『フェイク』と名乗る少年
「いらっしゃいませ!」
「天才子役・雨宮光、主演映画がまもなく公開です」
「やっぱ、アイドルと結婚してえよな」
「俺、まだ内定決まってないんだけど」
街にあふれる声のすべてが、耳障りだった。
客を呼び込む店員の声。家電量販店の店先で流れるテレビの音。将来の妄想を大声で語る高校生たちの笑い声。
誰もが自分の人生を疑わずに生きているように見えて、それがひどく癪に障った。
大学を卒業してから、俺は日雇いの仕事で食いつなぎながら、小説を出版社へ持ち込んでいた。
だが、結果はいつも同じだった。
「うちでは難しいですね」
「もう少し読者を意識してみては」
「次回作に期待しています」
やんわりとした言葉の奥にあるのは、ただ一つ。
お前の小説には価値がない。
それでも夢を捨てきれず、俺は惰性のように文章を書き続けていた。
「……こんな生活に、何の意味があるんだろうな」
そう呟きながら、その日も日雇いの現場へ向かった。
仕事が終わる頃には、空はすっかり暗くなっていた。
帰り道、俺は人気のない公園へふらりと立ち寄った。古びたベンチに腰を下ろし、しばらく夜風に当たってから、自動販売機へ向かう。
「……缶コーヒーでいいか」
小銭を入れ、ブラックコーヒーのボタンを押した、そのときだった。
「ねえ、おじさん。俺にも何かおごってよ」
背後から、子どもの声がした。
振り返ると、中学生くらいの少年が立っていた。
整った顔立ちをしている。けれど、どこか年齢に似つかわしくない、妙に醒めた雰囲気をまとっていた。
「いきなり何なんだ、君は」
「いいじゃん。一本くらい」
「まったく、最近の子どもは……」
口ではそう言いながら、ジュース一本くらいなら構わないと思い、もう一度小銭を入れた。
オレンジジュースのボタンへ指を伸ばす。
「あ、それじゃなくて、おじさんと同じやつにして」
「ブラックコーヒーだぞ」
「俺、甘いもの嫌いなんだ」
「ずいぶん生意気な舌をしているな」
仕方なく、さっきと同じボタンを押した。
取り出し口から缶を取り、少年に渡す。
「ほら。飲んだら早く帰りなさい」
「ありがとう、おじさん」
思えば、これが『フェイク』と名乗る少年との出会いだった。
俺は缶コーヒーを手にベンチへ戻った。
少年も当然のように隣へ座る。
「帰らないのか」
「今は帰りたくないんだ」
「親御さんが心配するだろう。家に帰りなさい」
「そんなこと言わないでさ。少し話そうよ、おじさん」
「その『おじさん』という呼び方をやめなさい。私はまだ二十五歳だ」
「二十五歳は、俺から見たら十分おじさんだよ」
「失礼な子どもだな」
少年は楽しそうに笑った。
「じゃあ、名前を教えてよ」
「……氷室怜だ」
「氷室怜か。数字にすると『1660』だね」
「なぜ、わざわざ数字に直す必要がある」
それに直し方も無理やりすぎると感じた。
「これから、おじさんのことは『1660』って呼ぶよ」
「余計に呼びにくくなっているじゃないか」
「コードネームみたいで格好いいだろ?」
そういうものに憧れる年頃なのだろうか。
思い返せば、俺にも似たような時期があった気がする。
「……君の名前は?」
「俺のことは『フェイク』って呼んで」
「フェイク?」
「そう。これもコードネーム」
「本名を名乗る気はないのか」
「ないね」
なぜ少年が自分を『フェイク』と呼んだのか、そのときの俺には分からなかった。
「分かったよ、フェイク」
こうして俺たちは、互いを奇妙なコードネームで呼び合うことになった。
「フェイクは、なぜこんなところにいるんだ?」
「1660こそ、どうしてここにいるの?」
「……さあな。自分でも分からない」
「俺も分からない」
「そうか」
「俺たち、似た者同士なのかもね」
「年齢からして、かなり違うと思うが」
「それもそうだ」
フェイクは、けたけたと笑った。
その笑い方だけは、さっきまでの大人びた雰囲気とは不釣り合いなほど子どもらしかった。
「さあ、そろそろ帰りなさい」
「うん。さすがに帰るよ」
少年は立ち上がり、空き缶をゴミ箱へ放り込んだ。
「じゃあ、またね。1660」
そう言うと、公園の出口へ駆けていった。
「……変なやつだな」
俺も缶を捨て、家へ帰った。
翌日。
日雇いの仕事を終えた俺は、また同じ公園へ立ち寄った。
昨日と同じように自動販売機へ小銭を入れ、ブラックコーヒーのボタンを押す。
「やあ、1660」
予想していたような、していなかったような声だった。
振り返ると、昨日の少年が立っていた。
「こんばんは、フェイク。君は今日もこんなところをうろついているのか」
「そうだよ。今日もコーヒーおごって」
「君というやつは……」
文句を言いつつ、俺はもう一本買って手渡した。
「ありがとう、1660」
俺たちは昨日と同じベンチに座った。
「ねえ、1660ってテレビもネットも見なさそうだよね。普段、何してるの?」
「なぜ見ていないと分かった」
「何となく」
「……本を読むか、小説を書くかだな。それ以外にすることはあまりない」
「小説が好きなんだ?」
「ああ。読むのも、書くのも昔から好きだった」
「俺は小説、嫌いだな。長い文章を読むと眠くなる」
「本そのものが嫌いなのか?」
「漫画は好きだよ。1660は漫画を読んだことある?」
「いや。子どもの頃から、くだらないものだと思っていた」
「もったいねえ」
フェイクは大げさに天を仰いだ。
「あ、そうだ。明日、俺のおすすめを持ってきてやるよ」
「私は漫画に興味がないのだが」
「きっと好きになるって」
「ずいぶん自信があるんだな」
「あるよ。じゃあ、また明日!」
フェイクは缶を捨て、そのまま走って帰っていった。
次の日。
いつもの公園へ立ち寄った俺は、初めから缶コーヒーを二本買った。
「やあ、1660」
「こんばんは、フェイク」
挨拶を交わし、一本を渡す。
二人でベンチに座ると、フェイクは鞄から漫画の単行本を取り出した。
「ほら。昨日約束したやつ」
「本当に持ってきたのか」
「読んでみてよ」
「私は漫画に興味がないと言ったはずだが」
「いいから、いいから」
「……仕方がないな」
俺は単行本を受け取り、ページを開いた。
結論から言えば、俺はその世界に引き込まれた。
少年誌で連載されている、いわゆるバトル漫画だった。
登場人物たちは拳を交え、傷つき、叫び、何度倒れても立ち上がる。絵と台詞と余白が一体になり、小説とはまるで違う速度で物語が胸へ飛び込んでくる。
気づけば、最後のページまで一気に読み終えていた。
「……面白かった」
俺が呟くと、フェイクは得意げに笑った。
「だろ?」
「ああ。私は漫画に対して偏見を持っていたようだ。これは一つの表現作品として、非常に――」
「あはは。1660、考えすぎ」
「いや、しかしだな」
「気に入ってくれたならよかったよ。ああ、続き読みたいな」
「まだ一巻しか出ていないのか?」
「そうじゃない。うち、厳しくてさ。漫画なんて読ませてもらえないんだ。これだけは何とか隠し持ってるけど」
「そうなのか」
「家じゃ小説ばっかり読まされる。ほんと嫌になるよ」
「小説を読むことを苦痛だと思ったことはないがな」
「それは1660だからだよ」
フェイクは缶コーヒーを一口飲み、こちらを見た。
「ねえ、1660は小説家になりたいの?」
「……なぜ分かった」
「何となく」
またそれか、と俺は苦笑した。
「くだらないと思うか?」
「別に。いいんじゃない?」
「そうか」
「今はどんな話を書いてるの?」
「今は何も。何を書けばいいか考えているところだ」
「へえ」
「フェイクは、普段何をしているんだ?」
「え?」
その瞬間、フェイクの表情が固まった。
「俺は……そうだな。とても窮屈な生活をしてるよ」
「意外だな。君は好き勝手に生きていそうに見える」
「ここではね」
「どういう意味だ?」
「俺さ、ここ以外じゃ、こんな話し方しないんだ」
「なぜだ」
「いろいろあってね。普段は、真面目で礼儀正しい子どもを演じてる」
「演じている……」
「そう。だから疲れるんだ」
フェイクは笑った。
けれど、その笑顔はいつものように無邪気ではなかった。
そのとき、俺は初めて、彼がなぜ自分を『フェイク』と名乗ったのか、少しだけ分かった気がした。
「あ、そろそろ帰らないと」
フェイクは立ち上がった。
「じゃあね、1660」
「ああ。また明日」
少年の背中を見送ったあと、俺は一人でベンチに残った。
「……少し、書いてみるか」
久しぶりに、書きたいものが見つかった気がした。
家に帰ると、俺はすぐにパソコンを開いた。
次の日も、その次の日も、俺たちは同じ公園で会った。
「やあ、1660」
「こんばんは、フェイク」
それが俺たちの決まり文句になった。
缶コーヒーを片手に、どうでもいいことを話した。
好きな本。嫌いな食べ物。学校の話。仕事の愚痴。将来のこと。
フェイクは漫画の続きを俺にねだり、俺は仕方がないふりをして買ってやった。
俺が物語の展開に迷うと、フェイクは好き勝手な案を出した。
「主人公に空を飛ばせようぜ」
「日常小説だと言っているだろう」
「じゃあ、実は宇宙人だったとか」
「却下だ」
「つまんねえの」
くだらない会話だった。
けれど、その時間だけは、俺も自分の人生を嫌わずにいられた。
半月ほど経った頃、俺はようやく小説を書き上げた。
少し口が悪く、生意気で、けれど誰より繊細な少年を主人公にした物語だった。
大事件は起きない。世界が救われるわけでもない。
ただ、少年がありふれた日常の中で、自分らしくいられる場所を探す話だった。
派手さはない。
それでも、今まで書いたどの作品よりも手応えがあった。
印刷した原稿を抱え、俺はいつもの公園へ向かった。
缶コーヒーを二本買って待っていると、ほどなくして声がした。
「やあ、1660」
「こんばんは、フェイク」
この半月、一日も欠かさなかった挨拶だ。
「フェイク。やっと完成した」
俺は原稿を掲げた。
「本当? おめでとう、1660。早く読ませてよ」
「ああ。そのために持ってきた」
原稿を渡すと、フェイクは珍しく黙り込んだ。
ページをめくる音だけが、夜の公園に響く。
長い時間をかけて、彼は最後まで読み終えた。
「……すごく面白かったよ、1660」
「そうか。ありがとう」
「ねえ、この主人公の少年ってさ」
フェイクが、少し照れくさそうに鼻をこすった。
「もしかして、俺がモデル?」
「ばれたか」
「やっぱり」
「ああ。君を見ていて、書きたくなったんだ」
「へえ……」
フェイクはもう一度、表紙を見つめた。
「ねえ、1660」
「何だ?」
「この小説が人気になったら、本になったり、映画になったりするかもしれないだろ?」
「夢のまた夢だな」
「でも、もしかしたら」
「……そうだな。もしかしたら、そんな未来もあるかもしれない」
「映画になったらさ、主人公は俺に演じさせてよ」
「君は俳優になりたいのか?」
「違うよ」
フェイクは即座に否定した。
「でも、1660の作品なら出てもいいかなって」
「そうか」
俺は笑った。
「では、約束しよう。もし映画になることがあれば、主人公は君だ」
「絶対だからな」
「しかし、君に演技ができるのか?」
「ああ。俺、演技には自信があるぜ」
「それは頼もしい」
俺は原稿を受け取り、鞄へしまった。
「明日、この作品を出版社へ持ち込むつもりだ」
「じゃあ、今日は早く帰らないとな」
フェイクは俺の手から空き缶を奪い、二本まとめてゴミ箱へ入れた。
「また明日な、1660」
「ああ。また明日」
その日は、二人で並んで公園を出た。
翌日、俺は出版社を訪れた。
受付を済ませ、担当者へ原稿を渡す。
何度経験しても、目の前で自分の文章を読まれる時間には慣れない。
担当者は黙ったままページをめくっていた。
やがて、原稿を机へ置く。
「これは、いいですね」
「……本当ですか?」
初めて聞く言葉だった。
「はい。少し上の者にも見せたいと思います」
胸の奥が、急に熱くなった。
「企画部の反応次第では、書籍化の話も出るかもしれません。後日、改めてご連絡します」
「ありがとうございます」
何度も頭を下げ、出版社を出た。
真っ先に思い浮かんだのは、フェイクの顔だった。
ようやく、いい報告ができる。
俺はいつもの公園で缶コーヒーを二本買い、ベンチに座って彼を待った。
けれど、その日、フェイクは現れなかった。
翌日も。
その次の日も。
毎晩、二本の缶コーヒーのうち一本だけが、冷たいまま残った。
フェイクが姿を見せなくなって、一週間が経った。
その朝、日雇いの仕事へ向かう途中、家電量販店の店先に置かれたテレビが目に入った。
普段なら気にも留めない。
けれど、その日はなぜか足が止まった。
画面では、ニュース番組のアナウンサーが深刻な表情で原稿を読んでいた。
「子役として知られる雨宮光さんが、一週間前に交通事故に遭い、現在も意識不明の重体であることを、所属事務所が公表しました」
画面に、一人の少年の写真が映し出された。
「……フェイク?」
全身から血の気が引いた。
俺は仕事へ向かうのをやめ、来た道を走って自宅へ戻った。
パソコンを立ち上げ、久しく使っていなかったインターネットで『雨宮光』と検索する。
検索結果には、見覚えのある顔が並んだ。
『天才子役・雨宮光、交通事故で意識不明』
『主演映画の公開を目前に――』
『礼儀正しい天才少年の素顔』
「……嘘だろ」
震える指で、インタビュー動画を開いた。
画面の中で、フェイクと同じ顔をした少年が、背筋を伸ばして座っていた。
「家では普段、どのように過ごしていますか?」
「そうですね。僕は読書が好きなので、よく小説を読んでいます」
「同じ年頃の子は漫画が好きだと思いますが、漫画は読まないんですか?」
「僕は小説のほうが好きですね」
穏やかに微笑む姿は、俺の知るフェイクとはまるで違った。
フェイクは、漫画が好きだと言った。
漫画を語るときの目は、嘘をついていなかった。
「好きな食べ物は?」
「甘いものが好きです」
嘘だ。
「苦手なものはありますか?」
「苦いものですね。少し子どもっぽくて恥ずかしいですが」
嘘だ。
「勉強は好きですか?」
「はい。新しいことを知るのが好きなので」
嘘だ。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
インタビューに答える『雨宮光』は、フェイクの顔をした偽物だった。
コメント欄には、好意的な言葉が並んでいた。
『いつも礼儀正しくて素敵』
『甘いものが好きなの、イメージ通り』
『どんな小説を読んでいるのかな』
誰一人、本当の彼を知らない。
俺はパソコンを閉じ、そのまま公園へ向かった。
いつものように缶コーヒーを二本買い、ベンチに座る。
一本は自分の隣に置いた。
「すみません。少し、よろしいですか」
声を掛けられ、顔を上げた。
四十代くらいの女性が立っていた。疲れ切った表情で、それでも俺をまっすぐに見つめている。
「……何でしょうか」
「私は、雨宮光の母です」
息が止まった。
女性は深く頭を下げた。
「一緒に来ていただけませんか」
「どこへ」
「光のところへ」
俺は彼女の車に乗った。
走り出してしばらくすると、光の母親が静かに口を開いた。
「あなたと光が会っていたことは知っていました」
「……知っていた?」
「申し訳ありません。あなたに、あの子を任せるようなことになってしまって」
「どういうことですか」
彼女はハンドルを握ったまま、唇を噛んだ。
「光が天才子役ともてはやされて、私は冷静さを失っていました。仕事を増やし、世間が求める『雨宮光』であるように、あの子から自由を奪いました」
車内には、エンジン音だけが響いていた。
「光は、仕事でも学校でも、周囲が求める自分を演じるようになりました。礼儀正しく、勉強が好きで、小説を愛する、理想的な子どもを」
彼女の声が震えた。
「けれど、耐えられるはずがなかった。ある夜、あの子は何も言わずに家を出ました。私はすぐに捜しに行き、公園であなたと話している光を見つけました」
俺は黙って聞いていた。
「あの子が、心から笑っていました」
信号で車が止まる。
彼女は俯いた。
「私は、あの子の本当の笑顔を、そのとき初めて見たんです。自分がどれほど光を押さえつけていたのか、ようやく分かりました。それからは、毎日、光があなたのところへ行くのを黙って見ていました」
「……なぜ、止めなかったんですか」
「『雨宮光』を知らないあなたといるときだけ、あの子は本当の自分でいられたからです」
彼女はもう一度、頭を下げた。
「ありがとうございました」
それから病院へ着くまで、俺たちは一言も話さなかった。
病室の扉には、『雨宮 光』と書かれた札が掛かっていた。
中へ入ると、白いベッドの上でフェイクが眠っていた。
いつも生意気そうに笑っていた顔は、ひどく静かだった。
「……フェイク」
「事故による大きな障害は残らないそうです」
母親が言った。
「でも、意識だけが戻りません。医師にも、いつ目を覚ますか分からないと言われています」
俺は何も答えられなかった。
「あなたに渡したいものがあります」
差し出されたのは、一冊の日記帳だった。
四桁のダイヤル式の鍵が付いている。
「これは?」
「光の日記です。私には開けられませんでした。でも、あなたなら分かるかもしれないと思って」
四桁の数字。
思い当たるものは、一つしかなかった。
「……1660」
ダイヤルを合わせる。
小さな音を立てて、鍵が開いた。
俺は震える手で日記を開いた。
『母さんや、みんなが求める自分を演じるのに疲れた。誰も本当の俺を見てくれない。俺は何者なんだろう』
次のページをめくる。
『自分のことが、フェイクとしか思えなくなってきた。苦しい』
さらに、ページをめくる。
『今日、家を出た。公園で変な人に会った。喉が渇いていたから飲み物をおごってくれって言ったら、雨宮光のことを知らなかった。この人なら、本当の俺を見てくれるかもしれないと思って、少し話した』
『この人のことは1660と呼ぶことにした。本名を言うわけにはいかないから、俺はフェイクと名乗った。ちょっとダサかったかもしれない』
思わず、笑いそうになった。
けれど、涙が先にこぼれた。
『1660は小説が好きらしい。俺は読むのがつらいけど、変わった人だ。1660の小説なら読んでもいいかもしれない。明日は漫画を貸す。気に入ってくれるといいな』
最後に書かれたページには、こうあった。
『1660の小説は、すごく面白かった。俺をモデルに主人公を作ったらしい。もし映画になったら、俺が演じる。あの人の作品なら、演じてもいいと思った』
日記は、そこで終わっていた。
「フェイク……」
誰にも知られることのなかった彼の言葉が、そこには残っていた。
俺はベッドのそばに椅子を寄せ、眠ったままの少年を見つめた。
「君の本当の顔を、私は知っている」
声が震えた。
「本当の話し方も、本当に好きなものも、本当に嫌いなものも知っている」
涙が頬を伝った。
「君は自分をフェイクだと言った。だが、君は偽物なんかじゃない。私が知っている君こそ、本物だ」
少年は動かない。
「だから、目を覚ましてくれ」
俺は彼の手を握った。
「君がいなければ、私の小説が映画になっても、主人公を演じる人間がいない」
喉が詰まり、うまく息ができなかった。
「世界中の誰が演じても、それは偽物になってしまう」
「君だけなんだ。私の物語を、本物にしてくれるのは」
「だから、フェイク。目を開けてくれ……」
そのときだった。
「……やあ、1660」
かすれた、小さな声だった。
それでも、聞き間違えるはずがない。
あの公園で会うたび、必ず交わした挨拶だった。
俺は涙を拭うことも忘れ、少年の顔を見た。
薄く開いた目が、確かに俺を見ていた。
「……おはよう、フェイク」
『フェイク』と名乗る少年。 了




