第5話 情報という毒
王宮政務室は、王の玉座より静かだった。
広くも狭くもない灰色の廊下。人の気配は薄く、けれど書類の束と記録の香りだけが濃密に漂っていた。
「──こちらでございます、リリア様」
案内役の若い文官が一礼し、重たげな扉をそっと押し開ける。
そこにいたのは、机に埋もれるようにしてペンを走らせる男だった。
ルゼル・ナグレイ。王宮政務室筆頭秘書官。
前世での記憶では、ただ一度会っただけ。
だがその視線だけが、セシリアにも、ユリアンにも、媚びていなかった。
「失礼いたします。……リリア=ヴェルニエルと申します」
「ようこそ、令嬢。──前世では、お目にかかる機会が少なすぎましたね」
ルゼルが顔を上げる。
鋭い灰の瞳。白髪まじりの前髪を無造作に流したその男は、歳の割に若々しく見えた。
だが、若さの下に潜む何かは、明らかに“別の毒”を持っている。
(……この人、記憶には残らなかった。でも、それが逆に怖い)
彼は一礼もしなければ、形式的な挨拶もなかった。
「本日は、お忙しい中ありがとうございます」
「いや、面白い噂を聞いたもので。……“処刑寸前の令嬢が、別人のように眼を光らせている”とね」
「……どなたの観察かしら」
「さあ? 観察者はいつも名乗らないのが掟でして」
リリアはその言い回しに、思わず笑いそうになった。
この政務官は、ユリアンとは違う。
礼儀の仮面ではなく、“ゲーム”そのものを楽しんでいるタイプだ。
「今日は、ひとつだけ伺いたいことがありまして」
「どうぞ」
「“王宮の中に、王家の知らない勢力がある”という噂、殿下は否定なさいました。……あなたは?」
ルゼルはすっとペンを置き、リリアの瞳を真っ直ぐに見た。
「“信じていない”という者こそが、よく知っているんですよ。
とくに、この王国では」
その声には、わずかな哂いが混じっていた。
「では、あなたはそれを“知っている”側、ということですか?」
リリアの問いに、ルゼルはわずかに肩を竦めた。
「私はただの記録係です。ただ、消されないように、記録するだけの」
「……ですが、その記録の行き先が、国を変えるのでは?」
「それは読む側の都合です。書く者には何の責任もない」
そう言い切った男の横顔には、信仰にも似た冷徹さがあった。
リリアは背筋を伸ばし、机の上に視線を落とす。
そこには、王家と上級貴族の通信記録、政令草案、内密の会合議事録。
見ることすら許されないはずの文書が、ここではただの“紙束”として積まれている。
(この部屋にだけ、世界の背骨がある)
「……あなたにとって、私は何に見えますか?」
「そうですね。──毒が効きすぎた実験体のように見えます」
「それは、見込みがあるという意味で?」
「いいえ。手遅れにならないことを願って、という意味で」
ルゼルは立ち上がり、棚から一冊の黒い書簡を取り出した。
表紙には何も書かれていない。ただ、リリアはその色に既視感を覚えた。
「これは、先月付けの書簡記録。“妹君”が、王子との婚約が発表される前夜に、ある人物と面会していた記録です」
「……父ではなく?」
「父上はその時刻、議会の招集に応じています。アリバイは確実にあります」
リリアは、無意識のうちに唇を噛んだ。
では、あの夜──私を“罪人”にするために準備された罠は、
王子と妹だけの共同作業ではなかった?
「書簡の受取人の名前を、私はまだ確認しておりません。封は開けずにあります」
ルゼルが書簡をリリアの前に置いた。
視線が交錯する。
「開封するかどうかは、あなたの判断に任せましょう」
「……なぜ、私に?」
「この国は、“王族でなければ見えないこと”と、“王族だから見えないこと”でできています。
あなたは今、ちょうどその境目にいる」
リリアは書簡に手をかけた。
封を切るとき、指が少しだけ震えた。
封蝋を割る音が、小さく響いた。
リリアは慎重に紙を引き抜き、折り目をなぞるように広げる。
記された文字は、整っていた。女性の筆跡。確かに、セシリアの手によるものだ。
──ご安心ください。すべては予定通りに進んでおります。
──“あの方”には既に王子の心が動き始めています。
──姉がどう出ても、私が王妃の座に就くことは揺るぎません。
──父は黙認を選びました。次は“外堀”を固めます。
──どうか、お手を貸してください。あなたの知恵が必要です。
震える吐息が、自然と漏れた。
そこにあったのは、前世で決して気づかなかった“裏の通信網”の存在。
「この“あの方”とは、誰を指すとお考えですか?」
ルゼルの声は、あくまで中立だった。
「……たぶん、あの時点では王子ではありませんね。すでに心が動いていると言いながら、別に“協力者”を求めている」
リリアの目が細くなる。
「王族ではなく、貴族でもなく。けれど、政治に影響を与えられる人物。
つまり、“王宮の中で王家ではない者”──まさか、政務室ですか?」
「それはご想像にお任せします」
ルゼルは微笑んだ。その表情は、毒にも似た沈黙だった。
リリアは視線を落とし、書簡をもう一度読み直す。
そこには感情がない。
優しさも、迷いも、罪悪感も、なかった。
ただ“結果を得るための計画”だけが、ひどく丁寧に綴られていた。
──妹は、最初から一人ではなかった。
父の沈黙も、王子の無関心も、全ては仕組まれた構造の一部だった。
そしてその裏には、“もうひとつの毒”があった。
「政務官殿。ひとつお願いがあります」
「どうぞ」
「……あなたの観察対象に、私を加えておいてください。
面白いことが、きっと、たくさん起きると思いますから」
ルゼルは一度まばたきをし、それから笑った。
「承知しました、リリア=ヴェルニエル嬢。あなたのような毒なら、記録する価値がある」
その言葉に、リリアは笑わなかった。
──毒でなければ、生き残れない。
彼女の戦いは、ようやく“内部”に入り込んだところだった。
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