第7話 毒が微笑む順番
次に動いたのは、意外な人物だった。
リリアが“偽の噂”を流してから、まだ二日。
彼女自身も「反応は来週以降だろう」と考えていた。
けれど、政務室から“ある男”が彼女のもとを訪れた。
「リリア=ヴェルニエル様。突然のご訪問、失礼いたします。私、王宮侍従室のフィルベルトと申します」
細身の男。礼儀正しく、感情を表に出さない典型的な“事務官”の佇まい。
だがその背後に、明らかな“緊急性”があった。
「本日、お時間を頂戴できないかと──殿下の名においての依頼です」
「殿下? ユリアン殿下が?」
「いえ……陛下、国王陛下からのご指示により」
リリアの背筋に、冷たいものが走った。
国王。その名が出るとは、思っていなかった。
「承知いたしました。……今すぐに?」
「はい。馬車をご用意しております」
すべてが“整えられすぎている”。
リリアは上着を羽織り、扉の前で立ち止まった。
──まだ、“誰が噛んでいるのか”を把握しきれていない。
だが今、動かないほうが危険だ。
王宮への道すがら、彼女はレアに命じた。
「政務室に……ルゼル・ナグレイに、“変化があった”とだけ伝えて。私の名前は出さずに」
「かしこまりました」
レアの声は、わずかに張り詰めていた。
車輪の音だけが、通りを滑ってゆく。
何かが大きく軋み始めていた。
それは、ただの復讐では済まない“政治の歪み”の前触れだった。
案内されたのは、王宮でも奥深い区画──謁見とは異なる、内密な使者だけが出入りを許された応接間だった。
リリアはそこで、もう一人の“予想外”と出会う。
「お久しぶりですね、リリア嬢」
その声は、記憶の底に沈んでいた。
深く、乾いた声。喉の奥でくぐもるような話し方。
「……エルヴィン卿」
王家付きの法律顧問。前世では、セシリアの王妃就任時に“契約文書”の調整を行っていた人物。
名目は王家の法を司るが、実態は“王に代わって危険を裁定する者”。
「本日は、陛下の名代として来ました」
「……内容は?」
エルヴィンは机に一通の封筒を置く。
見慣れた黒の蝋封──王印。
それが示すのは、“非公開の命令書”であること。
「……婚姻に関わる、“両家の交渉過程”について、国王陛下のもとに“不穏な噂”が届いております」
やはり来た、とリリアは思った。
だがそれが、あまりにも早い。
セシリアの陣営が手を打った? それとも……?
「具体的には、“王太子妃が確定する前に、別案が動いていたのでは”という」
「それは、殿下の内心に関わることでは?」
「ですが、王家の婚姻は“公”です。
そして、その場にいた貴族の令嬢は“あなた”だった。あなたの意思は重要だと陛下はお考えです」
──言葉の表面は、ただの調査。
だが実際には、これは“誰を信じるか”を測る手だ。
「ご返答次第では、将来的な立場も考慮されるとのこと。
あくまで“中立”の立場で伺っておりますが──」
「……中立を装うのは、お得意ですね」
リリアは静かに笑った。
「よろしければ、答えます。ですが条件があります」
「条件、とは?」
「私にも、いくつか知りたい“名前”があります。
その交換が叶うなら、私の“記憶”も貸し出せるかもしれません」
エルヴィンの瞳が、わずかに細くなる。
そのとき、リリアの椅子の影が、ゆっくりと動いたように見えた。
応接間の空気が、ぴたりと止まった。
エルヴィンは、机に指を添えたまま黙っていた。
リリアは視線を外さない。
これは交渉。命を賭けるほどのものではない。
──けれど、たった一つの言葉が、誰かの未来を変える場だ。
「……具体的に、どのような“名前”をご希望ですか?」
「情報操作に長けた文官。王宮の中で、王子の信頼を最も受けていた人物。
それから、“政務室に一度でも出入りしたことがある、侍女”」
エルヴィンの口元が、わずかに歪む。
「随分と絞り込まれていますね」
「ええ。私の記憶は鮮明ですので」
それは嘘だった。
まだ確証はない。けれど、情報を仕掛けるには“迷いのなさ”が必要だ。
そしてエルヴィンは、その“迷いのなさ”に反応した。
「……陛下に報告いたします。ご協力、感謝いたします」
「情報の交差点では、互いに道を知っておいた方がいい。
それだけの話ですわ」
リリアが立ち上がると、エルヴィンもそれに続いた。
「お気をつけてお帰りください。
あなたのような方が、長く沈黙するのは惜しい」
「お気遣い感謝いたします。……毒は、静かに効くものですから」
リリアは部屋を出た。
廊下の外で待っていたレアが、一礼しながら近づく。
「お疲れさまでした。中での話、お察しするのも憚られますが……」
「いいえ、大丈夫。むしろ、“効いてきた”わ」
嘘の噂は、もはや真実と見分けがつかない。
反応の速度は、思った以上だった。
──つまり、それだけ“触れてはいけない場所”だった。
「さて、次は“王子”ね」
リリアの瞳に、ひとつの名が浮かぶ。
ユリアン=ルクセンドール。
前世で彼女を切り捨てた男。
だが、その心のどこまでが本物だったのか、彼女はまだ知らない。
次回、最初の“直接の毒”が注がれる。