこのホテルを使っていたので、おそらくこのホテルにも天童の資本が入っているのであろう。天童は、現在進行形で凍鶴の形を決めている一族なのだ。
そんな天童の人間、しかも先代当主の息子が宿泊するとなれば、ホテル側としてはアクシデントが発生しないことを祈るばかりだ。玲瓏のチェックインが遅れれば、それだけホテルの人間の心労も増す。こういう思考は上に立つ者としては軟弱だが、玲瓏はその手の負担を他者に課すことが苦手だった。
考えてみてほしい。東京では誰も知らない小さな小さな天童が、地元では支配者の如く君臨している。大人に近づく期間のほとんどを東京で過ごした玲瓏にとって、凍鶴を遍く照らす天童の威光は気恥ずかしさを伴うものなのだ。
以上の理由で玲瓏が凍鶴に着いてすぐホテルにチェックインすると、支配人はあからさまに安堵した様子を見せた、らしい。そこはさすがに客商売のプロ、心労を顔にも態度にも出さなかったが、護衛も兼ねている真名が言うには、発汗の成分が平時とは微妙に異なっていたそうだ。その成分は、天童を知る部外者が玲瓏と接するときの成分と同じ。つまり、客商売のプロではない、緊張感や心労が顔に出る人と同じ精神状態にある、ということを意味する。そんなものを嗅ぎ分ける真名は変態なのではないかと思ったが、だからといって口には出さない。古人曰く、口は災いのもと、である。
手続きを終えると部屋を確認してカードキーを受け取り、エレベーターで目的の階まで上昇する。事前に部屋の位置を調べていたのか、迷いのない足取りで先導する真名についていき、目的の部屋に到達。ドアにカードキーを差し込んでロックを解除し、中に入って照明をつける。部屋を見回して値段に相応しい内装に納得すると、外套を脱ぐこともせず窓際へ向かう。
ここで冒頭に戻り、雪を見て感傷に浸った途端、玲瓏の胃袋が空腹を訴え始めた。実際は血糖値の低下を脳が感じているというが、頭を殴っても空腹は解消されないのだから、そんなことはどうでもいい。パンフレットによれば、ホテルの最上階にレストランがあるらしいのだが、そういうムードのあるイベントはクリスマスまで取っておきたい、と玲瓏は却下した。この手のイベントは、連発しないからこそ価値がある。となると、東京よりも寒そうな外に出るしかないか。
決断した玲瓏は、いつの間にか隣で夜景を眺めていた真名に外のファミリーレストランか何かで夕食を食べたい旨を伝える。最上階のレストランで食べればいいのでは、と言う彼女に、勿体ないだろう、と返すと、果たしてお金が勿体ないと誤解したのか、それともイベントが勿体ないと理解したのか、彼女は得心顔で了承した。
……一応断っておくと、玲瓏と真名の部屋は別々だ。男女七歳にして席を同じうせず、などと古臭いことは言わないが、だからといって積極的に真名と仲を深めたいというわけでもない。今の玲瓏にとって真名は、そういう対象ではなかった。結局全ては、六年前の事件に収束する。あの日の謎が解かれない限り、玲瓏と真名は前に進めないままだ。このままでは二人の関係が深まる可能性も、逆に距離を置く可能性も潰えてしまう。いつまでも主人と使用人の関係でいる、それもいいかもしれない。だがそれはお互いの意思を尊重し、他の選択肢を吟味した上での話だ。こんな風にずるずると、惰性で収まるところに収まることだけは、玲瓏にとって最も度し難い結末であった。この六年間、機会があったにも関わらず恋人を作らなかったことから察するに、真名も同じように考えているのであろう。
三十分後、夕食にホテル最上階のレストランを勧める支配人を振り切り、玲瓏と真名は夜の駅前通りのファミレスに入った。何が何でもレストランの料理を味わってほしそうな支配人に、妥協点として来るクリスマスのディナーは必ずホテルのレストランで食べることを約束し、実際に予約を入れるまで十五分。その途中で玲瓏を引き止めるために支配人が語ったここ最近の連続殺人事件の詳細を聞き出すのに十分。ホテルを出て、駅前を適当に歩いて飲食店を探すのに五分。時間が時間……というほど遅くはないが、天気のこともあって客は少ない。六年前にはなかった店だから、この六年の間に開店したのだろう。
……だが、玲瓏はこの店を訪れるのが初めてではないような、奇妙な既視感を覚えた。――そう、入店した二人を席に案内しに来るのはショートヘアの若い女性で、ネームプレートに書かれている名前は――佐藤英子。そして彼女は客が少なくて退屈しているのか、それとも玲瓏に気安い雰囲気を感じたのか、こう尋ねてくる。
『失礼ですが、お客様。お連れの方とは、どのようなご関係ですか?』
「失礼ですが、お客様。お連れの方とは、どのようなご関係ですか?」
…………。何か、とても大事なことを忘れている気がする。それを思い出さないと、取り返しのつかないことになるような、でも、何があっても絶対に思い出したくないような、大事なことを。
玲瓏が黙り込んでいると、沈黙を不機嫌の兆しと受け取ったのか、店員の女性――佐藤英子は慌てて謝ってきた。これも、覚えている。
『も、申し訳ございません。詮索するつもりはなかったのですが、その、どうしてもお二人の関係が気になったもので……。ご気分を害して申し訳ございません、すぐお席に案内させていただきます』
「も、申し訳ございません。詮索するつもりはなかったのですが、その、どうしてもお二人の関係が気になったもので……。やっぱり、ご兄妹なんですか?」
その瞬間、玲瓏は余計なことを全て忘れた。この女、謝罪する振りをして探りを入れてきやがった。……いや、別にそれは構わないのだが、ついさっきまで、何か、余計な感覚を覚えていた気がする。この女――というのは失礼だから、佐藤英子によってそれは引き起こされ、しかし佐藤英子によってそれはなかったことにされた、ような。
ふと視線を感じてその主を見ると、真名が困ったような目で玲瓏を見ていた。佐藤英子の質問にどう答えればいいのか、迷っているのだろう。……兄妹、か。玲瓏と真名の身長差では、そう捉えられても仕方あるまい。
「いやぁ、兄妹ではないですよ。幼馴染みというか、こう見えても、彼女は俺より二つ年上なんです。あぁ、ちなみに俺は十八です」
「は、はぁ……」
佐藤英子は奇異の視線を向ける。当然、その先にいるのは真名だ。……無理もない、そこにいるのは六年前から全く成長していない、どう見ても中学生の女の子にしか見えない玲瓏の幼馴染みがいるのだから。童顔、低身長などというレベルではない、残り香どころか現役中学生でも通じる本物の幼さを備えた二十歳。それが、玲瓏の幼馴染みにして使用人、三途川真名という少女だった。
当たり前だが、彼女は最初から成長しなかったわけではない。少なくとも六年前、十四歳までは順調に育っていた。そうでなければ、そもそも十四歳の姿まで辿り着けない。
彼女がどうして成長しなくなったのかは、残念ながらわからない。わからないが、どうせ六年前の事件が関係しているのだろう、と玲瓏は推測している。このこともまた、玲瓏が六年前の事件に拘る理由の一つだ。時の流れから外れた幼馴染みの姿を見ていると、無性に悲しくなる。それは例えば、彼女が写真に写るのを嫌がったとき。一瞬の時を切り取るといっても、今の彼女にとって一瞬は永遠に続くものだ。自分だけが世界から取り残されている気ががするから写真は嫌いだ、と彼女は泣いた。また、必要に迫られて年齢を告げるたび向けられる奇異の視線は、傍から見ていて愉快なものではない。六年前の恩返しというわけではないが、天童の人間として、また一人の人間として、彼女を救うのは己の義務だ、と玲瓏は考えている。
そして不老。それは人類の夢ではあるが、実際にそれを得た人間はいない。
真名が成長していないことが発覚してから、結構な数の科学者だの生物学者だのが真名を調べに来たが、悉く無駄だった。唯一わかったことは、真名は間違いなく不老の状態にあり、今後、老化で死ぬことはないということだけ。改めて考えれば、原因不明とはいえ不老の存在がいることは物凄い発見なのだが、真名が天童絡みの人物だと知ると、どの研究者も「何だ天童の仕業か、それなら仕方ない」と言って研究資料を処分してしまった。それがどういうことなのか叔父の黒司や親族の夫婦に聞いてみたのだが、この三人はいつもの通り口を閉ざした。しかし最後の頼みの綱、真名だけは隠すことなく事情を教えてくれた。
天童に伝わる家宝の中には、人間に魔性の血を与える秘宝があるのだという。それは当主にしか使うことを許されず、それゆえ魔性の秘宝は、逆説的に当主の証とされてきた。その秘宝を使って魔性を得た人物の中に、八百比丘尼のような不老長寿の体現者もいたことは界隈では有名な話で、「天童の仕業」で済ませられたのはそのせいだとか。再現性のない不老不死に、科学的な価値はないのだ。
どうして真名がこんな裏事情を知っているのかというと、彼女が十歳になってすぐ、先代当主、即ち玲瓏の父、白亜から魔性の血を与えられたという。それは代々天童を守ってきた三途川家の使命であり、同時に玲瓏を守るという真名の覚悟の表れでもあったようだ。十四歳の小娘が、大の大人と格闘して撃退できた秘密もこれだ。いくら護身術の心得があっても、それだけで天童の敵を打ち破ることなどできるはずがない。……とはいえ、十歳で異能を得た真名がその後も成長していたことを踏まえると、不老化に彼女自身の異能の力は関係ないと考えていいだろう。仮に肉体の全盛期で成長が止まるという能力を隠し持っていたとしても、それなら成人するまでは成長を続けるはずである。
佐藤英子に案内されて、外が見える窓際の席に着く。ふと向かいに座った真名を見れば、両手を口元に寄せて、はぁー、と息を吹きかけている。それを見て玲瓏は、真名の防寒具が凍鶴の気候に適していないことを察した。手がかじかんでいるのを見る限り、とりあえず手袋は必須だろう。途中の駅で買えばよかった。あ、そもそも着替えを持ってきていない。こんな早々に黒司のところに身を寄せるのは嫌なので、いっそ明日は凍鶴向きの冬物を買い揃えるために費やしてしまおうか。……様々な思考が玲瓏の頭を駆け、そして抜けていく。真名が、若様は何を注文しますか、と聞いてくるので、お前に任せる、と返す。席に着いてから、妙な胸騒ぎを感じていた。さきほどの、佐藤英子について何かを忘れたような感覚が尾を引いていたので最初はわからなかったのだが、次第に焦燥感を伴うようになり、やがて気付くかされた。立て続けに奇妙な現象が起きて心が参っているのかな、と気を紛らわそうとする玲瓏のもとに、佐藤英子が注文の品を運んでくる。真名が玲瓏の分として注文したのはステーキセットだった。ステーキに加え、サラダとライス、スープが付いてくる。時刻を考えると少し重いが、午後は何も食べていないので大丈夫だろう。真名が注文したのはサンドイッチのようだ。……不老といえど体重は増えるので、彼女は常にカロリーに気を遣っている。永遠に成長しない成長期というのは、食事においても不便なのだ。男女関係なく、成長期の食欲を侮ってはならない。
食欲をそそる匂い、色、音が呼び起こした空腹に負け、この時ばかりは不安を忘れ、食事に没頭する。さすがに駅前のファミリーレストランだけあり、それなりに味覚を満足させた。食後に紅茶を注文し、一服して席を立つ。
会計を終え、ファミレスを出ようとすると、佐藤英子が話しかけてきた。入店時の、真名に対する失礼な態度を改めて謝罪したいという。真名は慣れた様子で謝罪を受け入れ、佐藤英子に感謝の言葉を述べた。それを聞いて佐藤英子は、よかった、これで安心して帰れる、と漏らした。シフト的にそろそろ上がりらしい。時計を見れば二十一時、そろそろホテルに戻ったほうがいい時刻になっていた。
末永くお幸せに、という何かを勘違いした佐藤英子の言葉を背に、今度こそファミレスを出た玲瓏だったが、ふと、見たことのないニュースを思い出した。それはホテルの支配人から聞いた、連続殺人事件の続報。被害者の首を切り落とし、しかも全身の血液を抜き取るという非道な手口による殺人が、今月に入って三件も発生した。警察は全力を挙げて捜査しているが、依然として犯人は判明していない。奇怪なことに、死体が打ち棄てられていた場所には血痕がなく、犯行現場は別の場所だとされているが、警察が片っ端からそれらしい場所を調べて回っていることから、血を処理した痕跡が見つかっていないのではないか、と噂されている事件。思い出したのは、その四件目。日付でいえば明日の早朝、勤務するファミリーレストラン近くの小路で佐藤英子が同様の手口で殺されているのが発見された、という朝のニュース。どこで見るのかは思い出せないが、そんなニュースを見ることを思い出した。
信じがたい現象だ。幻覚でも見ているのかと疑うが、玲瓏には幻覚を見るような行動をした覚えがない。……見覚えのないニュースを思い出している時点で、記憶などあてにならないのだが。
どうするべきなのか、玲瓏は迷った。現実的に狂ったのか、非現実的に狂ったのか。真実は明日の朝になればわかるが、もし非現実的に狂っていて未来予知でも行ったのなら、佐藤英子は今夜死ぬ、ということになる。
「……なぁ、真名」
辛うじて、口が動いた。今にも死にそうな玲瓏の声に不穏なものを感じたのか、真名は鋭くも頼もしい眼差しを向けてくる。
「俺は……どうしたらいい。聞いてくれ、教えてくれ。わけがわからないのを、何とかしたいんだ」
言葉は不要とばかりに、真名は迅速に頷いた。余計な独白を除いた、全てを語る。佐藤栄子に関する何かを忘れたこと、一瞬だけ働いた修正力、思い出した明日のニュース。
それら全てを聞いた真名は数秒ほど瞑目して沈黙したが、やがてゆっくりと目を開け、玲瓏に言った。
「よく聞いてください、若様。もし仮にここが東京なら、わたしは若様を精神病院に連れていったと思います。それくらい、未来予知はあり得ない現象です。でもここは凍鶴で、あなたは天童玲瓏――この組み合わせなら、何が起こってもおかしくありません。……若様、黒司叔父様が言う天童の家宝、当主の証たる天瞳のことはご存知ですか? 前に話したと思いますが、わたしに異能の力を与えた魔性の秘宝こそ、天瞳です。わたしはてっきり黒司叔父様が継承したものと思っていましたが、もしかすると、天瞳は未だ主を定めずにいて、帰ってきた若様を見初めたのかもしれません。だとすると、若様の既視感は天瞳からのアプローチという可能性があります。生前、どうしてか白亜様は天瞳を邪悪の権化と忌み嫌っていました。軽率な行動は、慎んだほうがいいと思います。……それで若様」
さしあって、佐藤栄子を救いますか?
冷淡な真名の問いが、玲瓏の耳朶を打った。