第4話 父という名前の檻
屋敷の応接室に、父がいた。
ヴェルニエル公爵──リリアの父、グラディス=ヴェルニエルは、変わらず背筋を伸ばし、まるで何も起こっていないかのように紅茶を口にしていた。
リリアが扉を開けても、顔色ひとつ変えなかった。
「ようやく目が覚めたか。……報せは受けていた」
低く、感情をそぎ落とした声。
その声音もまた、以前と何ひとつ変わっていない。
リリアは黙って椅子に座る。
対面する父との距離は、前世よりもずっと遠く感じられた。
「ご心配をおかけしました。……ご多忙のところ、失礼いたします」
「いいや。話しておこうと思っただけだ」
「何を?」
グラディスは、しばらく紅茶を見つめていた。
それから言葉を選ぶようにして、ぽつりと口を開いた。
「お前の“欠落”についてだ」
リリアは視線を逸らさなかった。
「私が欠けていると仰るのですか?」
「そうではない。……お前は完璧だよ。あまりに完璧すぎた」
その言葉に、リリアの指がわずかに動いた。
「だが、人は完璧であるほど、壊れやすい。お前は少しばかり“感情”に振り回されすぎるようだ」
「……どちらの意味で、でしょう?」
父はそれ以上答えなかった。
けれど、リリアにはわかっていた。
(私は、“駒”として破綻したのね)
あの日、父はただ無言でリリアの処刑に同意した。
娘としてではなく、“王家と貴族の秩序”の一部として、不要になったから。
その沈黙が、すべてだった。
けれど今は違う。
この時間軸では、まだ何も起きていない。
……だったら、試してみる価値はある。
「父上。もし私が、また“王太子妃の座”に座るとしたら、あなたはどうなさいますか?」
その問いに、父は少しだけ、目を細めた。
グラディスは、返答に一拍を置いた。
その一瞬の沈黙に、リリアは言葉よりも深い答えを感じ取った。
この男は、“娘の願い”に対してではなく、“家門の利益”に対してのみ応じる。
──それでもいい。
答えを期待していたわけではない。
確認したかったのは、“この父もまた、別の駒でしかない”という事実だった。
「王家の意向に背くな。……それだけだ」
そう言って、グラディスは立ち上がる。
まるで、用件はもう済んだというように。
「……失礼いたします」
リリアも立ち上がり、一礼を返した。
廊下に出た瞬間、扉の向こうの空気が消える。
父という存在の温度は、もはや彼女にとって“炎”でも“氷”でもない。
ただの、空気圧だった。
足音を殺して執務室へ戻ると、そこに一通の手紙が届いていた。
宛名は、王宮政務室の筆頭秘書官──ルゼル・ナグレイ。
「……政務室?」
この名前には、記憶がある。
前世でただ一度だけ会った男。
妹セシリアと王子が婚約を正式発表した夜、控え室の奥にいた人物。
「おめでとうございます」と言いながら、リリアにだけ目を向けなかった男。
内容はこうだった。
──近日中、リリア=ヴェルニエル令嬢と個人的に情報交換を希望する。
王宮の一部機密事項について、事前に耳を通しておきたい。
差出人の文字は癖が強く、だが丁寧だった。
公的には“政務”だが、文脈には“私的な関心”がにじんでいる。
「面白いわね。あなたも、何か見えてるってことかしら」
政務室は、王家の神経中枢だ。
そこが動くということは、妹か王子、あるいは“もっと上”が何かを仕掛けている。
リリアは手紙を火鉢にくべると、静かに灰へと変わる様を見つめた。
この国には、表の毒と裏の毒がある。
そのどちらも味わった者だけが、解毒薬の在りかを知る。
「さて……どこから解いていこうかしら」
夜。
リリアは一人、屋敷の図書室で書簡と記録を漁っていた。
灯火の下で浮かぶ文字の群れは、無味乾燥な法の言葉。
だがその隙間に、わずかな“歪み”が埋め込まれている。
ヴェルニエル家が王家に“差し出したもの”と、見返りに得た特権。
妹の婚約がそれらの均衡を支えるピースだったとすれば――すべての構造が見えてくる。
「王家も、私を嫌ったわけじゃない。……ただ、私じゃなければよかっただけ」
感情ではなく、配置の問題。
冷たく、無機質な構造の中で、彼女はただ“切り札”の座を譲らされた。
扉が軽く叩かれた。
「お入りなさい」
入ってきたのはレアだった。
ナイトガウン姿のまま、そっと手に乗せられた銀盆の上には、温め直された紅茶と薄い焼き菓子。
「こんな時間に……ごめんなさいね」
「いえ。少しだけ、お顔が強張って見えましたので」
レアは何も問わない。
けれど、その言葉には“見ている”という静かな主張があった。
「……ねえ、レア」
「はい」
「私がもし、“あのとき”の私と違う行動をとったら──あなたは、気づく?」
少しの沈黙。
レアは目を伏せるでもなく、ただ淡々と答えた。
「わたくしには、リリア様しかおりません。変わろうと、変わるまいと……それは、あなたです」
「……ありがとう」
リリアはカップを取った。
温かい。その熱が、手のひらから心へ伝わってくる。
彼女はまだ、戦っているわけではない。
これは、戦うための“準備”だ。
過去をなぞりながら、違う道筋を探す。
それは容易ではない。
けれど、確実に変わり始めている。
明日、リリアは政務室に向かう。
──情報は力だ。そして、力は“次の毒”を生む。