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<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

傷跡

作者: necol

 私は恋人の榎木に言い募られていた。

 私は疑われているのだ。三年前、宮内を苛めていたと。

 事の発端は、三年前、つまり私が中学二年生の時にまで遡る。

 全てはあの日の出来事から始まったのだ。


 宮内はもとからクラスでもイジられキャラだったのは事実だ。

 周囲から見ていても、宮内に寄ってくる奴らを友人と呼べるのかは微妙だった。

 悪ノリの範疇を越えたおちょくり方、ただでさえ口数少ない宮内が口を開いた時のツッコミと称した頭のはたき方は、ツッコミを超えて攻撃そのものだった。宮内はその都度、よろめいては「大丈夫かよ」とからかわれ、追い打ちで小突かれてはまたよろめいている。

 宮内はいつもふらふらふにゃふにゃしていて、女子の私から見ても可哀想という印象はとても持てず、頼りないし、声も小さいし、親御さんに「お友達になってあげて」とかもし言われたとしても「え、なんで?」と素で返しそうな想像しかつかない。

 宮内の友人と呼べるかが微妙な彼らのからかいの的が、私に飛び火しそうとかそういう恐怖心以前の問題として、そもそも宮内には近寄りたくない、なんか陰キャウイルス的な不気味な何かを感染されそうで怖いという、誰一人として口にしたことさえないそんな感想が、女子の間で共通認識と化していたと思う。

 その日も、宮内にはいつもの奴らが蝿のようにたかっていて、

「宮内って好きな女とかいんの?」

 とかへらへら笑っている。

 奴らは感染るのが怖くないんだろうか。いや、奴らは奴らで何かの保菌しているかもしれない。

「宮内はそういうキャラじゃないっしょ、なあ。でも実際どうなん?」

「言っちゃえよ、クラスのみんなも気になってんじゃん?」

 同意を求めるようにキョロキョロとクラスを見回す奴らに、目を合わせようとする者は誰一人としていなかった。

「中西とかじゃない?」

「マジ!? 宮内お前、中西好きなの!? 中西、悲惨~」

 蝿たちは、沈黙を守っている宮内をいいことに好き放題言って楽しんでいる。

 宮内は何やらぼそぼそと話しているようだが、こちらには到底聞こえてこない。

 蝿の一人が耳に手を添えて、

「え? え? なになに、僕が好きなのは藍原ですって?」

「マジで! 藍原好きなんだ、ちょーウケるんだけど」

 まさかの私の名前が出てきた。まじウケるんですけど。どう考えても蝿どもがノリででっち上げた捏造だ。それにしても自分の名前が出てくるというのは、とても気分のいいものじゃない。

「おい!今なんつった!!」

 と、立ち上がったのは私、ではなく茅野さんだ。

 茅野さんは私とは特に仲がいいとは言えないクラスの女の子。口が悪いところがチャームポイントな、ショートカットの不思議ちゃんだ。

 茅野さんは蝿どもの言葉の何かが逆鱗に触れたらしいが、突然立ち上がって歩み寄ると蝿を払って、宮内の胸倉を掴みかかった。

「今なんつった、てめぇ! もういっぺん言ってみろ、このやろう!」

「い、いや、僕は何も……」

 今日初めて耳にした宮内の声はそんな言葉だった。

「……きめぇんだよ」

 それ以来、茅野さんは何かにつけて宮内に突っかかるようになった。宮内が歩いていると足を引っ掛けて転ばせたり、体育のある日に体操着に牛乳をぶっかけたり、隠したりしていた。宮内の近くを通りかかるたびに何か小声で悪態をついたり、背中を肘で絶対痛いだろう角度と勢いで小突いたりしていた。宮内はその都度、呼吸困難になるほど痛がり、息を吸おうと必死になっていた。

 茅野さんをキッカケに宮内には蝿がたからなくなったが、日に日に宮内は背中は丸まり、小さく縮こまって歩くようになった。誰が近づくにしても凍えるようにビクビクするようになり、それでも茅野さんは構わずやり続けていた。

 そのうち宮内は休みがちになった。最初は月曜日だけだったのが、だんだん増えていき、休みのほうが多くなっていった。そのまま宮内がいないのが当たり前になり、いてもいることに気付くことはなくなった。

 茅野さんは宮内がいない日は、それが当然のように落ち着いていた。正直、私は茅野さんが恐ろしかったが、茅野さんは私に少しずつ話しかけるようになった。

 まるで宮内の件も何もないかのように。

 まるで気さくに「友達になろうよ」と声をかけるかのように。

 友人からは「茅野さんなんか情緒不安定じゃん。絶対近づかないほうがいいよ」などと言われたが、私に話しかける時は、宮内への態度が嘘のようにオドオドしていて、なんだかみんなが畏れているガキ大将を掌握したようで悪い気はしなかった。

 茅野さんがいない時は、今まで通り友人たちは接してくれる。逆の立場だったらきっと同じようには接し続けられないと思う。

 この子たちは茅野さんという謎の後ろ盾を持つようになった私のことが恐ろしくはないのだろうか。放課後、話し込んで遅くなった日のトイレでも、平然と談笑し、親しげに肩に手をかけてコロコロと笑い声を立てるこの子たちは、いったい何を考えてるのだろうか。

 私はいつの間にか、この子たちのいつもと変わらぬ笑顔の裏側に何かあるのではないかと探りを入れる思考の癖ができていた。

 私はくすくす笑いながらその子たちとトイレを後にした時、ふと視界の端に茅野さんをとらえた気がして振り返った。

 茅野さんもトイレかな、と思ったが、どうにも違和感を感じたからだ。

 茅野さんらしい人影は私たちが出てきた女子トイレではなく、隣の男子トイレに入っていった。

「ごめん、先帰ってて」

 と言い残して、私はトイレに取って返して、男子トイレを覗いてみた。

 茅野さんの背中がそこにあった。奥に立っているのは宮内だ。左右交互に肩を小突かれて、狭いトイレの奥のほうに鼠のようにどんどん追い込まれている。

 いつもと様子が違うのはむしろ宮内のほうだった。宮内は茅野さんに小突かれる度に大袈裟に見えるほどよろめくが、宮内は宮内で大真面目な顔して小突き返してくるのだ。そんな反撃にもターミネーターのように微動だにしないどころか、宮内のほうが逆によろめいている始末だ。

 にも関わらず、いつもの汚らわしい小さな害獣が威嚇しているだけに留まらない、窮鼠猫を噛むその姿がどこか空恐ろしく感じた。

 私は茅野さんに駆け寄り、

「茅野さん、もういいじゃん。行こう……」

 私がそう声をかけた言下、茅野さんの気がそれた一瞬を宮内は見逃さなかった。

 宮内はポケットから小刀を取り出し、それを茅野さんの腹部にめがけて突き立てたのだ。私は、図画工作の授業で見慣れたその教材が、これほどまでに敵意で満ちているのを初めて目にし、足がすくんだ。宮内の身体の動きはもはや威嚇などではなく、その目は確かに茅野の腹部をその刃で突き立てる瞬刻先の未来を見据えていた。

 自分に向かってくるその小刀の動線を、茅野さんは映画のワンシーンのように手刀で軽やかにそらした。しかし残念なことに、私の動体視力がそれについてはこれなかった。私が茅野さんを庇おうと茅野さんの身体を押し退けた時、宮内のその軌道は完全に私の腹部に向き直ってしまったのだ。

 茅野さんの顔に浮かぶ驚きの表情が、ふいに私に押し退けられたことによるものではないことを、私は直感的に理解した。このままでは小刀の向かう先はひとつ、私だ。

 すとっと小気味よい音が聞こえてきそうな呆気なさで、まるで小刀が鞘に収まったかのように、小刀の刃は私の腹部に沈み込んだ。

「ま、間違った……」

 まるで記入する解答欄を間違えたような声音で呟き、消しゴムで消すような感覚で当然のように小刀を腹から引き抜く。

 ずずっという感触とともに腹の中に埋め込まれていたものが抜き出される。その感触とともに、ぶわっと油に溶けた鉄錆の臭いがトイレ中に吹き出した。一瞬前と違い、その刃は鮮やかな朱にどろりと染まっている。

 とたんに眠っていた赤ん坊が突然喚き出すように、私の痛覚は目を覚まし、灼けつくような痛みが私を襲った。

「ふぅ…っ、うぐっ」

 と女の子らしからぬ呻きが私の口元から漏れ出た。

 宮内はそんな私に目もくれず、刃先を茅野さんに向け直した。

「っ……! てめぇ!」

 茅野さんは小刀を持つ宮内の腕に、信じられない勢いで見事なアッパーカットを繰り出した。

 その拳を受けた腕は反動で振り上げられ、勢いよく放り出された小刀は天井に跳ね返った。腕が後ろのタイル張りの壁に叩きつけられた音にワンテンポ遅れて、からんからんと小刀の転がる音が軽やかにトイレ内に響き渡った。

 私の記憶はそれからぼんやりとしている。私は茅野さんに保健室に連れて行かれ、そのまま病院に運ばれて手当を受けたようだ。曖昧な意識の中、茅野さんを格好いいと思ったことはあまりにも不謹慎と言わざるをえず、私の中で黒歴史として密かに胸に刻み込まれた。

 それ以来、茅野さんとの名前の付かない関係は続いた。“よっ友”のようでもあるが、茅野さんという人にとってはそういう友人付き合いが限界だったのかもしれないとも思う。でも、腹部の傷が治るまでの入院の間も毎日のようにお見舞いに来てくれて、傷が残らないか自分のことのように心配してくれていた。

 茅野さんのオドオドした態度は相変わらずで、私が他の友人たちと一緒にいる時は近づいてこず、話しかけられる時は決まって一人の時だった。


 高校に進学すると、信じられないことにまた同じクラスになった。何の因果因縁によるものだろうか、そもそもこの高校の偏差値は私にとっては普通でも、茅野さんにとってはかなり敷居の高いものだったように思う。

 しかし、その“一緒のクラスになった”ということが思わぬ変化を私たちにもたらすことになった。

 私は同じクラスや、違うクラスに自然と新しい友人が増えていったが、茅野さんは違っていた。

 茅野さんは、私から見れば“個性的な修羅系不思議ちゃん”だ。しかし、周りから見れば下手すれば宮内と紙一重。あれだけ“アウトロー”な空気を醸してはいるが、所詮無口な中二病なのだ。

 茅野さんは相変わらず私が一人の時に限って話しかけてくる。私の方から気を利かせて、一人になってあげたりして茅野さんとの時間を作ってあげている節すらあった。

 だが中学の頃とは違い、ちょっとした変化が訪れた。無口な不思議ちゃんがたまに私と話す様子を見て、クラスのとある陰キャが同じ匂いを嗅ぎつけ、二人で話している時には輪に加わってきたのだ。

 その陰キャは西森という子で、私らと話す以前は誰かと話しているのを見たことがなく、私らと話すようになってからも私ら以外と話すのを見たことがなかった。陰キャのサンプルのような子だ。

 私が二人と話している時は周りの友人たちは気を利かせて話しかけてこないし、他の友人と話していると二人は話しかけてこない。私の周りの友人関係は相互無関心という絶妙な互譲互助のバランスの上に成り立っていた。

 西森と茅野さんと三人で、相変わらずの盛り上がってるのか盛り上がってないのか判断の難しい歓談を楽しんでいる時、西森の振った話題に私と茅野さんは凍りついた。

「藍原さんと茅野さんって何がキッカケで仲良くなったんですか?」

 おそらく西森はもっと三人の仲を深めたくて、一歩踏み込んだ話題を繰り出したのだろう。しかし、その質問で私たちが思い浮かべたのは、ある男子への陰湿な苛めであり、傷害事件にまで発展した、“キッカケ”というよりむしろ“元凶”というに相応しい出来事だった。

 私と茅野さんは“それは聞いてはいけないよ、西森ちゃん”という顔を隠しきることができなかった。

「いえ、いいんです! 言いたくないなら、別に。お二人って全然違うキャラなのになぁと、私ももっとお二人みたいに親しくなれたらなぁと思っただけですから……!」

 手をぶんぶん振って遠慮の姿勢を示す西森を前に、茅野さんと目を合わせた。“じゃあ遠慮なく秘密にさせてもらうよ”などと言えるわけもないことに西森は気付かないのだ。こういうことを確信犯的にやってのけるのが陰キャの真骨頂だ。

 宮内苛めの件が明るみになって困るのは実際のところ、茅野さんだ。だから私は押し黙っていた。誰しも皆、知られたらマズいことのひとつはある。しかし西森がこの秘密を受け入れてくれたら、茅野さんが胸襟を開いて話せる人間が増えることにもなる。それはそれで、茅野さんにとっても僥倖なのかもしれない。茅野さんもそう思ったのだろうか、少し間を置いて口を開き、訥々と話し始めた。

 茅野さんの目から見れば、宮内は苛めの被害者ではなく、精神的加害者のベクトルを持っていたということに、私はこの時初めて気付かされた。けど私が気付いていないものは、それだけではないらしかった。

 茅野さんの話を聞いていて、どうにも嵌らないピースがあるような気がしてならなかった。

 茅野さんがあの時怒鳴った話も、陰湿にも宮内を追い込み続けた話も、茅野さんの口から出ると、“宮内は何か画策していてそれを阻止するために必要だった”とか、“放置すれば危殆に瀕することになる”とか、そういうことを確信している印象を受けずにはいられなかった。

 ただひとつ言えることは、西森にとっては必ずしもそうは受け取られないだろうということだ。彼女の表情を見る限り、“茅野さんは自分に正当性があると考えればそんな陰湿なこともやってのけるのか”と考えているのが、彼女の寄せられた眉根にも、引き攣った頬にも、怪訝な目元にまできっちり書いてある。

 それはまるで、宮内側に感情移入しているような、最後には蛇に睨まれた蛙でも一矢報いることができるという希望の物語を聞いているようでもあった。

 その日から西森は私たちに話しかけることには消極的になり、中途半端な友人関係は綺麗に自然消滅の一途を辿った。


 学年が上がり、二年生になり、私は晴れて恋人という人間関係を経験することになる。

 西森が寄り付かなくなって以降の私の交友関係は、健康を取り戻したといえる。

 周りからの茅野さんを見る目と西森を見る目は明確に違うものだったと、快癒した交友関係が語っていた。茅野さんと私が一緒にいる様子は、沈黙の中で心を通わせているような閑静で静謐な空気を纏っていたのに対し、西森がそこに加わると静けさという意味では同じでも、薄氷の湖に立つような危うさを感じさせた。茅野さんなら憩いの場、西森だと稽古の場くらいの違いがあり、バランスしていた私の友人たちも「近寄りがたい」の意味がまるで違っていたという。

 陽キャ側の友人たちは、まるで私の復活祭でも祝うかのように、私の周りで遺憾なく陽キャっぷりを発揮して、同性が中心だった私の周りに異性の友人を呼び寄せた。

 その中に榎木がいた。

 彼が私を狙っていた頃、私を狙う男どもは他に二人ほどいて、私を巡って見苦しい鞘当が繰り広げられていた。

 周りから見れば三人もの男から言い寄られることに羨望の思いを寄せられたところだが、当の本人からすればそれは迷惑千万としか感じないものだ。やるならやるでもっと理性的に、平和的に宥和的にことに挑んでほしいものだが、我勝ちに相手を押し退け合い、相克する姿はとてもみめよいものとはいえない。

 その中でもいち早く、目を覚ましたのが榎木だった。

 もともと大人しい性格というのもあり、私をめぐる干戈には遅れを取っている感があったが、むしろそれは私には頭一つ抜ける印象を与えることになった。あとの二人が一人脱落と解釈するや、北風と競う太陽のように私をかっさらっていったのだ。

 しかし恋愛における交際の開始は、受験における入学と同じで、そこから先が本番だ。榎木が気を張り詰め始めたのは、むしろそれからのことだった。少し距離を取って、ハイエナのように睨みを利かす二人がいる。彼らに狙われながらも、私に対して迎合的にならない程度にリードする姿勢を示し続けなければならないのだから。そして慣れない緊張から榎木のメンタルは捻れていった。

 それを最初に感じたのは、私が茅野さんとお昼を食べている時だった。別のクラスである榎木でも、私が茅野さんと親しくしていることは知っているはずだ。なのにその時はじっと私たちの様子を見定めているような目線だった。私がその目線に気づいた時それが榎木だと分からず、背筋が粟立つのを感じたほどだった。

 次に感じたのは「俺に何か隠してることとかある?」と問いかけられた時だった。

 私はそれがどういう意味なのか理解できなかった。人間、それが秘密であろうがなかろうが、なんでも腹蔵なく話ができるわけではない。この男はそんなことも知らないのか、お子様め。なかんずく恋愛なんてものは、相手に疑いの目を向けてしまえばそこで試合終了なのだ。正直、“ないと思う?”と呆れ顔で返してやりたくなったが、彼のその目は私ではなく亡霊でも見ているようで、私は言葉を飲み込んだ。

 三度目に感じた時、それは同時に私にとって決断の時となった。

 昼休み、私が廊下の窓から外を漫然と眺めていると、渡り廊下の端で榎木が誰かと話しているのが見えた。ここから見ている限り、揉め事のようだ。

 相手の女子生徒に何かを訴えられている。榎木は少し圧倒されているようだ。いや、その女子生徒の発言に戸惑っているようにも見える。言い返そうとしている榎木に対し女子生徒が、言いたいことは言い終わったとばかりに立ち去り、そのままこちらの校舎のほうに向かってくる。

 あの歩き方、あの髪型、遠目で分かりづらかったがどうやら茅野さんのようだ。

 私は三年前のことを思い出し、背筋に冷たいものを流れるのを感じた。あの時も、茅野さんを端に発した言いがかりから宮内への陰湿な嫌がらせが始まったのだ。また榎木をターゲットに、始まってしまったのではないか。

 茅野さんが何食わぬ顔で教室に戻ってきて自席に座った時、それを目で追うことしかできなかった。

 その日の放課後、私の席にやってきたのは榎木ではなく、私を狙っていた二人のうち一人だった。上木戸という距離感の微妙な男子で、精神的にも物理的にもパーソナルスペースに片足をいつも突っ込んでくる、立ち位置が妙に不快な男だ。

「お前ら、喧嘩でもしてんの?」

 上木戸は私の机に何気なく手をついて、そう問いかけてきた。この手だ。その姿勢でここに手をつかれると、私の顔との距離が絶妙に近づく。そしてそれにより、私の不快指数が無駄に上昇するのだ。

 私は眉間に皺が寄らないよう注意を払いながら、その問いの理由を尋ねた。

「いや榎木のやつ、今日ずっといつになくソワソワしているというか、イライラしてるみたいだったから」

「それがなんで私のせいだと思うのよ」

「いや、だってお前のことも何か言ってたから。よく分かんねぇけど、『苛め』とか『刺した』とかなんとか」

 その言葉に私の胸が途端にざわめき出して、思わず茅野さんの席に目を向けた。

 茅野さんの姿はもうない。

「ホームルーム終わったら、いつもは絶対絡まねぇような陰気なクラスのヤツ連れてどっかいっちまったよ。なんか知らねぇの?」

「……心当たりないけど。榎木くん、もう帰った?」

「さあ。カバンは残ってるから、まだ帰ってはないんじゃね」

 私は急いで席を立ち、榎木を探し始めた。きっと茅野さんが何か吹き込んだんだ。その陰気なクラスメイトの件も、それに関係あるに違いない。

 私は校舎内外を走り回り、思い当たるところを探し回った。スマホでDMを入れてもなかなか既読にならない。心当たりのある校舎内のスポットや、校舎の影に目を光らせつつも、スマホが気になってしょうがなかった。

 茅野さんは去年、西森に例の件を話した。どういう意図だったのか分からない。ただ言えることは、友人を失うことが分かっていて、もしくは分かっていなかったとしても、それでもあのことを包み隠さず話してしまう子だということだ。昼休みに茅野さんが榎木に話していたこと、あれが宮内の件で事実をそのまま話していたのだとしたら、蝿の一言でむやみに仕立て上げられたとはいえ、私は苛めの関係者であり、苛めの傍観者であり、苛めをキッカケに加害者と仲良くなったその友人なのだ。私が高校生活の中で築き上げてきた友人関係は間違いなく崩壊するだろう。

 私がもだもだと思い倦ねていると、スマホが間抜けな音を立ててDMの着信を通知した。榎木かと思い急いでメッセージを確認してみると、別の友人からだった。拍子抜けして未読スルーしようかと思ったが、メッセージの一部に「上木戸から聞いたんだけど……」という表示が目に入った。

 私がその通知を開くと、

『……、榎木くん探してるって? 誰かと用具置き場のほうに行ってたけど……』

 というメッセージが続いていた。

 私はそれに適当なスタンプで返信すると、体育用具置き場に向かった。

 用具置き場の裏手のほうに回ってみると、榎木が立っているのが見える。その向こうに立っていたのは、宮内だった。

「え……、宮内? なんでここに?」

「あんた気付いてなかったみたいだけど、宮内、あいつもこの高校通ってるんだよ。腹立つ……」

 後ろに立っていたのは茅野さんだった。

「ひぃ……っ!!」

 突然背後に現れた茅野さんに驚き、うわずった声を漏らしてしまった。

 私は咄嗟に口を押さえて、声が漏れるのを最小限に抑えた。どうやら榎木たちにはまだ気付かれていないようだ。

 目を見開いて振り返る私に、

「宮内があんたの彼氏と一緒にいたから、気になってつけてきた」

 と茅野さんが自分の状況を説明してくれた。

 そうしている間にも榎木たちの会話が進んでいる。

「藍原さんたちが君のことを苛めてたなんて嘘だったじゃないか! 君の被害妄想じゃないのか!?」

「し、信じないなら僕は、かか、構わないさ。ただ事実はじじ、事実だ。それだけのことさ」

 宮内が喋ってる。喋るどころか、宮内が自分の考えを訴えようとしていることに三年前からの成長を感じる。

 だが、私は出遅れてしまった。

「いやいや、嘘でしょ。そいつ嘘ついてんじゃん。藍原は何もしてないっしょ」

 と空気を読まずに割って入ったのは、成長しない、しゃしゃる女こと茅野さんだ。まったく陰キャっていうのはどうしてこう……。

 その声に振り返る榎木が発するのは、

「藍原さん、どうしてここに……?」

 ほら、榎木も驚いてる。だが榎木も今はそれどころではない。

「藍原さん、いったいどういうこと? そこの茅野さん? に聞いたんだけど、君は苛めには加担してなかったって。でも宮内くんからは……」

「そうだよ! だからそう言ってんじゃん!」

 となおも主張を続ける、我慢を知らない我らが茅野さん。

 え、言っちゃったの、苛めのこと? 正直かよ。

 でも私にしてみれば正直にはなりきれない。なにせリアルタイムで加害者と友人関係を築きつつ、状況を把握した上で何もしなかった。完全な部外者とは言い切れない。知れ渡ってただじゃ済まないのは茅野さんだけではないのだ。

「本当のところ、どうなんだ? もし苛めに加担してたんなら、これ以上一緒にいられない」

「私は……」

「宮内くんから全部聞いたよ。君がなんでそんな君らしくない子と仲良くしてるのか、ずっと疑問だったんだ。そういう理由があったんだね。まさか苛めに加担して、あろうことか宮内くんをナイフで刺すような人だったなんて」

 ちょっと待て。なんかとんでもないことになっている。

「違う!」

 まさか宮内のやつ、ここまであることないこと吹き込んでたとは。でも、私が二の句が継げなかったのは、それに絶句したからではなかった。

「でも茅野さんからは全部自分がやったし、藍原さんはナイフを刺したんじゃなくて、刺されたんだって聞いてる。どっちの言うことが本当なんだ? どっちを信じたらいい? 君の口から聞かせてくれないか」

 私への信頼は宮内以下だとばかりに、面と向かってこう言い放たれたからだ。

 昼休みに茅野さんが揉めてたのはそれを伝えるためだったのか。茅野さんのおかげで、まるで榎木は中立な立場で裁定を下そうとしているように見えるが、実際のところ、物言いからして宮内の意見にかなり傾いているのは間違いない。それもそうだ、どちらにしても茅野さんは苛めた側、それに変わりはないのだから。

「私は……」

 隣りにいる茅野さんに目を向けた。

 正直何を考えてるのか分からないこの女の子は、中学二年からの腐れ縁だ。

 私が刺された時のあの表情は、今でも覚えてる。あの時の驚きの表情の真意は私には推し量ることしかできないが、私を守りきれなかったという気持ちの現れだったのかもしれない。

 私が刺された後、宮内の腕にかましたアッパーカットの一撃は、私を傷つけた宮内への怒りの現れだったのかもしれない。

 入院中も毎日お見舞いに来てくれたのは、優しさだったのか、罪滅ぼしだったのかは分からない。

 でも茅野さんは、安定した人間関係の危うさを教えてくれた。茅野さんと一緒にいたから、危うい人間関係の安定さを知ることができた。

 オドオドしてるのに格好良い、恐ろしいのに大切なこの女の子の目の前で、私はそんなことが言えるのか。茅野さんが“正直を告げる”側だということに甘んじて、私は言えるのか。私は無罪で、有罪はこの子だけだ、と。

 私は宮内の顔を確認した。

 宮内は「チェックメイト」とでも言うかのように、やに下がった表情をこちらにさらけ出している。私はそんな宮内の仕掛けた勝負に真っ向から挑む気などなかった。

 私は腹を決めて口を開いた。

「そうだよ。あんたの考えてる通り。私が宮内を苛めてたし、刺しもした。そいつのお腹にその時の傷、残ってるんじゃないかな」

 そんなものあるわけがなかった。だって私は宮内を刺してなんていないんだから。

 それが私の榎木に対する、そしてその向こう側にいる全ての陽キャグループの友人たち、もとい友人だった者たちに対する最後の悪あがき。

 “そいつの腹を見てみろよ。そこにそいつの嘘の全てが詰まってる”という彼らへのラストチャンス。

 でもそれは榎木には、“見るまでもない証拠がしっかりそこに残っている”という自供にしか聞こえなかった。

 榎木は憮然として嘆息した。

「やっぱり、そうか」

 私はなんとなく左脇腹の傷が疼く気がして、思わず制服の上から左手で押さえた。

「じゃあ私たち、もう行くね」

 私は榎木にそう最後に伝えると、茅野さんに目を向けた。茅野さんは私にも、榎木にも、なにか言いたげな顔をしているのが分かる。私は踵を返して、そんな茅野さんの肩に手をかけた。

 茅野さんは宮内を指さしながら、

「宮内! お前があん時言った言葉、まだ忘れてねぇかんなっ!」

 そう最後に息巻いて、私の後に続いた。


 翌朝、いつものように教室に入ると、教室の雰囲気はガラリと変わっていた。

 昨日まで私を取り囲んでいた陽キャたちの楽しげな視線は、掌を返すように今や殺伐としたものに変貌を遂げている。

 ひとつひとつは裁縫用の針のように小さくても、確実に狙って飛んできてチクチクと攻撃してくる槍衾のようで、それでいてこそこそとした視線だ。それをかいくぐるようにして、私は茅野さんの席に向かった。

「見てよ、みんなのあの目線。こんな急に変われるもんなんだね~。私、今日中にまた誰かに刺されると思うよ」

「は? 何が? いつもと変わんないじゃん」

 茅野さんはいつも通りぶっきらぼうに答えるが、その真意が“あたしには関係ないことだ”という意味なのか、それとも“あたしがいるからお前は大丈夫だ”という意味なのかは計りかねた。ただ少なくともいえることは、茅野さんのその相変わらずの態度に、この事態を楽観視できるほどの安心感を私は感じているということだ。

 そうかと思うと、今度は茅野さんがすこしはにかむように後頭部を掻きながら、

「その、えっと、あたしちょっと考えたんだけどさぁ」

 と言い出した。私は照れくさそうに言い淀む茅野さんが何を考えているのか分かる気がした。

 その日の昼休み、隣のクラスの端っこで、自席なのに妙に縮こまってもそもそ昼食を摂っている西森に話しかけた。

「西森ちゃん、おひさ。一緒いい?」

 西森は怯えた表情を私に向けた。私が引き連れてきた大量の視線が、日陰者の西森を鋭く照らす。この針の筵は、西森に一瞬で拒否反応をもたらした。

「え、あ、いや、せっかくなので外でどうですかっ……!?」

 席を立ち、教室からそそくさと遁走する西森に私たちはついていった。

 たどり着いたのは、校舎の裏手にある寂れた花壇。花壇といってもその面影は絶無で、雑草が生い茂り、縁石はただの段差と化している。校舎の裏手で近くに窓もなく、一日中陽の届かない場所。こんなところ教師に見られたら、そこにいるというだけで怒鳴られて目をつけられそうだが、陰キャにとってこの環境はすこぶる居心地が良さそうだ。

「お前、いつもこんなところにいたのか」

 と茅野さんが呆れたのは、ここまでの西森の足取りに迷いがなかったからだろう。西森にとってはいつもの場所なのか、通ってきた経路は私が分かる限り教室からの最短ルートだった。

「はい、人気がなくて静かなので。……それにしても今日は、ずいぶん噂になってましたね」

 西森が腰をかがめて花壇の縁石に座ると、私たちもそれに倣って座った。

「あ〜聞いちゃったんだ」

「はい、でもあれ、間違ってますよね……」

 さすがに噂になる前から話を聞いていれば、流言に振り回されることはないらしい。

「そうなんだよね~。でもそうするしかなくてさ」

「あの噂、藍原さんが流したんですか?」

「アイツのせいだよ、宮内っ……」

 茅野さんは舌打ちめいた調子でヤツの名を吐き捨て、

「ていうかあったろ、他にもっと……。なんで本当のこと言わなかったんだよ……」

 と、ついでに私にも不平を漏らした。

 そんな茅野さんを尻目に、私は事の顛末を西森に話し始めた。

 交際をキッカケにした榎木の躁動、宮内の詭弁、茅野さんの猛進、私の選択。そして訪れたこの騒擾。

 その騒擾もここでは校舎のコンクリートの壁に阻まれて、私たちには届かない。

「……お腹の傷ってまだ残ってるんですか?」

「残ってるよ~。ほれ」

 私は制服の裾を捲ってみせた。私の玉のようなお腹の端っこに縦に数センチの瑕が刻まれている。

「あぁ……ごめんなぁ」

 この話題になるといつも見せる、茅野さんのこの表情。これを見るのは久しぶりだ。茅野さんは毛羽立ちをそっと整えるように私の傷を撫でた。

「くすぐったいんだって」

 私は身を捩り、抵抗するように裾を戻した。

「そうだ! 西森ちゃん、連絡先交換しようよ」

 スマホでアプリを開いてみせた私に、西森は視線を泳がせた。アプリ内には多数の陽キャたちからのDMが未読のまま残されている。

「……すみません、私、怖くて……」

 震える西森の声は、なんだか私に助けを求めるように見えた。

「私、前に苛められてて。連絡先とか、また変なふうに使われたらって……それが」

 西森の手は、ポケットにあるのであろうスマホの存在を確かめ続けている。

「すみませんでした、前も、勝手に距離を取ってしまったり……。お二人を信じたいのは本当なんですけど、どうしたらいいか分からなくて」

 なんだか唐突に重い雰囲気になってしまった。俯く西森に、“別に責めてないが……”などとツッコめる空気ではない。

「そっか、えっと……」

 どうしてこうなった。沈黙がとても痛い。

 言葉を選び続ける西森に私は、

「そんなに気にしないでいいって。……ほら、私は刺したりしないからさ」

 代わりにサムズアップとともにちょっとおちゃらけてみるが、西森の表情はさらに固くなってしまった。

 万年日陰の校舎裏に爽やかな風が通り抜けて、西森の重く野暮ったい髪が風に揺れた。

 長考の末、引き結ばれた西森の口元が決然と開き、

「……今度は、私が刺すかもしれないですよ」

 と、語られたのはほぼ犯行予告だった。たしかに中学の再現をするなら西森が刺す側にはなるが……。

 私に何の恨みが? それともまさか、渾身のギャグなのか? めっちゃ考えてそれかよ。笑えないんだが。

 何て返したらいいんだよ。もしかして実は、さっきの私も西森に同じ思いをさせていたのか? これは意趣返しなのか?

「……こ、こえ~よ」

 と、なんとか西森の発言をギャグとして昇華させることに成功したが、

「そんときもあたしが、体幹を弾ませた素晴らしい体捌きでアッパーかましてやるよ」

 茅野さんは、それすらもかっ飛ばすシャドーボクシングを軽やかにキメる。

「こわいですって! あ、こわいのは私ですね」

 西森は、怯えと笑いが渾然と混じるツッコミを入れる。

 人気のない日陰の湿った空気に、茅野さんのステップで舞い上がった土の匂いが入り混じり、盛り上がってるのか盛り上がってないのか判断の難しい私たち三人を包み込んだ。

 私たちの関係はこれからも危うそうだ。

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