009
その夜、居住区は異様な静けさに包まれていた。
普段ならどこかで咳き込む音や、疲労をこぼす声が聞こえるものだが、それすらほとんどない。誰もが口を閉ざし、それぞれの思考の中に沈んでいる。昼間に見た光景が、全員の中でまだ消化されていないのだ。
俺は上段のベッドに横たわり、天井の薄暗い照明を眺めながら、目を閉じたまま周囲の気配を拾っていた。
ルカは眠っていない。
呼吸が浅く、寝返りの間隔が短い。思考が止まっていない証拠だ。やがて、小さな衣擦れとともに体を起こす気配がした。
足音を忍ばせるように、ベッドから降りる。
数秒の間。
周囲の反応を確かめるような静止。
そして、そのまま扉の方へ向かっていった。
(動くか)
俺は呼吸を一定に保ったまま、完全に眠っているように見せる。扉がわずかに開き、閉じる音が消えてから、ゆっくりと体を起こした。
間を置いてから後を追う。
夜間の通路は、昼間よりもさらに光が落とされている。最低限の照明だけが点いていて、影が濃い。監視カメラの赤いランプが、その中でやけに目立っている。
ルカは迷いなく第3区画へ向かっていた。
昼間、警報を鳴らした場所だ。
(やる気だな)
“事故”を意図的に起こし、その混乱で外部に情報を流す。昼の時点で考え始めていた案を、そのまま実行に移した形だ。
ただ、そのままやらせるには少し粗い。
俺はわざと足音を一つ鳴らした。
ルカが即座に振り返る。
「……シオン?」
警戒と驚きが混じった声だった。
俺は肩をすくめて苦笑する。
「やっぱり起きてたか」
「なんでここにいる」
「同じこと考えてた」
完全な嘘ではない。ただし、目的は違う。
ルカはしばらく俺を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「戻れ。巻き込める話じゃない」
「もう巻き込まれてるだろ」
俺は軽く返す。
「今日のあれ、見ただろ」
ルカは否定しなかった。視線を逸らし、少しだけ迷ったあと、低く口を開く。
「……第3区画の圧力制御をいじれば、一時的に異常を起こせる。爆発とかじゃない。システム上のエラーとして処理される範囲だ」
「それで格納庫止める?」
「ああ。その間にデータを送る」
筋は通っている。だが、“安全な範囲”に収めようとしている時点で甘い。
それでも、その甘さは必要だ。
ここで完全に割り切った判断をするようなら、制御が効かなくなる。
「怪我人は出ないか?」
俺が確認すると、ルカは即答した。
「出さない。そこは調整する」
迷いのない返答だった。
(ならいい)
俺はそれ以上は踏み込まない。
制御盤の前に立ち、ルカが手早く操作を始める。慣れている。無駄がない。だが、構造の理解は“使用者側”に寄っている。
俺はその横で、全体の配管と補助ラインを確認する。
圧力制御、冷却系統、応答遅延。
(……少しだけ足りないな)
頭の中で、別の回路を組み立てる。
ルカの計画に、わずかなズレを加える。
事故として成立させるためのズレ。
「あと三十秒でテスト信号を流す」
ルカが言う。
「そのあと一分で警報が鳴るはずだ」
俺は頷きながら、コンソールの端に指を置く。
見えない位置。
誰にも気づかれない角度。
三十秒後、ルカが操作を確定する。
「……よし」
その瞬間、俺は指を滑らせた。
冷却ラインの応答遅延を、ほんのわずかに引き延ばす。
安全装置は働く。だが、“遅れて”。
次の瞬間、低い振動が床を伝った。
ルカの顔色が変わる。
「……早い」
予定よりも反応が速い。いや、正確には“ズレている”。
警告灯が一斉に点灯し、アナウンスが響く。
『第3区画、冷却遅延。圧力上昇中』
ルカが制御盤に戻り、必死に操作する。
「止める!」
だが、すでに一段階進んでいる。手動入力が一時的に弾かれるフェーズに入っている。
通路の奥から足音が近づいてくる。警報に反応した警備兵だ。
時間がない。
内部圧力が危険域の手前まで上がり、そこで自動制御が働いた。
強制排出。
一気に圧が抜け、同時に格納庫全体のシステムが停止する。
遠くで怒号が上がる。
完全な混乱だ。
「……なんでだ……」
ルカが呆然と呟く。
計算と違う。そう思っているのが顔に出ている。
俺はその横で、小さく息を吐いた。
安心したように見せながら。
(これでいい)
警備兵が通路に現れる。
三人。装甲付き。
距離は十五メートルほど。
「動くな」
短い命令。
だが、その一拍の間に、俺は状況を測り終えていた。
通路幅、障害物、照明の死角。
「走れ」
低く言って、ルカの腕を引く。
反応は速い。二人で斜めに走る。直線ではなく、射線をずらす動き。
追ってくるのは一人。残りは展開。
角を曲がる直前で俺は止まり、ルカに指示を出す。
「真っ直ぐ二つ先、右」
ルカは迷わず走り抜けた。
追ってきた兵が角を曲がる。
距離三メートル。
銃を上げる。
その前に、俺は内側に入った。
手首を掴み、軌道を逸らす。体を寄せて距離を潰す。装甲の重さで初動が遅れる。その隙に足を引っかけ、体勢を崩す。
完全には倒れないが、膝が落ちる。
そこにもう一人の射線。
電撃が走るが、倒れた兵を盾にして抜ける。
長引かせる必要はない。
俺は配管を蹴って横に跳び、通路を抜けた。
合流したルカとともに格納庫へ戻る。
中は完全に混乱していた。
怒号と指示が飛び交い、誰も全体を把握できていない。
本来なら、その中に紛れて終わるはずだった。
だが——
ヴェインの視線だけが、最初からこちらに固定されていた。




