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庭の桜はすでに満開で、少しずつ散り始めていた。花びらが1枚、パーラールームの窓辺に貼り付く。その向こうで白い影が現れ、もう一度だけ振り返り菫を見つめたように思えた。呼ばれなかったからではない。選ばれなかったからだ。白い影は音もなく、向こう側へ溶けるように消えていった。境界は閉じ始めている。まだ完全ではないようだが確かに戻るために。春は少しずつ夏へ向かっていた。
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咲良にとって初めての夏休みは何事もなく、海岸通りの喧騒も終わって、今日は静かになった日曜日の午後だった。咲良は庭でひとり、しゃがみ込んでいた。桜の木の根元に小さな穴を掘っている。そこへ何かを埋めるわけではない。ただ、土の感触を確かめるように、指先で掘り返しているだけだった。白い首輪はいつのまにか消え去っていた。少しだけ胸が痛んだが、咲良は泣かなかった。
「大丈夫…。あたしは大丈夫よ」
誰に向けた言葉でもない。自身に言い聞かせるつもりで呟いたのだ。背後で芝生を踏む音が聞こえた。
「咲良…」
振り返ると菫が立っていた。
「何してるの?」
「うん…、なんでもないよ」
咲良は立ち上がり、手についた土を払った。
「和代さんがお菓子焼いたから食べてほしいって。ちゃんと手を洗ってね」
菫は咲良のその仕草を見て、それ以上何も訊かなかった。
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夕刻、悠人が帰宅して、自身の部屋へ向かおうとすると、パーラールームの扉が開いていることに気が付いた。誰か来ているのかと訝しんだが、中を覗いても何ひとつ変わりはないようだ。しかし、何故か菫とジャスミンの肖像画が気になり、その前で改めて眺めてみた。海は静かで、白い浜辺が広がり、虹が二本きれいに描かれている。以前菫から聞かされたジャスミン逃亡劇のこともあり、また検分してみるが、そこに描かれたその白い犬は動く気配もない。悠人は一歩だけ前へ進んで軽く頭を下げた。礼をしたのか、別れを告げたのか、自分でも分からない。ただ、それで十分だと思えた。
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その夜、菫は幼い咲良が庭を走っている夢を見た。転びそうになりながらも、自分で立ち上がり、また走り出す。呼ばなくても、振り返らない。菫は夢の中で微笑んだ。




