005
新管理官ヴェインが赴任して、ちょうど一週間が経過した。
1.5倍のノルマと連帯責任制という理不尽なルールは、明確に第3格納庫の空気を毒に変えていた。
労働者たちの目からは光が消え、疲労と睡眠不足によって作業効率は逆に低下し始めている。誰もが他人のミスを恐れ、疑心暗鬼に陥っていた。
(……そろそろだな。人間の精神が『恐怖』を『怒り』に変換する臨界点)
俺は第4レーンでコンソールを叩きながら、格納庫全体の『音』を拾っていた。
パワードスーツの関節部が軋む音。乱れた呼吸。そして、焦燥感が生み出す微細な足音のズレ。
ガシャンッ!!
突如、格納庫の中央で鼓膜を劈くような破砕音が響き渡った。
静まり返っていた空間の全員が、ビクッと肩を跳ねさせてその方向を見る。
第2レーンで、初老の労働者——先日、ヴェインに咳き込んだだけで給与を剥奪された男——が、パワードスーツごと床に倒れ込んでいた。
彼の操作ミスにより、積み上げられていた合成食料のコンテナが崩落し、中身の真空パックが床に散乱している。
「……あ、ああ……」
老人は呆然と床を見つめ、震える手で散らばった食料を拾い集めようとしていた。限界を超えた疲労が、彼の集中力を完全に奪っていたのだ。
コツ、コツ、コツ。
格納庫に、死神の足音が響く。
純白の軍服を着たヴェインが、忌々しそうな顔で歩み寄ってきた。彼の右目のデバイスが、赤黒い光を放って老人をスキャンしている。
「……素晴らしい。見事な反逆だ、ゴミめ」
「ち、違います! 目が、目が霞んで……手が滑っただけで……!」
老人は土下座をするように這いつくばった。
だが、ヴェインは表情一つ変えず、老人の顔面を容赦なく軍靴で蹴り上げた。
鈍い音が響き、老人が床に血を吐く。
周囲の労働者たちは息を呑んだが、誰一人として動けない。連帯責任の恐怖が、彼らの両足を床に縫い付けている。
「弁明は許可していない。貴様の班は第2班だな。……ルール通り、第2班全員の今月の給与を全額没収、ならびに本日の配給を停止する」
ヴェインの宣告に、第2班の若者たちが絶望の声を漏らした。
だが、怒りの矛先はヴェインではなく、倒れた老人に向かい始めている。それがヴェインの狙いだ。弱者同士を憎ませ、反逆の芽を摘む。典型的な、しかし有効な支配術。
(さて……)
俺は自分のコンソールから数歩離れ、怯えたモブの顔を作りながら、斜め前に立つルカの背中を見つめた。
ルカの肩が、微かに震えている。
中立機関『第十二星閥』の工作員である彼にとって、この光景はただの悲劇ではない。第八星閥の『非人道的な統治』を示す、決定的な証拠だ。
彼には今、葛藤があるはずだ。
工作員として静観し証拠だけを持ち帰るか、それとも、人間としての義憤からヴェインに歯向かってしまうか。
(動け、ルカ。お前がここで動かなければ、俺の盤面の進行が三日遅れる)
俺は、頭上の監視カメラの位置と、ヴェインの網膜デバイスの『死角』を瞬時に計算した。
今、ルカが一歩前に出れば、彼は完全にカメラに顔を抜かれる。工作員としては致命的だ。彼が躊躇している理由はそこにある。
だから、俺が『偶然』、彼の背中を押してやる。
「ひっ……!」
俺はわざとらしく恐怖に怯えたような短い悲鳴を上げ、後ずさりをした。
そして、手に持っていたデータパッドを『うっかり』床に落とす。
ガタンッ!
静まり返った格納庫に、俺の落としたパッドの音が響いた。
ヴェインの青い視線が、一瞬だけ俺の方を向く。
その瞬間——俺は怯えてルカの背中にしがみつくような体勢をとり、彼の体を『半歩だけ』前へ押し出した。
「お、おいシオン……」
ルカが驚いて振り返る。
だが、ヴェインの目には「恐怖でパニックになった無能な労働者が、同僚を押し退けて逃げようとした」ようにしか見えない。
「……何をしている、そこの二匹。貴様らも給料を没収されたいのか」
ヴェインが不快げにこちらを睨む。
半歩前に押し出されたことで、ルカはヴェインと正面から対峙する形になった。
そして、俺がルカの背後に回って震えているこの体勢は、頭上の第3監視カメラから見て『ルカの右腕を完全に隠す死角』を作り出していた。
(これで、お前はカメラにもヴェインにも見られずに『アレ』を使えるぞ。やれ)
ルカは一瞬だけ息を呑んだ後、覚悟を決めたようにヴェインを真っ直ぐに睨み返した。
彼の右手が、作業着のポケットの中で僅かに動くのが、俺には分かった。
小型の『生体波形記録装置』のスイッチを入れたのだ。この距離なら、ヴェインの暴力と暴言、そしてこの場の絶望的な空気を、後から偽造不可能な「絶対的なデータ」として記録できる。
「……管理官。彼のミスは、あなたの設定した不当なノルマによる過労が原因です。これ以上の罰は、労働基準協定に違反するはずですが」
ルカが、静かに、しかし力強く抗議した。
格納庫にどよめきが走る。ヴェインに逆らう者が現れたことに、労働者たちが動揺している。
「ほう……? 協定だと?」
ヴェインは顔を歪め、ルカに歩み寄る。
「この星のルールは私だ。協定など、私の靴の裏の泥以下の価値もない。貴様、名前は」
「ルカです。第4レーン所属」
「いいだろうルカ。貴様の班も、連帯責任で給与半減だ。これ以上口答えすれば、明日は炭鉱送りにしてやる」
ヴェインはルカの肩を強く突き飛ばし、そのまま格納庫を出て行った。
後に残されたのは、絶望に沈む労働者たちと、給料を半減され呆然とする第4レーンの仲間たち。
「……ごめん、みんな。俺が余計なことを言ったせいで」
ルカが申し訳なさそうに頭を下げる。
周囲からは「お前のせいだ」「どうしてくれるんだ」という非難の声がヒソヒソと上がり始めていた。
俺もまた、冷や汗を拭う演技をしながらルカにすがりついた。
「ル、ルカ……俺のせいだ、俺がパニックになって背中を押したから……本当にごめん……!」
「気にするなよ、シオン。お前は怖かっただけだろ。……俺が、我慢できなかっただけさ」
ルカは苦笑いしながら、俺の頭をポンと叩いた。
(ククッ……)
俺は泣きそうな顔を俯かせながら、内側で冷たく笑っていた。
ルカ。お前は自分の義憤で動いたと思っているだろう。自分が仲間を守るために立ち上がったのだと。
だが、違う。
お前は俺が作った死角の中で、俺が想定した通りのタイミングで録音スイッチを押し、俺が望んだ通りにヴェインの非道を『第十二星閥』へと持ち帰るためのデータを入手しただけだ。
これで、中立機関である第十二星閥は、第八星閥への本格的な内偵を始めざるを得なくなる。
ヴェインという小さな末端の暴走が、やがて星閥同士の政治的な摩擦へと発展していく。
争え。疑い合え。
俺がこの底辺から見上げる空が、奴らの血で赤く染まるまで。
一歩、また一歩。
俺は散らばった合成食料を拾い集める老人を横目に、自分のコンソールへと戻っていった。




