第23話 読み間違いを許さない
椅子の脚が、床の目地にかすかに噛みこんでいた。
朝、誰よりも早く書斎に入ったリリアは、それだけで“何かがあった”ことを確信した。
目に見える破損はない。けれど、床板の擦れが昨日とは違っていた。
人が触れたのではない。“置き直された”という気配だけが残っている。
リリアは椅子を動かさず、立ったまま扉を閉めた。
鍵をかけない。だが、開くには“注意”を要する角度にした。
誰かが入ればわかる。音ではなく、空気が変わる。
机に近づくと、紙の束が整いすぎていた。
左端が揃いすぎている。リリアの手癖では、必ず一枚か二枚だけが僅かにずれる。
その“ずれ”すらも修復された形跡がある。
「……もう、観察じゃない。これは“再構成”」
呟いた声が空間に溶けていく。
レアは部屋にいない。今日の朝は“誰とも言葉を交わさずに始まる”という条件を、彼女自身が選んだ。
紙の最上部。折れ目はなかったが、触れると柔らかかった。
誰かが指を添えていた。それだけで、繊維が少しだけ“自分以外のかたち”を覚える。
読み間違いでは済まされない。
“読ませるつもりのなかったもの”が、誰かによって整え直されていた。
それは、意図を超えた再編集だった。
リリアは紙を引き抜き、破らなかった。
ただ、折った。
真ん中でない。三分の一をずらして、閉じたときに“何かを隠したように見える”形に。
それを机の奥に差し込む。
目立たないが、探そうと思えば見つかる。
だが、中を読んだ者だけが“何も書かれていなかった”ことに気づく。
その落差が、今日の仕掛けだった。
午前の陽は、書斎の左側から差し込む。
リリアは、その光に背を向けるようにして立っていた。
ペンを取る。だが、書かない。
インク瓶の蓋を外し、そっと中を覗く。
昨日と違って、液面が微かに減っていた。
使ったのは、自分ではない。
書かれた痕跡はない。けれど、“書かれなかった痕跡”が存在している。
誰かがインクに触れたが、それを紙には残していない。
それだけで、記録の“枠”がねじれる。
レアが入室する気配がした。けれど扉は開かない。
彼女は一拍だけためてから、軽く二度ノックした。
「どうぞ」
声が出たとき、喉が少し乾いていることに気づいた。
けれど、その渇きが“言葉を出したからなのか”、それとも“出す準備をしていたこと”によるものか、判別がつかなかった。
扉の向こうから足音が近づき、レアが書簡を一通、差し出した。
「無署名です。けれど、文体が……」
リリアは受け取る前に頷いた。
読むまでもなく、誰かの“模倣”であることがわかる。
正確すぎる折り方。滑らかすぎる筆致。
まるで、“その人らしく書くため”だけに整えられた紙だった。
開封する前に、紙の厚みを指先で計った。
そこに、筆圧の痕はなかった。
つまり、誰かが“誰かのふり”をして、何も書かずにそれを“出力”した。
書くことを前提としない文章。
リリアは紙を開いた。やはり、内容はなかった。
けれど、それが意味を持たないとは限らない。
「誰かが、“誰かの真似”で私に応えている」
レアが静かに言う。
「真似、ではなく、“なりすまし”に近い。
けれど、“真似の範囲を超えた模倣”は、いずれ破綻します」
「じゃあ、破綻させる」
リリアは紙を二つに折った。端を合わせず、わざと角をずらした。
見た者が“整えたくなる”ような歪み。
それを机の上に置いた。
今度は、誰にも拾われないように。
拾わせないことで、“読ませない記録”を増やす。
それが今日の目標だった。
夜になる前に、リリアは書斎をひととおり歩いた。
歩くことが目的ではなかった。
誰かが自分の行動を記録する前に、その記録を“上書きできない動作”で埋め尽くす必要があった。
椅子の位置を変える。
戻すのではなく、ずらしたままにする。
けれど、ずれ方に意図を持たせないように。
机の上に、紙を三枚重ねる。
中身は白紙。けれど、その中央に小さな重石を乗せる。
誰かが動かしたとき、“重さの記憶”だけが変わる。
「レア、……今日の足跡、数えてある?」
「三往復分。床の沈み方に変化はなし。
ただ、昨日よりも、廊下の右側の壁に寄って歩いた形跡があります」
それは“隠れる”意図ではなく、“ずれないように進む”者の動きだった。
記録する者が、観察者ではなく、模倣者に変わったとき──
そこに“本来の記録”は消える。
リリアはカップに紅茶を注いだ。
飲まなかった。ただ、冷ます。
飲まれたあとと、放置されたあとでは、痕跡の位置が変わる。
彼女はその“痕の変化”を、他人の記憶から消したかった。
扉の隙間が、風でかすかに揺れた。
ノックはなかった。
けれど、リリアは気づいていた。
“何かを読むためにやって来た者”ではなく、
“読んだふりをしていた者”の姿が、扉の向こうにはもういない。
彼女はインク瓶の蓋を閉じた。
今日は、何も書かない。
ただ、配置されたすべてを“読ませないようにする”。
それが、“読み間違い”を許さない、最も静かな反抗だった。




