007
翌日、格納庫に入った瞬間に、空気の重さが一段増しているのが分かった。
誰もが無言で、それぞれの持ち場に散っていく。ただ、その沈黙は昨日までのような単純な萎縮ではない。疲労と恐怖に、わずかな苛立ちが混ざり始めている。視線が合えばすぐ逸らすのに、その一瞬だけ、どこか刺すような色が宿る。
俺は第4レーンのコンソールに手を置きながら、さりげなく周囲を見回した。
第2班の連中はひと目で分かるほど消耗していた。顔色は悪く、動きも鈍い。それでも手を止めないのは、止めた瞬間に何が起きるかを理解しているからだ。
機械音が鳴り、作業が始まる。一定だったはずのリズムの中に、わずかな乱れが混じる。焦りが生むズレだ。俺はそのズレの出所を探し、すぐに一人に目を留めた。
若い男だ。昨日の老人ではない。だが状態は似ている。視線が定まらず、判断が遅れている。意識が途切れかけている兆候。
放っておけば、いずれミスをする。
そして、それはすぐに起きた。
手元の角度がわずかに狂い、コンテナが床に落ちる。中身は無事だったが、この場では意味を持たない。音が響いた瞬間、空気が一斉に固まった。
男は青ざめ、何か言おうとして言葉を失う。
そこへ、あの足音が近づいてくる。
ヴェインは苛立ちを隠そうともせず、男の前に立った。
「名前は」
「……リ、リオです」
震える声だった。
ヴェインは軽く顎を上げ、周囲を見回したあと、淡々と告げる。
「第2班は昨日に続いて基準未達だ。本日は全員残業。終了時刻は未定とする」
それだけでも十分な打撃だが、彼は言葉を切らない。
「それと——見せしめが必要だな」
リオの顔が強張る。
「前に出ろ」
拒む余地はない。リオは足を引きずるように一歩前へ出た。
次の瞬間、鋭い音が格納庫に響いた。ヴェインの手がリオの顔を打つ。ヘルメット越しでも分かる衝撃で、体がよろめく。だが倒れない。倒れた先にあるものを、全員が知っているからだ。
「なぜミスをした」
「……寝不足で……」
「言い訳か」
もう一発、強く打たれる。リオの膝が折れかける。
その光景を見ている周囲の空気が、じわりと変質していくのが分かる。誰も声は上げないが、目だけが変わっている。恐怖の奥に、抑えきれない何かが滲み始めている。
そこで、ルカが動いた。
「やめろ」
低く抑えた声だったが、確かに響いた。
ヴェインがゆっくりと振り返る。
「また貴様か」
「それは教育じゃない。ただの暴力だ」
昨日よりもはっきりした言葉だった。周囲がざわめく。ルカ自身も、それがどれほど危うい発言か理解しているはずだが、それでも引かなかった。
ヴェインはしばらく無言で彼を見つめ、それからわずかに笑った。
「ならば、貴様が代われ」
一瞬、意味を理解するまでの空白があった。
「その男の罰だ。貴様が受けろ」
ルカの表情が固まる。だが、ほんの短い逡巡のあと、彼は前に出た。
「……分かった」
その一歩で、場の空気が明確に揺れた。誰かが息を呑み、別の誰かが小さく何かを呟く。押し殺されていた感情が、抑えきれずに漏れ始めている。
ヴェインがルカの前に立ち、腕を振り上げる。
その瞬間、格納庫に警報が鳴り響いた。
耳障りな電子音とともに、赤い警告灯が点滅する。
『第3区画、圧力異常。安全確認を優先せよ』
作業員たちが一斉に顔を上げる。ヴェインは露骨に舌打ちし、腕を下ろした。
「……チッ。全員、持ち場に戻れ。作業優先だ」
ルカを睨みつけ、「命拾いしたな」と吐き捨てて、その場を離れる。
静寂が戻る。
だが、それはさっきまでの静けさとは違っていた。
誰もが同じものを見ていた。
そして、同じ違和感を抱いている。
リオはその場に立ち尽くしたまま、ルカは拳を握っている。誰も彼を責めない。昨日とは違う。
責める相手が、はっきりし始めているからだ。
俺は何事もなかったようにコンソールに戻り、作業を再開する。
視線は落としたまま、わずかに口元を緩めた。
計算通りだ。
怒りはまだ小さい。だが、向きは定まった。
ここから先は、時間の問題になる。




