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パーラールームの菫はグラスを手にしたまま、ふと胸騒ぎを覚えていた。理由はない。ただ、あの懐かしい匂いと潮風、それに白い花の混じったような感覚が突然甦ったのだ。
「ジャスミン?」
誰に聞かせるでもなく名を呼んで、壁面を見上げる。あの絵のなかで、中学校の制服を着たあたしは、隣の母皐月と同じく、いつもと変わらず微笑んでいるが、その横のジャスミンの尾が、微かに揺れたように見えた。菫はあのジャスミンがいまも〈いつも一緒〉なのだと感じていた。
「あら?咲良はどこへ行ったの?まだお庭かしら?和代さん見てきてくれますか?」
菫は咲良の不在にやっと気が付いたらしい。
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桜の木の下で、その白い影は咲良の前に座って、首を傾げたまま咲良をじっと見つめていた。咲良はそれに怖がらずに、頭を撫ぜながら勝手に取り付いた首輪を指差した。
「あなた、ジャスミンなの?」
その白い影は頷くように〈わんっ〉と、小さく吠えた。それは誰かの遠い記憶のなかで、確かに聞いたことのある声だった。確かに犬の姿をしているのに、輪郭は夕もやのように揺らぎ、触れれば溶けてしまいそうだ。しかしその眼差しだけははっきりと咲良を見つめている。
「ジャスミン、どうして?ここにいるの?」
咲良が訊ねると、ジャスミンはゆっくりと立ち上がり、一度邸宅の方角を見てから、桜の枝越しに海の方角へ振り返った。その瞬間、空がわずかに煌めき、雨の気配など微塵もないにもかかわらず、水平線の上に淡い光の弧が浮かび上がった。一本、それに折り重なるようにもう一本。二重の虹だった。咲良は思わず呟いた。
「あ、あれは…。お母さまとジャスミンの…、あの絵と同じだ」
ジャスミンは首を縦に振るように小さく身じろぎした。咲良の胸のなかに、6歳ではまだ理解できそうもない不思議な意識が流れ込んでくる。
「ジャスミンが戻ってきたの?それとも何かを引継ぎに来たの?」
咲良がひとり呟きながら茫然としていると、咲良を呼ぶ山川和代の声が聞こえてきた。
「お嬢さま~。咲良お嬢さま~」
咲良はその声で我に返ったように、枝の脇から手を振って応えた。
「和代さ~ん、ここで~す」
振り返ると、目の前で座っていたはずのジャスミンの白い影は消えていた。




