010
格納庫に戻った頃には、警報の余韻がまだ空気の底に沈んでいた。停止した搬送ラインの前で技術員が怒鳴り合い、警備兵が作業員を乱暴に押しのけながら原因箇所の特定に走り回っている。誰もが自分の役割に追われ、全体を見渡せていない。こういう時、人は大抵、目の前の混乱にしか意識を割けなくなる。
だが、ヴェインだけは違った。
騒音と喧噪の中心で、あの男の視線だけが不自然なほど静かにこちらへ向いていた。見られた、というより、最初からそこにいると分かったうえで捉えられた感覚に近い。俺が足を止めると、隣を歩いていたルカもその異様さに気づいたのか、息を詰める気配を見せた。
ヴェインは部下たちに何も言わなかった。ただ一歩、こちらへ歩み出す。それだけで、近くにいた警備兵たちが自然と左右に散り、彼の前に細い通路ができる。誰かに命じられた動きではない。普段から、その男が前に出る時は邪魔をするなと身体に叩き込まれている動きだった。
「……第4レーンの二匹か」
低く、よく通る声だった。怒鳴っているわけでもないのに、格納庫のざわめきがわずかに遠のいたように感じる。ヴェインは立ち止まり、その右目のデバイスを赤く明滅させた。
「第3区画の異常発生時刻、お前たちの生体ログだけが数秒間途切れている。偶然にしては出来すぎているな」
ルカの呼吸が一瞬だけ浅くなる。横目で見なくても分かる程度の揺れだった。俺はそれを悟られないよう、肩をすくめてみせる。
「混乱でセンサーが飛んだだけじゃないんですか。こっちだって何が起きたか――」
言い終わる前に、ヴェインの姿が視界から消えた。
反射で身体を流さなければ、そのまま顔面を砕かれていた。遅れて、俺のさっきまでいた位置を拳が打ち抜く。床材が悲鳴を上げ、ひびが放射状に走った。警告灯の赤い光が、砕けた破片の縁で鈍く反射する。
速い。だが、それ以上に厄介なのは、動きの前兆が薄いことだ。重心が沈む気配も、肩が開く癖も、読みの足掛かりになるものがほとんど見えない。
「シオン!」
ルカの声が飛ぶ。同時に、ヴェインの二撃目が来た。蹴りだ。直線的で重い。俺は半歩だけ軸をずらし、頬を掠める風圧に歯を食いしばる。完全に見切ったわけじゃない。ただ、当たったら終わると理解しているから、無駄な受けを捨てているだけだ。
その隙を狙ってルカが横合いから踏み込んだ。判断としては間違っていない。俺一人では読み切れない角度を増やせるし、ヴェインの注意を散らす意味もある。だが、ヴェインはまるでそれを待っていたかのように身をわずかに捻り、ルカの腕を取った。投げに移るつもりだ。あの体格差と速度で床に叩きつけられれば、そこで終わる。
俺は二人の間に割り込み、ヴェインの肘関節へ蹴りを差し込んだ。破壊するには足りない。だが、動作を一拍遅らせるには十分だった。ルカの体が引き剥がされる。ヴェインはすぐに体勢を立て直したが、その目にはもう先ほどまでの侮りがなかった。
「ほう」
その一言に混じったのは、怒りではなく観察者の興味だった。
「ただの労働者ではないな」
「お前もただの管理官じゃないだろ」
吐き捨てるように返しながら、俺は呼吸を整える。腕が痺れている。肘に受けた衝撃もまだ抜けていない。ルカが横で立て直しているのが気配で分かるが、長引けばこっちが削り切られる。
ヴェインはその事実を理解しているのか、今度は距離を詰める前にわずかに間を置いた。こちらの反応を見ている。逃げるなら追う、受けるなら砕く、反撃に来るならその先を潰す。そういう間だ。
次の踏み込みは、さっきよりもさらに鋭かった。
視界の端で揺れたと思った時には、もう懐に入られている。拳が来る。避ける。いや、避けるというより、そうするしかない位置に身体が動く。直後に肘。そこから膝。連撃が途切れない。攻め手として美しいほど合理的だ。大きく捌けば次で狩られる。下がれば壁際で終わる。だから、最小限だけずらし続けるしかない。
それでも、読むには限界があった。
ヴェインの拳が頬を掠め、熱いものが一筋流れる。次の瞬間には膝が鳩尾を狙って迫っていた。辛うじて腕を挟むが、衝撃が骨を軋ませる。息が詰まる。その苦しさの中で、俺は妙に冷静だった。
(このままじゃ足りない)
頭では分かっていた。今の俺の判断速度では、この男を“しのぐ”ことはできても、“上回る”ことはできない。積み重ねてきた観察と計算だけでは、ここから先の領域に届かない。
ヴェインが再び踏み込む。
その瞬間、周囲の音がふっと遠のいた。
怒号も、警報の残響も、金属の軋みも、全部が水の底に沈んでいく。代わりに、目の前の男の輪郭だけが異様なほど鮮明になった。肩のわずかな沈み込み。軸足に乗る体重。筋肉が収縮する順序。視線が攻撃の直前にほんの刹那だけ落ちる癖。今まで見えていたはずの断片が、急に一本の線として繋がる。
拳が来る。
そう認識した時には、もう俺の身体はその軌道の外にあった。大きく躱したわけじゃない。半歩にも満たない、ほんの僅かな位置のずれ。それだけで、ヴェインの拳は俺の肩先を切るように空を穿つ。
驚いたのは、俺の方だった。
遅い、と思った。
いや、遅くなったわけじゃない。ヴェインの速度は変わっていない。変わったのは、俺の側だ。次に来る肘も、その次の蹴りも、もう“見てから”対応している感覚じゃない。来る前に、そこへ立っていない未来だけを選び取っているような奇妙な確信がある。
ヴェインの目が、初めて明確に揺れた。
俺はその懐に滑り込む。手首を取る。力はほとんどいらない。重心が乗る寸前の、もっとも不安定な一点を軽く弾くだけでいい。ヴェインの体勢が崩れ、靴底が床を鳴らした。完全に倒すほどではない。だが、その一瞬の遅れだけで十分だった。
横からルカが息を呑む気配がする。周囲で見ていた労働者たちも、何が起きたのか理解しきれずに目を見開いていた。
ヴェインはすぐに体勢を戻したが、もう遅い。踏み込み、牽制、フェイント、本命。彼の中で組み上がる攻撃の枝が、こちらには先に見えている。必要のない未来を切り捨て、成立する一手だけを選び続ければ、それで足りる。
(これが――)
肺の奥で、何かが静かに噛み合う。
思考と身体の間にあった、わずかな遅延が消えていた。
無駄が落ちる。迷いが消える。選択肢が減るのに、むしろ世界は鮮明になる。
俺はヴェインを正面から見据え、ゆっくり息を吐いた。
「……第一概念」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「開放」




