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上之宮家の邸宅は2階建ての洋館で、明治の後半にフランスの貿易商の私邸として建てられたものを大葵が購入し、耐震補強を含めて改装したとのことだ。敷地面積は約200坪、建坪が100坪と云うから市内では類を見ない大邸宅である。正面の門をくぐると、切妻屋根の2階建て建物の正面入口に向かって真っすぐな道が通っている。その両側には四季折々の草花が植えられており、それらの開花を見ると、その時々の季節が感じられる。建物の正面入口扉は天井近くまで開く重厚さと開放感が味わえる。扉を開けたエントランスの右側に幅広の螺旋階段があり、左側には豪華な椅子やテーブルが設えてあり、応接ロビーのようなレセプションスペースになっている。その先へ進むと、大葵のアトリエがあり、さらにその先のギャラリーは長い廊下が続く美術館に見間違える。まるでベルサイユ宮殿の回廊をミニチュアに造ったかのようだ。
また、上之宮家のプライベートな生活圏は、主にエントランスの螺旋階段を上がった2階になるのだが、表の螺旋階段とは別に、このギャラリー奥の階段からも入ることができた。2階は3つのベッドルームと2つのゲストルーム、それにパーラールームとダイニングルームがある。このような環境で育てられたあたしは大した仕事もせず、邸宅と呼べるようなこの家で夫と今年5歳になる娘、咲良の3人で暮らしている。また、父の代から勤めてくれている山川和代が、上之宮家の家事全般を担っていることも忘れてはならない。
そんなあたしは最近よく父のことを思い出す。特にあの日のことは鮮明に覚えている。それはあたしが中学に進級した年の夏のことだ。夏休みに入ってすぐの頃だった。いつもようにジャスミンの散歩から戻り、玄関の庭先に設置されたガーデンシンクでジャスミンの足の汚れを洗っていると、父大葵が声を掛けた。
「今日もジャスミンは変わりないかな?」
菫が振り向くと、微笑んでいるいつもの父の顔があった。
「うん、大丈夫よっ!元気、元気!あたしはちょっと疲れちゃったけどね」
菫はシンク脇の庭石に腰を下ろしてジャスミンの濡れた脚を拭きながら、少し肩を落としている。
「ん?どうしたんだ?」
大葵は不思議そうな顔を向けた。
「だって、ジャスミンたら、海岸通りの公園へ行くと、いつもあたしを引っ張って走ろうとするのよ。リード突っ張っちゃって、そりゃもうたいへんなんだから」
菫は眉根を寄せて困ったような顔で訴える。
「そりゃ、仕方ないよ、菫。ジャスミンの本能だからね。ジャスミンも6歳になるから立派な成犬だ」
「本能って?あ、そっか。サモエドって元々雪ぞりとか引いてたそり犬だったんだよね」
ジャスミンはふたりの会話を理解したかのように〈ワンっ〉とひと声吠えた。
「菫、ジャスミンの手入れが終わったら、制服に着替えてアトリエに来てくれるかい?」
大葵は改まって菫を見た。
「ん?制服に着替えるの?いいけど…。なに?するの?どこかに出かけるの?」
菫は怪訝そうに訊ねた。
「待ってるよ」
菫の問いかけには答えず、玄関扉に向かって歩いていった。菫は自室に戻って制服に着替えた。菫の学校は相変わらず昔ながらのセーラー服とプリーツスカートだ。はっきり云ってあまり好きではない。
菫がジャスミンを連れてアトリエのドアをノックすると、すぐにドアが開いた。
「そうか…、もう夏服だったなあ。うん、そうだな。夏服のほうがいいか…。その椅子に掛けなさい。ジャスミンも一緒に…。うん、そう、それでいい」
大葵は独り言のように呟きながら、菫がアトリエに入るなり、壁際に寄せてあるイギリスアンティーク調のホールチェアを指差して頷いた。
「え?なに?まさかあたしがモデルさん?あたしを描いてくれるの?」
菫はいま座った椅子から、飛び上がりそうになるぐらい驚いた。
「ああ、そうだよ。菫もジャスミンも立派なレディになったからね。パーラールームのお母さんの横に掲げようかと思ってね」
大葵は微笑みながらデッサンを始めている。
「そうなの?でもちょっと恥ずかしい…。とか言っちゃダメなんだよね?モデルさんは」
菫は座り直して、横にいるジャスミンの頭を撫ぜながら座るよう指示した。
「Sit!」
ジャスミンは菫の顔を見て従う。
「うん、そうだよ。自分が一番って考えて」大葵は真剣な顔になって、ハイユニ鉛筆を走らせている。その真剣な顔のなかに、自然に表れる優しさのように浮かぶ微かな微笑みが今も忘れられない。
あたしとジャスミンがモデルとなったその絵は、いまパーラールームの壁に母の肖像画と並べて掲示されている。母の肖像画と同じ15号のフィギュアサイズの油彩画だ。父のアトリエでデッサンされたにもかかわらず、その背景には波の穏やかな海と真っ白なビーチが描かれて、その水平線の上には二重の虹が架かっている。




