第6話 揺らぎを抱くもの
政務室から戻ったリリアは、そのまま部屋に籠もった。
レアが一度だけ入室してきたが、何も言わずに温かい湯を置いて出ていった。
その静けさが、ありがたかった。
テーブルの上には、焼け残った手紙の灰と、開封された黒い書簡。
セシリアの筆跡。甘く整った言葉たち。だが、その裏に潜む計画と意図は、誰の目にも明らかだった。
「──“あの方”」
リリアは囁くように呟いた。
前世では気づかなかった。
セシリアが最初から“ひとりではなかった”ことに。
王子だけでなく、政務室の一部や貴族の派閥が、彼女を“選んだ”ことに。
すべてが動いていた。
ただ、彼女だけが立ち止まっていた。
もう、二度と同じ轍は踏まない。
「まずは、確かめないと」
リリアは机の引き出しを開ける。
そこには、彼女が密かに集め始めた人物記録の小冊子があった。
前世、後に処刑された小姓。
裏で買収されていたと噂された女官。
急に宮廷から姿を消した下級貴族。
“見えなかったピース”を今度こそ、揃える。
そのためには──情報だけでは足りない。
彼女は扉を開け、レアを呼んだ。
「……私に“信頼できる目”が必要よ。あなたの目を貸して」
レアは驚いた顔をしなかった。ただ静かに頷いた。
「いつから動きますか?」
「今日から。すぐに」
「承知いたしました」
そしてその日、リリアは“情報を集める側”から、“情報を仕掛ける側”へと立場を変えた。
リリアが最初に目をつけたのは、王宮の厨房だった。
豪奢な食材と華やかな食器の影で交わされる“噂”こそ、最も真実に近い。
宮廷の中で働く者たちは、見えてはいけないものを見てしまい、聞いてはいけないことを知ってしまう。
レアが差し出したのは、給仕係の名簿と交代表。
表には出ないが、口の軽い者、よく客人の私語を聞いている者、従者を恋人に持つ者などがマークされていた。
「……ここから選ぶわ」
「誰を?」
「“誰に知られてもいい”嘘を流す相手」
リリアは指を走らせ、一人の女官に目を留めた。
リディア=ベスティ。
かつて妹の侍女の一人として仕えていた女。
前世でたった一度、耳元で何かを囁かれたことを、なぜか今でも覚えていた。
「この人に“拾わせる”の」
リリアは紙に数行の文字を走らせる。
“王太子殿下は、王妃候補の変更を密かに検討している”
“第一候補に、ヴェルニエル家長女の名がある”
嘘ではない。真実でもない。
だが、王宮では“誰が話したか”より、“誰が反応するか”の方が価値を持つ。
彼女は紙をくしゃりと握り、椅子の下に落とした。
「そのままにはしない。あくまで“偶然見つけた”という流れで、拾わせて」
「かしこまりました」
レアの声にはわずかな熱があった。
彼女はこうした芝居に長けている。リリアにはなかった冷静な“演者の技術”を持っている。
「まもなく、動くはずよ」
噂は火種となり、誰かの懐を焦がす。
最初に表情を変えるのは、きっとあの人──
セシリア。
自分が築いた塔の足元に、火薬があることを知らないまま、微笑み続けている。
「……綺麗に崩してあげる。あなたの“完璧”を」
その夜、セシリアは久しぶりにリリアの部屋を訪れた。
白いドレス。季節より少し早い桜色の刺繍。
その笑顔は、春の花のように優美だったが──リリアには、わかっていた。
その眉の上がり方、視線の揺れ。
“何かを確かめに来た顔”だ。
「姉さま、突然ですけれど……最近、殿下とお話されることが増えたとか?」
前置きもなく、セシリアは切り込んできた。
「ええ。政務のことで、少し」
リリアは穏やかに答える。
「政務? 姉さまが?」
「ええ。殿下がご指名で。……あなたには聞かされていないのかしら?」
一瞬、セシリアのまつげが止まった。
(引っかかった)
言葉には出さないが、そのわずかな沈黙がリリアの確信を裏付ける。
「そう……。姉さまが王宮でお役目を?」
「まだ“仮”の話だけれど。殿下のご意向なら、従うべきかと」
「まあ……それは、とても……」
セシリアは笑った。美しく、穏やかに。
だがその声は、どこか乾いていた。
「お体はもう大丈夫なのですか? あんなに倒れていたのに……」
「あの時のことはあまり覚えていないけれど……きっと、夢だったのね。すべて」
「……夢、ですか」
「悪い夢よ。あなたが泣いて、王子が怒って、父が私を見なかった」
セシリアの瞳の奥に、淡く、何かが揺れた。
それは驚きではなく、警戒。
彼女は気づき始めている。リリアが“戻ってきた”ことに。
「おやすみなさい、セシリア。あなたも、いい夢を」
扉が閉まる音が、やけに高く響いた。
リリアは紅茶を口に運び、冷めきった味を確かめる。
──第一の駒は、動いた。
噂という毒を流した先で、どんな表情が崩れるのか。
彼女は今、静かにそれを見届けようとしていた。