表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

終わりのない物語:この部屋の宿命

作者: Tom Eny

有名作家が住んでいた部屋


引っ越しはいつも、新しい自分に出会うようなものだ。段ボールに詰め込まれた過去と、広がるばかりの未来。今回の引っ越しは、そんな感傷を一層深くする特別なものだった。新しいアパートは、築年数こそ経っているけれど、どこか古民家カフェのような趣がある。そして何より、ここに、かつて若かりし頃の有名作家、神崎彰が住んでいたというのだ。


「へえ、ここがあの神崎彰先生のアパートですか」


不動産屋の小柄な女性は、私の感嘆の声に満足そうに頷いた。


「ええ、そうなんです。先生がまだ芽が出ない頃、ここで創作活動をされていたと聞いています。もしかしたら、先生の『何か』が、まだこの部屋に残っているかもしれませんね」


その言葉に、私の胸は静かにざわついた。小説を書くのが趣味の私にとって、神崎彰はまさに雲の上の存在だ。彼の作品は、常に私の創作意欲を刺激し続けてきた。そんな神崎彰が住んでいた部屋で、私もまた小説を書くのだ。考えるだけで、全身が熱くなるような興奮を覚えた。


引っ越し作業を終え、がらんとした部屋に一人座る。使い込まれたフローリングは、特定の時間になると、まるで過去の住人の足音のように軋む。少し煤けた壁からは、古い壁紙の破れ目から、ほんのりと古びたインクの匂いが漂う。年季の入った窓枠から差し込む光は、刻一刻と表情を変え、部屋の中に時間の移ろいを刻んでいた。どれもが、神崎彰の息吹を感じさせる。この部屋で、彼はどんな物語を紡いだのだろう?どんな葛藤を抱え、どんな喜びを感じたのだろう?想像するだけで、私の心は満たされていった。


夢が紡ぐ物語と募る疑念


そして、翌朝。


目覚まし時計が鳴る前に、ふと目が覚めた。まだ夢の切れ端が脳裏に残っている。それは、荒廃した未来都市を舞台にした、壮大なSF小説の一場面だった。錆びついた高層ビル群、空を覆う灰色の雲、そして、その中で懸命に生きる人々の姿が、鮮明に脳裏に焼き付いている。


――なんだ、このアイデアは?


これまで、こんな具体的なイメージが夢から覚めてすぐに浮かび上がったことなど一度もなかった。しかも、私の普段の作風とは全く異なるジャンルだ。しかし、そのアイデアは、まるで熟成されたワインのように、複雑で深みのある香りを放っていた。まるで、誰かが私に授けてくれたかのように。まさか、これは、かつてこの部屋に住んでいた有名作家、神崎彰からの授けものなのだろうか?


その日から、私の朝は劇的に変わった。毎朝、夢から覚めると、必ず一つ、鮮明な小説のアイデアが浮かぶようになったのだ。ある日は、古びた洋館に隠された財宝を巡るミステリー。またある日は、田舎の小さな村で起こる奇妙な出来事を描いたホラー。時には、切ない恋愛物語や、熱い友情の物語が、まるで誰かに語りかけられているかのように脳裏に響いた。


私はその都度、夢の続きを書き留めた。パソコンに向かい、アイデアをメモし、時にはそのまま物語の冒頭を書き始めることもあった。自分でも驚くほどの速さで、いくつもの物語が形になっていく。それらはどれも、これまでの私の作品とは一線を画す、斬新で魅力的なものばかりだった。


喜びと同時に、しかし、拭えない疑念も募っていった。「これは本当に、自分のアイデアなのか?」書き進めるほどに、神崎彰の独特の筆致や、彼の作品に共通するテーマが、まるで自分に乗り移っていくような奇妙な感覚に陥る。もし、この作品を発表して、後に神崎彰の未発表作だと判明したら、自分は詐欺師になってしまうのではないかという恐怖が、創作の喜びを蝕み始めた。神崎彰の既存の作品を読み漁り、自分の書いているものが彼の未発表作に酷似していないか、私は夜な夜な確認した。


毎朝の夢は、もはや単なるインスピレーションではなく、強迫観念のように感じられるようになった。アイデアが浮かばない日には、鉛のような焦燥感が全身を支配し、いてもたってもいられない。夜中にふと目が覚めても、夢の続きが頭を離れず、執筆に取り憑かれたように机に向かう。心身ともに疲弊していく中で、私はこの現象を**「呪い」**とさえ感じるようになっていた。この部屋が、私に書かせているのだと。私はただの道具なのかもしれない、と。


押し入れの秘密と偽装された継承


そうして、あっという間に一年が過ぎた。この部屋に引っ越してきてから、私の創作活動は信じられないほど充実していた。書き溜めた原稿は、ダンボール数箱分にも及んでいた。


ある日、私は大掃除をすることにした。特に気になっていたのが、めったに開けることのない押し入れの奥だ。雑多な荷物をどかし、一番奥に手を伸ばすと、埃をかぶった木箱が見つかった。木箱の表面には、年輪のように刻まれた無数の指の跡があった。


「なんだ、これ?」


箱を開けると、中にはぎっしりと古い原稿用紙が詰まっていた。丁寧に紐で閉じられ、表紙には手書きのタイトルが記されている。


「えっ……?」


思わず息を呑んだ。そこに書かれていたタイトルは、私がこの一年で書き上げてきた物語のタイトルそのものだったのだ。震える手で原稿用紙をめくる。そこには、私が書いたはずの文章が、まるでコピーされたかのように、同じ筆跡で綴られていた。


ページ、ページをめくるたびに、私の心臓は激しく脈打つ。それは、確かに私が書いた物語だ。しかし、これらは未発表の原稿であり、誰にも見せていないはずなのに、なぜここに……?


さらに奥を探ると、もう一つの古い革製のファイルが見つかった。開くと、そこには神崎彰の直筆と思われるメモや、黄ばんだ手紙の草稿が挟まっている。その中に、一枚の走り書きがあった。


「また、私にも訪れた。この部屋の呪いか、祝福か。病に倒れたあの人の願いが、夢となり、物語となる。これを世に送ることが、私の使命か……」


「あの人」とは、神崎彰がこの部屋に住む前に、病で亡くなった別の作家のことだろうか。


そんな折、インターホンが鳴った。モニターに映っていたのは、神崎彰の弟、神崎亮と名乗る男だった。彼は穏やかな口調で、兄の旧居であるこの部屋に特別な思いがあると言い、上がらせてほしいと懇願した。部屋に入ると、彼は懐かしむように部屋を見渡し、そして私の書斎で目に留まった原稿の山を見て、息を呑んだ。


「やはり、君にも…」


亮は、意を決したように語り始めた。兄、神崎彰は数年前に病で亡くなっていること、そして今世に出ている神崎彰の作品は、実は弟が発表し続けている偽装であること。そして、その原稿の多くが、兄がこの部屋で得た「夢のアイデア」、つまり前の有名作家の未発表作品であったことを告白した。


「兄もまた、この部屋で同じ体験をしました。病で志半ばで倒れた前の作家の願いを受け継ぎ、その物語を世に送り出すことを、自らの使命としていたのです。しかし兄自身も病に倒れ、その最期に、なんとか私に頼み、その使命と、この**『秘密の継承の伝統』**を託しました」


亮は、兄の遺志を継ぎ、その作品(=前の作家からの継承作)を世に出し続けることの重圧と苦悩を吐露した。それは単なる偽装ではなく、「この素晴らしい物語を世に埋もらせてはならない」という、兄と同じく文学への純粋な愛と、連綿と続く才能の継承を途絶えさせたくないという強い思いからくる行動だった。彼は私に、兄が残した未発表作の数々を見せた。それらは、私が夢で見てきた物語と寸分たがわぬものだった。亮はさらに続けた。「兄から事情を聞いた出版社も、作品の価値を認め、すべて発表するまでこの偽装に協力してくれました」


継承される使命と巡る運命


私は、盗作の不安も、「呪い」という諦めも、すべてを乗り越えていた。これは、私個人の創作活動ではない。この部屋に息づく、歴代の作家たちの魂と、彼らが命を削って紡いだ物語のバトンなのだ。夢でアイデアが浮かぶ現象は、過去の作家たちの「この物語を完成させ、世に送り出したい」という切なる願いが、時を超えて次の担い手へと託される、神秘的な「伝統」だったのだ。


私は亮と協力し、神崎彰が残した、そしてその前の作家から受け継がれた未発表作品を世に送り出すことを決意した。亮は私の担当編集者となり、出版社と長年築いてきた信頼、そして神崎彰というブランド、この「秘密の継承」という背景を最大限に活用した。


未発表作品の編集作業を通じて、私は単なる書き手としてだけでなく、作品を客観的に見つめ、磨き上げる編集者としての視点と技術を飛躍的に向上させた。夢で得たアイデアを現実の形にする過程は、私自身の能力を最大限に引き出した。私は執筆中に、ふと「この筆は、命を削るようにして受け継がれているのか?」と自問自答することがあった。


そして、すべての未発表作品を世に送り出し、歴代の作家たちの魂と願いを現代に再生させるという使命を完遂した後、私はついに、私自身の物語を紡ぎ始めた。それは、過去の偉大な流れを受け継ぎつつも、紛れもなく私自身の声であり、私自身の時代を映す物語だった。


亮と出版社は、私がこれまでの作品群を完成させた「神崎彰の後継者」であるという背景を最大限に活用し、周到なプロモーションを展開した。長年の編集作業で培われた私の実力と、後継者という特別な立場は、文学界や世間の大きな注目を集めた。


そして、私の作品は、たちまちベストセラーとなり、私は一躍、有名作家の仲間入りを果たした。かつての「盗作」の疑念や「呪い」の感覚は、今や遠い過去の出来事だ。私は、この部屋がもたらした奇跡と、継承されてきた文学の重みを胸に、新たな伝説を紡ぐべく、筆を執り続ける。亮は常に私の傍らで、兄の面影を重ねるように私を支え続けてくれた。


しかし、その栄光の数年後。私もまた、歴代の作家たちと同じように、原因不明の病に倒れた。その瞬間、「これで、私も彼らと同じ運命を辿るのだな」と、どこか静かに、しかし抗えない運命を悟った。病床で、夢から湧き出るアイデアを必死に書き留める日々。ペンを持つ手が震え、意識が遠のく中で、私は亮の顔を思い浮かべた。彼が、私が果たせなかった物語を、きっと世に送り出してくれるだろう。


私の原稿は、きっとこの部屋のどこかの押し入れで、次の住人を待っている。そして、また一人、新たな継承者が現れ、夢から紡がれた物語を完成させ、世に送り出す、この美しくも悲しい文学の連鎖は、これからもずっと続いていくのだから。読者には、この現象が夢なのか、妄想なのか、部屋の呪いなのか、それとも崇高な文学の継承なのか、その真相を想像に任せることにしよう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ