下
七、シアの歌
タルティーニ神父は牢屋で気がついた。酷く頭が重たくて空咳を何度かした。嗅がされ
た薬は軽いものだったらしい。
気絶してから一晩しか経っていないようだ。鉄格子がある窓から見える日差しの角度を見
て午前だとわかる。
タルティーニ神父はまさか最初に尋ねた枢機卿がいきなり黒だった事に驚き、軽率だった
自分の行動を少し恥じて頭を掻いた。
「やれやれ困ったのぅ。一生涯マリユス教を信じてきたこの私が、まさかこの様な仕打ち
をされるとは。いや、これもまたマリユス様から与えられた試練に違いない」
タルティーニ神父が捕らえられている場所は、異端の者を閉じ込めておく牢屋で、その
中でも比較的罪の軽い者が捕らえられる場所だった。
なんとか昨日見た事をティルに伝えねばと思い、懐から小さい紙を取り出した。しかし
書く物がない。仕方なく身に付けていた装飾具で自分の腕に傷を付けて、滲んだ血をイン
ク代わりに使用した。
内容はランドルフィ枢機卿が教会の意に沿ぐわず、聖音域の研究をハルモニア大聖堂写本
室の地下で行なっていた事と、音狂いを自らの力で操れるようにし、教会の権威と権力の
為に使用しようとしている旨を省略文で綴った。
「書いた紙をどうやって届けるか……。おぉ、そうであった。コイツを試してみるか」
タルティーニ神父は懐から奇妙な笛を取り出した。ティルがゼーフェルトから離れる時、
ティルから貰ったもので、肌身離さず持っていた物だ。ティルの話ではどこでも伝書鳩を
呼ぶことが出来るらしい。しかし吹き方が分からず、強く吹いたり弱く吹いたり、反対側
から吹いたりとイロイロ試してみたが音は鳴らない。少し疲れて呼吸を整えた。
すると鳩が窓際に飛んできた。ゴッツの家に来た時の伝書鳩と同じ白い鳩だ。
「なんという利口な鳩じゃ」
その笛の音は聖音域に響いており、この世界に音は響かないように出来ていたようだ。
鳩は聖音域の音を聞き分ける事が出来ると言われていて、飛んできた鳩はティルの笛の音
と同じ音に反応してそれを辿ってきた。
鉄格子の隙間から早速書いた紙を鳩の足に結んだ。
「ほれ、頼んだぞ」
鳩はその場で二三回羽ばたいてから空に飛び立っていった。
「後は若い者がなんとかしてくれるだろう」
タルティーニ神父は牢屋に備え付けてある小さいベッドに横になった
城ではフェリクス二世が街の商人から街道の舗装修理について話していた。
その話がまとまる所で謁見の間の扉が乱暴に開き、ダリオが入ってきた。タルティーニ
神父からの手紙を受け取ったのはダリオだった。
「国王陛下!」
「なんだダリオ、騒々しいぞ」
謁見していた商人も驚いていた。だがお構い無しに玉座の手前で跪いて手紙を差し出し
た。
「こちらを御覧下さい」
ダリオがタルティーニ神父が血で認めた手紙をフェリクス二世に渡した。
王もその事態を飲み込んだようだ。謁見していた商人を下がらせ玉座から立ち上がる。
「近衛師団長を呼べ。お前はこの手紙をティルにも見せろ。奴は今図書館に居る」
「御意」
ダリオは手紙を受け取って早々に立ち去った。
城の図書館では昨日に引き続きティルが調べ物をしていた。机の上に本が積み重なって塔
の様に幾つも立ち並ぶ。
図書館の扉が開いてダリオが入ってティルの方へ歩いてくる。ティルは足音で誰か分かる
ようで振り向かずに話した。
「あぁ、ダリオか。暇だったらちょっと手伝ってくれると――」
ティルが言い終わらないうちにダリオはタルティーニ神父の手紙を机の上に置いて見せ
た。
「ティル様これを御覧下さい」
その手紙を見てティルが立ち上がり、慌てて本を確認した。
目の前の本を翻訳した部分と、手紙に書かれていた聖音域についての儀式について書か
れている部分があったからだ。その後直ぐに本の表紙を見た。
「なるほど。対の本か。だからだ……」
「ティル様?」
「事情は分かった。僕も後から行く」
ティルは再び座って急いで何か書いている。ダリオは城内が不安にならないよう王の代
わりに勤めを果たしに図書館を後にした。
フェリクス二世は近衛師団長率いる近衛第一部隊と共に自ら馬に乗ってディメル市国へ
赴いた。
前線にいる騎士団と武装は違うし、数もそんなに多くはないが、王を護衛する直属の部隊
に恥じない気高さや気品を有していた。
近衛師団長が門の前にいる神官に近づいてランドルフィ神父の罪状を読み上げ、連れて
くるように命令した。
神官は何のことか分からなかったが、言う通りにハルモニア大聖堂へランドルフィ神父
を探しに行った。
その様子を門の上に居たランドルフィ神父の部下が目撃していて、直ぐに神父の下へ走っ
た。
ランドルフィ神父は写本室の地下で音狂いを現界させる最終工程に入っていた。
部下がランドルフィ神父の背後からハルモニア大聖堂の前で行われている事を告げた。
「タルティーニ神父は牢に閉じ込めているのに一体どこで嗅ぎつけられた。まぁいい。こ
の力のお披露目といこうじゃないか」
ランドルフィ神父は本を開いて左手に持ち、目の前の調奏陣に掲げながら何か小声で呟
いている。
調奏陣はその言葉に同調して光が増していった。そして小さな音狂いが現れ、次第に大
きくなっていく。それをランドルフィ神父は右手で持っている音叉を添えて本の中へ移した。
「完璧だ」
ランドルフィ神父は不敵な笑みを浮かべて地下室を後にした。
ハルモニア大聖堂の前では、王の一部隊が扉を開けるよう急かしていた所でゆっくりと開
いた。扉からランドルフィ神父が悪びれた様子もなく出てきた。
その周りを近衛兵達が囲って一人が剣を抜いて切っ先をランドルフィ神父に向けた。
「城まで来てもらおうか」
ランドルフィ神父は無言で持っていた本を開いて何かを呟いてから音叉を持った右手を
払った。すると音の衝撃波が不協和音と共に現れて、ランドルフィ神父を囲っていた近
衛兵達が吹き飛ばされた。
その様子を見て近衛兵達は一斉に剣を抜いた。フェリクス二世はその間を縫って進み、
ランドルフィ神父の前に出た。
「グァルト・ランドルフィ。何の真似だ? 貴様は間諜の容疑を掛けられているだけだが、
連行されることを拒み、我が兵に攻撃を加えるとはどういうことだ。貴様の行動は我が国家
に対する反逆。言い逃れはできんな」
そう言うとフェリクス二世も剣を抜いてランドルフィ神父に突きつけた。
「神の教えを蔑ろにする愚かな王とその配下達か。忌々しい。今から私が粛清してやろう」
先ほどより力を込めて同じように払った。強い衝撃波だ。王はその衝撃で馬から落とされ
たが華麗に着地した。
追い打ちをかけるようにもう一度薙ぎ払った。しかし王はその音の衝撃波を剣で切り裂いた。
「ほほぅ。」
続けて放った衝撃も王の剣閃に見事切り裂かれた。
「俺の力を見くびるなよ」
「ならばこれならどうだ」
ランドルフィ神父は音叉を本で軽く叩き、それを高く掲げた。
「――ぐっ」
フェリクス二世に音狂いの症状が出始めた。頭の中に響く不協和音に耐えられず耳を塞
いで膝を付いた。しかし再び立ち上がり剣を構えた。
「なんという精神力だ」
ランドルフィ神父は更に力を込めて本に移した音狂いを巨大化させる。その効力は周囲
にいる人まで無差別に音狂いにした。
その頃ティルはディメル市国内の牢屋がある建物へ向かっていた。教会の者達は皆忙し
く走り回っているので、ティルの侵入には気が付かない。
ティルは牢屋に辿り着くと、鍵をピッキングし、一瞬で開けてしまった。
「タルティーニ神父」
「おぉ。ティル殿。一体何が起こっているのです」
「表でランドルフィ神父とフェリクスが暴れているようです。それよりも手紙にあった写
本室の地下に案内してくれませんか」
「分かった」
タルティーニ神父は急いで写本室にティルを案内した。
ドアを開けるとランドルフィの部下の司教がいきなり斬り掛かってきた。タルティーニ
神父は驚いて尻餅を付いてしまったが、そのお陰で司教の一太刀目をかわす事が出来た。
ティルはその隙に襲ってきた人物の喉にナイフを投げた。
司教は悲鳴を出せずに息絶えた。
「無事ですか」
「やれやれ。命拾いしました。地下への道はそこから行けます」
タルティーニ神父は本棚の間を指さした。
「タルティーニ神父はここで待っていて下さい。直ぐに終わらせてきますから」
ティルは剣を抜いて隠し扉の中へ入っていった。階段を降りると奥の影に何人か居るの
が見える。ティルは気付かれないように後ろにまわり、背後から首を刎ねた。それに気が
ついた者が侵入者に攻撃を仕掛けようとした瞬間ティルの剣が喉を貫いた。
ティルは一撃で確実に仕留めていき、その場にいる全員をあっという間に殺してしまった。
「ふぅ……」
調奏陣に近づいて本を開いて確かめた。
「なるほど。よく出来たものだ」
ティルは懐から音叉を出して音を鳴らし、それを床に付けた。そしてポケットから古代の
文字が書かれた紙を取り出して音叉に翳して何か呟いた。
すると調奏陣の光が暗くなり、床に描かれた文様が蒸発するように消えた。
「これでよし」
地下室から出るとタルティーニ神父がティルを心配していた。
「ティル殿お怪我はありませんか。少し無茶が過ぎるのでは」
「なんともないよ。ただ地下の死体は後で何とかしてもらわないとな。とにかく今は表の
騒ぎを何とかしないと」
「なんとかすると申しましても、老いぼれの私は戦力にはなりませんぞ」
「いやいや、そんなに無理なお願いはしませんよ。タルティーニ神父はこの手紙をセリア
に渡してくれますか」
「手紙?」
ティルは図書館で書いた手紙をタルティーニ神父に渡した。
「僕だけであれを何とかするのはしんどいかもしれない。だからセリアに手伝ってもらい
ます。お願いします。僕は過去の物語の復活を阻止してきます」
ティルはハルモニア大聖堂の正門に急いだ。
ハルモニア大聖堂の前で王の近衛兵は音狂いに発狂しそうにもがいている。ティルはそ
の中で一人だけ這い蹲りながら剣を振るっている王を見つけた。
王は渾身の一振りも安々とかわされて剣を落とした。
その後ろからティルがフェリクス二世の肩を掴んだ。
「遅れてごめん」
「遅いぞ馬鹿者……」
ティルが来たことを確認するとフェリクス二世は力尽きて意識を失った。
ランドルフィ神父に向き直った。
「ランドルフィ司教。いや、今は枢機卿になられているようですね」
ティルの顔を見て誰だったか思い出すような仕草をして、記憶と一致する人物と同じ
だと気がついて頷いた。
「久し振りだな。ティル・クリストフ・シェーンベルクよ。お前がマリユス教を破門され
て惨めに去る姿は今でも覚えているぞ」
「研究の邪魔をされた貴方にとってはさぞ楽しい出来事だったでしょう。だがそのおかげ
で僕は様々な事を知ることが出来た」
「私もお前がしていた研究を引き継いでこれを完成させることが出来たぞ」
「その研究の為にこの本が必要だったわけか。そして配下に僕から奪わせようとしたのは
お前か。いや、この本を手に入れる為にリークラントに口入れしたのはお前だな」
「左様。私が城の図書館で見つけた本は対になっていると知ってな。その対の本がラトナ
国にあると突き止めた。ラトナ国は鉱物資源が豊富だ。リークランと帝国はそれだけでも
攻めるには十分な理由だ。それで攻めやすいようにお膳立てしてあげたのです。そして私
はラトナ国にある聖音域と音狂いの知識を頂こうという訳だ。だがどうしたことか、我々
が手にしたい本が無いではないですか」
「直前に僕が持ち去ったからな」
「だいぶ後になってあなたが所持している事を突き止めましたが、消息は分からず。諦め
ていました。しかし一昨日ふっとこの国に帰って来られているではないですか。まぁ殆ど
この本だけで研究は完成していたのだが、手に入れられるならそれに越したことはない」
「あぁ。この本が奪われなくて本当に良かった。でなければ貴方に抵抗することはできま
せんでしたよ。そもそも対になっているのですから二冊必要なんです。そちらには理論的
な事しか書かれていない。じゃあこちらには?」
聞かれてもランドルフィ神父は答えず無言だ。
「『想い』だ」
「想い?」
それを聞いてランドルフィ神父は高らかに笑った。
「随分笑かしてくれるではないか。マリユス教に対する信仰心、即ち想いと言う事でよか
ろう」
笑うのを予測していたようで、全く動じずに話を続けた。
「音楽に対する想いだ。そっちの本に書かれていないことを少し話してやろう。聖音域は
音楽家達の想いで形作られている。音霊はその想いから生まれ、音狂いは想いが乱れた物
という事とこの本では結論づけられている。そしてこの本が書かれる発端となる事件が
過去ラトナ国であった。その事件とは、ラトナ国のシア城であった悲劇だ。城主ヴィルヘルム
王は恋人のリリトを亡くし、あまりの悲しさで神を呪った。その罰として魂は救済されず、
亡霊となり、生者に暴虐の限りを尽くした。それを見かねたリリトの姉、調律師サリアが
救済の為の曲を作曲家に依頼し、シアの歌が完成した。その歌と共に王の亡霊を聖音域に
封じた。お前が軽んじておもちゃにしているものは、過去ラトナ国で起こった悲劇その物だ」
「なんとも悲しいお話だ。しかし『おもちゃ』とは聞き捨てならない」
「この本とその本は王の怨念によって生じた音狂いに対処する為に書かれた物だ。その様
な愚行を許す訳にはいかない」
「もうよい。崇高な力でお前も音狂いに苦しんで死ね」
ランドルフィ神父は音叉を掲げた。音狂いが異様な形に広がっていく。
しかしティルの服が微かに揺れる程度だった。
「ランドルフィ神父……。その本によって音狂いがある程度自分の意志で人を音狂いに陥
れることが出来るのは見て分かる。だが根本的に間違っている。その力でお前は何も出来
ない。お前自信は何の力も持っていないからだ」
ティルは剣を抜いてランドルフィ神父の心臓めがけて投げた。剣は肋骨に対して水平に
突き刺さり、柄の所まで見事に突き刺さった。
ランドルフィ神父は小さく呻き声を上げた後に大量の血を吐いた。
「何故お前は音狂いにならない……」
「さっき言ったでしょ。お前が使っている音狂いは悲劇そのものだと。そしてこの本は
悲劇を治めるシアの歌が書かれている。この本自身が音狂いから守ってくれるんだよ」
ランドルフィ神父は再び大量の血を吐いてその場に倒れた。
「何を言っても無駄だったな。さて、この厄介な音狂いをなんとかしますかねぇ」
ティルは音叉を取り出して聖音域に入った。
八、大調律
セリアとアネットは昨日と同じく、貧しい人達が暮らす付近で音狂いの治療に勤しんでい
た。
セリアがまた一人治療を終えたのを見てからアネットが話しかけた。
「ティル様の調べ物って一体なんなのでしょうね」
「分かりません。ティルは何かがあると何時もコソコソ動きまわるんです。大抵そのいざ
こざがこっちに回ってくるんです。今回は何事もないといいですね」
セリアは次の患者に向かおうかと思って周囲の様子を見た。ディメル市国の騒動がこの付
近まで届いていて、人々が慌ただしく動き回っている。
「それにしてもなんだか騒々しいですね」
「ええ」
セリアは気になって聖音域に居るコルに尋ねた。
(コル、なにか知ってる?)
(あねご。大変なんだよ。あの音狂い何とか――うわ~~)
(ちょっとコル)
それからコルの声が聞こえなくなった。
「いや、なんか大変な事になってるみたい」
「私達も行ってみましょう」
アネットがセリアを急かして騒動の下へ駆けつけると、セリアの視界にとんでもない光
景は目に入った。
「な……なんなの一体。あれは音狂い。なんでこっちの世界に」
街の人達は何事かと沢山集まり、異常な事が起こっている事が分かると悲鳴を上げて逃
げ出していった。
音狂いの周辺には影響を受けた人達が耳を塞いで苦しんでいる。その中には城の近衛兵
にフェリクス二世も居た。そしてマリユス教の誰かがティルの剣で心臓を一突きにされ
ている。
「な……なんとかしなくちゃ。アネット。私の身体支えてて」
「はい」
セリアは直ぐに音叉を鳴らして聖音域に入った。聖音域にも同じ音狂いが存在していた。
距離のズレはない。そこで調律しているティルの姿が見えた。コロルと何か話している。
(これが王の音狂いか。シアの歌が聞こえずらい。この本だけじゃまずいかな。コロル!)
(わかりません。抑えているシアの歌に嘆きが侵食している感じがします)
(となると、侵蝕を抑えつつ調律すれば王の亡霊はなんとかなるってことか。もっと深部
まで入れるか?)
(やってみます)
王や亡霊と聞こえてきてもセリアにはまったくわからなかったが、二人が奥へ入ろうとする
前にセリアが呼びかけた。
(ティル!)
(セリア! 何でこっちに。タルティーニ神父から手紙は貰ったか)
(手紙? 何の事ですか)
(うぇ~読んでないの?)
(それよりもこの音狂いを何とかしないと)
(とにかくタルティーニ神父から手紙を貰って読んで)
(でも……)
(いいから!)
ティルはセリアの方を向いて拳を繰り出した。全然届かない距離だがその衝撃がセリア
を弾き飛ばし、そのまま聖音域の外まで押し返された。
ティルはセリアが聖音域から出るのを見計らって一枚の紙を懐から取り出した。それは
譜面なのだが譜線に書かれていたのは音符ではなく文字だった。それを音叉でなぞって
音狂いがある反対側へ放り投げた。 すると文字が広範囲に離散して細い線で結び合って
壁を作った。
(これで聖音域には入ってこれないな)
コロルはティルのやろうとしてる事が分からず心配そうに声を掛けた。
(一人で調律なさるつもりですか)
(それはちょっと無理。セリアには此処と外を繋げてもらわなきゃ駄目なんだ。それまで
こっちで頑張るよ。コロル)
(はい)
コロルはティルの背中に回って吹き飛ばされないように支えた。
アネットが抱えていたセリアの身体に意識が戻ったようで、セリアは自分の力で離れた。
「セリア様。大丈夫……でしょうか」
アネットは普段の落ち着いたセリアの姿を見ているので、目の前でセリアが焦っている
のを助けてあげたいと思っても、何も出来ない自分に歯痒さを感じていた。
「わからない。手紙ってなに? もう一度入ってみます」
セリアはアネットに身体をお願いして、聖音域に再び入ろうとした。だが入った瞬間弾
きだされてしまった。
「どうして」
元の世界に返ってきたセリアはどうすべきか分からない。混乱している所で群集の中
からタルティーニ神父が駆け寄ってきた。
「セリア殿! 探しましたぞ!」
「タルティーニ神父! ティルが手紙がどうとかと」
「こちらで御座います」
手紙の文章は短く要領だけ書いてあった
『いきなりだけど、セリアはラトナ国の王女なんだ。
言おうかどうしようか悩んでたんだけど、言い難くて書いた、ゴメンゴメン!
それで昨日の本を解読したら、音狂いの元凶らしい物をセリアのご先祖様が
封じたって書いてあってさ、それは特別な音狂いで、セリアの血族じゃないと
完全な調律が難しいらしんだよね。
その特別な音狂いをマリユス教のランドルフィ神父が利用しようとしてるんだ。
そこら辺はタルティーニ神父に聞いて。
そうそう。特別な音狂いの調律のやり方なんだけど、音叉の印の所にチョンと
血を乗せて調律すると上手く調律出来るみたいよ。
過去を知ってもセリアは僕の弟子って事に変わりはないから。
じゃ、後ヨロシク(笑))』
ティルらしい軽い文章で綴られた手紙を読み終えたセリアは怒りに震えていた。
「何よ。何が(笑)よ!」
セリアは今にも怒りが爆発しそうな低い声を出して手紙を握りつぶした。
アネットもタルティーニ神父もセリアの感情にたじろいだ。
「タルティーニ神父!」
「はい!」
「この手紙に書いてあるランドルフィ神父が音狂いを利用しようとしている事は事実な
わけ?」
「はい……。あ、ですがランドルフィ猊下はあちらで……」
タルティーニ神父はティルの剣で一突きされているランドルフィ神父の亡骸を指さした。
その横には音叉を聞いているティルとフェリクス二世が倒れている。
「じゃあ目の前で起こってるこの惨事が教会内のいざこざの結果なわけ」
「さ、左様でございます。その、申し訳ございません」
タルティーニ神父は萎縮して小声で謝った。
タルティーニ神父を攻めても仕方がない。セリアは深呼吸をして目の前で吹き荒れる
音狂いの前で構えた。
「いいですよ。ティルの弟子ですからね。見事調律してやりますよ」
懐からナイフを取り出して指を少し傷つけた。手紙の通りその血を音叉の文字が彫っ
てある所へ付けて、ナイフの柄で音叉を鳴らした。
その音で一時的に聖音域とこちら側の世界が一緒になった。丁度ハルモニア大聖堂入
り口辺りの広場がその領域だ。コルは音の乱れに吹き飛ばされてぐるぐる回っていた
(あ、あねご! 助けて~)
セリアはコルが丁度いい所に飛んできた所で捕まえた。
(掴まってなさい)
(おう。あれ、あねごの身体が) セリアは実態を持ったまま聖音域とこちら側の世界とが合わさった所にいる。この領域の
中では、元々実態を持っていた者は身体と意志が分離しないようだ。こちら側にあった
ティルの身体と先に聖音域に居たティルが一緒に合わさった。ティルは自分の身体を確か
めてからセリアに言った。
「流石理解が早いな。我が弟子よ」
「師匠がもっと早く動いていればこんなことになってないんです」
セリアは何時も名前で呼んでいるが、この時初めて師匠と呼んだ。言った瞬間セリアは
恥ずかしくなって、師匠と呼んだ事を後悔した。
「僕の読みがあまかったようだ。弁解のしようがない。ごめん」
「とのかく調律しますよ」
二人掛かりでも音狂いはなかなか調律されない。不協和音が衝撃となって調律している
手と頬が少し切れて血が垂れる。
荒れ狂うその中へティルが一歩前へ進んだ。
「危険です!」
「大丈夫。基準音を聞き逃すなよ」
その時ティルは自分の音叉をその中心に掲げるのが見えた。その瞬間光が広がって、音
狂いが一気に収縮しだした。
一瞬の静寂が訪れたと思ったらこちら側の世界と重なっていた聖音域がバラバラに弾け
飛んだ。その吹き飛ぶ聖音域の一つにティルがいるのが見えた。
「ティル!」
叫んだセリアはティルの手を掴もうとしたが、手は届かずに虚しく空を掴んだ。
――音狂いは消えた。跡形もなく。ティルと共に。
「ティル……? うそ、冗談でしょ……?」
今おこった事が本当なのか理解出来ずセリアはその場にへたり込んだ。そして頭の中に
様々な理由を考えた。自分の力が至らなかった所為。次から次へと自分の不甲斐なさが浮
かんできて。全てが自分の力不足のような気がして、押し込めようとした涙が次から次へ
と溢れでて止まらない。
タルティーニ神父とアネットが駆け寄った。
「セリア殿。ティルはどうしたんじゃ」
「わ…わかりません。私には……私は……何もできなかった」
「セリア様……」
二人はどう声を掛けていいか分からず。すすり泣くセリアを見守ることしか出来なかっ
た。その時周囲に金色に光る物質がふわふわと飛び回り、セリアの顔の目の前に来た。
「あねご~~」
「コル、なんでこっちの世界にいるの」
涙を拭って声を詰まらせながらコルに聞いた。
「聖音域がバラバラに吹き飛んだ時、こっちの世界に来ちゃったみたい」
コルの周りには契約されてない音霊も金色に光って辺りをふわふわと漂っている。
「そんなに泣くなよ。あねごが悲しむと、おいらまで悲しくなるんだよ」
「そう……だね。」
コルが来たことによりセリアの感情が少し楽になった事に二人はほっとした。
「セリア殿は何も出来なかった事はありませんよ。見事音狂いを調律なさったではござい
ませんか」
「そ、そうですよ。私よりも全然凄いんですから。どうかご自分を責めないで下さい」
「二人共……ごめんなさい。なんか……泣いてしまいました」
セリアは赤くなった目で笑顔を作った。そしてそのままアネットに寄りかかって眠って
しまった。ティルがいなくなったショックと特殊な調律を行なった所為でセリアはそうと
う疲れてしまっていた。
辺り一帯の音狂いは、セリアとティルの調律で全て治ったようで、フェリクス二世
も近衛兵達も意識を取り戻して立ち上がった。しかし辺りの建物は所々崩れており、巻き
込まれて怪我をした住人などもいた。フェリクス二世は近衛兵に指示を出し、後始末に追
われた。
辺りは夕日に照らされて、劇の終幕のように赤い光に包まれて、忙しく動く人の影と崩
れた瓦礫の影が明日を指し示すように長く伸びていた。
九、調律師
松明の灯りが廊下を照らしている。そこを十歳ぐらいの女の子が歩いている。幼さが残
る自分だ。どうやら何処かへ向かっているらしい。
――ああ、また夢だ。夢を夢だと認識できる。そう言えばティルからの手紙に自分はラト
ナ国の王女だと書かれていた。と言うことは彼女が歩いているのはラトナ国のお城かもし
れない。
目的の部屋についたようで、その部屋の扉を開けて中へ入る。
中は無数の本棚が立ち並んでいる。城の書庫らしい。その奥で灯りが揺らめいている。
今より少し若いティルだ。
「誰だい」
「私よ。ティル」
幼いセリアは書庫の入口にあった小さい椅子を持ってきてティルの横に置いてそれに座っ
た。今よりも少し我儘な話し方だ。
「なにかお話して」
ティルは少し困った表情をした。
「夜に部屋を抜けだしてくるとは仕様がないお姫様だね」
「えへへ。お昼寝したから眠れないの。夜だとピアノの練習も出来ないし」
「確かに。でも今は調べ物をしているから、明日じゃダメかな」
「ダメよ。その本はなんなの? とっても綺麗な本だけど」
「姫のご先祖様のお話を書いた本のようです。このシアの城が舞台になってますね」
「へぇ~。そのお話をしてよ」
「生憎現代語への翻訳がまだまだです」
「そう……、それは残念ね」
「そうだ、さっき見つけたこの本はどうでしょう。手紙屋さんが色んな国を旅して色んな
騒動に巻き込まれてしまうというお話みたいです」
「面白そう。それでお願いするわ」
ティルが読み始めようとした時、轟音が鳴り響き、城が大きく揺れ、本棚から本が無数
に散らばった。咄嗟にティルはセリアを庇う。
「なに?」
「分かりません。姫様。どうかここから動かないで下さい。私が様子を見てきます」
ティルは急いで書庫から飛び出していった。残されたセリアは不安そうに閉じた書庫の
扉を見つめていた。
ティルは螺旋階段を駆け上がっている時に窓の外を見た。
「軍隊?」
再び轟音とともに城が揺れる。階段を登りきり、王の寝室へ急いだ。廊下では兵士達が
武器を手に動きまわっていた。その向こう側で兵に指示を出しながら謁見の間に向かう途
中のオーレリアン王が居た。
「オーレリアン様。一体何が」
「ティルか。リークラントが攻めてきた。夜襲だ。奴らが国境をどう越えられたのかわか
んが、状況はかなり悪い。城門まで辿り着いているとなると恐らくこの城は落ちる」
「そんな……」
「そなたに頼みがある。この城の地下の倉庫に国境の外まで続く隠し通路がある。奥から
二つ目の床の石だ。セリアを連れて逃げてくれ」
「……はい」
オーレリアン王の覚悟が伝わったので、ティルは王も共に国外へ亡命すべきではと進言
する事はできなかった。恐らく兵達もこの国を守るために最後まで闘う意志だろう。しか
し娘だけは……という親心がそうさせたのだ。ラトナ国の人間ではないが、ティルは王の
信頼を得ていたし、他国の者なら国と命を共にする必要がない。その事もティルは理解し
ていたので、そう返事を返すことしか出来なかったのだ。
ティルは急いで書庫へ戻ってきた。が、其処にセリアは居なかった。幼いセリアにとっ
て孤独の不安に耐えられず外に出てしまったらしい。
「くっ!」
ティルは調べていたテーブルの上にある本を懐に仕舞ってセリアを探しに行った。
城内にはもうリークラント兵が攻め込んできている。ティルは通路を塞いでいたリーク
ラント兵に斬りかかった。
「邪魔だ退け!」
ティルの剣はリークラント兵の鎧の隙間を通して首を貫いた。続けざまに二人の兵士も
一突きで絶命させたが、その後ろから何人も連なってきた。流石のティルも多勢に無勢で
は勝ち目がなく、横の道に逸れて、できるだけ戦闘を回避しながら進んだ。
セリアは倒れた兵の脇を怯えながら進み、王や王妃、ティルの名前を啜り泣きながら
呼んで探していた。しかしその声は怒号や断末魔にかき消されてしまう。
やっとの事で謁見の間の後ろ側に辿り着いたが、其処は敵味方入り乱れての乱戦になっ
ている。
其処ではオーレリアン王も剣を振るっている。
セリアは柱の影から戦闘の様子を見ていた。
「お父様……。お母様……」
セリアの母ルイーズ王妃は、玉座から離れた椅子に座ってオーレリアン王の闘いを見守っ
ている。
オーレリアン王の剣は鋭く重く、何人もリークラント兵を切り裂いていった。だが一人
の兵士の剣に突き刺されてしまった。続けて何人も王に剣を突き刺した。オーレリアン王
は最期の一振りで刺した兵を薙ぎ払ったが、剣を床に突き刺し、それに凭れて息絶えた。
ラトナ国の兵士は王の死を見ても士気を下げずに戦い続けている。ルイーズ王妃は王の
死を見届けてから短剣を喉に刺して自刃した。
セリアは王と王妃の最期を目の当たりにして、悲痛な叫び声をあげた。
その声にティルが気が付き、セリアの声が聞こえた謁見の間の方へ向かう。謁見の間に
入ると玉座を挟んだ向かい側に居るセリアを見つけた。
「姫様!」
ティルはセリアに呼びかける。だがセリアには聞こえていないようだ。座り込んで放心
している。ティルが駆け寄ろうとした時轟音が鳴り響いて再び城が揺れた。その砲撃で謁
見の間の半分が崩れ、それにセリアが巻き込まれてしまった。
瓦礫の中は暗くて痛くて息苦しい。
怖い……。全部嘘なら……。全部夢なら……。
――そうか、この時から私は記憶を無理矢理閉ざしたんだ。
瓦礫がどかされティルがセリアの生存を確認した。
「誰?」
セリアのその言葉にティルは少し驚いた表情をしたが、直ぐに瓦礫からセリアを助け
だした。
「急いで逃げるよ」
とにかくティルはセリアの手を無理に引いて、オーレリアンに王に言われた地下の隠し
通路へ急いだ。
そして最初の記憶の場所に辿り着いた。
目を開けると知らない場所に寝かされていた。ティルは……と思って横を見るとアネッ
トが椅子に座っていた。どうやらずっと付き添ってくれていたらしい。こちらの世界に来
てしまったコルはアネットの膝の上でスヤスヤ眠っている。
「……アネット」
「お気づきになられましたか。ここはお城の客室です。あれから二日ほど経っております」
聞かれるであろう事にアネットが先に答えた。
「そう……。ティルの夢を見てました」
ティルの名前をセリアの口から聞いたアネットは、どう励ましたらいいのかわからずに
俯いてしまった。
「私がティルの弟子になる前は、ティルは私に敬語で話していたの。それがなんだか可笑
しかった」
「ティル様は……きっと大丈夫です」
「そうね」
「私はこれから王様に報告して参ります。セリア様は音狂いの疲れがまだ残っているとお
伝えしておきますので、ゆっくりお休みになって下さい」
「ありがとうアネット」
アネットは膝の上に寝ていたコルをセリアの横に置いて静かに部屋を出た。セリアはコル
の頭を撫でてみる。
「音霊って温かいのね」
セリアはコルを抱えて再び眠りについた。
セリアが目覚めてから二日が経った。フェリクス二世はディメル市国及び周辺の崩れた
建物等の再建の指示と、マリユス教の今後の扱いについて城内の会議室で話し合いがさ
れていた。
当事者としてセリアも席に加わっている。コルは流石にこの様な場所に連れてくるわけに
はいかず、城の上空を飛んでいてもらった。
ダリオが会議の進行役を務めていて、最初の建設についての話し合いが終わり、次にマ
リユス教について話し合われる事になった。
「この場にクラウディオ聖下がいらしたこと。誠に光栄に思います」
クラウディオ聖下と呼ばれた人物は、マリユス教の最高指導者の教皇である。フェリク
ス二世は敬意を表し聖下と言う呼称で呼んだ。クラウディオ教皇は少し項垂れ、
フェリクス二世に謝罪した。
「この度は私の監督不行き届き、高位聖職者がこの様な惨事を招いた事、真に申し訳ない
と思っている。私がディメル市国を留守にしてる間に……」
クラウディオ聖下は弱々しく申し訳なさげに話した。
同席しているタルティーニ神父が教皇とマリユス教を庇った。
「多くの者は知らなかったのです。何卒お慈悲を」
その言葉にフェリクス二世が少し強い口調で返した。
「知らなかったで済む問題ではない。マリユス教がしかるべき措置を取らなければならな
かったのだ。だがしかし、これは王である私の責任だ。私は国の全ての事を把握していな
ければならない。この国で起こった全ての責任は私にあるのだ」
その言葉の重さがその場にいる全員に伝わった。
一国の君主たる王の足を引っ張ることはアストリア国を危険に晒してしまうと言うことだ。
それはこの国に住む一人一人が責任の一端を背負っていると言うことに他ならない。
「クラウディオ聖下。ティルが事件に関わる使徒を何人か殺したようだが、まだこのよう
な事態を招く輩が出てくるかも知れない。早急に使徒の行動を洗い直してください」
「畏まりました」
次にフェリクス二世は会議に列席しているセリアの横にいる調律師に視線を向けた。
「それから音狂いだ。発生件数は減ったものの未だに音狂いの患者は後を絶たない。これ
はランドルフィ神父が利用していた音狂いとはまた別の音狂いが存在している事を表して
いる。引き続き我が国の調律師団には国外の音狂いの状況。バラバラになった聖音域の調
査を行なってもらいたい」
会議には国の調律師が二人列席していたが、ティルを含めて五人と言っていたので二人
はゼーフェルトに戻れなかったようだ。
そしてフェリクス二世はセリアに視線を向けた。
「セリアよ。お前にはティルが行方不明の間、この国の調律師として働いてもらう。ティ
ルの弟子と言う立場であったが、貧しい人々の音狂いを相当数治療してくれたと報告を受
けている。お前の力を見込んでの事だ。ティルに当てていた仕事を其の方に託しても良い
な」
「はい」
あまり覇気のない返事を聞いてフェリクス二世は顔を顰めたが直ぐに隣にいたダリオに
無言で会議を終わらせよと命じた。
「それでは皆様。これで会議を終わりにいたします」
会議は終わり、それぞれがそれぞれの役割を果すために早々に立ち去った。
セリアは会議の内容は把握できてはいたが、ティルがいなくなってから心に力が入らず
なかなかその席から立つ事が出来なかった。すると王の鋭い声が響いた
「セリアよ。立て!」
「はい!」
セリアは条件反射的に立ち上がった。
「こっちに来い」
フェリクス二世も席を立ち、会議室のベランダへ出ていった。
セリアもそれに続いてベランダに出た。城が高台にある所為か風が心地よく吹き抜ける。
そして城壁の向こう側まで見渡せる。あの時見た光景になんとなく似ているとセリアは思っ
た。
フェリクス二世は腕を組んでその眺めを暫く見てからゆっくりと息を吸って話し始めた。
「貴様はあの馬鹿の弟子だから賢い筈だ。だからあいつの事でいろいろ頭がいっぱいだろ
う。しかしな、この混乱が静まったのはお前のお陰だ。感謝してるぞ」
フェリクス二世の声は雄大で、それでいて砕けた話し方になった。
「勿体無いお言葉です。ありがとうございます」
フェリクス二世は振り返ってセリアに笑いかけた。
「セリアよ。堅苦しい言葉は抜きにしていいぞ。あいつの弟子なら少しぐらい奴の傍若無
人な所を見習ったらどうだ」
「ですが……いえ、ではそうさせて頂きます」
セリアの肩の力が抜けたのを見てからフェリクス二世はティルが持っていた本をセリア
に差し出した。
「ハルモニア大聖堂の前に落ちていた。これはお前が持っていろ。元々はお前の国のもの
だ」
「この本は……」
「まぁ先の事件の鍵のようなものだ。中にティルが翻訳した文があっちこっちに書き込ま
れている。本当は国が管理すべきだが、この本は対になっていてランドルフィ神父が持っ
ていたものが国にある。それだけで十分だ」
セリアは本を開いて所々書きこまれた文を読んでみる。掴み所が無い性格を表した線は
間違いなくティルの筆跡だった。
「字の汚さは昔から変わらんな」
フェリクス二世は呆れるように肩を竦めた
「ほんとう。でも、なんだかティルらしいですね」
フェリクス二世とセリアは静かに笑いあった。
王から命令が出たのはその三日後だった。
その証書には会議で話された事が格式張って書き直されていた。世界にはまだ特別な音
狂いが存在していると結論づけ、各国で調律がしやすいように特例が書かれていた。そ
の証書は国の調律師団全員に渡された。しかしセリアの命令には別の紙が一枚余計に入っ
ており、ついでのようにティルの捜索の命令も書かれていた。
「王様もなんだかんだ心配なのね」
その証書を懐に仕舞い、ゼーフェルトの門まで歩いてきた。そこにはタルティーニ神父
とアネットが立っていた。見送りに来てくれたようだ。
「セリア殿。これで暫くは会えないですな」
「タルティーニ神父。ティルの昔話をもっと聞きたかったですけど、それは今度戻ってき
た時の楽しみに取っておきます」
続いてアネットがセリアに話しかけた。
「セリア様。なんだかとても名残惜しいです」
「おいらもなごりおしいよ~」
コルはこの一週間ですっかりアネットに懐いてしまった。何でもアネットの髪とレース
付きのカチューシャがお気に入りらしい。アネットは困ったように笑っている。
「あなたねぇ。置いてくわよ」
「置いてってもいいよ――うわ」
セリアはコルの首をネコのように掴んでアネットから引き離した。セリアは軽く咳払い
してからアネットに挨拶をした。
「アネット。いろいろとありがと」
「こちらこそ。セリア様のお陰で自分に少し自身が持てた気がします。これからもお城の
お仕事頑張ります」
「それじゃあそろそろ――」
「ちょっとお待ちを」
タルティーニ神父はティルから貰った笛をセリアの首に掛けた。
「ティル殿から頂いた物なのですが、伝書鳩が呼べるのですよ。私が持っているよりセリ
ア殿が持っていて下さい」
「ありがとうございます。二人共お元気で」
門から出る時は、入る時に手間取った手続きは必要なかった。門兵達に話が通っている
らしく、セリアに敬礼をしている。
セリアは大きく手を降ってから後ろを振り返らず前を向いて歩き出した。タルティーニ
神父とアネットはセリアの姿が見えなくなるまで手を降っていた。
エピローグ
セリアとコルはラトナ国へ向かう街道を歩いていた。
コルはふわふわとセリアの周りを飛びながら話しかけた。
「なぁ、あねご。大丈夫なのか。敵国なんだろ?」
「リークラント帝国の軍隊が駐留しているでしょうね。まぁ見るだけだし、私の故郷だし」
セリア本を読みながらコルの質問に答える。
「その国見た後はどうするんだよ」
「さぁね。たぶん何も変わらないわ。音狂いを治して世界を巡るだけ」
「あとあの王様とやらに報告して、お金も稼がなきゃな」
「そうね。ティルには――そのうち何処かできっと会えるわ。会える気しかしないもの」
「あんちゃんに会いてーな~。ついでにコロルにも」
「コロルはついでなの?」
「へんっ。どうせあねごはあの清ましたヤツのがいいって言うんだろ」
「ま、コルのその賑やかな所もいいかなって最近思う時もあるけどね」
「ホントか?」
コルの顔がパッと明るくなって何度もセリアに聞き返した。セリアはにっこりと笑うだ
けで返事はせずに歩き続けた。
セリアは本と音叉を携えて、音霊のコルと共に調律師として世界へ旅だった。
――おわり――




