上
【登場人物】
セリア=ベルリオーズ 14歳
行き倒れていた所をティルに拾われて弟子にされた。その前の記憶を失っている。苦労人。黒髪緑眼。
ティル=クリストフ=シェーンベルク 24歳
アストリア国の調律師。飄々とした青年。糸目。金髪碧眼。元はマリユス教の調律師。
コル(羅。心)……やんちゃな音霊。フラギス国の昔の貨幣単位。
コロル(羅。色)……落ち着いた音霊。フラギス国のお菓子。
アルト=タルティーニ……マリユス教の司教。ウィスタリア教会に居る。
グァルト=ランドルフィ……マリユス教の枢機卿。音狂いを利用できないか画策していた。
クラウディオ13世……マリユス教の教皇。マリユス教総主教。
フェリクス2世 (フェリクス=アメデーオ) 26歳
アストリア国の王。21歳の時に先王フェルナンド5世(レオナルド=アメーデオ)が急逝したので戴冠する。
ダリオ・バローネ……家宰。
アネット・シュナーフ ……使用人。
クラウス・コルヴィッツ……騎士。ティルの旧友
バルドゥール侯爵……リメア国ロトーノ周辺を統治している辺境伯。
エリク……宿屋風見鶏の店主。ティルの旧友。
リアナ……エリクの妻
ゴッツ……小麦畑の農場主
エッダ……ゴッツの妻
ラルス……ゴッツ家長男
イレーネ……ゴッツ家長女
《本文》
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プロローグ 始まりの記憶
この人の背中が、私の一番古い記憶。
暗闇の中から薄っすらと見えた物は、ゆらゆらと揺れる紺色の布。それが人が着ている
服だと理解した時に、全身が圧迫されるような痛みが襲ってきた。痛みに耐えかねて座
ろうと思ったけれど、右手が引っ張られる。紺色の服の人に右手を握られ、抵抗する力
もなく私はその人に連れられた。
紺色の服を着た人の背中は、とても大きくて、酷く安心したのを覚えている。私は暗
闇を振り返るのが恐ろしくて、ずっとその人の背中だけを見て、必死に付いて行った。
冷たい足音が狭い通路に響く。
その音が私の意識を確かなものにしていくと、私は私が今置かれている状況を理解しよ
うとした。だけど分からない。今自分が何故こんなにも傷だらけなのか。今歩いている
場所が何処なのか。今私の手を引いている人は誰なのか。今考えている私は誰なのか。
私は暗闇の前の記憶がまったく思い出せないことに気が付いた。
私の手を引っ張っている紺色の服の人に「何処へ行くの」と、恐る恐る尋ねた。
「…………」
答えはない。返答に困っているように思えた。
暫く間を置いてから、その人は振り向かずに答えた。
「さて、何処へ行こうか。まだ決めてないんだ。とにかくこの通路は早く出ないとね」
私は続けて尋ねた。この場所や、紺色の服を着た人の名前や、自分がどうして傷だら
けなのか、そして自分が誰なのかを。しかしまた答えが返ってこない。答える気がな
いのか答えを探しているのか、紺色の服を着た人はとにかく黙々と歩き続けていた。
周囲を見渡すと、先程歩いてきた場所よりゴツゴツした石に囲まれた通路になった。
紺色の服の人は右手にカンテラを持っている。炎が冷たい足音を溶かすように先を照
らしていた。
カンテラの炎を見ていたら紺色の服の人が急に止まった。
「別れ道だ。どっちに行きたい? 但し、後戻りはなしだ」
急に離された私の右手が、置いていかれた寂しさに震えている。その手の感情を代弁
するように震える声で答えた。
「右……」
「よし」
紺色の服の人はまた私の右手を取って歩き出した。
私は何も分からないのに、どうしてこの人は私に道を尋ねたのだろう。今だに分から
ないが、その人も「右」と言う答えを期待していたようだった。
暫く進むと階段があった。段差はバラバラで、狭くて押し潰されそうな圧迫感が身体
の痛みを増幅させる。登り始めると螺旋状になったり、右へ左へと入り組んだりして、
元々分からなかった方向感覚が更におかしくなった。
ひたすらに上へ登って行くと風が流れてきた。そして光が差し込んできて、目の前を歩く
紺色の服を着た人の影が光に飲み込まれていく。私はその眩しさに耐えかねて強く目を閉じた。
眩しさで閉じた目をゆっくりと開くと、其処は崖だった。其処からの眺めは今も忘れられない。
何もかもが小さく見えるのに、見えた世界は限りなく大きい。
太陽の光に照らされた紺色の服の人を見上げると、とても壮麗な出で立ちで、太陽の光
に輝いている青い目が天藍石のようだった。
その人はゆっくりと私の方を向いて、さっき聞いた質問の一つに答えてくれた。
「僕の名はティル」
その人の左手が、私の頭を優しく撫でた。
「君はセリア。今日から君は……僕の弟子だ」
そう言って笑っていた。ここから見た風景のように。
一、初めての仕事
セリアは夢を見た。彼女の最初の記憶の夢だ。時々あの暗闇の前に何があったのか知り
たくなると、この夢を見る。そのつど紺色の服を着たティルの背中を見て、暗闇の前の記憶
を知りたいと思う気持ちを抑える。何か自分にとって恐ろしい事があったに違いないから
だ。あの時の身体の痛みは覚えている。そして恐怖も。
この夢を見た時のセリアの寝起きは最悪で、誰にでも噛み付きそうな目つきをしている。
隣のベッドを見ると、ティルの姿は無い。
手早く服を着替えて、髪を数回梳かしてから後ろで縛る。ベッドの脇に置いてある剣な
どの装備はどうしようか迷ったが、宿を出る時でいいだろうと置いておく。そしてフード
付きのクロークを纏い、フードを目深に被って顔を見え難くする。視界が狭まるから嫌だ
と思いながらも、厄介事を避ける為にはこうした方がいい。
セリアは目立たないように宿の食堂へ降りた。
傭兵や商人が屯してるテーブルの横をすり抜けて奥のテーブルへ向かう。
とても夢の中の人物と同一人物とは思えない程だらしない人間の背中が見える。
「おはようございます」
セリアは澄ました声で挨拶をしてティルの向かい側に座った。
「おはようセリア。なんだ、今日はご機嫌斜め過ぎるねぇ」
ティルは朝食のパンとハムを頬張りながら喋る。ティルの装いは、紺が色褪せた継ぎ接
ぎの服。ボサボサの髪の毛。無精髭。物乞いに見えなくもない。
ティルは宿の女将さんに手で合図をしてセリアの分の食事を頼んだ。
「夢ってなんでしょうね」
「突然なんだい?」
「いえ、夢をみた自分を恥じているのです。脚色されていましたので」
夢は過去を美化させたり理想を具現化させたりする。本当はあのような事実はなかった
のではないか……と。目の前でもしゃもしゃ食べているティルをみるとそう思いたい気
持ちにもなる。しかしセリアの身体には傷跡があちこちに残っているし、あの時の痛み
は忘れようがない。
「そりゃいい。作家になれるかも知れないよ」
「調律師よりかは未来があるかも知れません。ここらで弟子を辞めさせてもらいましょう
か?」
「いやいやそれは困るよ。セリアには素質があるから弟子にしたんだから」
女将さんが直ぐにやってきてセリアの前にパンの皿とハムと野菜が乗った皿を置い
た。その後に女将さんの娘らしい小さい娘がコーヒーを二人分運んできた。ティルはニコ
ニコしながら代金とは別にコインをその娘に渡していた。
「何でですか」
「何でって、そりぁ小さいのに感心だと思ってチップをはずんであげたんだよ」
「いや、素質の方です。チップはそんなに奮発しないでください。私達だってお金無いん
ですから。旅費を稼ぐだけでいっぱいいっぱいなんですよ」
「はいはい。それにしても此処のコーヒー、美味しいねぇ」
「いや、話逸らさないで下さい。素質の話です。素質がある理由がイマイチよく分から
ないんですけど」
「素質あるじゃん」
当たり前の様に言われてセリアは少し嘆きながら言い返す。
「素質……。人殺しの素質ですか? 一番初めにティルに教えられたのは人の殺し方ですよ。
今考えるとおかしいです」
「いやぁ世の中物騒じゃん。一番大事な事なんだって」
「それから盗み方。人の騙し方、脅し方。追われた時の逃げ方などなど。なんですか。
私を犯罪者にでも育てているのですか? 肝心の調律について何一つ教わってませんよ」
セリアはイラついてパンを千切って口に入れた。
「そんなに眉間に皺寄せるなよ。あぁ……ほら、あれは? 薬草の知識。あれは役
に立ったよね」
「役に立つ立たないで言ったら……そりゃ、残念なことにティルに教わった事は全て役に
立ちました。それはまぁいいんですけど、調律は教えて貰えないんですか」
ティルが行う調律師の仕事をセリアは見ていない訳ではない。ただその調律は特殊で、
楽器の音を合わせる訳ではない。
セリアが言う調律は、音狂いと言う病を治す為の調律だ。その調律の仕方は左手で音叉を
聞きながら右手を額に当てるだけの動作しかない。見ているだけでは何が起こっているの
か分からない。
「う~ん……。教えようとは思ってたんだけどさ~、なかなか踏ん切りがつかなくて。
だって失敗したら死んじゃうし」
「え!?」
それは初耳だとセリアは突っ込みを入れたかったが、あまりにも未来が無い話なのでセ
リアは固まり、持っていたパンは机の上に転がった。
それを見てティルは軽く笑いながら言った。
「大丈夫だよそんなに心配しなくても。――たぶん」
「たぶんって何ですか! たぶんって!」
セリアは少し声を荒げてしまった。ガヤガヤとしていた辺りが「何事か」と少し静かに
なり、視線を集めたが、「なんでもない。ただの痴話げんかだ」というような手振りで
ティルが場の空気を戻した。直ぐにそれぞれの会話に戻っていったが、カウンターで朝
から酒を飲んでいる男だけは二人を気にしている。
ティルは座りなおしてコーヒーを一口啜った後、懐から黒い革のケースを取り出し、そ
の中から音叉を取り出してセリアに見せた。
「この音叉は特殊でね、人の心開く鍵みたいな物なんだ。身を護るために人を殺すように、
人の心も身を護るために不法侵入者を殺そうとするのさ。だから早々に心から退散すれば
命を落とすような事はないよ」
セリアはその音叉をまじまじと見つめた。
ティルがセリアの目の前で音叉を見せてくれるのはこれが初めての事である。調律の仕事中
でもセリアは遠目で見ていただけだった。
見た目は楽器を調律する音叉とそう違いは無いが、印が彫ってある。見た事のない文字だ。
ティルは音叉を軽く机に叩いて音を出す。
濁りの無い音が全ての物の基準を指し示すように響く。
「これを聞くだけならまったく問題ない。だけどこれを持ちながら人に触れると……。
触れると……。ん~、上手く説明できないな。なんかこうパッとなってグチャッとなって
ヒュゴーって感じなわけ」
「はぁ……。まったく分かりません」
ティルは音叉を指先で弄んでから黒い革のケースにそっと入れて懐にしまった。
「まぁつまり、セリアはそう簡単には死なないだろうって素質かな」
セリアは納得がいかなかった。だけどティルも素質についてそれ以上話すつもりはな
いらしい。
二人の会話が終わったのを見計らってか、先程からちらちらとセリアとティルを見ていた
カウンターで酒を飲んでいた男が立ち上がり、ツカツカと二人が食事をしているテーブルへ
やってきた。二人を交互に見下ろした後、右手を机に叩くように置いて、ドスを利かせた
声でティルに話しかけた。
「あんた、もしかしてあっちの方の調律師かい?」
楽器の方の調律と区別するために、殆どの人は「あっちの方」と言って区別している。
別に裏取引があるという訳ではない。
「ええ、そうですよ。依頼ですか?」
ティルにはカウンターで飲んでいた男が話し掛けてくる事はもう分かっていたようで、
むしろその男が話しかけやすいように音叉をセリアに見せた節がある。
男はティルの左肩を見て言った。
「あんた教会に所属してねーな」
「そうですねぇ。だけど、流しでやっている人はいますよ。気に食わなければ教会の方に
頼むのもありだと思います。その場合マリユス教への入信が条件になるとは思いますが。
僕の場合、国王フェリクス二世に調律は認許されています」
教会の調律師の徽章とは違う徽章を懐から出して男に見せた。
「フェリクス王からだと? って事はアストリア国の出身か?――まぁいい。教会所属で
なければいいんだ。実は診てもらいてー奴が居る。俺の息子なんだが、医者が言うには
音狂いだそうだ。「調律師に頼め」だとさ」
「左様でございますか。しかしながら、私は貴方がおっしゃる通り教会に所属しておりま
せんので、教会が規定している料金よりも若干お高くなっておりますよ」
ティルはニヤニヤと相手を値踏みするように話しかける。
セリアはやれやれと思いながらもそのやり取りを見ながらパンを食べきり、コーヒーを
ゆっくり啜っている。ティルの意地悪さは良く知っている。最初に高値を吹っ掛ける。
そして相手がたじろいだ後に、教会の不公平な平等よりも平等な値段を言う。ティル流
の「平等」は高貴な身なりなら高い賃金を、見窄らしい身なりの者には安い賃金で仕事
を請けるのだ。結果はそうなのだが、商売をしている訳ではないので、わざわざ高値を
言わなくてもとセリアは何時も思っている。
「いくらだ?」
「銀貨三枚で」
「なに? おい! ふざけてるんじゃねぇだろうな」
男がティルの胸倉を掴んで揺さぶる。
「そもそも貴方の態度がわるいんですよ~。人にお願いする時はちゃんと頭を下げてお願
いしないと。そうすればちゃんとした値段でやってあげます」
男は歯を食い縛ってティルから手を離す。そして頭を下げた。
「お、お願、いします。息子を診て下さい」
男の顔を見れば分かる。屈辱に耐え切れず今にも切れそうな表情をしている。
「そうそう。相手を威圧しても良い事なんかありませんよ。分かりました。銀貨二枚で請
けましょう」
セリアはおかしいと思った。いつもなら相手をおちょくったあとで銅貨三、四枚ぐらい
極端に下げるはず。なのに今回はどうしてだろうと。因みに教会は金持ちもでも貧乏でも
一律銅貨七枚と決められている。銀貨は一枚で銅貨三十枚の価値がある。貨幣の単位はゼサ
で銅貨は一枚ニ千ゼサ。硬貨じゃない場合は木札と小さい鈴の玉を貨幣として使用する。
日常的に使うのは銅貨と鈴玉が殆どだ。
ティルが提案する料金と言い方に男は流石に堪えられなかったようで、ティルに殴り
かかった。しかしティルはフッと交わして、男を机に押し付ける。そしてその男の顔を
セリアの方へ無理やり向ける。
「まぁまぁ落ち着いてください。良い事を思いつきました。こちらの提案を呑んで頂ける
のでしたらお代はいりません。タダでいいですよ、タダで」
男は身動きが取れない。男は細い身体の何処にこんな力があるのかと思った。
「なんだ提案って」
「この娘、私の弟子なんですよ。でもまだ一回も調律をしたことがないのです。だから経
験を積むためにこの娘に調律をさせてくれませんかねぇ」
「一回も? ふざけんなよ。他を当たらせて貰う」
「他は後遺症が出たり病状が悪化したりしますよ。超一流の僕が側に付いてますから大丈
夫です。――と言う事で提案を呑んで頂けますね?」
「イテテテ。わかった わかったから離せ!」
ティルはパッと手を離して笑顔で言った。
「良かったねセリア。調律のお仕事だよ」
なるほど、さっきのやり取りはこういう風に話を持っていく為か。わざわざ回りくどい
ことをしなくてもとセリアは思った
ニ、音霊
半ば強引にセリアに依頼するようティルに依頼させられた彼の名はゴッツ。
街道に泊まっていた宿屋からそう遠くない場所にあるロトーノという村に住んでいる。
その村の小麦はもう直ぐ収穫を迎えるようで、穂が金色の風を生み出すように靡いていた。
ティルはその眺めを子供のようにはしゃいで見ている。その横でゴッツは変な野郎だと思
いながら自分の家へと二人を案内している。セリアはティルとゴッツを見ながら少し後ろか
ら付いていく。
ゴッツは歩きながら少し振り返り、セリアに話しかける。
「おい、嬢ちゃん」
「セリアです」
ゴッツは抑揚なく返されて少々腹を立てながらも宿屋で自己紹介された名前で呼んだ。
「……セリアちゃんよぅ」
「ちゃん付けで呼ばないで下さい」
「このッ! ……まあいい。セリアは見た感じ十四、五に見えるけどよ。その歳で大丈夫
なのか? なんでも調律に失敗すると死んじまう事があるらしいぜ」
「私も今朝聞いて驚きました。けれど、まぁ一応弟子ですし、調律を教わるにはいい機会
だと思います」
「そりゃ勉強熱心なこった。死ぬかもしれないってのによく落ち着いていられるな」
「驚いたと言いましたよね。ですが何時までも取り乱すわけにはいかないでしょう。ティル
から常に落ち着いて行動しろと教わりました。そうすれば生きる確立が高くなるらしいです」
セリアの言動にゴッツは肩を竦めて溜息をつくように言った。
「調律師も生きるのは大変みてーだな。ただ、おめーのお師匠見てると、落ち付いてるよ
うには見えねーけどな。ほら、見えてきたぜ。あれが俺の家だ」
ゴッツが指を指した方向に多くの農民の家と同じ木造の平屋があった。しかし他の村民の
家よりも基礎は石で出来ていて丈夫な造りになっていた。
「ほほう。割と立派じゃないですか。酒を止めれば銀貨三枚なんて微々たる物かもしれま
せんね」
「俺らは商人の様に金の中で生きてるわけじゃねーんだよ。現金収入なんて微々たるもん
だ。だがここの領主様は農業に対して理解がある。税金も他で聞くより安いしよ、農民か
ら何もかも取り上げるような方じゃあねぇ。それに侵略者や魔物からもしっかりと護って
くれる。おかげで貧しかった暮らしもここ5,6年でだいぶ変わったぜ」
「ここら辺はバルドゥール侯が治めている土地でしたね。なるほど。あの方は他国で名君
という噂が流れていましたが、それは事実と言う事でいいみたいですね」
ティルはゴッツが誇らしげに語る様と周辺の風景を見て、この土地の治世が優れている
と納得した。
この世界では昔から国同士の領地を巡る争いの他に、魔物と呼ばれる異形の物との争い
も絶え間なく続いている。そういった混乱の中でも平穏を維持していく事はとても難しく、
治める者の力量が問われる。
「おい。帰ったぞ!」
三人はゴッツの家の前に辿り付き、ゴッツがそう言って家の戸を開けた瞬間中から罵声
が轟いた。
「あんた! 朝っぱらから飲みに行くなって言ったじゃないかい! ラルスが苦しんでるって
時に」
大砲が家の中から発射されたかのような怒鳴り声だった。
ゴッツは慣れているみたいだが、ティルとセリアは声圧で二三歩後退した。
「う、うるせー。何処いこうが俺の勝手だろ。それより客だ!」
ゴッツは頼りなさげに言い返してはみるものの、妻には頭が上がらないようだ。ゴッツ
に家に入るよう手招きされた二人は、身を縮めながらも戸を潜り前に出た。
「始めまして奥さん。私はティルと申します」
ティルは深々と礼をしてにこやかな表情を向ける。
初対面でもこの低姿勢さと柔和な声で警戒心は解けるかもしれない。そういう声の仕草
や立ち振る舞いは生まれつきのものなのか、身に付けていったものなのかは分からない。
ただ、その身なりで台無しになってしまうようだ。
セリアはフードを取り、ティルの影から無愛想に挨拶をした。
ゴッツの妻はティルを見た後セリアを見て、二人の関係がどのようなものなのか訝しそ
うな目で見る。だがゴッツの妻は洒洒落落な性格をしていたようで、二人を客としても
てなす為に表情を元に戻した。
「あたしはエッダ。取り合えず席に座っとくれ。今お茶を入れるから」
エッダは奥にあるテーブルを指差した。テーブルには椅子が四脚置かれている。ティルは
入り口寄りの椅子に腰掛け、セリアは奥へ。ゴッツはティルの対面に座り、エッダは奥
のキッチンへ入っていった。
ゴッツの家は中も小奇麗にされており、みすぼらしさは感じられない。
エッダは食器棚からカップを二つ出して、その横にある両手で包めるぐらいの陶器の箱
から、緑色の粉を一匙ずつ掬ってカップに入れる。竈で既に火にかかっていたお湯を注
いで混ぜる。マチーヤと呼ばれる東方から伝わったお茶だ。
キッチンから出てきたエッダはティルとセリアの前にカップを置いた。
ゴッツは「俺のはねぇのかよ」と、目でエッダに訴えかけたが、エッダのお説教が込め
られた一睨みで目をそらした。
エッダはセリアの対面にゆっくりと腰掛けた。
ティルとセリアは「いただきます」と言った。その声は揃っていて、飲み方も二人同じ
ようにして飲む。ティルは美味しそうに飲んだが、セリアはあまりマチーヤが好きでは
ない様子だ。その様を見てエッダは少し笑ってティルに問いかけた。
「一体こんな農村に何の用だい? 麦の買い手ならもう決まっちゃってるよ」
ティルがカップを口から放して答えようとすると、横からゴッツがティルの代わりに答
えた。
「こいつらは商人じゃねぇ。調律師だ。ラルスの音狂いを診てくれるってよ」
その言葉を聞いて、エッダはティルに縋るような声で言った。
「あぁ……あんたら調律師だったのかい。それじゃあ早速診ておくれよ」
「その前に少しお話を伺っても宜しいですか」
ティルはカップを置いて、机の上で手を組んで話し始める。
「症状が出始めたのは何時頃?」
「二週間程前だね。ラルスが……ラルスは私の息子なんだがね、変な音が聞こえるとか
言うんで医者に診せたんだよ。でも異常はないで終わっちまったんだ。そんで医者が音
狂いかもしれないって」
「なるほど。あとゴッツさん、さっき宿屋で私に話しかけた時、教会じゃなくて良いと
言いましたね。確かに入信を嫌がる人は居ますが、他にも理由があるように思えたので」
「教会に頼みたかったけどよ、リメア国ではマリユス教は禁止されたんだ。半年ほど前
だったかな。別に死罪になるわけじゃないが、増税されるし、領主様の印象も悪くなるっ
てんなら流しの調律師に頼んだ方がいいと思ってな。しかしまぁあそこまで高値吹っ掛
けられるとはよ」
流しの調律師でもそこまで高値をせびったりしない。
高値と聞いてエッダが不安そうな顔になってティルを見る。
「安心して下さい奥さん。今回は条件付で無料ですから。教会所属じゃない僕に頼んだ
理由は分かりました。あとは……えーっと、患者ですね。この家には居ないようですが……」
「あの中だ」
ゴッツが窓の外を指差す。その方向には風車が見える。
「感染るかもしれないってんで、あの風車に隔離しているんだよ」
エッダは俯いて申し訳なさそうに呟く。
「音狂いは人から人へ感染る事はありません。ですが喚いたり暴れたりするので家族
も精神的に参ってしまうことがありましょう。だからと言って地下室などに閉じ込め
ておくよりあの風車は遥かに良い場所です」
隔離という措置を取らなければならない罪悪感を察して、ティルはエッダの気持ち
に同調するように優しく話しかけた。そしてマチーヤを飲み干してティルは立ち上
がった。
「さてと。行くよ、セリア」
セリアはマチーヤを少し残してティルの後に続いた。
二人が行くのをぼーっと見ていたゴッツを「あんたも行くんだ」と言って、エッダ
が叩いて急かした。
風車は丘の上に造られていた。レンガが円筒状に積み上げられた塔風車という形で、
羽がある屋根、帽子屋根と呼ばれている部分が風に合わせて動かす事が出来る仕組
みになっている。
外的からの攻撃を防ぐ為に壁は厚く造られ、塔の両側は長い壁が連なっている。
他の村より立派な造りをしているのは、この村がリメア国の国境付近にある為、領主
が要塞の役割も果たせるように造らせたのだろう。
三人は風車の中へと入った。
風車の中は風を動力に変えた歯車の音が低く鳴り響いている。一階には製粉された小麦
が備蓄されている。それ以外には農村に似つかわしくない剣や槍、弓矢や盾が置いてあ
る。いざという時に農民も戦えるようにだろうか。それとも駐留する騎士の為だろうか。
その横に急な階段がある。ティルは「患者は上かい?」とゴッツに確認を取ってから踏
み外さないよう注意しながら登った。
梯子を上ると篩にかけられた粉の間だった。患者はもう一つ上の階らしい。粉っぽい部
屋の奥にある階段を登る。三階は石臼の間となっている。
二つの大きい石臼が置いてある端のスペースにベッドが置いてある。其処に寝ているの
は患者のラルスだろう。
ラルスの手を握っているのはラルスの妹だろうか。ティルがそんな事を思いながらその
娘に話しかけた。
「やぁお嬢さん」
娘は介抱するのに疲れていたのか、一度カクンと頭を下げてから声に反応し、虚ろな
目でティルを見る。どうやら半分寝ていたようだ。
「おじさん誰」
「おじ……さん……?」
ティルの後に続いて登ってきたセリアが、たじろいでいるティルを見て、呆れながら
助言した。
「髪を切って、無精髭を剃って、もう少し綺麗な身なりをしたらお兄さんと呼ばれますよ」
「そいつは娘のイレーネだ。ラルスにずっと付いて世話をしている」
「お父さん!」
ゴッツを見てイレーネの顔が明るくなった。
「悪いなイレーネ。ラルスを見ててくれてよ。其処のおじさんは調律師のティル。こっ
ちは弟子のセリアだ」
ゴッツが「おじさん」を強調して言ったのは宿屋で組み伏せられた細やかなお返しの
つもりだったのだろう。その所為でイレーネはティルに対しておじさん呼ばわりした
事を悪いなと思った。
「おじさんって言ってごめんね」
「ははは、いいんですよ。でも結構心にダメージを受けますね。髭と髪ぐらいはなんと
かしますか。まぁそれは置いときまして、その子がラルスですね?」
ティルの問いかけにイレーネはこくんと頷いた。
ティルはイレーネの横に屈み、ラルスの瞑ってる目を少し開けて覗き込む。
「睡眠薬ですか……。これで治る事はないですが、これ以外の措置は思いつきません。
寝ていれば叫んで暴れる事もありませんからね。イレーネ、飲ませた薬を見せてくれま
すか」
イレーネは小さい窓の横にある棚に手を伸ばし、置いてある薬の袋を取ってティルに
見せた。ティルは袋の中から処方箋を取り出した
「ふむ、副作用が少ないレノル草の睡眠薬ですか。飲ませたのは朝ですよね」
ティルは懐から懐中時計を取り出して時刻を確認する。薬の切れる時間を大よそに見当
をつけたのだ。
「もう直ぐ正午ですから小一時間ぐらいすれば起きるでしょう。患者が無理矢理睡眠状
態にされている時だと音狂いの治療が上手く出来ません。睡眠薬が切れるまで待ちま
しょう。その間、セリアにやり方を教えておきます」
「俺らは何かする事はあるか」
ゴッツはティルの雰囲気がさっきと違う事に気づいて、少し真剣に聞いた。
「そうですね、今の所はありません。だけど睡眠薬が切れると恐らく音の混乱で患者が苦
しみだすでしょう。治療中はあまり動かれるとやりにくいので、その時はラルスを抑えて
いてもらいましょうか。ゴッツさんは足を。僕は両肩を抑え付けてますから。イレーネは、
手を握ってあげてください」
ゴッツとイレーネは頷いた。
ティルは立ち上がって、後ろで静かに見ていたセリアに話しかけた。
「さてと、セリア。下の階に来て下さい」
「ここだとまずいんですか?」
「まずいですよ~。門外不出の極意ですから」
ティルはクスリと笑って下の階に降りて行った。
「調律ってのは門外不出なのか?」
ゴッツが真剣にセリアに聞いた。
「たぶん門外不出でもなんでもないと思いますよ。楽しんでるだけです」
セリアはゴッツの真剣な質問を適当に返してティルに続いて粉の間に降りた。
ティルはなんでも特別であるかのように言うのが好きらしい。そういうティルにセリアは
少し気だるそうだった。
粉の間では、厳粛な立ち姿をしたティルがセリアを見下ろすように見て言った。
「音の源を聴き、我等に福音をもたらしたマリユスから授かりし知恵と技術の結晶を汝に
授ける。教会に誓約し、マリユスの教えに共鳴する者達を導きなさい」
ティルは両手で音叉を持ち、それを頭上に掲げ、そしてゆっくりと手を下ろした。
「跪いて音叉に接吻を」
「教会の茶番は結構です。なので端的にお願いします」
セリアは腰に手を当てて言い放った。
「ノリ悪いな~。気持ちは大事だよ。教会のパフォーマンスだけど、意外と気に入って
たりするんだ」
ティルは音叉をぽいっとセリアの方へ放り投げた。
受け取ったセリアの手に音叉から不思議な感触が伝わってくる。
「やり方は宿屋で教えた通り。そして患者の心に入る前の聖音域に居る音霊を見つける」
「聖音域? 音霊?」
「なんて言えばいいかな。人の心に入る前に、広~~い空間が広がってるんだよ。其処を
人が勝手に聖音域って名づけたの。其処に住んでるのが音霊」
「で、音霊をみつけてどうするんです?」
「一匹と契約を交わす。そして音狂いの所へ連れてってもらうのさ」
「その音霊が音狂いの原因なんじゃ……」
「それ言うと怒るよ。彼らは其処に住んでるだけなんだから。音霊達も音狂いは不快なん
だよ。でも彼らは音狂いを治す術を持っていない。だから人間に治してもらうわけさ。そ
いつらが住んでる向こうら辺に音狂いに苦しんでる者の心がある」
「何で人間の心はその先にあるんでしょう」
「……そうだね。いろいろ考えられてはいるんだけどね、理屈では分からない。人の心は
聖音域で繋がっているのか……、とか思ったりもするけど、考えたら切が無いよ」
「そうですか……。契約は、具体的にどうすれば」
「僕の時は軽いノリで『ねぇ。契約してよ』ってな感じで音霊に言ったかな。承諾しても
らうには名前を付けてあげるのさ。僕と契約した音霊はコロル。聖音域に入ったらそいつ
に訊くと良いよ。因みに聖音域には、音叉を鳴らして、耳に当てれば行けるんだ。もちろ
ん行く意志がないと駄目だよ。契約だけなら今しても問題ないから、ちょっとやってごら
ん。あぁ……契約できたら一度ここに戻ってきてね」
セリアは音叉の節を軽く柱に当てて音を鳴らす。そして恐る恐る柄の部分を外耳に当て
た。
セリアの身体全体に純音が浸透していく。その感覚に合わせて視界が暗くなり、暗闇の
中心部から光が徐々に広がっていく。その光の方へ一歩踏み出したら三百六十度、真昼
のような世界が広がった。
(ここが聖音域……)
セリアはその領域の美しさに見惚れ、言葉を失った。
しばらくしてからセリアは自分がやるべき事を思い出してハッとする。まずはティルに
言われたコロルと言う音霊を探さなくてはならないと歩みを進めた。しかし、聖音域に
地面と言うものがなく、身体がふわふわして思うように動けない。
辺りに見える淡い光の玉が音霊と呼ばれる者達だろうか。セリアはその中にティルが名
づけたコロルという音霊が居ないか呼びかけてみた。
(コロル!)
セリアの声は響かず、水中で声を出したようにぼやける。今度はもっと大きな声で叫ん
でみようと息を吸い込んだ時に、ふわふわセリアの下にやってくる音霊が居た。
その音霊は、人の手の上に乗る位の大きさで、人間の女の様に見える。ただ、背中に蝶
の様な翅が付いており、透明に近い白色で、その羽の筋には虹色に輝く光が見える。
目の前に来た音霊の足元にセリアは手を広げてみた。その行為に遠慮しながら音霊は静
かに降りた。
(こんにちは、私がコロルです。でも貴方は私の契約者ではありませんね。ティルはどう
したの?)
(ティルは目の前に居ます。いえあの、聖音域の外で私の前に)
(そう……。――もしかしてあなたがセリア?)
(はい。――でもどうして)
その質問にコロルは笑顔で答えた
(ティルからいつもセリアの話は聞いています。おっちょこちょいだとか、融通が利かな
いとか――)
セリアはそれを聞いて、ティルは影でこんな事を愚痴っていた事実を知った。なんとな
く自分でも分かっていた事なだけにムッとした。
(今日は調律をする為にここへ来たのですね?)
(そうです。音霊と契約するやり方は貴方に訊きなさいとティルに)
(事情は分かりました。ティルの事だから大雑把な事しかセリアに説明しなかったでしょ
うね。契約の対価は命という事も聞いていないでしょう?)
(えっ……)
調律に失敗すると死んでしまうという事を朝に聞いて、まさか音霊と契約するのにも命
が関わるとは。
狼狽するセリアを見てコロルは安心させるように言った。
(命を失うわけではなくて共有という事です。死ぬ時はお互い一緒という事です。ただ、
音霊には死という概念が無いので、音霊が先に死ぬということはありません。契約者が死
んだあと、音霊の自我が無くなります)
その言葉でかなりほっとした。しかし、命が関わるという事実は変わらない。
(コロルはそれでよくティルと契約しましたね)
(音霊は、契約をしていない状態だと自然現象の様な物なのです。なんとなく意識がある
だけですので、音の穢れが無い人であれば、その人の意思に引き寄せられてしまうんです。
人と契約する事によって、その人の意識が私達の性格や形を作りだすのです)
(それでじゃあコロルの姿とか話し方は、ティルの意識によって作られたと言うことで
すか?)
(断言は出来ませんが、私達はそのように考えています)
(なるほど。音霊についてはなんとなく分かりました。意思があれば音霊を引き寄せら
れるという事ですね)
(私達も契約の仕組みがどうなっているのかはわからないのです。なんとなく調律師に引
き寄せられて、名前を与えられた時に確かな私が作られたのです。……感覚的な事しか教
えられずにごめんなさい)
(いえ、適当なティルの説明よりありがたいです。早速やってみますね)
コロルはセリアの手の平から飛び立ち、セリアの後ろの方へ下がった。契約の様子を見
届けてくれるようだ。
セリアは安心して契約への思いを強く念じてみた。
――強く。 契約をして音狂いを治す為に。
その意思に引き寄せられるように、ぼやけた光の玉が一つ、ふわふわとセリアの下へやっ
てきた。コロルのように形があるわけではない。それは、どの調律師とも契約をしてい
ない音霊だということを意味している。
セリアはそれを両手で包み込む。
その中でふわふわと浮かんでいる。まるで名付けられるのを待っているかのように。
(名前……どうしよう)
セリアはコロルの名のイメージからコルという名をその音霊につけた。
(あなたはコル。私と契約して!)
コルと名付けられた音霊は、光の玉から徐々に形を変えていく。人の様でもあるが、獣
のようにも見える。猫のような耳が付いていて、犬の様なふさふさの尻尾がある。背中
には紫水晶の様な石が翼のように付いていて、顔は中庸で雌雄の判断は付かない。目は
閉じられていて、額には小さい紅玉の様な物が埋め込まれている。そして、祭服にも似
ているが、見た事のない服を纏っていた。袖口は広く、腰は広めの布で結ばれて、小さ
な飾りが付いている。形作られても光は失わないようで、周囲が淡く光ったままだ。
コロルの話によれば、音霊がこのような形になったのは、セリアの意識に感応して作ら
れた姿ということになる。
小さくかわいらしいとセリアは思ったが、直ぐにその思いは打ち破られる。
(プッハーーー!)
コルは閉じていた目を見開き、大きく息を吐き出した。
(おおぅ! これが契約か。最高だぜ)
コルは自分の両手を交互に見てからそこら辺を飛び回った。セリアはその様子を見て言
葉を失った。
(おょ? あんたが俺の契約者かヨロシクな)
(…………)
(なんだよ~。 挨拶も無しか?)
コルがこのようにはっちゃけた性格という事は、言うなればセリア自身もそのような内
面があるという事を意味している。その現実を見なかったようにセリアはコロルに話し
かけた。
(コロル、ティルとの契約を破棄して私と契約してください)
(えぇ~~っ なんだよ! 今契約したばっかじゃんよー)
コロルは二人を見て、困ったように笑って答える。
(セリア、申し出は嬉しいのですが――契約はちょっと……)
それを聞いてセリアは頭を抱えて嘆くように首を左右に振った。
(あぁ……私の意識がこんな性格を作ってしまうなんて……)
(『こんな』とはなんだ『こんな』とは! 大体あんたは音霊の俺らに何期待してたんだよ)
コルは腕を組んでセリアを見下ろす。
(もっと礼儀正しくコロルのような音霊を期待していました)
セリアは睨みあげて少々酷い言葉をコルに言った。だがコルはまったく動じずへらへら
と笑っていた。
(そっかそっか 俺はコロルじゃなくてコルだからな。お前がそう言ったんだぜ。しょー
がないしょーがない! んじゃ改めてよろしくな、あねご)
(あ……姐御?)
コルはセリアの手を取って握手をした。握手しながら踊るように動き回る。
セリアはもうどうでもいいような感じになってきた。この際音狂いが治せるならなんで
もいいと。
(そうだ。速く音狂い何とかしてくれよあねご。五月蝿くてしかたねーからさ)
握手していた手をそのままコルは引っ張っていこうとする。
(ちょっと待って。取り合えず契約だけして来いって話だから一度戻らないと)
(なんだよ。だったら早くしてくれ)
コルがいきなりパッと手を離したのでセリアはよろけた。
(わかったわよ! ……あれ、もとの世界に戻るのってどうすれば。コロル)
(私がティルに聞いた話では、夢から覚めるような感じを自分で強く意識すると、パッと
戻れるんだそうです)
(強く――ね)
セリアは目を強く瞑り、手をギュッと握った。
すると後ろの襟首を誰かに強く引っ張られて、地面に倒されそうになった。勿論誰か居
た訳ではなく、感覚的なものだが、セリアは後頭部を守ろうと反射的に首を前にやった。
恐らくそれが聖音域から普段の世界へ戻る時の感覚なのだろう。
セリアの周りの景色が暗転し、その暗闇を上塗りするように遠くからセリアが居る世界
の景色が広がっていく。
目を開けていれば、自分の所在が分からなくなってしまうような、それ程不可思議な光
景だった。
セリアは恐る恐る片目を開いた。その瞬間、聖音域では重さを感じなかった肉体の重み
が一気に加わり、その場に膝をついてしまった。
空気と言う物がこんなに重苦しいのかと思いながら呼吸をする。柱に手を付けて、身体
を支えながらゆっくりと立ち上がる。
普段気にも留めないような柱の木の質感や、風車の中に立ち込めている粉っぽい匂い。自
分の重さ。聖音域から帰ってきて、それらがとても大事な物のように思えた。
そういう風に感じているセリアの気持ちを分かっているのだろうか。いや、調律師の多
くはそういう風に思うのだとティルは知っている。親心なのか意地が悪いのか分からな
いが、ハイハイから二本足で立ち上がろうとする幼児のようなセリアを少しニヤついて
見ていた。
「おかえり。どうだった?」
「一応……契約はしてきました」
「それはおめでとう」
ティルは疲れて息切れしているセリアにパチパチと乾いた拍手を送った。セリアは軽い
屈辱を感じてイラついたが、おちょくられるのはいつもの事なので、直ぐに呼吸を整えて
姿勢を正した。
「で、どんな音霊?」
「ものすっごい無礼な奴でした」
(おい! 無礼ってなんだよ)
「――ッ? どうして? 聖音域から出てきたのに音霊の声が聞こえるの?」
セリアは耳に手を当てて狼狽し、ティルに問いかけた。
「あー…… それはねぇ。契約した音霊とは、聖音域に居なくても音叉の近くに居れば話
せるんだよ。頭ん中で話しかけてみると、声に出さなくても向こうに話し掛けることが出
来るよ」
セリアはさっき膝を付いた時に落とした音叉を拾って、ティルの言うとおりに頭の中で
コルに話しかけてみた。
(コル。こっちの話を盗み聞きしないで)
(いいじゃんよー。聞きたくないときは聞かないからさ)
(じゃあ私の聞いて欲しくない感情は関係ないわけ?)
(聞いて欲しくないような会話じゃねーだろ)
切りがなさそうな会話にセリアはため息が出た。
「言う事を聞かない奴なので、話し合いは無駄だと思います」
「なかなか楽しそうな奴じゃないか。その音霊にはなんて名前を付けたんだい」
「コロルに似た名前でコルって名付けました」
「ふぅん……いい響きだね。フラギス国の古い通貨単位だよ」
「知りませんでした。じゃあコロルもお金の単位ですか?」
「いや、コロルはその国のお菓子。コルを象った形で、サクッとしてトロッっていう舌触
りがするんだ。甘くてめちゃくちゃ美味しいんだよ~」
「……なんかもっと格好良い意味の名前が良かったと少し後悔しています」
(意味なんてどうだっていいじゃん。そいつの言った通り、俺も結構コルって響きは気に
入ったぜ)
(意味は大事よ。まぁコルがそれでいいならいいけれど)
頭の中と実際に声に出す会話とを両方こなすのは疲れるようだ。セリアはまた溜息をつ
いて柱にもたれた。しかしセリアをすんなりと休ませてはくれないようで、上の階から
大きい声が響きわたる。なんとも苦しみにまみれた悲痛な声だ。
「どうやらラルスがもう起きてしまったようだね。睡眠薬の効きが弱くなってるんだ。
行くよ、セリア」
「でもティル。音霊との契約は出来ましたが、肝心の音狂いの治し方が……」
「いいから速く」
ティルはセリアの横を通って直ぐに上に上ってしまった。セリアはどうするつもりなの
か心配しながらも、苦しんでいるラルスを待たせるわけにはいかないと、直ぐにティル
の後に続いた。
ラルスはベッドの上で耳を塞いで苦しそうに暴れていた。ティルが思っていたより音狂
いは進行していたらしい。それでも精神までは犯されておらず、イレーネとゴッツが近
くに居ることを理解している。しかしいくら精神が犯されていないと言っても、こんな
状態が後一月でも続けば死んでしまうだろう。
暴れているラルスをゴッツが抑えて、イレーネはどうしたらいいのか分からずにあたふ
たしている。
「おい、速く何とかしてくれよ。セリアにはもう教えたんだろ?」
「まだ途中ですけど、僕も少し手伝いますから大丈夫です」
ティルは続いて上って来たセリアの右手を引っ張って、それをそのままラルスの額に乗
せる。その後にあたふたとしているイレーネを落ち着かせようと優しく話しかけた。
「大丈夫ですからイレーネ。……はい。イレーネはラルスの手を握ってあげてくださいね」
イレーネの頷きを見てから、ティルは耳を塞いでいたラルスの左手を取ってイレーネに
掴ませた。
そしてセリアが左手に持っていた音叉を引ったくった。
「ちょっと裏技を」
音叉をベッドの角に叩いて鳴らし、セリアの耳に無理やり当てる
「一体何を――ッ」
音叉を挟むようにティルが耳を押し付けてきた。
反射的にティルをど突こうとしたが、セリアの意識は再び聖音域へと入ってしまった。
(ふぅ。これで二人同時に聖音域に入れ……)
言い終わらない内にセリアの右フックがティルの頬を捉えた。吹きとんだティルをコロ
ルが受け止める。
(気持ち悪い顔を押し付けないで下さい。今度やったら殺します)
(あいてててて。痛くないけど心が痛い)
聖音域では物質の感触が違う。セリアも綿を殴ったような感じで、殴った気がしない。
それに聖音域じゃなかったら、コロルもあの小さい身体ではティルを受け止められずに
潰されてしまうだろう。
ティルが頬を摩りながら上を見るとコルがふわふわ浮いている。
(おぉ。コイツがコルか。セリアを頼むよ)
(任せときな、あんちゃん)
コルは偉ぶって胸を二回叩いた。その様子を見てなんとなく似た物同士だなとセリアは
思った。
(あの、早く教えてくれませんか)
(そうだった)
ティルはふわっと身体の姿勢を正した。
(えっとね、まず楽器の調律を思い出してごらん。ペグ回したりチューニングハンマーを
回したりするでしょ? それを自分の手でやる。こんな感じで)
ティルがその場で手を漂わせる。
(それで大丈夫なのですか)
セリアが疑わしそうに見ている。だが、心なしかティルが動かしている手の周囲の渦巻
いている気流が整ったように思えた。
(やるのは難しいよ。実際音狂いの中は、こうしてる間に自分も気が狂ってくるように感
じるから。踏ん張らないと死ぬからね。あと、元の世界で聞いている基準音がここにも聞
こえてくるだろ? 音狂いの場所まで行ったらそれに合わせるようにやるんだよ)
(ティルの説明はいつもアバウトで不安なんですよ。もう少し具体的にならないですか)
(具体的にって言われてもなぁ~。これ以上説明しようがないよ。コツみたいなものなら
一応あるけれど……)
(お願いします)
(音狂いで苦しんでいる人の心を聴く事。なるべくその部分に基準音を繋げるようにして
からやると、調律しやすいかなぁ)
セリアはティルの説明を頭の中でイメージしてみる。そしてその動作を試しにやってみた。
(ありがとうございます。たぶん、きっと、……なんとなく出来るような気がします)
(じゃあまぁ気をつけて行ってらっしゃい。コル、セリアを案内してやってね)
(ガッテン。それじゃ、あねご)
(え!?)
コルはセリアの手をガシッと掴んで聖音域の中を飛んでいってしまった。
その様子をコロルとティルは静かに眺めていた。二人が見えなくなってから、コロルは
ティルの方を向かずに話しかけた。
(ずいぶん信頼しているようですね)
(そう見える? もしかして嫉妬とか?)
とぼけて訊くティルの質問を、コロルは澄ました顔で聞き流した。
(てっきり音狂いの場所まで一緒に行くのかと)
(セリアの為にならないよ。それに、セリアを信頼と言うより、彼女が音狂いを治せると
確信している――と言う感じかな)
(そうですか…………。先ほど嫉妬と仰いましたが、嫉妬と言うよりも、お二人の関係が
ただ羨ましいと思いました。妬みと言うのとは違う気がします。憧れ……でしょうか。わ
かりません。私には、そういうのはないと思いますから)
(…………)
ティルは口を噤み、聖音域の彼方を眺めた。
三、音狂い
セリアとコルは、聖音域の中を高速で移動している。雲や空、陸などは存在しないが、
所々抽象的な物体が浮かんでいたりする。
(ちょっと! もう少しスピード緩めなさいよ)
セリアの左手が今にも引っこ抜かれそうな勢いで引っ張られている。
(もうちょい先だぜ。早く着いた方がいいだろ)
(でも早すぎる!)
目を細めながら前を見る。その先には、明らかに聖音域とは違う、禍々しい領域が見え
てきた。「あれが音狂い」とセリアは呟いた。
段々とその領域が近くなり、その物の大きさがどれくらいか分かる距離で、コルは急
停止した。その反動で肩が逆に引っ張られた。そしてその勢いが完全になくなる前に、
ポイと手を放された。その所為でセリアは二三回ぐるぐると回ってしまった。
(ほらよ。おいらが連れてこれるのはここまで。あ~本当に迷惑だぜ、音狂いってやつ
はよ。気持ち悪くてかなわねー)
コルが言った事はその通りだとセリアも思った。コルの荒い扱いに文句を言おうとし
たが、音狂いを目の前にして、その言葉もかき消されてしまった。
吐き気を催すような色がどろどろ渦巻いていて、聞くに堪えない悲鳴のような、ガラ
スを爪で引っ掻くような、そういう音が色と絡み合い、じわじわと聖音域を侵食して
いっている
セリアは今からこの強大な物を調律しようというわけだが、だれだって物怖じしてし
まうだろう。
(これがラルスの音狂い?)
(んぁ? ラルス? よくわかんねーけど、あねごがこっちに来た所から一番近い音狂
いの場所につれてきただけだぜ)
(近くなの? なんだか随分遠くへ来たような気分だわ)
(あねごが居る場所と感覚が違うんだろうな。ぶつくさ言わずにさ、チャチャッと治し
ちゃってくださいな)
コルに背中をポンと押されて、セリアは揺ら揺らと音狂いに近づいた。
(コルに言われると、凄くやる気がなくなるわ。チャチャッと治せたらいいんだけど、
そうもいかないでしょうね)
肩を落として目の前の音狂いを見渡す。恐怖感と緊張が段々と大きくなり、逃げ出し
たくなってきたが、逃げ帰るわけにはいかない。ラルスの苦しみを早く取り除いてあげ
なければ。
セリアは腰に手を当てて強く息を吐き、それからゆっくりと息を吸いながら手を前に
出して構える。
(こんな感じでいいのかな)
微かに聞こえて来る音叉の音を頼りに、ティルに言われた通りにやってみる。
セリアが調律を始めると、若干音狂いの浸食が抑えられたように見える。しかし、な
かなかそれ以上小さくならない。セリアの額に汗が滲み出る。それでもコツを掴んだ
のか、徐々にではあるが調律されてきた。このままいけると思った瞬間、音狂いの中
から手のような物が無数に飛び出して来て、セリアめがけて向かってきた。
(えっ?)
セリアは反射的に調律をやめて、両手で身を守った。しかし、向かってきた手が折り
重なっていき、セリアを無理やり音狂いの中へ引きずり込もうとする。セリアはその場
には留まる事が出来ず、音狂いの中に取り込まれてしまった。
セリアの身体にノイズが走り、音の波に刻まれて消えてしまいそうになる。
その苦しみから逃れる為に耳を塞ごうとしたが、ティルの言葉を思い出す。
(基準音。聞き逃さないように……そして、踏ん張る!)
上下左右分からないが、闇雲に身体中に力をこめた。身体を無理矢理動かして調律を
再び始める。その時微かな光が見えた。あれがラルスの心なのだろうか。視界がごちゃ
ごちゃになって目が眩みそうな中、必死に基準音と繋がるように調律をしていく。
ラルスの心がセリアの事を受け入れたのか、微かな光が徐々に大きくなり音狂いを消
していき、そして光が一気に広がった。
聖音域でセリアが調律をしている時、ティルは元の世界に戻ってきていて、ゴッツと
イレーネの三人で二人の様子を見守っていた。
「治まってきたよ。でもセリアお姉ちゃん苦しそう」
イレーネはラルスの音狂いが落ち着いて嬉しいのだが、セリアが逆に苦しそうな表情
をしているのでなんだか複雑だ。横からゴッツもセリアの様子を見る。
「本当だ。セリア、相当ヤバイんじゃねーか」
セリアの呼吸は荒く。ふらふらとしていて、音叉を聞いていない右耳からほんの少し
血が滲み出ている。
「大丈夫……です」
ティルも若干の不安を覚えたのか少し言葉に間があいてしまった。
「お、おい。なんで間をあけるんだよ」
三人の不安が増えつつあるなか、ラルスが大きく息をすって、大きく息を吐いた。ま
るで憑き物が落ちたかのように安らかな表情になった。
「おぉ。やった!」
ゴッツが声を上げた時、セリアが詰まるような短い悲鳴を上げて仰け反った。ティル
があわてて抱きとめて息を確認する。イレーネとゴッツは息を呑んで見守った。
「大丈夫です。息はあります。音狂いもなんとか治っていますね」
「ふ~、ビックリさせんな。寿命が縮まったぜ」
ゴッツは胸を撫で下ろした。イレーネは言葉が出ないほど安堵していた。
ティルはセリアを「よっこいしょ」と言って持ち上げてゴッツに尋ねた。
「ちょっとゴッツさんの家で、セリアを休ませてくれますか?」
「ああいいぜ。好きなだけ休んでくれ。イレーネも休め。ラルスは俺が見ていてやるか
ら」
「うんわかった。部屋は私とお兄ちゃんの部屋を使うといいよ。私はお母さんのベッド使
うから」
ゴッツに代わってイレーネが二人を部屋まで案内した。
――夢。 最初の記憶の夢かと思った。だがいつもと様子が違う。暗いと言う事は同じだが、
其処には本棚が沢山あった。書庫だろうか。そこにティルと私がいる。なんだか自分の夢を外
から自分で覗き込んでいるような感じだ。夢の中のセリアは今より幼い。と言っても、ティ
ルの弟子になる少し前ぐらいだろうか。だとしたら失った記憶の一部なのかも知れない。
夢の中のセリアはティルが読んでいる本に興味深々らしく、何か尋ねているように見え
る。だが、残念な事に声までは聞こえない。
夢の中のティルは少し困ったような顔をしていたが、脇においてあったランプを書庫の
端にある机の上に乗せて本を開き、なにやら得意げに話している。セリアは頼みごとが
叶った事が嬉しいのか、ティルの横でその様子を楽しそうに見ていた。
暫くぼーっと眺めていると、二人の姿がぼんやりとしてきた。しかしランプの炎だけは
ユラユラとはっきり見える。その暖かい光を見ていると、そこから段々と周りの景色が見
えてくる。
――セリアは夢から目を覚ました。
「……ティル?」
「お、気がついた? 丸一日、よくまぁぐっすりと寝ていたね~」
セリアは少し混乱していて記憶がぼやけている。
ティルは机に向かって何か書いていたらしく、ペンを横に置いた。窓の所に白い鳩が止
まっている。伝書鳩だ。
「手紙ですか?」
「うん。僕の友人から。返事を書いてたんだ」
書き終わった紙をひらひらさせてインクを乾かし、その紙を丸めて伝書鳩の足に付け
られた筒の中へ入れた。そして鳩が飛び立ち、ティルが窓を閉めた。その音でセリアは
気を失う前の事をハッと思いだし、少し身体を起こした。
「そうだ、音狂いは?」
「大丈夫。治ってるよ。ラルスは昨日の朝目が覚めてね。ボクも一応聴いてみたが、音
狂いの欠片も無かった。どちらかというとセリアの方が少々やばかったかな」
ラルスが治っていてほっとし、それと同時に気を失った自分が情けなくてベッドに身
体を預けた。
「はぁ……。不甲斐なくて申し訳ありません」
「気にする事は無いさ。最初の一人を治せれば後はもう大丈夫。油断しなければね。さ
て、夜が明けるまでもう一眠りしたら?」
「……そうさせてもらいます」
セリアは夢の事をティルに話そうかと思ったが、思っていたよりも疲れているらしく、
今度は夢も見ずに眠った、
再び起きるとティルは居なかった。だが、はしゃぐ子供の声とティルの笑い声がドア
越しに聞こえて来る。
ドアを開けると、木で作った小さい人形をティルが糸で操り奇妙に踊らせている。
ティルは子供っぽい性格をしているからなのか、子供には好かれるようだ。
「ティル……。一体何してるんですか」
「何って、遊んでるんだよ」
糸で操っている人形をセリアに見せた。ラルスとイレーネは部屋から出てきたセリア
を見た。
ラルスが椅子から降りてセリアの下へ来て見上げた。
「セリアお姉ちゃん。治してくれてありがとう」
「あ……いえ、どういたしまして。でも私の方がへばってしまった様です」
照れながら少し笑った。
キッチンからエッダが朝食を運んでくる。朝食にしては豪華すぎる。大切な家畜の鳥
を捌いてくれたらしい。香草と一緒に焼いた匂いが漂ってくる。
「おはようセリア。あんたのお師匠が直ぐに発つって言うからね。本当は夜にご馳走し
ようと思ったんだけど、朝急いで支度したのさ」
ティルは料理に目が行ったまま人形を脇に置いてテーブルの上を片付けた。
「いやぁありがたいです。未熟者の弟子には贅沢な報酬ですよ」
確かに未熟者だ。こんなに手間を取らせては調律師としてやっていけるか不安になる。
どことなく申し訳ない気持ちで立っていると、ラルスがセリアの手を引いてテーブルの
席の真ん中へ案内した。
子供は無意識に人の心情がわかってしまう。大人になれば表層のものしか見えなくなり
無邪気な気配りが出来なくなるだろう。セリアはラルスの言葉とその気遣いに、言葉で
はない感謝の気持ちで一杯になった。
皆が席に着いたが一家の主の姿が見えず、セリアはエッダ尋ねた。
「ゴッツさんは?」
「家畜に餌やってから来るからそろそろ……あ、ほら来た」
「よぉ。目が覚めたか」
「おはようございます。二晩もお世話になってしまった様で。ありがとうございます」
「気にするな。ラルスの命の恩人だ。それにこっちは金を払わないで済んだんだ。まぁ鶏
は絞めたけどな」
これぐらいの事はさせてくれと言うゴッツの気持ちが、笑った表情にでている。ゴッツ
も席に付き、皆で食事の前の祈りを捧げた。何に祈りを捧げるかは国や民族、宗教によっ
て違うだろう。マリユス教なら主神マリユスに祈りを捧げてから食事を始めるが、マリユ
ス教を信仰していない地域で、特定の宗教に捉われなければ、主に自然に祈りを捧げてか
ら食事を始める。マリユス教を禁止しているリメア国ではこの自然信仰が根付いている。
ティルとセリアは特に何も信仰していないが、ゴッツ一家の様式に従った。
ラルスの音狂いが治り、本来の家庭の明るさに戻った。病の者が家に居ると陰鬱な気持
ちになり、家族仲の歯車はどんどん狂っていくが、ラルスが元気になった事で全て元に
戻った。その変化を見ただけで調律師としての誇りを少なからずセリアは感じる事がで
きた。
「痩せてるのによく食うなぁ。お前が治したわけじゃねーのによ」
ゴッツがパクパクと食べるティルを見て呆れていた。
「食べれる時に食べておかないとね」
「そのずうずうしさは、私も見習った方がいいかもしれませんね」
セリアもティルに呆れながら呟いた。
一同の会話は途切れず、終始賑やかな食卓だった。食後にマチーヤが出てきたが、賑や
かさのおかげか、セリアもマチーヤを飲み干す事ができた。
「ご馳走様でした」
ティルがカップを置いて自分の腹を軽く叩いた。ティルの胃袋も満足したようだ。
「さて、それじゃあ直ぐに行くとしますかな。今後も音狂いに悩まされたら、アストリア
国の手紙屋へ手紙を送って下さい。僕に届けてくれますから」
「法外な値段を言う奴にゃ頼まねーよ。今度はセリアに頼むさ」
「そんな~。私はその時の気分で値段を決めてるだけです。あれはああいう気分だったん
ですよ。それにセリアだって法外な値段吹っ掛けるかもしれないじゃないですかぁ」
「私はティルみたいに適当な事は言いません」
「ぐぬぬ、弟子という事を忘れてない?」
「お師匠から早く独立しときな。その方が稼げるし客の信頼も獲得できるさ」
ティルがうな垂れて、子供達がティルを庇った。冗談のやり取りで笑った後、支度を
整えて別れを告げた。
ゴッツ一家が玄関の前で見送ってくれている。ラルスとイレーネは勢いよく手を振っ
ていた。負けじとティルも両手で大きく手を振っていた。その横でセリアは控えめに手を振った。
名残惜しい気持ちを押し込めて、セリアはティルの後を少し恥ずかしい思いでついていった。
昔書いたものです。




