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上之宮邸の庭の桜もそろそろ満開を迎えようとするある日、咲良は学校から戻ると、まっすぐパーラールームへ向かった。理由ははっきりしている。あの場所がいまの自分にとって静かなところだからだ。しかも今日は何となく呼ばれたように思えた。咲良が壁の絵の前に立って、白い首輪を差し出すと、それはわずかに熱を帯びて温かくなる。
「こんにちは~」
誰に云うでもなく挨拶すると、波の音が返ってきた。
〈ザァー、ザザァー〉
絵の中の海はいつもよりも近く感じた。咲良が一歩踏み出すと、床はもうフローリングボードではなかった。白い砂が敷き詰められ、それらが足の裏を優しく沈める。
「あれ?」
白い犬が少し離れたところに座っている。その背後の波打ち際に、見知らぬ女性が立っていた。母ではない。不思議と怖くなかった。淡い色の洋装で、どこか昔の絵葉書のような佇まい。咲良は何故かわからないが、その人を〈おばあさま〉だと意識した。
《はじめまして》
声は聞こえない。意識だけが届く。
《あなたが次なのね》
咲良は思わず首輪を胸の前で握りしめた。
「あたし…、まだよくわかんない」
その女性は微笑んだ。その微笑みはパーラールームのあの肖像画と確かに同じ微笑みだった。
《わからなくていいの。ただ覚えていてね』
《守られるということは選ぶことでもあるのよ》
白い犬が低く〈ワンッ〉と吠えた。波が強まり景色が揺らぐ。
《今日はここまでね》
そう意識が届くと同時に、咲良の足元の砂が跡形もなく消え去った。




