中
四、フェリクス二世
ロトーノ村を出てから、ティルとセリアは西の方角へ向かって歩いていた。
「これから何処へ向かうんですか?」
「アストリア国の王都ゼーフェルトだよ」
「ティルの故郷ですか。少し楽しみです」
「通り過ぎる予定だったんだけど、手紙が来たからね。行かないわけにはいかないさ」
「戻りたくない理由でもあるのですか?」
「そういう訳じゃないんだけど、ほら。僕は国の調律師でしょ。そのせいで教会に疎ま
れてるんだよね。彼らはあまり僕を国には入れたくないんじゃない?」
「でもマリユス教にそこまでの力は無いですよね。故郷を出てから随分立っているから
大丈夫じゃないでしょうか」
「まぁ教会に疎まれるのはいいんだけど、それ以外に僕を知ってる人が沢山いるし、なん
だかんだ言って居心地がいいんだ。甘えちゃうんだよね」
故郷はそういうものだろう。セリアは故郷の記憶が無い。だから、帰るべき所がある
ティルが羨ましかった。
「手紙にはなんと?」
「『音狂いが国で増えているから戻って手伝え』だってさ。嫌になっちゃうよ。あ、そ
うだ。せっかくゼーフェルトに行くんだ。セリアの音叉も王様から貰っておかないとね」
セリアはすっかり音叉の事を忘れていた。音叉が無いと音霊の存在がわからないし、調
律も出来ない。これでは調律師とは名乗れないだろう。ティルが持っている音叉でコルに
話しかけられないか試してみたが、この距離だと駄目らしい。相当近くないと干渉できな
いようだ。
一週間ほど歩いた。ロトーノから2日程でアストリア国境内に入り、そこからゼーフェ
ルトに近づくに連れて街道には警備兵が多くなる。そのおかげで野党や魔物に襲われる
事も無く、所々小さい宿場もあったので、野宿は二日だけで済んだ。
首都ゼーフェルトに近づくにつれて人が多くなってくる。そして、遠くからでも分かる
ほど大きい城壁が視界に入った。
「あれがアストリア国の首都ゼーフェルトですか。ティルのホラかと思っていたのですが、
そうではないようですね」
「でしょ。いや~壮観だよね。あれだけ大きいのを作るのは大変だよな~って子供の頃か
ら思ってたよ」
門の所から長い行列が伸びている。どうやら入るのに手続きがあるようだ。セリアはそ
の末尾に並んだが、ティルから「何してるの」という感じで手を引かれ、列の横をスタ
スタと連れて行かれた。
門の下まで来ると、兵士達が忙しそうに書類を書いたり、行商人の積荷を調べたりして
いた。積荷を調べていた兵士がティルとセリアに気がついて怒鳴った。
「コラ! 其処の二人。ちゃんと並べ」
「いや、あの……」
怒鳴った後兵士は直ぐに仕事に戻り、ティルはその場でやりようが無く立ち尽くした。
並んでいる人達にも睨まれてしまった。その様子を見てセリアがぼそりと呟いた。
「みすぼらしい格好をしてるからですよ」
「もう、怒鳴らなくてもいいのにさ」
ティルは懐から王から任を与えられた調律師の証書を出して、その兵士の目の前に突き
出した。
「これを見てください」
「なんだ?」
怪訝な顔をして兵士はその紙をひったくった。
「調律師……王のサイン入りって、こんな大それたもの偽造するんじゃないよ。まぁ一応
調べてやる」
「あとこれ」
ティルはもう一枚懐から出した。兵士はそれも乱暴に引ったくり、二枚を纏めて若い兵
士に渡した。その後は「邪魔だから門の端に行ってろ」と手で追い払われてしまった。
暫く列が流れていくのを眺めていたが、本物かどうかを確認しに行った兵士はなかなか
戻ってこなかった。ティルは懐中時計を取り出して時間を確認した。
「遅いなぁ、まったく」
顔は糸目で笑ったような表情なのに、イライラしているオーラはセリアにも分かった。
セリアは普段ティルにイラつかされる事がよくあるので、少し気分が晴れたのだろう
か、フードの下で少し笑っていた。
懐中時計を仕舞った後、確かめに行った若い兵士が直ぐに駆けつけてきた。
「間違いないようです。先ほどは申し訳ありませんでした」
「君が謝る事はない。向こうでつっけんどんな仕事してる兵士さんに謝ってもらいたいよ」
若い兵士に向かってティルが手を仰向けにして差し出した。そして指先をクイクイっと
手前に動かした。さっき渡した書類を早く返してくれという合図だ。兵士は直ぐに確認
が取れた書類を渡した。
ティルはそれをさっと懐に仕舞い、不機嫌な足取りで門を潜っていった。その後にセリ
アも続いた。
兵士が一緒に入ろうとするセリアを呼び止めようとしたのをティルが少し強い口調で兵士が
口を開くのを遮った。
「僕の弟子だ」
その声に兵士はたじろいで一二歩下がり、去っていく二人の背中を暫く見ていた。
門を潜ると広い大通りが真っ直ぐ続いている。その先に噴水があり、そこを中心にして
大通りが東西南北に分かれている。
アストリア国王が居る城は、都の北東の高台にある。高台にあれば、敵の動向が見えや
すく、攻め込まれ難い。地形を利用するのは戦略の上で重要な事だったのだろう。しかし
今は大砲や銃などの火器の発達によって却って的になってしまう。それでも城壁は厚く、
且つ巨大な城なので、落とすのは容易ではないことが分かる。ティルとセリアが歩いてい
る門の付近からでも城は確認できた。
通り沿いにある町家は石と木を組み合わせた家が立ち並ぶ。中には煉瓦だけで造られた
家もあり、そういった家は少し裕福だと分かる。どの家も三、四階ぐらいの高さがあり、
一階は殆どが店になっていた。
「凄く賑やかですね。こんなにお店が並んでる街は初めてです」
「一応王都だし、大通り沿いだからね。ただ、賑やかなのはいいんだけど、それに混じっ
て慌しさがあるような……」
ティルが視線をあちらこちらに向けると、マリユス教の調律師達が人混みの中を行った
り来たりしているのが目に付く。
「手紙の通り音狂いが多発しているのでしょうか」
「そうだと思うけど、伝染病と違うから一部で患者が増えるなんて事はないはずなんだけ
どな」
ティルは顎を擦りながらその様子を見ていた。心配して横からセリアが尋ねた。
「治しに行かなくて良いのですか?」
「焦って治しに行っても仕様がないじゃん。彼らだってちゃんと調律できるんだ。それよ
りもまずは、王に報告しに行かないとね」
「行って直ぐ会えるようなものなんでしょうか?」
「一応王に認められている調律師だよ。僕は」
分かってはいるが、セリアはティルの身なりを心配した。こんななりで謁見できるもの
かと。
城の付近まで来ると街並みが途絶えて辺りが開ける。そこから百メートル程の道が城の
門まで続いている。これも城に近づく不振な人物を発見しやすくする為だ。
道を歩いていくと跳ね橋の先に二人の兵士が立っている。この都に入った時みたいにま
た手続きがあるのかとセリアは思ったが、今度は違った。
ティルは手を振って門兵の名を呼んだ。
「クラウス!」
どうやらティルの知り合いらしい。ティルは跳ね橋の先に居る兵の下へ足早に近づいて
行った。向こうは最初ティルだと分からなかったらしく、目を細めて「誰だったか」といっ
た感じに首をかしげていた。ティルが近づくにつれて分かったようだが、誰か分かるのに時
間が掛かったのは、ティルの身なりの所為だということは言うまでもない。
クラウスと呼ばれた青年も跳ね橋の中央まで迎え出てくれた。
「ティル! 久しぶりだなぁ」
ティルとクラウスは力強く握手を交わしながらお互いの肩を軽く叩きあった。
「何時戻ってきたんだよ? どれくらい此処に居る予定なんだ? また直ぐに行っちまうの
か?」
相当ティルの帰りを喜んでいるらしく、クラウスは矢継ぎ早に質問をした。
「いっぺんに聞くなよ」
ティルは握手していた右手を離した。セリアはティルの後からゆっくりと歩いてきて、
ティルの左後ろに立ち止った。
「そっちの人は?」
「ああ、僕の弟子だよ」
セリアはフードを取って名前を名乗った。
「セリアです。以後お見知りおきを」
「やぁ。俺はクラウス・コルヴィッツ。君かわいいねぇ。ティルったら何処でこんな子
モノにしたのさ。隅に置けない奴だなぁ」
クラウスがにやにやしてティルの肩をぽんぽんと叩いた。
「弟子だと言ったでしょう。僕をからかおうなんて千年早いよクラウス。あの頃の二の舞
にしてあげようか?」
ティルの糸目がいつもより開いている。
クラウスのニヤケ顔が引きつった笑いになった。クラウスにとってよほど怖い過去があ
るようだ。昔ティルに何かされたか弱みでも握られているのだろう。
「悪かった。詰め所に行ってくるから少し待ってろ」
クラウスは門の横の門衛が居る塔の中へ入っていった。しかし五分も経たないうちに
戻ってきた。
「なんだよ。上にはもう話が通ってたぜ。一人そこに居た使用人を連れてきた。その形り
じゃあ流石にまずい。こいつにその乞食みたいな装いをなんとかしてもらいな」
クラウスに背中を押されて前に出てきた使用人は、かなり引っ込み思案の娘だ。眼を合
わせようとせず、緊張しているのか顔が赤くなっている。
歳はセリアと同い年ぐらいだ。まだ仕事に慣れてないと言わんばかりの細い声で戸惑
いながら挨拶をした。
「アネットと申します」
「やぁ、始めまして。僕は調律師のティル。こっちは弟子のセリア。よろしくね」
「はい、宜しくお願い致します。えと……どうぞこちらへ」
自己紹介を終えたらアネットは直ぐに顔を伏せ、回れ右をしてチョコチョコと歩いて
いってしまった。クラウスは若干肩を落としたが、ティルはまぁ大丈夫だろと少し笑っ
た。そしてクラウスに手を軽く振って別れ、セリアは軽く一礼してから使用人のアネッ
トに付いて行った。
アネットに案内されて城の門の中に入ると、見事に手入れされた中庭がある。外側は
城の体を保っているが、内側は相当手が入れられた宮殿が建てられていた。
正面にある建物が王の居る宮殿だろう。その右側に兵舎や厩舎がある。ただ、今はこの
王都、王城に直接攻め入るのは困難であり、あくまで地方の軍を統率する為の軍寮が住
まうだけで、物々しい雰囲気は感じられない。戦乱激しく、アストリアが国がまだ小国
として他国と争っていた時代は、陰惨で血生臭い瘴気が漂っていたことだろう。
ティルとセリアは王宮の左側にある居館の方へ案内された。案内されてはいるが、
ティルは歩きなれている感じだ、むしろ無駄な広さにうんざりしているようでもある。
それに比べてセリアは建物の大きさや、庭園の美しさに目を奪われていた。
居館の中は使用人たちがせかせかと働いている。王族や貴族達も幾人か回廊で立ち話
などをしていた。その横を通ると貴族達は皆ティルとセリアを蔑んだ目で見た。
「まったく。これだからウンザリするよ。人を見た目で判断して」
ティルが小声で呟いた声にセリアが答える。
「言っている事はもっともですけど、蔑まれても仕方ないようにも思えますよ。特に
ティルは」
アネットは貴族達の会話やティルの愚痴も聞こえないほど切羽詰まった感じでいる。
まだ館の中を完全に把握していないようで、一部屋ずつ記憶と確かめながら歩いている。
幾つかの扉を通り過ぎた後、目的の部屋に着いたらしい。扉を開けて二人を招いた。
「こちらの部屋です。先にセリア様のお召し物を。ティル様は少々お待ち頂けますか?」
「あ、いいよ。僕は自分でやるから」
ティルがアネットに断って廊下の奥へ歩こうとした時、遠くから声が響いた。
「ティル様では御座いませんか!」
「ダリオ!?」
ダリオと呼ばれた老齢の男が歩いてくる。矍鑠として気品がある。それに周囲を黙ら
せるようなオーラを纏っているのか、ざわざわとしていた廊下が静かになった。ティル
はダリオが歩いてくるだけで少々身構えている。セリアはティルが誰かに対して怖気づ
いているのを始めて見た。
「一体何時お戻りになられたのですか。あぁ、何という格好をしているのです。直ぐに
こちらへ来てください」
「あっ! ちょっと待ってよ」
問答無しにティルは引き連れられて、ダリオは廊下にいた適当なメイドにも声をかけ
て廊下の奥へと行ってしまった。
その様子をセリアとアネットは呆然と見ていた。
「ダリオ様はティル様とお知りあいなのでしょうか」
「さぁ……。私もよく分かりません」
ティルの事は放っておいていいだろうとセリアはアネットに話し、二人は客間に入る。
セリアが見たこともない豪華な家具が置かれていた。
「凄いわね。流石はアストリア王の宮殿」
「はい。ですが私は掃除中に傷を付けてしまうのではないかと思っていつもヒヤヒヤし
ております」
セリアはアネットが恐る恐る掃除をしている姿が直ぐに思い浮かべる事が出来た。そし
て更に奥のドアへと案内された。
来客した客人の衣装を直したり婦人の化粧を直したりする部屋である。
「その椅子に掛けてお待ちください。今幾つか衣装をお持ちしますので」
「セリア様。少し失礼します」
アネットがセリアのクロークを脱がせた。セリアは男物の服を着ていた。白いシャツ
に黒いズボンを着用している。あちこち擦り切れたり継ぎ接ぎがしてあるが、こまめに
洗濯をしているようで清潔に保たれている。
服はシンプルなのに装備はゴテゴテとしていた。腰のベルトにはショートソードが掛け
られていて、ナイフが三本収納されている皮のベストを着ている。小さめの雑嚢を肩か
ら下げており、ストラップの部分に何かしらの仕掛けが施してあるようだ。他にもアネッ
トが見た事もない奇っ怪な装備が幾つかある。両腕には毒針が仕込まれたトリックリス
トまで嵌めていた。
「驚いた? 物騒だからってティルが。後は自分で脱ぎますよ。武器を人に触らせたく
はないですし」
下着姿になったセリアを見てアネットは更に驚いた。無数の傷がついていて、治って
はいるもののその一つ一つが深い。
「あの……。まさかティル様に」
「アネット、たぶん貴女が思った事とは違うんじゃないかと……」
「そ、そうですよね。私ったらなんて。申し訳ございません。早速お着せ致します」
アネットが持ってきた服は裾が長く袖口や襟元にはフリルが付いており、装飾が煌び
やかに施されたドレスだった。色合いは落ち着いた水色をしている。貴族の女性が着
る中ではポピュラーな方だが、セリアはそういった服に対して何故か拒否感があった。
「待って。そういうのはちょっと……」
「お気に召しませんか? ――ならこちらは」
二着目を勧めようとした所でセリアが奥の方にある服に目をつけた。
「あぁ……これでお願いします」
「こちらは修道服ですが」
「貴族ではない私がそういったドレスを着るには恐れ多い。それに王様に対して失礼で
ない服装であるなら問題ないでしょう」
「はぁ……。では、こちらでお化粧を」
「え――いや、大丈夫です」
「それではせめて御髪だけでも」
あまり断るのもアネットに申し訳ないと思ったので髪だけ丁寧に結和ってもらった。
部屋から出るとティルが待っていた。
あの頃の姿と殆ど変わらない。髪を整え、髭を剃り、服を新しくしただけでこうも極
端に変わるとは。
「似合っていますよ。その方が」
セリアは素直に感想を述べた。
「デザインは前と変わらないよ。……セリアはドレスじゃないのか。というかマリユス
教の修道服~?」
「ドレスよりこっちの方がマシです」
本当はティルが着ている調律師の服に少なからず憧れを抱いてはいるが、自分の未熟
さ故に調律師の服を着たいとは言えなかった。
「お二人ともこちらへどうぞ」
二人の服装が整った所でアネットは二人を王の下へ案内した。
長い通路を歩き、突き当たりの扉を開くと広いホールに出た。中庭からみて正面の扉
を開けた所だろう。人の出入りが思ったより多い。ホールの左側にある大きな階段があ
り、アネットはそちらの方へ歩いて行く。
階段は途中から二股に別れて二階に架けられていた。そこからまた中央の階段を登り三
階に謁見の間があった。
謁見の間の前に人が並んでいる。扉の前に居た衛兵にアネットが話しかけた。どうや
ら順番を待たずに通してくれるようだ。
「それではティル様、セリア様、私はこれで失礼致します」
アネットは深くお辞儀をして去っていった。
衛兵は扉を開けて二人を中へ通した。
謁見の間は思っていたより小さい。だが衛兵は謁見する者が少しでもおかしな事をした
ら即座に殺せる間合いで王を守っている。
ティルは衛兵の間合いの手前で膝まずき、セリアもそれに習って膝をついた。
「ティルよ。報告をしろ」
ティルは顔を上げて応えた。
「はっ。フラギス国ソアルからリメア国に入り、国境沿いを歩き、途中のロトーノ村で
音狂いの治療をしました。そこで手紙を拝読しアストリア国ゼーフェルトを目指しました」
「うむ。大方手紙の通りだな。ソアルから音狂いの治療はその一家の長男のみだな?」
「相違ありません」
「手紙ではその時は弟子が治療をしたそうだが、其の方がティルの弟子セリア・ベルリオ
ーズで間違いないか?」
フェリクス二世は持っていた手紙に目を通した後セリアに返事を求めた。
「はい」
「面をあげよ」
鋭い目で威圧するように全身を見た後、視線はセリアの目で止まった。目の奥、心の奥
まで見透かすようなフェリクス2世の視線にセリアは目を逸らしてたじろく。
「してセリアよ。そなたはなぜマリユス教の修道服を纏っている」
「こ、これはその……」
「ふっ。後で調律師の服を与えよう。そなたはもう音狂いの調律を行えるとティルの手紙
に書いてあったが相違ないな」
「はい。まだ未熟ではありますが……」
「うむ。国が認めている調律師で女は初めてだ。師に学び、精進せよ。それから音叉も
用意させる。後で家宰のダリオから受け取るがよい」
「ありがとうございます」
フェリクス2世はティルの方へ向き直った。その時少し不自然な手の動きをしていたの
をセリアは何だろうと思ったが、癖のようなものかと大して気にはしなかった。
「この時に戻ってきてくれて助かるぞ。我が国内でも音狂いが増えている。マリユス教の
調律師にばかり頼ってはおれん。明日から働いてもらう。従者を一人つけてやる。今後必
要な事はその者に言いつけよ。二人共、下がってよい」
二人は深く礼をして玉座の間を後にした。
ドアを出た後にセリアはどっと疲れがでた。ティルはなんだか慣れているようだったが
やはり苦手らしい。吹き抜けになっている手摺の部分に手を掛けて背中を伸ばしている。
しばらくするとダリオがやってきた。
「先程はご挨拶もしないで大変失礼致しました。セリア様のお召し物をお持ち致しました。
申し訳ございませんが音叉は用意が間に合わず明日になります」
「わかりました」
「お部屋もご用意致しましたので、今晩はこちらに――」
「いや、ダリオ。僕達は城下の宿に泊まるよ」
ティルはダリオの言葉を遮って自分の意見を言った。
「しかしティル様……」
「そう決めたから。それよりセリアに早く着替えを」
ティルが少し語気を強めると流石のダリオも引かざるをえないようだ。国家に認めら
れている調律師ではあるわけだから、それなりに権威があるのかも知れない。
「はい……ではセリア様。こちらへ」
ダリオは先程ティルを着替えさせる時のように近場にいた年配のメイドに声を掛けて
先導して歩いていった。ティルは「中庭で待ってるよ」とセリアに告げて一人でスタ
スタと歩いて行ってしまった。
セリアは先程着替えた部屋に装備も置いてあるとメイドに告げた。なんとなく装備の事
や傷の事をまた説明しなければならないような気がして、アネットの方が良かったなと思っ
ていた。
案の定着替えさせてもらった時、年配のメイドは傷を大層心配してくれたが、セリアに
とっては少し煩わしかった。武器について言われた事も然りである。
調律師の服はセリアが着ていた服とほぼ変わらない。白いシャツに黒いズボン。違う点
はシャツの袖に刺繍が控えめに入っていて、ズボンはセリアにとっては大きめだったが紐
で調整出来るようになっている。特徴的なのはサーコートだろう。記憶の中のティルが着
ていた服の色と一緒だ。表にアストリアの紋章が胸の所に小さめに刺繍されている。裏の
肩の部分には音楽の加護が得られる祝福文と印が書かれていた。生地も麻ではなく綿で織
られている。
セリアは羽織った時に何か特別な思いを感じた。
セリアはサーコートが邪魔にならないか軽く動いてみた。ナイフを取り出したり剣を抜い
てみたりして動きを確認する。
――悪くはない。
年配のメイドはその動きを見て女が粗野な事をして……と思ったが。セリアの素早く
無駄のない動きに美しいとも思った。
しかしこの服では顔を隠す事は出来ないので、少々厚着になってしまうがクロークを
羽織った。だがこれだと調律師である事が分からない。どうしようかと悩んでいたメイド
が調律師の徽章を差し出した。ティルは付けずに懐に入れっぱなしだったが、セリアは
クロークの左胸の辺りにつけた。これで調律師と言う事はわかるだろう。
セリアはメイドに礼を言い、少し急いで入り口に向かった。
扉を出て辺りを見回す。中庭のベンチで音叉の音を聴いているティルが見えた。きっ
とコロルと話しているのだろう。そう言えば契約したコルはコロルの近くに居たりする
のだろうか。会話は出来ても聖音域に入らないと向こう側の状況はわからない。今どう
しているか少し気になった。
「ティル」
セリアはティルが音叉を離すのを見計らって声を掛けた。
「お、やっと来た。どうだい調律師の服は」
セリアはクロークの前を少し開けて控えめにティルに見せた。
「いい色ですよね」
「うん。でも直ぐに色褪せるんだ」
「嫌な事言わないで下さい」
「それじゃあ賑やかな城下町へ向かうとしますか」
ティルは音叉を懐にしまい「よっこらしょ」と、じじ臭い声を出した後に思いっきり
背伸びをした。
見てくれは良くなっても中身は全然変わってないとセリアはため息を付いた。
五、マリユス教
城下街は相変わらず賑わっている。そしてマリユス教の調律師もそれに紛れて目に入る。
ティルは然程気にせず街を懐かしむように歩いていた。
「なんでお城に泊まらなかったのですか?」
「堅っ苦しい所は苦手だよ。なに?お城に泊まりたかったの?」
「そういう訳ではありませんが、ただ宿代が浮くなぁ……と思っただけです」
「まぁまぁ。城下の方が都合がいいんだ」
「都合がいい?」
「自由が利くって感じかな。それに宿代だったら唯にしてくれるかも知れないよ」
当てがあるのだろうか。ティルは大通りから少し外れた通りに入った。暫く行くと小ぢ
んまりとした宿があった。看板には『風見鶏』と書かれている。扉を開けるとチリリンと
ベルが鳴った。
「いらっしゃい」
「やぁエリク」
「おー、ティルじゃねーか。久し振りだなぁ。何時戻ってきたんだ?」
「今日の昼頃さ。それより部屋空いてるかい?」
「空いてるよ」
エリクはそう言った後にセリアに気がついた。
「そっちの人は?」
「あぁ。僕の弟子だよ」
セリアはフードを上げて自己紹介した。
「セリアです。以後お見知りおきを」
セリアの容姿を見てエリクは鳩に豆鉄砲を食らったような表情をした。
「驚いた。こんな綺麗な娘は見た事ないな」
エリクが述べた感想は素直で、クラウスのような下心は無さそうだ。エリクはティルに
向き直ってからかった。
「ティル……。お前誘拐とかしてんじゃねーだろうな」
「してないよ。クラウスといいお前といい、変な解釈ばかりしないでよ」
「冗談だって。それよりどのくらい居るんだ?」
「とりあえず一泊で」
「二人で前金五千ゼサ」
「そこはさぁ、昔馴染みと会えたという事で宿代は……」
エリクは腕を組んで深刻な表情をして考えた。自分の中で議論し、納得して頷いた後答え
を出した。
「君の可愛い弟子に免じて半額にしといてやろう」
「半額……かぁ~」
「なんだ不満そうだな。そもそもお前は城に自室があるだろう。城にはない庶民的なご馳
走を食わせてやるからそれぐらい払え」
「う~」
ティルが唸ってる横からセリアが銅貨1枚と鈴玉を一つを取り出してカウンターに置いた。
「いいじゃないですか。場所を考えてもかなり安い値段なのに、さらに半額にしていただ
いたんです。素直に恩を受けましょう」
「あ。綺麗だとか煽てられたからだな」
セリアはティルの言葉を無視して目を瞑ってすましている。
エリクは笑顔で「まいど」と言ってお金を鍵のついた引き出しに仕舞った。そしてカウ
ンターの奥に呼びかけた。
「リアナ!」
名前を呼ばれた女性が奥から出てきた。ティルは雇えるほど繁盛しているのかと思って
心配するようにエリクに聞いた。
「人を雇ったのかい?」
「へへ、カミさんだよ。ついこの間結婚したんだ」
デレデレににやけたエリクが奥さんを紹介した。
リアナと呼ばれた人は微笑んでお辞儀をした。口数の少ない人の様だ。かえってその美
しさが際立つ。セリアはエリクの言葉に変な思いが全く感じなかった事を理解した。こ
の人にとって愛する人こそ最も美しい女性なのだろう。
「結婚おめでとう。僕達悪友同士の中ではお前が一番最初か?」
「そうなるな。彼女のお陰でこの宿が潰れずに済んだようなもんだ。一人で切り盛りする
のも限界を感じてた所だったからな。リアナ、二人を部屋に」
「ええ。どうぞこちらへ」
案内された部屋は二階の奥。思っていたより広い。エリクの謀らいでいい部屋を用意し
てくれたに違いない。
ティルはベッドに腰掛けて、セリアは窓際の椅子に腰掛けた。ようやく落ち着けた感じ
がする。疲れている所為もあるのかも知れないが沈黙が流れた。外からはたまに子供達
がはしゃぐ声が聞こえてきたりする。こういう時は大抵沈黙に耐えられないティルの
方から話しかけてくるはずなのに、珍しく黙っている。
少し気まずくなったので、セリアの方から口を開いた。
「そう言えばティルはもともとお城の人みたいでしたね」
「あぁ……。まぁ一応貴族という血に縛られた連中の一員ではあったな」
貴族の生まれであること自体が罪悪であるような言い方をして、手を後ろについて天井
を見た。
「安心して下さい。誰もティルを見て貴族だとは思いませんよ。少し前までは浮浪者にし
か見えませんでした。今は唯の調律師にしか見えません」
「そう言って貰えると気が楽になるよ。セリアも立派な調律師に見えるよ。見てくれはね」
「……一言多いです」
なんだか会話が続かない。
――再び沈黙。
日は段々傾いて、夕方の陽の光が部屋を赤く染めた。ティルは自分からは喋ろうとしな
い。セリアはなんとか話題を見つけて話しかけた。
「城の中庭で音叉を聞いていたようですけど、聖音域に入っていたんですか」
「ああ、あそこは落ち着くんだ」
「でも意識は聖音域の中なんですよね。私が近づいた時にティルは私に気づいたみたいで
すけど」
「慣れると聖音域の外にも意識を保てるんだ。だけど流石に身体を動かすのは難しいから、
聖音域に入っている時には注意しないとだめだよ」
「はい……」
聖音域で何をしていたかと聞こうとしたが会話が終わってしまった。沈黙にならないよ
うセリアは話題を変えた。
「お友達が多いんですね。クラウスさんにエリクさん」
「ああ。悪友同士さ。もう一人フェリクスと四人で小さい頃はよくつるんで遊んださ」
「フェリクスって……王様!?」
「そうだよ。僕と二人で城を抜けだしてね。あっちこっちイタズラをして街をうろついて
たらクラウスとエリクに会って、みんなでイタズラをして楽しんでたね」
「イタズラもまずいですけど、王様を連れ出すのはかなりまずいんじゃ……」
「そりゃそうさ。だけど当時は王子だったし、それにスリルがあるんだよ。あいつも楽し
そうだった。「見聞を広めるためだ」なんて言ってたな。でもまぁそういう事は子供のう
ちだけ許されるのかな。成長していくにつれて各々の道を進んでいくことになるわけさ。
クラウスは騎士。エリクは親の仕事を継いで宿屋、フェリクスは王位を継ぐためにいろい
ろと頑張ってたな。そして僕は調律師」
「ティルは……何で調律師になったんですか」
「何で……か。考えてみると理由は沢山々あるなぁ。親を音狂いで亡くした事もあったし、
貴族という立場も嫌だった。音楽家でも良かったんだけど音狂いが発生する聖音域に興味
が湧いたんだ。音の乱れによって人が混乱する仕組みを解明したくてね。それでマリユス
教に入信して調律師に成るために勉強したよ。でも破門されちゃったけどね」
「破門……ですか」
「そう。教団の秘蔵書まで読み漁ってたから。まぁ、破門されても大したことないよ。もと
もと肌に合わなかったから未練なんてなかったし。流しで調律をやろうと決めた時、先王
フェルナンド五世が亡くなって、あいつが王位を継いだんだ。そしたら丁度国直属の調律
師団を作ろうとしてるから俺の所に来いって呼ばれたのさ」
「何故王様はマリユス教に調律師が居るのに国直属の調律師団を組織したのですか」
「国民に王の権威が教会より下に見られる訳にはいかない。調律や音狂いについて知って
おかないと、それらを理由にマリユス教から何らかの要望が突き付けられるかも知れない。
そういった状況を作らないためさ。それにマリユス教の内情が把握し安くなる」
「調律師団と言ってましたけど、国に認められている調律師は他にいたんですね」
「あぁ。僕を含めて5人居るんだけど、殆ど単独で動いているな。なんか諜報部も兼ねて
いる気がする。各自それぞれの命を受けて世界に散ってるよ。僕の命令は音狂いの治療、
原因究明と聖音域について。それと辺境の調査。フェリクスの職権乱用ってやつかな。僕
の思いを汲んで謀らってもらった」
「なんだか教会の調律師がやることとあまり変わりませんね」
「そうでもないよ。マリユス教に居た頃は音狂いの究明とか正音域について調べることは
高位の聖職者にしか許されていなかったんだ」
「何故です?」
「知らないよ。たぶん研究は高尚なものであると言いたいのかもね。ま、それで僕はアス
トリア国の調律師として放浪する事になったわけさ」
セリアは今まで弟子としてついていたけれど、ティルが調律師になった経緯は初めて聞
いた。
これを期に自分が覚えている最初の記憶や、ゴッツの家で見た夢の事もティルに聞いみ
ようかと思った。セリアはボロボロで行き倒れていた所をティルが拾って弟子にしたと本
人から聞かされてはいるが、記憶が残っている部分と照らし合わしてみても違和感がある。
出会う前の期間、ティルは何をしていたのだろう。その事を聞いてみようと思った時、
ティルが何か喋ろうと小さく息を吸った。だがその言葉を発するのを遮るかようにドアの
ノックが鳴った。
「夕飯をお持ちしました」
リアナが食事を運んできた。この宿は食事を部屋まで運んで来てくれるようだ。一階に
は食堂らしいものは見当たらなかったのは構造的なものもあるかも知れない。
ティルはベッドから立ち上がってドアを開けた。
「やぁ。待ってたよ~。お腹ペコペコ」
さっきまで少ししんみりしていたのに一瞬で元のティルに戻った。
リアナは持ってきた大きめの鍋をテーブルに置き、腕に掛けていたパンの入ったバス
ケットを横に置いた。肩に下げていた布の袋から食器を手早く出して食事の用意をした。
鍋の蓋を取ると真っ白い湯気が溢れて、それが薄くなると肉や野菜が沢山煮こまれた
中身が見える。キャセロールという煮込み料理だ。
「お肉多めに入れておきましたよ。『あいつはよく食うから沢山入れてやれ』ってエリクが」
「気前がいいなぁ。ありがとうって伝えておいてね」
「はい。食べ終わる頃に食器を下げに来ますね」
リアナは礼をして部屋を出ていった。
食事中はいつも通りティルからセリアに話しかけた。子供の時にやっていたイタズラの
内容やマリユス教に居た頃の教団の仕来たりとかを話してくれた。
セリアは適当に返しながらも普段通りの会話に安心した。この雰囲気を壊したくはない
と思って、自分の過去の事を聞くのは止めておいた。
食事を終えてほどなくして、リアナが食器を下げに来た。ここまで献身的に仕事をされ
てしまうと少し申し訳なくなってしまう。
「御飯も食べたし、明日からは調律の仕事が大変になるだろうから今日はもう寝ようか」
「……そうですね」
ティルは直ぐに布団に潜り込んでしまった。セリアはいくら何でも早過ぎると思ったが、
起きていても特にすることがないのでセリアは少し考えて同意した。
「じゃあおやすみ」
「おやすみなさい」
セリアは壁に掛けられているランプの明かりを消した。
深夜。セリアは微かな物音で目が覚めた。そして毛布の中でナイフを構えた。
その音は賊ではなくティルのようだ。ティルがこっそりと部屋を抜け出したのだ。もう寝
ようと言ったのはこの為かとセリアは思ったが、ティルの行き先に見当がつかなかった。
考えても仕方ないので再び眠りについた。
ティルは宿を出ると、城の東側の方へ向かった。ゼーフェルトの中心街は夜でも賑わい
を見せている。そこを通り越してさらに入り組んだ通りを進み、所々廃墟がある荒地に
出た。ゼーフェルトを囲っている城壁がすぐそこに見える。廃墟が幾つかある中でも壁
よりの建物の中に入っていった。
建物はかなり崩れており、地下室から下水道へ降りられるようだ。ティルは何度も来た
ことがあるようで、ヒョイッとテンポよく瓦礫を下っていった。
下水道は水の音が聞こえるだけで真っ暗だ。ティルは懐から小型ランプを取り出して火を
つけた。水は街の中心から城壁の下を通って外へ流れるようになっている。もちろん外敵
の侵入を防ぐために頑丈な鉄格子がしてあったり、所々人が通れないように細くなってい
たりする。ティルはそれらを避けながら下水道を進んだ。
右へ行ったり左へ行ったり幾つもある曲がり角を何度も通り越して、直進が長く続く通
路へ出た。その通路の壁を丹念に調べ始めた。何かを探しているようだ。
「あった」
ティルは探していた物を見つけて声を出した。手でその場所を軽く押すと中に鎖が垂れ下
がっている。それを下に引くと横の壁の一部が徐々に奥へ開いた。隠し通路だ。中は狭い
通路が真っ直ぐに城の方へ向かっている。
ティルはその中へスルっと入り、中から静かに隠し通路の扉を閉じた。
王の寝室ではフェリクスニ世がテーブルの上に二人分のグラスを置いて酒を注いでいた。
「そろそろか……」
そう呟いた後に壁から二回ノックが聞こえ、少し間があって一回鳴った。
フェリクス二世は部屋の脇にある獅子の彫刻が施された支柱に近づき、獅子の口の中に
手を入れた。そして中にあるレバーを捻った。
すると天蓋付きのベットの裏側の壁が奥側へずれて、中からティルが出てきた。
「やぁ!」
「ふん。呼んだのは俺の方だからな。まったく、隠し通路を私用で使う愚か者はお前ぐら
いだ」
「王様に呼ばれたんだから私用じゃないだろ? まぁ呼ばれなくてもここ使って来たけど
ね。それより子供の時決めた合図、案外使えるね」
ティルはフェリクス二世が玉座に座っている時、セリアが癖のようなものかと思った仕
草を真似た。
「なんとなくやってみたがガキの頃を思い出したぜ。お前が忘れてたらどうしようかと
思ったぞ」
お互い軽く笑ったあと肩を叩き合った。
「久し振りだな」
そう言ってフェリクス二世がティルに席を勧めようとしたが、ティルは勝手知ったる我
が家のようになんの気兼ねもなく席に座った。
「僕のためにいいお酒を用意してくれるなんてね。明日は大雪かも知れない」
「言ってろ」
フェリクス二世も席について、すでにグラスを掲げているティルに応じて乾杯の音頭を
取った。
「友との再会に――乾杯。」
二人共一気にグラスを空にした。
「おぉ~。これはまた格別だな。芳醇な葡萄の香りと歴史に埋もれた本を読み解く時のよ
うな難解な渋みが舌を楽しませてくれるよ」
「詩人みたいな評論はいらん」
ティルが脇においてあったボトルを取って空になった二つのグラスに波々と注いだ。
「ティル。タダで良い酒が飲めると思うなよ。今日は聞きたいことが山ほどあるからな。
全部話してもらうぞ。まずは……そうだな。お前に音狂いの原因を突き止めさせる為に
国外へやってから五年ぐらいになるが、音狂いの元凶は分かったのか」
「う~ん、どうかな。だけど手がかりは見つけたよ」
「ほぅ」
ティルは懐から古い本を取り出した。山羊の皮で表紙が作られていて、花柄の金箔押し
がしてある豪華な本だ。今では紙が主流だが、当時は羊皮紙やパピ
ルスが主に使われていた。この本はどちらでもなく子牛の革から作られた高級な犢皮
紙を綴じている。
「酒の肴には丁度いい本でしょ。ここからかなり東に行ったラトナ国のルカンで見つけた
んだ。城の地下書庫を見させてもらった時にね」
「……お前はよくすんなりとそういう場所へ行けるなぁ」
「フェリクスの証書のおかげさ」
「お前の人柄もあるような気がするが」
「人柄が良いと頼まれ事も多いらしい。音楽の家庭教師や宮廷楽師も兼任したんだよ。結
構人使い荒いんだ。まぁその話は置いておいて。とにかく苦労して見つけた本だ。解読し
たらラトナの歴史書という事が分かった。歴史書と言っても正式な物ではないらしく、か
なりぼかして物語風に書かれている。それによると聖音域に何かを封じた云々と書いてあ
る」
「何か――とは何だ」
「悲痛な嘆き。いや、憎悪……と訳せばいいかな。それのせいで世界に乱れが生じて調律
師が特別な大調律を行ったと」
「ずいぶんお伽話だな。そんな本を信用するのはどうかと思うんだが」
「新しく書かれた仮説だらけの本よりはマシと思うけどね。お伽話ならそれはそれで楽し
めるでしょ。でもさ、いろいろ照らしあわせてみると、結構史実と重なるんだよ。まずは
領地。今の国境で落ち着いたのが三百年ほど前。この本が書かれたのはそれより百年前程
だろう。ラトナは岸壁に囲われていて他国が侵略しにくく、国の歴史がこの大陸で一番長
い。だから客観的に各国の動向が把握できたのかも知れない。各地の領地が移り変わる様
子は絵で表されてる。この部分、アストリアが辺境の小国に過ぎないだろ。その時代の領
土と一致してるわけさ」
ティルは楽しそうに地図が書かれたページを開いてフェリクス二世に見せた。フェリク
ス二世もアストリア国の王として建国当初からの歴史は勉強しているので、その絵と当
時の自国の領土が一致している事に納得して頷いた。
「次は所々出てくる王族の名前。これは別に保管されていたラトナ国の家系図と照らし合
わせてみたら、何人か名前が重なる人物がいる」
「ある程度その本が信用出来るのは分かった。その他には? 音狂いの根本的な治療法や
聖音域についてなどは書かれておらんのか」
その言葉に申し訳なさそうにティルが話した。
「……実はまだ翻訳が出来てないんだ」
ティルは本を閉じて机に置いた。
フェリクス二世も残念そうに息を深く吐いてグラスの酒を飲み干した。
「仕方ないだろ。解読中にリークラント国が攻めてきたんだから」
フェリクス二世がグラスに酒を注いでいる手が一瞬止まった。そしてまた注ぎ始めた。
「そうか。丁度その時、お前はその場所に居たわけだな」
「リークラントのラトナ進軍について知っているのかい?」
「いやな、実はその事についてバルドゥール候からの手紙で少し触れられていたんだ」
ティルは一口酒を飲んでその先を無言で促した。
「もちろん我が国の諜報部から進軍について聞いてはいたが、バルドゥール候の手紙には
その裏でマリユス教が見え隠れしていると書かれていたんだ。現場にいたお前はどう見る?」
「わかんないね。それどころじゃなかったよ。戦乱のなか逃げ出すだけでいっぱいいっぱ
いさ。助けられたのはセリアだけだった」
「あぁ。それであの娘を弟子にしたわけか」
「弟子にしたのは違う理由だよ。セリアはラトナ国の王女なんだ」
「――なんと」
「もちろんそれだけじゃない。翻訳しきれてないから確かな事は言えないが、さっきの大
調律をした部分。セリアがその調律の鍵を握っているらしい」
「と言うと?」
「特別な大調律をするために、調律師の一人サリアと言う人が自分の血に特殊な魔法みた
いな術を掛けて調律を行なったとある。その功績を讃えられて彼女は王族に迎えられてい
る。家系図で見たが、セリアはサリアの直系のようなんだ。音狂いの元凶を沈めるには彼
女の血の力が必要だと思っている」
「力はラトナ国の王族が代々受け継いでいると言う事か。大調律。封印した何か。マリユ
ス教。音狂いの増加。なんだか全部繋がっているようで嫌な感じだ。セリアは調律や王家
に伝わった何かを知らんのか?」
「あの時からセリアは過去の記憶を失っている。行き倒れている所を助けて弟子にしたっ
てことにしてある」
「そうか……。まぁそういう事は隠しておいた方が安全だな」
「話そうとはしたんだけど、なかなか本人に話せなくて。でも何時かはちゃんと伝えな
きゃな。……ラトナ国はその後どうなったの?」
「国土は蹂躙され、国王オーレリアンと王妃ルイーズは殺された。難民はフラギス国、ブ
レドフル国に流れた。現在二国から兵をだして防衛線を張っている。ただ、王都ルカンを
落として周辺の村々に出城を築いた後の動きはこの三年間殆ど無い。だが我が国も同盟を
結んでいるリメア国と共に兵を出し逆側から帝国に圧力を掛けている。容易には攻め込め
ないだろう」
「オーレリアン王とルイーズ王妃の死は知っている。良くしてもらっていたからやるせな
い。戦争は真っ平御免だよ」
「俺だって真っ平だ。だが黙って差し出すほど俺はお人好しじゃねーんだ」
グラスに写ったフェリクス二世の表情は笑っていた。その笑みには自分の国を犯すもの
は容赦しない残虐性も垣間見えた。
「アストリアでは一応マリユス教を容認しているだろ。諜報部にも探らせた方がいいんじゃ
ないか?」
「やっているさ。だがそれらしい証拠もないし動向も見られない。もしバルドゥール侯の
手紙が事実で、リークラントと裏で手を結んでいるとしたらマリユス教は何が目的だ。信
仰か? 権力か? 権威か?」
「どうだろうな。信仰を確かなものにするための力……かな」
「案外この本が奴等の目的だったりするかもしれんな」
フェリクス二世は空になったグラスの底で本を叩いてからグラスを机に置き、また酒
を注ぐ。
「明日はお前がマリユス教に居た時懇意にしてもらったタルティーニ神父を尋ねてみたら
どうだ。あの人が裏で動くようなことはまずないだろう。ウェスタリア教会に今も変わら
ず居るぜ」
「タルティーニ神父か。少し敷居が高いな。でも会ってみるよ」
大方の話が終わった所で酒のボトルは空になっている。グラスに残った酒の量は雑談の
為に使おうとフェリクス二世は話題を探した。
「そういえばダリオに聞いたが、宮殿に泊まらなかったそうだな」
「あぁ。街ではエリクの所に泊まってるよ。宮殿だとあの通路へ続く道が無いからね」
「確かに。エリクは元気だったか?」
「変わらないよ。ただ結婚しててビックリしたな」
「そうかお前は知らなかったな。かく言う俺も事実を知っているだけで久しく会っていな
いなぁ。子供の時は城を抜け出してばかりいたが、王位を継いでからは流石に城を留守に
する訳にはいかない。余程の事がない限りな」
「そうそう僕達の腐れ縁は切れやしないさ。中身も変わってないでしょ」
「ふん。お前の腹黒さも変わってないからな」
二人は少しだけ残っていた酒を飲み干した。そして同時に空のグラスを置いた事が話の
終わりだという合図のようだった。
「それじゃまた」
「ああ。何かあったらダリオに伝えろ」
フェリクス二世は椅子から立ち上がって隠し扉を開けた。ティルは王のベッドに一回身
を預けてから隠し扉へ入っていった。
フェリクス二世は処刑ものだと思いながらもティルの幼稚さに心が休まった。
夜が明ける少し前にティルがそっと宿に戻ってきた。セリアはティルの足音で間違いな
いと判断し、ベッドの中で手にしていたナイフを仕舞った。
セリアはティルが居ないと警戒を解いて安眠ができなかったようだ。ティルの危機察知
能力が優れていると分かっているからだ。調律以外では師として尊敬しているのかも知れ
ない。ティルはティルで王のベッドの寝心地は良かったと思いながら硬いベッドに嘆いて
いて、セリアの尊敬は伝わってはいないだろう。
窓から朝の賑わった声が響いてくる。通りから外れていても朝は人通りが多いらしい。
セリアは身支度を整えているが、ティルはまだ寝ていた。起こそうと二三歩近づいたら
むくりと上半身を起こした。
「やっと起きましたか」
「うん。おはよ」
ティルはベッドからはい出て汲み置きしてある部屋の隅の棚に置いてあった水で顔を
サッと洗った。それでも眠気は取れてなさそうで、欠伸をしながら身支度をしている。
「さっきリアナさんが朝ごはんを持ってきてくれましたよ。早く食べて下さい」
バスケットにパニーノが一つティルの分が残っている。それを取って口に加えてのっそ
りと部屋を出た。
「まだ眠そうですね。昨夜外出していた所為ですか」
廊下で後ろから声を掛けた。ティルはセリアが起きていたことには気づいていたが、気
づいていない振りをした。
「なんだ、起きてたの。久しぶりに酒場で飲んできたんだ」
「そうですか」
ティルが帰ってきた時、酒の匂いを漂わせていたから飲んできた事は事実だろう。だが
なにか隠しているように思えた。セリアは問い詰めてもどうせはぐらかされるだろうと思っ
て「飲み過ぎないで下さい」と、注意だけはしておいた。
階段を降りるとエリクが話しかけてきた。
「二人共、おはよーさん。客が来てるぜ」
宿の入口に立っていたのはアネットだった。
「アネット」
セリアは嬉しくて思わず駆け寄った。
「またお会いできて嬉しいです」
「私も。でもどうして」
「ダリオ様からお二人の面倒をみなさいと仰せつかりました」
どうやら王が言っていた従者にアネットが選ばれたようだ。街に地理には詳しいと言うこ
ともあり、案内役には最適だろうと王が判断したらしい。悪い意味で仕事に慣れていない
アネットを城から厄介払いするための理由も含んでいたかも知れない。城を出る時にセリ
アは遠目でダリオに叱られている姿を目撃していたからそんな風にも考えてしまった。
しかしセリアはアネットにとても親近感が持てて、友人のように思えたので純粋に嬉しかっ
た。
「こちらがセリア様の音叉です」
アネットは両手で大切に扱いセリアに差し出した。
「ありがとう」
手に取った瞬間頭の中に声が響いた。
(どこ行ってたんだよ~~あねごぉ~~!)
「うわぁ!」
いきなり聴こえた声に驚いて音叉を落としてしまった。
「どうしたのですか」
「な、なんでもないです」
後ろでティルがクスクス笑っている。セリアは聖音域で契約したコルの事をすっかり
忘れていた。セリアは音叉を拾って頭の中で話しかけようとしたらコルの声がまた響
いてきた。
(契約者が行方不明なんてありえねーよ)
(ごめんごめん。そもそも私は音叉を持ってなかったし、こっちでもいろいろあったのよ)
(いろいろって何さ)
(いろいろは――イロイロよ)
答えに詰まって音叉から目を外すとアネットがどうしたんだろうという感じでセリアを
見ている。アネットからみれば、セリアはただ音叉を無言で見つめているだけだからだ。
セリアは笑ってごまかして音叉を懐に仕舞った。
三人は宿を出て通りに出る。
「お二人ともどちらに参られますか。この街の案内はお任せ下さい」
アネットはやる気に満ちた声で尋ねた。それにどことなく嬉しそうだ。
セリアは音狂いの治療をするために街を回ると思っていたが、ティルは目的地を指定した。
「取り敢えず、ウェスタリア教会までお願い出来るかな」
「はい。お安い御用です」
セリアは国の調律師だからマリユス教の教会に用は無いと思っていたが、昨日ティル
から元々マリユス教の調律師と聞いていたので、その時に世話になった人にでも会いに行
くのだと思った。
ゼーフェルトにはマリユス教の総本山でもあるディメル市国が城から中心街を挟んで西
側にあり、そこにはハルモニア大聖堂が鎮座している。観光が目的なら豪華絢爛なハルモ
ニア大聖堂の方へ参じるのが普通だが、そうではない要望にもアネットは素直に案内した。
ゼーフェルトの街並みを見て、コルが頭の中で楽しそうに(あれはなんだ?)とか(こ
れはなんだ?)と、セリアに尋ねる。セリアの視覚を通して街の様子がコルにもわかるよ
うだ。目に入ったもの全てセリアに尋ねるつもりらしい。セリアは応えるのが面倒になり
(お願いだから少し静かにして)と強く言ったがコルは何かと言い返して言う事を聞いて
はくれなかった。
ウェスタリア教会は街に幾つもある教会の中でも歴史が古く、マリユス教が組織だって
いない頃から布教活動の拠点となっている場所だった。今はハルモニア大聖堂がマリユ
ス教の拠点になっている。
道中ティルは「なつかしぃな~」と言って、こっちには昔隠れんぼした廃屋があったと
か、あっちには鬼ごっこをしていた路地があって、他人の家の敷地の中を入ったりして
そこの親父に怒られたとか、嬉々として話していた。もちろんセリアはそういう話はもっ
と聞きたいとは思ったが、せっかくアネットが案内の役割を担っているのだからティル
のお喋りに少しイラッときたので、ティルの背中を軽く小突いた。
「あぁごめんアネット。なんだか僕ばかり話しちゃって」
「いえ、私も中心街の方はよく知っているのですが、こちらの方はあまり詳しくはないの
で」
あまり詳しくないと言った割にはティルが話していた街の地理を理解していたし、城の
中を不安気に歩いていた足取りより城下を歩いている今の方がしっかりとしている。
ウェスタリア教会はこのゼーフェルトの中でも比較的貧しい地区に小ぢんまりと建って
いた。あっちこっち石が崩れている。木の扉は半分腐っているし、ステンドグラスも所々
割れていたり罅が入ったりしていた。
「私は外で待っていますのでごゆっくり」
アネットはティルがきっとこの教会に思い入れがあるのだと思い、気をきかせてくれた
ようだ。
扉を開けると中から穏やかな顔をした年老いた司教が出迎えてくれた。
「おぉティル殿。お久しゅう」
「タルティーニ神父。ご無沙汰しておりました」
なんだかんだティルは目上への敬意は忘れない。言葉遣いが何時ものだらしない喋り方
ではなく語尾がシャンとしている。コルは(白い髭もしゃもしゃ~)と、聖音域ではしゃ
いでいたのでセリアは心のなかでコルに怒鳴った。
タルティーニ神父は申し訳なさそうにティルに話しかけた。
「あの時ティル殿の破門を止められなかったこと、今でも悔やんでおります」
「いえ、もう過ぎた事です。僕の方こそ手紙も書かずすみませんでした」
「いや、こうしてこの国に戻って来て、元気な姿を見れただけで嬉しいよ。おや、そちら
のお嬢様は」
「僕の弟子です」
「セリアと申します。以後お見知りおきを」
セリアは自己紹介をするのに少し疲れていた。それを隠そうとした為か、何時もより無駄
に覇気を込めてしまった。その所為でタルティーニ神父には元気なお弟子さんだと言われ
てしまい、些細な誤解が恥ずかしかった。
「今日こちらに伺ったのは、最近マリユス教内で何か変わったことなどありませんでした
か。些細な事でも構いません」
「変わった事――でございますか。音狂いが増えて教会の調律師が一人亡くなったと聞か
されております。それ以外は特に」
「そうですか。実はマリユス教がその音狂いが増えた事に関係しているという情報を得ま
して」
セリアはティルが一体どこでそんな情報を聞いてきたのか驚いた。昨夜の飲み屋……と
言う事にはなるのだろうが、こんな重要な情報が流れるわけがない。
「それならば私の方から枢機卿に尋ねてみましょう。明日の夕刻にまた訪ねてきて下さい」
「ええ。お願いします。くれぐれも用心して下さいね」
ティルの礼に習ってセリアも礼をして二人は教会を後にした。
アネットが次に何処へ行きたいか尋ねるので、今度はセリアが音狂いの情報を得るため
に大通りの方の案内をお願いした。
バザールを歩いていると、ティルにぶつかってきた少年が居た。ティルの懐から何かを
盗んだのが見えたので、セリアは物盗りだと思い、瞬時に懐からナイフを取り出し、少年
の足へめがけて投げようとした――が、それよりも早くティルがセリアの手を抑えた。
「待った!」
「いいんですか?」
「いやわざとだよ。なんだか狙われてる気がしてね」
アネットはセリアの一瞬の動作と、それよりも早いティルの制止をみて唖然としていた。
「どうしたの、アネット?」
「いえ、なんでもありません」
アネットはこの二人は常人ではないと思った。
「取り敢えずあの少年の後を付けよう」
三人は走って少年が去っていた方向へ進んだ。ふた方向に道が別れている。迷わずティル
は右を選んだ。
「こっちだ」
「どうしてわかるんです?」
「なんとなく」
段々周りの景色が見窄らしい建物が目につくようになってきた。街の外れにある貧しい暮
らしをする人達が暮らす集落だ。
「王都にもこういう格差があるんですね」
駆け抜けながらその様子を見てセリアが言った。
「王もなるだけ頑張ってはいるんだけどね。難民なんかも多く来るわけだから、その人達
までなかなか手がまわらないんだよ。そういう人達ほどマリユス教が面倒見てやればいい
と思うけどね」
曲がり角の手前で急にティルが足を止めた。
「居た」
ティルが静かに叫んで物陰に隠れた。その動作にセリアも習った。少年が辺りを気にし
ながら崩れた建物の中に入っていくのが見えた。
アネットは喋る事ができない程息を切らしている。それを見てセリアが気遣う。
「あ、アネットはここで待っていても……」
「だ――大丈夫です。お二人のお世話をお仰せつかっているのですから、このぐらいで
バテたりしません」
拳を握って強がっているようだが、全然言葉に説得力がなかった。
ティルはアネットの言葉を信じて少年の追跡を続けた。
建物の中は下水道へ通じる道がある。ティルが昨夜通った下水道より古い。それにあま
り機能していないせいか水が流れていない。なるべく水で足音が響かないように水たまり
を避けて進んだ。段々入ってきた所からの光が届かなくなって暗くなる。暫く行くと奥か
ら話し声が聞こえてくる。ランタンの明かりも見えてきた。
曲がり角からティルが覗き込む。そこにはティルから本を盗んだ少年ともう一人、黒い
装束を着た人間が居る。
「ちゃんとやったんだからな。約束は守れよな」
「わかっている」
くぐもった男の声が不気味に響き渡った。
どうやらあの男が少年にスリをさせるよう仕向けたみたいだ。
ティルが振り返って小声でセリアとアネットに指示を出す。
「セリアは少年をできるだけ無傷で捕縛。僕はあの男を捕らえる。アネットはここで待っ
ててくれ」
セリアは落ち着いているが、アネットは少し震えていた。
少年がティルから奪った本を渡し、金を貰っている所へティルが男の腕にナイフを投げた。
投げると同時に二人は腰を屈めて俊足で間合いを詰めた。
ナイフは見事男の右手に刺さり「ぐぁっ」と短い悲鳴が漏れて本が宙に浮いた。男は左
手でなにか武器のようなものを取り出そうとした瞬間にティルがニ投目のナイフを投げて
それを阻止した。
ティルは宙に浮いた本を取って男に飛び蹴りを食らわした。男が倒れた所へ剣を抜き、
男の左足の太ももに突き刺した。男の悲鳴が下水道に反響する。相手の動きを封じるため
にティルは地面まで突き刺さるように力を込めて、剣を杭のようにしたから痛みも数倍だっ
たに違いない。
少年は何が起こったのかわからないまま、セリアの剣の柄で鳩尾を叩かれた。少年が屈み
込んだ所でセリアは右手を少年の首に回し、少年の左手を後ろへグイッと引っ張り上げて
少年の動きを封じた。
「子供に盗みをやらせるのは感心しないなぁ~」
突き刺さった剣を軽く左右に揺らしながらティルは男に優しく話しかけた。そしてゆっ
くりとした口調で尋ねた。
「お前は何者だ」
男はうつ伏せのままも無言で武器を取ろうと手を動かした。ティルはその武器を取ろう
とした右手の肘めがけて力いっぱい踏みつけて骨を外した。さっきよりはくぐもった悲鳴
だった。
「素直に答えた方がいいですよ」
しかし男は応えず、口元で何かを噛み砕いた。そしたら身体がガクガクと痙攣しだした。
ティルは髪の毛を掴んで男の顔を確認した。男は白目を向いて泡を吹いている。
「あ~あ。毒かぁ。簡単に命を投げ出すなんて善くないなぁ」
ティルは男の髪の毛を離して刺していた剣を抜き、男の服で血を拭ってから鞘に収めた。
「ティルの拷問よりは死んだ方がマシだと思ったのでしょう」
「死んだら何も聞き出せないじゃないか」
ティルは男の服の中を探したが武器以外出て来なかった。ため息をついて少年の方を向
いた。少年は震えて涙を流している。殺されると思っているらしい。だが瞳は鋭くティル
を睨みつけていた。動きを封じているセリアにも震えが伝わってくるので「トラウマにな
らなければいいな」などと考えていて、コルも(このあんちゃんけっこう怖いんだな)と
ティルの行動を見てそう呟いていた。
「君はどうしてこの本を盗んだんだい?」
「うるせー。母ちゃんを助けるためだ」
「お母さんを助けるため?」
「音狂いを治す金が無いんだから仕方ねーだろ」
「と言う事は、この男にこの本を盗んだらお金をやると言われたのですね?」
少年は無言で頷いた。
「じゃあ無料で治してあげますから――弟子が」
「は?」
セリアは空気が抜けたような声を出した。ティルが無料で、と言う時は調律をセリアに
任せる、と言うことらしい。
「危ない橋は渡らない方がいいよ、少年。運が悪かったらこの男みたいに死んじゃうんだ
から。セリア、離してあげて」
セリアは鳩尾を殴ったことと羽交い絞めにしていた事を謝って少年を離した。少年は直
ぐに二人から距離を取って睨みつけた。
「大丈夫ですから。何もしませんから。だから、お母さんの所へ案内して下さい」
目の前で人を殺した――厳密には殺さず男の自殺だったが、その人間を早々に信用する
ものかとセリアは思ったが、案外素直に案内してくれた。もちろん少年は警戒心を解いて
いないが。
アネットは曲がり角からずっと一連の光景を覗き込んでいて、気絶しないよう手をギュッ
と握っていた。ティルが「お待たせ」と明るくアネットに言うので、さっき拷問していた
事実がサラっと流れ去ってしまったように思える。
下水道へ来る途中、走って通り抜けた貧しい人々が暮らしている集落に少年の家はあった。
その中でもことさら小さい家の中へ入っていった。
ベッドには母親が耳を塞いで呻いていた。
「セリア、要領は覚えているでしょ?」
「はい。今度は倒れたりしません」
セリアは強い意志で調律に挑んだ。音叉を壁に叩いて音を鳴らし、耳に当ててその音を
辿るように聖音域の中へ入った。
――聖音域に降り立つと直ぐにコルがセリアに突っ込んできた。
(あねご~)
その衝撃でかなりの距離を吹き飛ばされた。
セリアは胸元に居るコルのほっぺたを抓って引っ張りあげた。
(コル。今度やったら潰すわよ)
(いや~あねごがこっち来るのひっさしぶりだったからさぁー。思わず突っ込んじゃった
よ。あ、服変わってる。すごいじゃんすごいじゃん)
セリアは服を褒められてまんざらでもない気持だったので、抓っていたコルのほっぺた
を離した。
元の世界の違いも聖音域の中のセリアに影響があるらしい。
(それよりも、なんだか前来た時より聖音域が……その、なんか淀んでない?)
(わかる? なんかオカシイんだよ。普通の音狂いじゃなくて、なんか地中深くから溢れ
出してくるような感じ?)
コルが言うように聖音域全体が不穏な気配に満ちている。
(まぁこの現象は置いといて。ほら、あの音狂いを治しに来たんだろ。早く)
(あのってどこよ?)
(もう、あねごは目悪いなぁ)
セリアの目は相当良いのだが聖音域に住んでいる音霊にとってはそれでも視力が悪いと
みなさられるようだ。
コルはもっと近くで見せるためにセリアの手を掴んで音狂いの場所まで連れていった。
(さぁさぁ。治しちゃってくださいな)
(あなたねぇ。もう少し静かに移動させてくれないかしら。――って言っても無駄か)
セリアはコルの乱暴なやり方にため息を吐きながら調律を始めた。感覚はラルスの音狂
いを治してからかなり経ったが身体が覚えている。
音狂いは前に直した時よりも早く小さくなって、やがて消えた。
今度は意識を保てている。
(どうコル。前より上手いでしょ)
(おいらの応援のおかげだな)
(応援って……。まぁいいわ。私は戻るから。またね)
(もっとゆっくりしてけばいいのに)
(あなたの話し声は何時でも聞けるから問題ないでしょ。それじゃ)
聖音域から戻る感覚にはまだ慣れない。無理やり夢から覚める感覚は、思っていたより
身体に力が入ってしまう。もっとすんなり行き来出来るようにならねばとセリアは思った。
聖音域から戻った瞬間フッと気を失いそうになったが、踏ん張って意識を留めた。息を沢
山吸って長いこと息を止めていた後のように思いっきり息を吐いた。この重力が伸し掛る
感覚も苦手だ。
「おぉ。今度は大丈夫だね」
ティルは乾いた拍手をセリアに送った。アネットと少年は固唾を呑みながら見守ってい
たようで、セリアの意識が戻った事にほっとした。
「な、慣れてしまえばこのぐらい平気ですよ」
セリアは強がりを言って少年の母の顔を見た。静かに寝息を立てている。音狂いは問題
なく調律出来たようだ。
「ティル、聖音域がなんだか少し淀んでいたんですけど」
「あぁ、そうなんだ。なんか嫌な予感がする。やはりこの本について早く調べるべきだな」
セリアはその本を見た時、何処かで見たことがあったような気がした。あの時の夢のな
かでティルが見ていたような……だがどんな本なのか思い出せない。
「その本は一体何なのですか」
「なんか凄い本だよ。僕は城の図書館へ行ってくる。セリアは音狂いの人達を引き続き治
してくれ」
「私一人でですか?」
「アネットとコルが居るだろ」
「全部無料で?」
「取り敢えず無料で」
「今日泊まる所は?」
「取り敢えずエリクの所。それじゃ任せたよー」
ティルはセリアに答えながら軽い助走をつけて、質問に答えてからスタートを切った。
身体は細いのに運動能力は高い。
「どういたしましょう」
アネットがセリアに尋ねた。
「仕方ないですね。ティルに言われた通りにしましょう。一応師匠ですから」
(コル、気合入れて行くわよ)
(ガッテン)
セリアは少年に他に音狂いの人が居ないか訪ねて、周辺の音狂いに侵されている人を
片っ端から調律してやろうと言う気構えで向かった。
六、狂信
タルティーニ神父はティルに言われた事を確かめるために、ハルモニア大聖堂に参じて
いた。大聖堂の裏側にある聖職者達が住まう宮殿の中で、高位聖職者に充てがわれている
一室。そこで鼻筋の通った背の高い司教と話していた。
「ランドルフィ猊下。音狂いが多発しているのはマリユス教が関与しているのではと訝し
がる意見があるのですが」
ランドルフィと呼ばれた男はタルティーニ神父より年下だが高位聖職者である枢機卿の
一人だ。タルティーニ神父は役職の権威に怖気づくことなくそのまま訊けるのは年の功
だろうか。
「一体その様な世迷言を誰から聞いたのだ」
ランドルフィ神父は少し顔を顰めて呆れるように言った。
「音狂いの多さに不安がっている信者からでございます。その場は我が教団の調律師が場
を収めのですが、納得のいく理由がないと、このような不安は治まらないのでは」
ティルの名を伏せるのはタルティーニ神父も心得ている。だが信者が不安がっているの
も事実であり、嘘ではない。
「ふむ。貴殿が心配するのは最もだ。だが主神マリユスに仕える使徒たる我々が、そのよ
うな冒涜をするようなことがあると思うか?」
「あってはならぬ事だと思います。我々は音楽を愛し、音の乱れを整え、人々に心の安定
を与えるために日々尽力しております。そういった不安を持つものが現れると言う事は我々
が至らないからであります。故にこの事態についてランドルフィ猊下は何かご存知ではな
いかと」
「いいや。知っての通り音狂いや聖音域については未知の部分が多すぎる。音狂いの増加
についても調べてはいる。とにかくマリユス教が音狂いを誘発している事は断じてない。
安心して教えを人々に説きなさい」
「はい」
タルティーニ神父はこれ以上深く聞けないと判断し、枢機卿の部屋を後にした。
どうしたものかと悩んだが、そのままティルに伝えればいいだろうと思いながらハルモニ
ア大聖堂の回廊を歩いていると、見慣れない司教が目についた。タルティーニ神父は何十
年もマリユス教の使徒として教えを説いているので、大抵の顔は覚えていた。気になった
のでその者の後をつけることにした。男は少し周囲を気にしながら歩き、宮殿と聖堂の間
にある建物の一室に入っていった。
「写本室か」
タルティーニ神父はノックをしてから静かに中へ入った。
部屋に入っても誰もいない。中を注意深く見まわってみると、本棚と本棚の間に微かな亀
裂があった。それを少し押してみると扉のように開いた。
「何時の間にこんな物が」
中は下へ下る階段が暗闇の中へ続いている。タルティーニ神父は壁を触りながら一段一
段確かめるように降りた。
階段を降り切ると奥に明かりが見える。冷たく淀んだ空気の中を進むと開けた場所にでた。
その中央には円陣が描かれており、古代文字が規則正しく配置されていて鼓動するよう
に赤黒く光っている。
「な……なんだこれは」
「音狂いを現界させるためのものだよ」
その声に驚いて振り返ると、背後にランドルフィ神父が立っていた。そして威圧するよ
うにタルティーニ神父を見下ろしていた。
「捕らえろ」
重く響く声が響いた。その命令に従い奥から数人出てきてタルティーニ神父の両手を掴
んだ。さっき見た見慣れない司教もそこにいた。タルティーニ神父は年齢的なものもあっ
てこの状況から逃げ出すのは困難と判断し、抵抗せずに掴まれた腕の力を抜いた。
「猊下。いったい何をしようとしておられるのか」
タルティーニ神父はランドルフィ神父を睨みつけた。その視線にも全く動じずに落ち着
いてランドルフィ神父は答えた。
「今言っただろう。音狂いを現界させるのだよ。これは調奏陣と言うものだ。聖音域とこ
ちらの世界を繋げる秘術だ。この本を解読して私が創り上げた。どうだ美しいだろう」
手に持っている本を開いてタルティーニ神父に見せた。
「聖音域から音狂いを現界させてどうする気ですか」
ランドルフィ神父は本を閉じてゆっくりと調奏陣の近くまで歩いた。役者が悪役の演技
をするように悦に浸った仕草をして、ねっとりと話し始めた。
「人間というのはあまりにも愚かなのだ。その愚かな者達を崇高な音楽で矯正させ、愚か
な思想を生み出さないようにせねば。そのためにマリユス教が存在する。賢い我々がいる
のだ。信仰に厚き信者達は本当に尊い。規律を守り、マリユス神を敬い、友愛の下で助け
あって生きている。それなのにこの国の王はときたら。争いは止めず、マリユス教にも入
信せず、軍事を拡大してばかりだ。そしてマリユス教でない人間で調律師団を作る始末だ。
その様な愚か者たちに制裁を加えねばなるまい? この音狂いを利用すればそれも容易い」
「黙りなさい! お主の思想は単なる独裁でしかない。音楽の神を冒涜する行為。聖音域
を犯し、音狂いの被害を拡大させた罪は重いですぞ」
ランドルフィ神父は鼻で笑った。
「罪か……。マリユス教の使徒たる貴殿が私を裁くか? 音狂いなど取るに足らない小事
にすぎぬ。我が行いはマリユス教の教えに準ずる聖なる徳だ」
「この事は教皇は存じているのか。いいや、お主の独断だな」
「もちろん発端は私だが、私の呼びかけに応じてくれた司教もいるぞ」
暗がりから更に数人の男たちが現れた。
「何故じゃ。目を覚ますのだ。この様な慢心は主神マリユス様がお許しになる筈がなかろ
う――むぐぅ」
司教の一人がタルティーニ神父の口に布を当てた。
「敬虔な使徒を殺したりはせぬ。だが大事な儀式の事を他の者に知られてはならないので
な。暫くじっとしていてもらおう」
薬を嗅がされたタルティーニ神父の視界は暗転した。
ティルに言われてから日が暮れるまで、セリアは貧しい人達の音狂いの治療をしていた。
休まず調律したお陰でここら辺一帯の音狂いの人を治すことが出来たし経験も積めた。し
かしまだ程度の軽い音狂いの人達は沢山いる。
貧しい区域は犯罪が多発し、陰湿なイメージをセリアは持っていたが、此処の人達は少
しガラが悪いだけで人々の結束は固く、義理人情は厚い。セリアの仕事に対して皆が感謝し、
良くしてくれた。
セリアが疲れてるのを見て、今日はもう大丈夫だからと、治療を見ていた人から言われ、
セリアとアネットは宿の風見鶏に戻ることにした。
「うぅ疲れた」
(おいらも限界)
(コルも疲れるの?)
(契約したからな。あねごが疲れれば疲れるよ)
ヨタヨタした足取りで風見鶏まで戻ってきてドアを開けた。
「なんだセリアじゃないか。ティルはどうしたんだ」
「ティルはお城の図書館に居ると思います。取り敢えず此処に宿を取っておいてと」
「はーん。なんだか大変そうだな。アネットって言ってたな。そっちはどうする」
「そうですね……私は一度お城に戻ります」
「分かった。じゃあ通常料金で二人――っと」
「それじゃあ私はこれで。明日またこちらに伺いますので」
アネットがお辞儀をして出ていこうとした所でティルが風見鶏に入ってきた。
「うぅ……疲れた。あぁセリア、もう宿はとった?」
「ちゃんと取りましたよ。なんです。調べ物するだけでそんなに疲れるんですか」
「まぁね。あっ!アネット、ちょっと待ってて」
ティルはカウンターにある紙とペンを勝手にとって何か書き始めた。
「セリア、何人調律した?」
「え?……確か十人ほど」
「よし。これ、ダリオに渡しておいて」
書いた紙をアネットに渡した。
「畏まりました」
アネットはその紙を大事に懐へ仕舞って、再びお辞儀をしてから風見鶏を出ていった。
セリアは何を書いていたのか少し考えて気がついた。
「あ! ティル、国に請求する気ですね」
「そうだけど、問題ないでしょ。正当な対価さ。そもそも国の調律師だし」
「……まさか自分がやったって事にするつもりですか」
「流石にそこまでしないよ。弟子にも報酬をくれてやれとお願いしただけ。明日も頼むよ」
セリアは納得がいかなかった。エリクはトントンとカウンターを人差し指で叩いて宿代
をティルではなくセリアに頼んでいる。報酬が入るんだから通常料金でも安いもんだろと
言いたげだった。
セリアは溜息を吐いて宿代を支払った。




