第3話 聖女の毒
リリアは翌朝、ひとりで城下の市場へと足を運んだ。
前世では決してしなかったことだった。
貴族令嬢が護衛もつけず、人目の多い通りを歩くなど、社交界では無作法の極みとされる。
けれど、今の彼女は“完璧な令嬢”をやめたのだ。
──その仮面が、処刑台まで連れて行ったのだから。
通りの端で、焼きたてのパンの香りがした。
どこか焦げたような匂い。それが、なんだか懐かしかった。
“あの春”の記憶の中で、唯一、静かで穏やかな朝の断片。
セシリアが王子の邸で泣いていたその頃、リリアは何も知らずに、庭で紅茶を飲んでいた。
自分だけが物語の外にいた。
気づけば、妹の涙と王子の告白、父の言葉すら、すべて準備されていた。
「……もう、二度と置いていかれない」
指先で、パンの温かさを確かめる。
熱い。生きている。それが、今この瞬間の証だ。
屋敷へ戻ると、玄関にひとりの使者が待っていた。
身なりは控えめだが、明らかに王宮の者。
「リリア=ヴェルニエル様へ──王太子殿下より、本日夕刻の“特別な席”へのご招待がございます」
来た、と思った。
これが、前世では存在しなかった“変化”だった。
「“特別な席”、とは?」
「殿下の言によれば、王宮に関わる“ある噂”について、貴女のお耳に入れておきたいとのことです」
毒を流し込むための場か、それとも情報を漏らすための誘いか。
どちらにせよ、この国で“何か”が動いている。
「わかりました。……光栄ですわ」
その微笑は、薄く、ひどく静かだった。
夕刻の宮殿は、金色の帳を下ろすように静かだった。
石畳を踏む靴音が、無人の廊下に響く。
リリアは迷いなく歩く。王宮の構造など、目をつぶってでも歩けるほど知っている。
──何度も通ったからではない。何度も、ここで“終わった”からだ。
案内されたのは、小さな迎賓の間だった。
祝宴にも、謁見にも使われない、ただの部屋。
けれど、密談には丁度よい。
「ようこそ、リリア。来てくれて嬉しい」
ユリアンは、そこにいた。
淡い葡萄酒のグラスを手にしながら、変わらぬ笑みを浮かべていた。
この顔に、前世のリリアは何度も“誠意”を見た。
けれど今は違う。その言葉の裏にある歯車の音が、よく聞こえる。
「殿下がお呼びになるのですもの。お断りする理由など、ございませんわ」
「……今日は少し、奇妙な話をしようと思っている」
ユリアンの表情が、少しだけ曇る。
その顔が見せる“真面目”は、演技ではない。
「宮廷の中で、いくつか不穏な噂があるんだ。──君の失神や、父上の態度。いや、君の妹についても」
リリアはその言葉に驚いたふりをした。
本心では、引っかかるものを感じていた。
(……“情報を与える側”に回るの? それとも、“疑わせてくる”だけ?)
「殿下が、そのような噂を信じるとは思いませんでした」
「信じているわけじゃない。ただ……確認したくなったんだ。君は本当に、“すべて”を覚えていないのか?」
脈を測ってくる。
リリアは、軽く微笑んだ。
「失神のことは、断片しか思い出せません。……ただ、少しだけ、“香り”の記憶があります」
「香り?」
「甘ったるく、どこか鉄のような……そんな匂いでした」
その瞬間、ユリアンの指が止まった。
──反応した。
(なにかある。やはり、あれは偶然じゃなかった)
だが、ユリアンもそれ以上は言わなかった。
言葉を切り上げるようにして、グラスを置く。
「君がまだ疲れているのなら、今日の話はこの程度で。……ただ、気をつけてほしい」
ユリアンが視線を伏せる。
「この国は、美しい薔薇の庭のように見えて……ときに毒を隠している」
ユリアンの言葉は、前世では一度も聞いたことのないものだった。
この変化が、“本物”かどうか。
それを判断するには、まだ材料が足りない。
だが、リリアは直感していた。
──この男もまた、誰かの駒だった可能性がある。
「お気遣い、感謝いたします。ですが、私にはもう、疑うことを恐れる理由はありません」
リリアの声は、以前よりも冷静だった。
それを聞いて、ユリアンは目を細める。
「……そうか。君は、変わったな」
「はい。きっと、二度と元には戻れません」
再び処刑台に立たないために。
もう二度と、無知の仮面で笑わないために。
宮殿を出る頃には、夜風がすっかり冷たくなっていた。
リリアが門を出ようとしたそのとき──
「姉さま。夜分にご苦労さま」
白い外套の裾を揺らして、セシリアが現れた。
月光の下で見るその姿は、まるで“夜に咲く聖女”のようだった。
誰が見ても無垢に映る笑顔。
だが、リリアの目にはもう、それがただの皮膜にしか見えなかった。
「遅くまで、お勤めね。……王宮の方々も、あなたにずいぶん信頼を寄せているようで」
「まあ。姉さまほどではありませんわ。私など、ただ笑っているだけですもの」
「それが一番、難しいことよ」
二人は、互いに一歩も動かず、言葉だけを交わした。
その会話には、意味があるようで、意味がなかった。
けれど、互いに“探っている”ことだけは確かだった。
「じゃあ、おやすみなさい。姉さま」
「……ええ。よい夢を、セシリア」
月を背に、セシリアの影がのびる。
リリアはしばらくその場に立ち尽くしていた。
毒を持つのは、王子か。
それとも、妹か。
それとも、リリア自身か。
その問いに答えるのは、まだ少し先の話だった。