003
広大な第3格納庫には、およそ五百人の労働者が整列していた。
すり減った安全靴の匂い、安いタバコと汗、そして微かな絶望が混ざり合った、底辺特有の空気。
皆が俯きがちに視線を落とす中、前方にある搬入用のタラップの上に、カンッ、カンッと硬質な靴音が響いた。
現れたのは、ひどく場違いな男だった。
第八星閥の直系を示す、汚れ一つない純白の軍服。胸元には八角形の階級章が輝いている。年齢は30代半ば。神経質そうに撫でつけられた金髪と、他者を見下すためにあつらえたような細い目が特徴的だ。
「……静かにしろ、ゴミ共」
拡声器も使わず、ただ冷たく言い放った声が、格納庫の隅々にまで届く。
その瞬間、五百人の労働者たちの肩が、文字通りビクッと跳ねた。
「本日から、この第73地区・第3物流拠点の管理特務官に任命された、ヴェインだ。前任の管理官は横領の罪で『再調整』送りとなった。……全く、辺境のネズミは管理が甘いとすぐに腐る」
ヴェインは手袋をはめた手で、口元を覆うようにして顔をしかめた。まるで、この空間の空気を吸うことすら不快だと言わんばかりに。
(なるほど。前任者が消えたことで、中央から直接『目』が送り込まれてきたか)
俺は列の中ほどで、他の労働者と同じように怯えたように肩を丸めながら、ヴェインの姿を観察していた。
俺の視線は、彼の顔ではなく、彼の『右目』に注がれている。
ヴェインの右目の瞳孔は、不自然なほど青く発光していた。あれは単なる義眼ではない。第八星閥の軍事ネットワークと常時接続された『網膜投影型の戦術デバイス』だ。
この場にいる五百人の生体データ、心拍数、さらには過去の反逆歴までを、リアルタイムでスコアリングしているはずだ。
「これより、当拠点のノルマを現行の1.5倍に引き上げる。さらに、連帯責任制を導入する。誰か一人がミスをすれば、所属する班員全員の給与から天引きだ。不満がある者は今すぐ申し出ろ。即刻、契約を解除して『開拓惑星』の土壌肥料にしてやる」
格納庫は水を打ったような静けさに包まれた。
1.5倍のノルマ。それは、睡眠時間を削り、文字通り命を削らなければ達成できない数字だ。
しかし、誰一人として声を上げる者はいない。
その時、俺の斜め前に立っていた初老の労働者が、緊張のあまり小さく咳き込んだ。
「ゴホッ……」
ヴェインの青く光る右目が、ギョロリとその老人を捉えた。
「おい、そこのシワだらけのネズミ。お前だ」
「ひっ……! も、申し訳、ございません……! 喉が……」
老人がその場にへたり込む。
ヴェインは右目のデバイスを操作する素振りも見せず、ただ冷酷に言い放った。
「心拍数130。発汗量異常。私の訓示に対する『明らかな反抗心と恐怖』の表れだ。評価ランクをDからFに下げる。今月の給与はゼロだ」
「そ、そんな……! 妻の薬代が……!」
「黙れ。次は臓器を売らせるぞ」
誰も助けようとはしない。
これが、第八星閥の絶対的な恐怖支配だ。
俺の隣に立つルカの拳が、微かに、本当に微かに強く握られるのが見えた。
ルカの正義感か、あるいは他派閥の工作員としての計算か。いずれにせよ、彼はこの惨状を『第八星閥の腐敗の証拠』として上に報告するだろう。
(いい動きだ、ヴェイン。お前がそうやって恐怖で締め付ければ締め付けるほど、労働者たちの不満は内部に蓄積され、やがて爆発する『ガス』になる)
俺は心の中で小さく笑いながら、己の身体をコントロールし始めた。
ヴェインの右目が、老人の次に、周囲の人間を舐め回すようにスキャンし始めたからだ。
当然、俺にもその視線は向けられる。
俺は自らの呼吸を浅くし、心拍数を『恐怖を感じている凡人』の完全な平均値――毎分115――に固定した。発汗量も、微細な筋肉の震えも、過去100年分の労働者データを元にした『完璧なモブの数値』へとチューニングする。
ヴェインの青い視線が俺を通り過ぎる。
彼のデバイスの画面には、俺という存在は『無害で、無能で、完全に支配下にある取るに足らない塵』として表示されたはずだ。
(……だが、お前は気づいていない)
ヴェインが視線を外したその瞬間。
俺は、彼の右目が微かに『明滅』を起こしたのを見逃さなかった。
今朝、俺がゲートを通過した時に仕込んだ『0.01秒の遅延』。
あれは倉庫のゲートだけでなく、第八星閥のローカルネットワーク全体に影響を及ぼし始めている。ヴェインの最新鋭の戦術デバイスすら、そのネットワークを経由している以上、俺が仕込んだ塵の影響からは逃れられない。
(お前のその目は、全てを見透かしていると思い込んでいる。だが、そのシステム自体が、すでに俺の毒に侵され始めているんだ)
「……以上だ。作業に戻れ、ゴミ共」
ヴェインが踵を返し、格納庫から出ていく。
五百人の労働者たちが、重い溜息とともに散り散りになり始めた。
「……シオン、大丈夫か。顔色悪いぞ」
ルカが、俺の肩をポンと叩く。
「あ、ああ……。なんか、とんでもない人が来ちゃったね……俺、ノルマこなせるかな……」
俺は情けない声で言いながら、ブルブルと体を震わせてみせた。
「仕方ないさ。目立たないように、死に物狂いでやるしかない。俺も手伝うからさ」
ルカは優しく微笑むが、その目はすでにヴェインの足跡を冷たく追っていた。
俺は自分の配置である第4レーンのコンソールに向かいながら、ゆっくりと息を吐く。
(ヴェイン。お前のその戦術デバイスは、必ず俺の『第一の仲間』が囚われている中枢要塞……黒機城のメインサーバーに繋がっているはずだ)
俺は手元の古びた入力端末を撫でた。
一見、何の繋がりもないように見えるこの辺境の倉庫と、難攻不落の黒機城。
だが、ヴェインという『完璧な接続端子』が俺の目の前に現れたことで、俺の引いた見えない糸は、ついに敵の喉元へと直結した。
まずは、この倉庫のシステムから、ヴェインのデバイス経由で黒機城の構造を『覗き見』する準備を始めようか。




