赤い風船
あれは私が、日曜に気紛れで外に出掛けた時分でした。
私の住むマンションの前には遊ぶ子供の居ない、閑散とした公園があります。
誰も使っていないのだから、別に構わないだろうと、肩肘を張ってその公園へ行くと、所々隙間の空いた、吹きっさらしの黒ずんだ木のベンチに、私は一冊のノートを見つけました。
気になってぱらぱら開くと、1ページ目だけ絵が描かれて、下の縦書きの文章欄には、可愛らしいか細い文字でこう書かれていました。
つぎは、まっかなふうせんさんであそぼうかなぁ。
この時は、女の子が、未来に作る思い出を楽しみに、この絵日記に認めたのだと、心から信じていました。
私のマンションは高い建物が無く見通しが良くて、ベランダからはいつも風景を眺めています。
街の喧騒から離れた一室からは、時偶豆腐屋さんやアイス屋さんが現れて、それを忙しなく追い掛ける声がして、微かに人の流れを実感していました。
夕焼けへ愛を伝えるかの様に、ガラガラ声でカラスが鳴いています。
名残惜しいのか、何処か悲しげに聞こえました。
「私も、素敵な人と巡り合えたらいいなぁ」
のほほんと力ない言葉を放つ私の頭上には、ハートが浮かんでいました。
もう中に戻ろう、漠然と考えていたその時です。
廊下をドタドタと何度も踏み付ける足音が、部屋に響き渡ったのは。
最初は気にも留めていませんでした。
きっと上の階の子供が、遊び回っているのだろうと。
けれど、この最初の怪現象から、なんとなく妖しい気配はしたのです。
子供の、若々しい情動の中に隠れている、やけにしっかりとした囁きに似た軋みを。
次の日の朝、目脂で開かない目を擦り、やっとのことで重たい身体を起こすと、寝台の横の味わい深い茶と黒の光沢を放つ机の上に、何かが置かれていたのです。
確か寝る前に付ける日記帳は仕舞っていたし、本も読んでいない。
可笑しいなぁ。
しかし向かうと、無地の革カバーの日記帳があります。
何だ、よくある記憶違いか。
小さく安堵の息を漏らして、引き出しを開けると、そこには見慣れた一冊のノートが収納されていました。
濃い橙の花弁の付け根に、焦げみたいに一点の光さえ見せない黒の模様が規則的に並んで環状になった花の写真が載った絵日記のノート。
思わず仰け反って、中身も確かめずに引き出しを閉めていました。
なんで?!
なんで此処にあるの?!
恐ろしさからか、叫び出しそうになる心の箍を緩ませぬ様に、歯を強く噛み締めて、凍えたみたいになった脚で、私は呆然と立ち尽くしていました。
結局、私は其のノートを処分出来ずにいました。
持ってきた覚えがなくとも、これを無くして困っているであろうとの考えが、捨てるに至らせなかったのです。
この日の夜、日課を早く済ませようと、十時には寝室に行って、夜食前に脳味噌に鮮明に描かれた事柄を禿筆に呵すと、私の背中を何者かが叩いたのです。
ばっと素早く振り向いても、一人暮らしですから、当然私以外に人間が居る筈もありません。
しかし電灯がぼうっと映し出すのは、手元の日記、机くらいで、辺りは薄暗いのです。
窓から差し込む月明かりは、言い知れぬ闇の中で一層輝きを増していました。
張りつめた空間に秒針の動く音が木霊して、背筋をひんやりとした風が撫でると、嫌でも神経を尖らせて、目を見開かざるを得ませんでした。
「どこ! どこに居るのっ!」
荒げた声で、私は部屋に居るであろう誰かを威圧しました。
太腿を縋る様に掴んだ手は、頼りなく小刻みに震えています。
返事など返ってくるものか。
暫く他人の家に遊びに行った時の様な虫の居所が悪い心地でしたが、特に反応はありません。
それ、見たことか。
私は一人、馬鹿みたいに胸を張っていました。
自信が満ちると同時に、肩の力が抜けていきました。
「ふぁーあ……」
眠気に抗えず、口から今迄身体にあった気勢ごと活力が削がれてしまう程に、大きい欠伸をしていました。
「ま、日記は明日に回せばいいや……」
のそのそと腕を垂らしてベッドへ歩むと、独りでに軋んで、、ギィギィと頭に響く音を立てて、揺れているのです。
獲物の隙を、獣はずっと窺っていたのです。
しっかりと几帳面に敷いた掛け布団は、軋む度に波打つ様にぐしゃぐしゃに歪んでいきました。
まるで誰かが、ベッドの上で跳ねているみたいでした。
ギィギィギィギィ、断続する木の擦れる不快音が、私の心を品定めでもするかの如く、耳中を引っ掻き回していました。
残暑もない涼しい秋の夜長だというのに、首筋には小さな汗が、確かな冷気をもって身体を沿っていきます。
私は立つ事すら困難になって、尻餅をついてしまいました。
両腕で身体を引き摺って、無理矢理後退すると、壁にぶつかりました。
その時初めて、茫漠とした不安が、蓋し恐れとなって現実を思い知らせました。
ああ、もう逃げ場などないんだと。
どうしてこうなったの?
分からない、分からないっ……
怖い、何もかも見たくない……
きつく目を閉じると、口が開きっぱなしになって、既に肺から出し尽くしていた息を手繰り、深く長い呼吸をしていました。
どれだけ時間が過ぎたでしょう。
いつの間にか、霊障は止んでいました。
それでも私は狙われているのではないかと安心しきれず、束の間の休憩さえ許されませんでした。
翌日私が目を覚まし、立ち上がろうとすると、背中に電流が走ったかの様な痛みが、押し寄せてきました。
「あっ、ッタタタ……」
ずっと壁に凭れ掛かっていたのだからと、冷静でした。
昨日の白昼夢は、一体何だったのだろう。
はっきりとした意識でも、其の答えは出ませんでした。
いや、自分自身で出た解答を、否定していました。
あれは、私にはどうしようもない力が働いていたんだ。
若しくは、私が狂ってしまったのか。
面倒臭い、もうどちらでも良い。
胡散臭い霊能者とか、いい加減な精神科医にでも、原因の究明を委託してしまえばいい。
眠たい目を少し開けて、顔を洗いに洗面所に行く。
蛇口の後ろの壁には丸い鏡が有って、丁度私の顔を映していました。
冷たい水が、手の甲に当たると
「つめたっ」
と、情けない声が意図せず出ました。
理由はないけれど、なんだか無性に面白くなって笑うと、急に私の身体が木の棒に括り付けられたみたいに、硬直していました。
感じたのは……影。
忍び寄る何者かが、電気も点いていない薄暗い密室の、ただただ反射している銀色に、影を差したのです。
唾を飲んで、私は無心で振り返りました。
態々覚悟というものを決めると、隅っこに遣った憂心が、無尽蔵に膨らんでいくのが、目に見えていたからです。
しかし、危惧していた異変は無く、無機質な白が私を囲うのみでした。
ふう、びっくりさせるな。
何の気無しに私が向き直ると、後ろにはぎょろっとした瞳孔で、此方を睨んでいました。
男は私が、鏡の中の牙に似た鋭利な光を含んだ眼を追いかけてしまう哀れな私を見ると、厭らしい喜色が顔に溢れて、剥き出しの歯が輝いていました。
不味い、殺される!
私を傷付ける道具などが握られていた訳ではないのに、瞬時にそう判断していました。
男の目許から生えた松の幹は、鮮血によって赤く色付いています。
私の瞳は、私の身体は、男の動きに釘付けになって、言うことを聞きません。
せいぜい横に頭を揺らしてこれは幻なんだと、知覚しているこの狂人を、誤魔化すだけで精一杯でした。
「今迄すいません 神様、私を救って下さい 助けて下さいぃぃ……」
願い虚しく、男は身を寄せます。
背後を取ると、口を僅かに開いて、徐に言葉になっていない、地べたを這いずるかの様に低まった呻きを発していました。
生暖かい吐息が肌を乱暴に触ると、全身の震えが止まりませんでした。
ドクンドクンドクンドクン、胸の鼓動が早くなるにつれて、男の絶え絶えの唸りが、今にも絶息しそうに弱弱しくも、首筋から頬へ、頬から耳元へ、じっくりと着実に伝いながら、響むのです。
もう、正気を保てなくなっていました。
涙の粒で視界が曇って、男を捉えられなくなったのも、私の恐怖を増幅させる舞台装置に過ぎません。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーっ?!」
半狂乱になって、縁に置かれた石鹸や、鉄の棒に掛けられたタオルを、兎に角目に映る全てを横殴りにして、私は戦えるのだと、自分自身の意思が噴出していました。
ふと鏡を覘くと、男は私に鬼胎を抱いたのか、居なくなっていました。。
幾重にも重なった目許の皺、尖った鼻、吊り上がる口角、弛んでいた頬はぴんと張って、まるで私は悪魔でした。
「ハハハ、アーハッハァ゛ハァ゛……」
濁る嘲笑は、エコーが掛かったみたいに、大きな叫びの中で絹を裂く様に反響した声が、脳天をぐわんぐわんと揺蕩させるのでした。
「ねえ、お姉ちゃん 今日はどんなことして遊んでくれるの?」
「……ちゃん あの物干し竿に風船の持ち手を巻いたベランダ、見えるかな?」
「うん、赤いハートが一杯浮かんでるよ! すっごい可愛いな!」
「有難う 今日は私の家で遊びましょう? ……ちゃんの為に、色々用意してるから」
「ええ、ほんとにー?」
「ほんとにほんと じゃ、行こうか」
「うん」




