第8話 沈黙に語らせるもの
ユリアンからの呼び出しは、前触れなく届いた。
「──至急、王太子殿下より“非公式の面談”を所望されております」
使者はそう言った。
非公式──つまり、誰にも報告されない。記録にも残らない。
リリアは一度だけ頷いた。
「受けましょう。……ただし、私の条件で」
夜、王城東棟の書庫。
政務と儀礼の隙間に存在する、誰もが忘れかけた空間。
ユリアンはそこを“選んだ”。
「珍しい場所ですね」
そう声をかけると、彼は本を閉じて立ち上がった。
「ここは静かで、余計な耳がない。……それに、君が“言葉を選ばない場所”でもある」
その言い回しに、リリアは目を細めた。
「では、率直に伺います。殿下。──私を“切り捨てた”その日、あなたは何を思っていましたか?」
その問いに、ユリアンはすぐには答えなかった。
窓の外の風が、枝を揺らす音だけが響く。
「……君が、泣かなかったのが意外だった」
「泣いていれば、何か変わりましたか?」
「いや。むしろ“安心した”のかもしれない。──君は、どこかで“それを覚悟していた”ように見えた」
リリアの指先が冷える。
(それが、正しさ? それが、優しさ?)
「あなたは、私を“信じて”処刑したのですね」
「信じたというより、“選んだ”。その方が傷が浅く済むと思った」
「誰の傷ですか?」
「……君の。──そして、僕の」
ユリアンは感情をほとんど込めずに言った。
「その日、君が処刑されることで“王家の秩序”は守られた。だが、“僕”は壊れた。
それが正しいかどうか、まだわからない」
その声音は、淡々としていて、どこか壊れかけていた。
リリアは黙って彼を見つめていた。
ユリアンの語り口に、悔いが混じっているとは思えなかった。
ただ、それは“取り戻すことができないもの”に対して、距離を保とうとする者の態度に似ていた。
「……私が戻ってきたこと、驚きましたか?」
「正直に言えば、“君が別人のようだ”と思った。
まるで、剣のような目をしている」
「剣は、ただ突き刺すためだけにあるものではありません」
「……守るため、か?」
「違います。“切り分ける”ためです。
必要なものと、不要なものを」
ユリアンの目に、わずかな変化が走った。
「君は、僕を切るのか?」
「あなたが“真実を隠す”というなら、はい」
応接の間に、静かな張りつめた空気が満ちる。
「セシリアの婚姻に、あなたはどこまで関与していました?」
「……最初は、遊びだった。王妃候補としてではなく、“感情の遊び”として近づいた」
リリアはまばたきもせず、その言葉を聞く。
「でも、気づいたときには、“周囲が期待していた”んだ。
君は完璧だった。何一つ間違いを起こさず、誰からも好かれていた」
「それが、あなたにとって何より“恐ろしかった”?」
「……ああ。君に何も与えられないことが、怖かった」
沈黙が落ちる。
それは、重さというより、空洞のような余白だった。
ユリアンはようやく目を逸らした。
「君のような人間に、“許されたい”とは思わない。
ただ、せめて“理解されたい”とは思っている」
「それは傲慢だと、おわかりですね?」
「……わかってる」
その瞬間、リリアは自分の中で何かが“切れた”のを感じた。
怒りでも、憎しみでもない。
それは、“見切り”だった。
「では、教えてください」
リリアは声を低くした。
「あなたは、あの日“私が罪人でなかったと知りながら”、処刑に立ち会ったのですか?」
ユリアンは視線を戻す。
そのまま、しばらく口を開かなかった。
それだけで、答えは出ていた。
「……“疑わしきは罰せず”という原則が、王家にはありません。
“秩序を守るためには、犠牲が必要だ”という原理しかない」
「つまり、“誰でもよかった”?」
「いや、君だったから成立した。君の沈黙が、秩序を保った」
「それは誇りに思うべきことですか?」
「違う。──呪いだ」
リリアの指が、ひとつだけ震えた。
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
それは、“諦め”の反応だった。
「ならば私は、“その秩序”を焼く側に回るだけです」
ユリアンが目を伏せる。
「そのとき、僕も焼かれるのか?」
「……あなたは、その火種を蒔いた人間です。
焼かれる覚悟くらい、お持ちでしょう?」
静かな笑みを浮かべたリリアに、ユリアンは返さなかった。
部屋を出る前、リリアは一度だけ足を止めた。
「殿下。あなたに許しを乞われる日が来たとしても、私は決して“肯定”しません。
けれど、“裁かない”可能性は、残しておきます」
それは、唯一の情け。
そして、復讐ではなく“対話”の可能性を捨てなかった証。
廊下の奥で、レアが待っていた。
「……お疲れさまでした」
「ええ、少し疲れたわ。でも──」
リリアはまっすぐ前を見据えた。
「これで、“誰が最初に壊れるか”が見えた気がする」
毒は、もう静かに回っている。
最初に崩れるのは、仮面をかぶった王子か。
それとも、“笑顔の聖女”か。
リリアは、手を汚す準備ができていた。