第9話 孤独を編む指
夜明け前の屋敷は静かだった。
廊下を歩く足音だけが、誰もいない空間に響く。
リリアは、自室とは逆の階段を降りていった。
向かった先は、図書室。けれど今日は本を読むためではない。
誰かと話すためだった。
──レア。
政務室の使者でも、王子でもない。
リリアが自ら“呼びに行く”のは、この侍女ただ一人だった。
ノックもせず、そっと扉を開ける。
レアはすでに中にいた。ランプの光の下で、本ではなく、手帳のようなものに何かを記していた。
「ごめんなさい、起こした?」
「いえ。眠っておりませんでした」
レアは立ち上がり、丁寧にお辞儀をする。
リリアはそれを制し、向かいの椅子に腰を下ろした。
しばらく沈黙が流れた。
「……今日は、ただ“話しに来た”の」
「お話、ですか?」
「ええ。任務でも命令でもなく、ただ、“わたし個人”として」
ランプの炎が静かに揺れる。
その光に、レアの横顔が淡く浮かび上がる。
「私ね、いろんな人に裏切られて、“一人で立つしかない”って思ったの。
でも……それって、ほんとうに強さなのかなって」
レアは返事をしなかった。
代わりに、小さく紅茶を注ぎ、その音だけが沈黙を埋めた。
「レア、あなたはどう思う? 一人で生きるって、正しいの?」
「正しいかどうかは、私には分かりません。
ですが、“一人でいるほうが楽”だと思っていた時期は、私にもあります」
「……今も?」
「今は、“傍にいたい”と思える人がいます。──それが変わった理由です」
リリアはゆっくりと目を閉じた。
「それが、私だとしたら?」
レアは驚いた顔をしなかった。
ただ、少しだけ視線を落としてから、頷いた。
「それは、名誉です」
その言葉に、リリアの指がわずかに揺れた。
「ねえ、レア」
しばらく紅茶の湯気を見つめてから、リリアが口を開いた。
「あなたは、私に“何を見ている”の?」
「それは……難しい質問ですね」
レアは微笑むことなく言った。
「ですが、私にとっての“リリア様”は、“役割”ではなく、“存在”です」
「存在?」
「公爵令嬢でも、王太子妃候補でも、復讐者でもなく……
私にとっては、ただ“リリア様”であることに意味があります」
その言葉に、リリアは目を見開いた。
「……そういうの、ずるい」
「失礼いたしました」
「違うの。……ありがとう。そういう言葉、誰からも言ってもらえなかったから」
リリアは、少しだけ笑った。
その笑みはどこか、子どもじみたものだった。
「レア。私はこれから、たくさんの人を試すことになる。
味方か、敵か。真実か、演技か。
あなたにも、私を“試されている”って感じる時が来るかもしれない」
「構いません」
「でも……」
「それでも私は、リリア様の傍にいます」
即答だった。まるで、その言葉だけはあらかじめ用意してあったかのように。
「どうして、そんなに強く言い切れるの?」
「あなたが、私の心を揺らしたからです。
一度でも揺らがされたら、私はもう、戻れません」
リリアは息を呑んだ。
それは愛の告白ではない。忠誠でもない。
ただ、深くしずかに、“揺れた者の言葉”だった。
「……あなたは、私の罪を見ないの?」
「見ています。全部、見ています」
「それでも?」
「それでも、傍にいたいと思いました」
リリアは、何かを言いかけて、やめた。
そのまま、そっと紅茶を飲む。
苦みの中に、なぜか温かさがあった。
夜が少しずつ明けていく。
図書室の窓にうっすらと光が差し込み、ランプの炎の色を白く薄めていった。
リリアは椅子に背を預けたまま、目を閉じていた。
「……もうすぐ、動くわ」
ぽつりと落としたその言葉に、レアが目を向ける。
「誰が?」
「セシリア。王子。父。政務室──それぞれの陣営が、誰かを“切り札”にしようとしている」
「リリア様は、その“切り札”を奪うのですね」
「ううん、違うの。私は“切り札”にはならない。
……むしろ、すべての“場”を崩す側に回る」
レアの瞳がわずかに細くなる。
「それは、“焼き払う”という意味ですか?」
「いいえ。“並べ直す”の。
一度、すべてを壊してからじゃないと、本当の形は見えないから」
その声に、どこか震えがあった。
恐れではない。覚悟の震え。
たぶん、レアだけがそれに気づいた。
「……それでも、あなたは私の傍にいる?」
レアは即答しなかった。
けれど、その沈黙が言葉よりも深く、強かった。
「ありがとう。……ほんとうに、ありがとう」
リリアは立ち上がる。
「もう“孤独”を武器にしなくてもいいように、私は動く。
でも、そのかわり……これからは、誰かを守れるように」
その“誰か”が誰なのか。
リリア自身、まだ言葉にはできなかった。
けれど、その背にある微かな光は、きっと“復讐”だけではない何かを照らし始めていた。
窓の外で、最初の鳥が鳴いた。
新しい一日が、静かに始まろうとしていた。